彼女の名前は田中ミラーカ。金髪の美しい女性だが、その正体は吸血鬼だった。
ひょんなことから始まった同居生活。
彼女は毎日の食事を作り、掃除をしてくれる。
ただし、少々口うるさい。
食生活、飲酒、服装に至るまで、何かと小言が飛んでくる。
そんな彼女に振り回されながらも、修一は今の生活を悪くないと思い始めていた。
これは、口うるさい吸血鬼と、彼女に惹かれてしまった男の、少し変わった同居生活の物語。
※本作は他サイトでも公開中です。
正午になり、事務作業に一区切りつけて昼休憩に入る。
藤田さんが席を立った。
「お茶淹れてきますね」
そう言って、給湯室へ向かう。
彼女は四十八歳の女性社員だ。世話を焼くのが好きで、俺が入社して間もない頃には、いろいろと面倒を見てもらった。
カバンから弁当箱を取り出す。絹の風呂敷の結び目をほどき、テーブルに広げた。
弁当の蓋を開けると、戻ってきた藤田さんが湯呑を静かに置き、笑みを浮かべた。
「佐伯くん、最近お弁当だけど、彼女でもできた?」
俺は三十二歳にもなって、未だに童貞で彼女もいない。
ただ、同居人がいる。
弁当は、その同居人が用意してくれたものだ。
もし彼女だと言えば、きっと同居人は怒るかもしれない。
とはいえ、つい最近までコンビニ弁当だった男が、手作り弁当に変わったのだ。
藤田さんが詮索したがる気持ちもわからなくはない。
「お袋です。たまに心配になって、弁当を作ってくれるようになったんですよ」
少々無理があったかもしれない。
藤田さんは俺の背中を軽く叩いた。
「私が言うことでもないけど、早く奥さんを見つけて、お母さんを安心させてあげなよ」
俺は苦笑した。
「出会いがあればいいんですがね」
「気づけば三十代なんて、あっという間に過ぎてるよ」
俺は十代、二十代を振り返り、返す言葉も見つからなかった。
藤田さんは自分の席に戻った。
俺は手を合わせ、「いただきます」と言ってから弁当を食べ始めた。
主菜は鮭の塩焼き。副菜はほうれん草の胡麻和え、ブロッコリー、にんじんの煮物。卵料理はだし巻き卵。ご飯は雑穀入りご飯に梅干し。箸休めにミニトマト。
鮭の塩焼きは、小骨まで抜いてある。
同居人の気遣いに感謝しながら、しっかり咀嚼することも忘れない。
また小言を言われてしまう。
以前と比べて食事のペースは遅くなったが、胃の調子がよくなったような気がする。同居人に注意されてから気をつけるようになったが、もしかしたらプラシーボ効果かもしれない。
そんなことを言えば、また小言を言われてしまう。
「ごちそうさまでした」
空の弁当箱をカバンにしまい、湯呑を洗いに給湯室へ向かう。
藤田さんが湯呑を洗っていた。
「佐伯くん、そこに置いといて。ついでに洗っておくから」
「はい。ありがとうございます」
湯呑をシンクに置き、自分の席へ戻る。
まだ休憩時間が残っていたので、携帯でメールを作成した。
『お弁当美味しかったです。今日は定時で上がれそうです』
メールを送信すると、すぐに返事が返ってきた。
『うむ』
俺はついニヤついてしまった。
メールだと同居人は口数が少ない。
午後一時になり、携帯を傍らに置いて仕事を再開する。
同居人の名は、田中ミラーカ——吸血鬼だ。
話は二日前の夜に遡る。
同僚と飲んだ帰り、女性に声をかけられた。
振り向くと、金髪の美しい女性が微笑んでいた。俺は彼女に目を奪われた。
彼女は柔らかく微笑むと、いきなり俺に抱きついてきた。
首筋に顔を寄せ、肌に唇を触れさせる。
ちくっとした。
次の瞬間、彼女は俺を突き飛ばし、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「不味い! 温泉に浸かってリラックスしていると、突然ゴリラが乱入し、ドラミングを奏でたような味じゃ!」
俺は尻もちをついたまま首を傾げた。
「血が不味いと言っておるのじゃ!」
彼女は俺を指さした。
「正座せよ! 聞こえぬのか!」
「……はい」
彼女の言う通りにすると、説教が始まった。
いろいろと言われた気もするが、酔っていたので何を言われたのか、よく覚えていない。
そして、家に連れていけと言われた。
人生初の逆ナンをされたのかと思いきや——。
家のドアを開け、彼女が放った第一声は「汚い!」だった。
彼女は靴を脱いで部屋に上がると、掃除を始めながら小言を漏らした。
「コンビニ弁当や酒ばかり——道理で血が不味いわけじゃ」
唖然として立ち尽くしている俺に、彼女は振り向いてため息をついた。
「しわがついたよれよれのスーツ。だらしなさが滲み出ているな」
さすがにその一言には少し傷ついた。
「掃除は妾に任せて、貴様は風呂に入って、もう寝ろ」
俺はドアを閉め、靴を脱いで部屋に上がった。
リビングでスーツを脱ぎ捨てると、彼女の小言が飛んできた。
「スーツはハンガーにかけよ。これ以上、しわを増やしてどうする」
彼女には有無を言わせぬ圧があった。
俺は素直に従った。
「アルコールは肝臓に負担をかける。別に飲むなとは言わん。だが、飲みすぎは見過ごせん」
