夏休みを利用してジュラテンペストへとやって来たニアと仲間たち。
果たして、どんな取れ高に?

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凶乱令嬢と魔物の国 〜魔法映像ひろめ隊、ジュラテンペスト連邦へ!〜

 

 

一、夏休みの行き先

夏休み。アルトワール学院の生徒たちが、故郷の領地や避暑地へと散っていく季節である。

そんな中、王都の発着場には、およそ避暑とは縁遠い荷物を抱えた一団がいた。

撮影用の魔道具。

予備の魔晶石。

台本の束。

それから、なぜか菓子のぎっしり詰まったバスケット。

「いいですか、皆さん。今回の目的は観光ではありません。魔法映像普及のための視察です」

胸を張って宣言したのは、アルトワール王国第三王女、ヒルデトーラ・アルトワールだった。

「意外と会えるお姫様」の名のとおり、旅装のワンピースに帽子というお忍びスタイルである。

お忍びにしては、あまりにも堂々としているが。

「視察、ですか」

小首をかしげたのは、リストン家令嬢ニア・リストン。

透けるように白い肌に、病弱だったとは思えない血色のよい頬。

どこからどう見ても可憐なお嬢様だが、その中身が「神殺しの英雄」と呼ばれた武人の魂であることを知る者は、ごく少ない。

「ええ。魔物との共存を掲げる国、ジュラ・テンペスト連邦。西方諸国ではまだ眉をひそめる方も多いですが、聞けば街では人も魔物も一緒に暮らし、商いも盛んだとか。そんな国で魔法映像が受け入れられたなら、普及の足がかりとしてこれ以上のものはありません」

「つまり、強い方がたくさんいらっしゃる国ですね」

「ニア、話を聞いていましたか?」

「聞いていましたよ。魔物と共に暮らす国。強い方がたくさんいらっしゃる国です」

「結論が一つしか出ていませんわね……」

ヒルデトーラがこめかみを押さえた横で、ぷりぷりと頬をふくらませている少女がいた。

シルヴァー家の末娘、レリアレッド・シルヴァーである。

「ちょっとニア! 今回は仕事なのよ! ケンカなんてしたら、シルヴァー商会の名前にも傷がつくんだから!」

「ケンカはしませんよ、レリア。手合わせをお願いするだけです」

「それをケンカって言うの!」

そんな二人の背後で、荷物の最終確認をしていたメイドが、深々とため息をついた。

リノキス・ファンク。

ニアの専属侍女にして、お嬢様への愛が少々(本人談)重たい女である。

「お嬢様、日焼け止めは塗りましたか? 水筒は持ちましたか? お腹が冷えないように腹巻きは?」

「リノキス、腹巻きは要りません」

「では予備の腹巻きを私が持ちます」

「だから要りません」

撮影機材を軽々と担ぎ、三人の令嬢の荷物まで引き受けているリノキスは、かつて冒険家を目指していただけあって、旅の荷造りに隙がない。

隙がないのだが、その中身の三割はニアのための予備品である。

こうして四人、もとい「魔法映像ひろめ隊」と専属カメラ係は、夏休みを利用した魔物の国への視察ロケへと旅立ったのだった。

二、魔国連邦、到着

馬車と街道を乗り継ぎ、ジュラの大森林を抜けた先に、それは現れた。

「……これは」

最初に声を上げたのは、意外にもヒルデトーラだった。

石畳の広い道路。

整然と並ぶ建物。

道の脇にはなんと街灯らしきものまで立ち並び、行き交う人々の中には、獣人、ゴブリン、リザードマン、鬼人、それに見たこともない種族の姿まで混じっている。

だが、誰も争っていない。

誰も怯えていない。

パンを抱えたオークの親子が、人間の商人と笑いながら挨拶を交わしていた。

「王都より、道が綺麗ではありませんか……?」

レリアレッドが呆然とつぶやく。

シルヴァー家の令嬢として商いの目はそれなりに肥えているが、市場に並ぶ品の質と量は、ちょっとした大国の王都をしのぐ。

「素晴らしい。実に素晴らしいですわ。ここを押さえれば、魔法映像で世界を……いえ、文化交流が深まりますわ」

「ヒルデ、本音が漏れています」

「あら、失礼」

そのとき、入国門の方から小柄な影がひょいと飛んで来た。

「いやー、お待たせしたっす! アルトワール王国の王女様ご一行っすよね? 自分、案内役を仰せつかったゴブタっす!」

緑がかった肌に、軽薄そうな笑顔。

ゴブリンの青年が、ぴしっと敬礼のような何かをしてみせる。

「ヒルデトーラ・アルトワールですわ。ご丁寧にありがとう。あなたが案内をしてくださるのね」

「そうっす。リムル様から、失礼のないようにって言われてるっす。でも観光のついでに美味いもん食いたいって気持ちも半分あるっす」

「正直ですのね……」

そんな会話の途中、ニアの目が、すっと細められた。

(この方……)