ほかにもいろいろと言われた気がするが、酔っていたこともあって、よく覚えていない。
翌朝、部屋は綺麗に片付けられていた。
彼女はキッチンで料理をしているし、リビングの片隅には棺桶が置かれていた。
その日から、吸血鬼の田中さんと同居することになった。
——午後六時になり、仕事を終える。
「先輩、この後、飲みに行きません?」
「倉田、悪いな。この後、予定があるんだ」
「もしかして、女ですか?」
「知り合って間もないし、
……俺は田中さんとお近づきになりたいのだろうか。
彼女は吸血鬼だが、外見は二十代半ばの女性と変わらない。
食事を必要としない代わりに、毎晩血を一滴飲むくらいだ。
それは些細な問題だ。
それよりも小言が多い。
と、早く帰らねば、また小言を言われてしまう。
「倉田、そろそろ行くな」
「先輩、応援してます」
妙な誤解をさせてしまったが、まあいいだろう。
事情を話せば、話がこじれてしまう。
定時で上がると伝えた以上、これ以上、時間を無駄にはできない。
だが、ふと考えてしまう。
なぜ、彼女は俺のような冴えない中年に固執するのだろうか。
電車に乗り、賃貸マンションに帰る頃には、空は暗くなっていた。
ドアを開けると、料理のいい香りが漂ってきた。
キッチンから田中さんの声が聞こえてくる。
「修一、風呂は沸かしておる。洗面所でうがいを忘れるな」
俺は一つ深呼吸をして、彼女の元へ近寄った。
そして、手に持った花束を差し出した。
エプロン姿の彼女は、いつ見ても新鮮だった。
「日頃の感謝の気持ちです」
田中さんは無表情のまま、花束を見つめた。
「して、花瓶はあるのか?」
「……ありません」
彼女はため息をついた。
「気が利くのか利かぬのか、よくわからぬ男だな」
花束を受け取ると、柔らかく微笑んだ。
「ドライフラワーにすれば、湯船の香りづけに使えそうではあるな」
彼女と目が合った。
「修一、いつまでボーっとしておる」
「お風呂いただきます」
「肩まで浸かって百数えるようにな」
俺はカバンから弁当箱を取り出し、キッチン台に置いた。
「田中さん、今日の弁当も美味しかったです」
「うむ」
俺は洗面所へ向かった。
うがいを済ませ、脱いだスーツを折り畳んで置いておく。
浴室には、俺の私物と彼女の私物が並んでいる。
それだけで、人間の女性らしい一面が見えてくる。
体を洗い、シャワーで流す。
湯船に肩まで浸かり、心の中で百まで数える。
「修一、バスタオルと部屋着を置いておく」
「ありがとうございます」
「うむ」
彼女が立ち去り、よからぬ雑念を振り払う。
少しでも何か起こることを期待した俺がバカだった。
頭を冷やすために、一から数え直す。
風呂から上がり、バスタオルで体を拭いて部屋着に着替える。
ドライヤーで髪を乾かしてから、リビングへ向かった。
テーブルの上には食事が並べられていた。
「いいお湯でした」
「うむ。食事もできておる。消化器官に負担をかけぬよう、五十数えてから飲み込むようにな」
イスに腰を下ろし、料理に手を合わせる。
「いただきます」
主菜は豚の生姜焼き。千切りキャベツとミニトマトが添えられている。副菜はほうれん草のおひたし。豆腐とわかめの味噌汁に、炊きたての白米。
彼女は俺が食べている姿をひとしきり見終えると、席を立った。
「妾も湯浴みをしてくる。修一は変な気を起こさぬと信じておる」
俺はむせ、慌てて味噌汁を飲んだ。
その一言が心臓によくない。
俺にその気がなくても、言葉にされると意識してしまう。
咀嚼を一から数え直し、頭を冷やす。
疑問に思うことはある。
なぜ、彼女は俺に固執するのだろうか。
食事を済ませ、食器を洗っていると、湯上がりの彼女が俺に言った。
「修一は洗い方が雑じゃ。洗い物は妾に任せよ」
少しでも彼女の役に立てればと思ったが、裏目に出てしまった。
「寝室へ行け。今宵もマッサージをしてやろう」
俺は水道の蛇口を閉め、タオルで手を拭き、彼女とともに寝室へ向かった。
ベッドでうつ伏せになると、彼女は俺の上に跨り、細い指で腰回りの筋肉をほぐし始めた。
背中、肩回り、首と……。
——時間にしてほんの数分。
あまりの気持ちよさに、俺は眠っていた。
首筋から消毒液のにおいが漂い、手で触れると絆創膏が貼られていた。
彼女はキッチンで洗い物をしていた。
「田中さん、ありがとうございます。おかげで身体が軽くなりました」
「礼には及ばん」
彼女は洗い物を終え、振り向いた。
「何か聞きたそうな顔じゃな」
「なぜ、俺みたいな冴えない男に良くしてくれるんですか?」
「簡単な話じゃ。食事のために、毎日違う相手を探すのは非効率じゃ」
そして、妖艶な笑みを浮かべた。
「妾好みの味にするのも一興かと思った」
腑に落ちた。
理由はどうあれ、俺が抱いた彼女への感情は伏せておこうと思う。
——今の関係を壊したくないから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は短編として執筆しましたが、読者の皆様からの反応がよければ、長編連載も検討しています。
面白いと思っていただけましたら、評価や感想をいただけると嬉しいです。