軽い口調、緩い足運び、隙だらけに見える立ち姿。

だが、その重心の置き方と、周囲への気配の配り方が、ただのゴブリンのものではない。

武人の目から見れば、ゴブタという青年は「やる」側の存在だった。

「ゴブタさん」

「なんすか?」

「一つ、お手合わせを――」

「お嬢様、いけません」

リノキスの手が、ニアの肩にそっと、しかし万力のような力で置かれた。

「入国して三分です。まだ荷物も下ろしていません」

「荷物を下ろせば、よろしいのですか?」

「よくありません。撮影が先です。撮影、撮影。ほらお嬢様、カメラに笑顔を」

リノキスが構えた撮影魔道具に向けられたニアの笑顔は、先ほどまでの獰猛さを綺麗に隠した、天使のごとき微笑みだった。

ゴブタがなぜか背筋をぞくりとさせて、一歩さがる。

「……あのお嬢ちゃん、めちゃくちゃ強いっすよね?」

「ええ、まあ。見た目に騙される方は多いのですけれど」

ヒルデトーラは涼しい顔で、さらりとそう答えたのだった。

三、てりやきバーガーセット食レポ

「では最初のロケ地は、こちらっす!」

ゴブタの案内で到着したのは、大通りに面した一軒の店だった。

こぎれいな木造りの建物に、可愛らしい看板。

そこには「テンペストバーガー」と記されている。

「ハンバーガー……? 名前からして、肉料理でしょうか」

「そうっす。リムル様が広めた料理で、今じゃ魔国の人気メニューの一つっす。特にてりやきバーガーが一番人気っすね」

「てりやき、ですか」

聞き慣れない響きに、四人は顔を見合わせた。

魔法映像の撮影が始まる。

リノキスが撮影魔道具を構え、ヒルデトーラが姫としての笑顔でオープニングトークを開始した。

「みなさま、ごきげんよう。『ヒルデの意外と会えるお姫様』スペシャル、ジュラ・テンペスト連邦ロケをお届けしますわ! 本日は、魔物と人が共に暮らす国の食文化を、わたくしたち三人でたっぷり味わってまいります」

「今日はニアとレリアも一緒です。よろしくお願いします」

「ふんっ、ニアには負けないんだから! 食レポだって、シルヴァー領放送局のレリアレッドのほうが上手なんですからね!」

「食レポに勝ち負けがあるのですか?」

「あるわよ! 多分!」

店内の席に着くと、まもなく人数分のトレイが運ばれてきた。

包み紙に包まれた丸いパン、金色に揚がった細長い芋、そして冷たい飲み物。

これが「てりやきバーガーセット」らしい。

三人が包みをひらく。ふわり、と甘く香ばしい匂いが立ちのぼった。

「まず、わたくしからいただきますわね」

ヒルデトーラが、王女らしく上品に、ただし小さな口で精一杯大きくかぶりつく。

一口。二口。三口。

「……っ」

「ヒルデ?」

「……ふわふわのパンに、甘辛く煮詰められたタレが染みた肉厚のお肉。シャキシャキとしたレタスと、まろやかなソースの相性が絶妙ですわ。これは……これは、王宮の晩餐会に出しても通用しますわよ」

「それ、おいしいってことよね!?」

「おいしいですわ!!」

ヒルデトーラが、お姫様らしからぬ勢いで即答した。

カメラの前の威厳はどこへやら、口元にタレがついている。

レリアレッドがごくりと喉を鳴らし、続いて頬張った。

「んんっ!? な、なにこれ! 甘いのにしょっぱくて、でもくどくなくて、お肉がじゅわって……!」

「レリア、ほっぺにタレが」

「ニアだってついてるじゃない!」

「あら」

ニアがてりやきバーガーを両手で持って、ぱくりと口にした。

しばらくもぐもぐと咀嚼し、ゆっくり飲み込んでから、静かに言った。

「……これは、よい肉ですね」

「お肉の感想なの?」

「ええ。旨味が筋繊維の一本一本に行き渡っています。そこに甘辛い味付けが重なって、白いご飯が欲しくなるような……」

「ご飯はありませんが、こちらの芋でよろしいですか?」

と、リノキスがニアの口元にポテトを差し出した。

「リノキス、自分で食べられます」

「はい、お嬢様。あーん」

「聞いていますか?」

「はい、あーん」

カメラ担当のはずのリノキスが、片手でカメラを固定したまま、もう片方の手でニアの口にポテトを運ぶという離れ業を見せていた。

ヒルデトーラとレリアレッドが、微妙な顔でそれを眺める。

「リノキス、あなた自分の分は食べていますの?」

「私はお嬢様が召し上がっているのを見ているだけで、お腹がいっぱいです」

「それ、食レポとして映してよいのかしら……」

結局、撮影は編集で何とかなるだろうという結論に落ち着き、四人はセットを平らげた。

ゴブタは別のテーブルで、山のような量のバーガーを積み上げている。

「いやー、やっぱりこれっすよ。リムル様に感謝っす」

会計を済ませて店を出るとき、店員の魔物の娘が、にこにこしながら言った。

「ありがとうございました! また来てくださいね!」

人間の客にも、魔物の客にも、同じ笑顔。

それを見たヒルデトーラは、ふっと目を細めた。

「……いいお店ですわね」

「はい、とても」

ニアも頷く。

強さだけを求めていたはずの武人の魂にも、この穏やかな空気は心地よく染み入っていた。

四、ラーメン店の大戦

続いて訪れたのは、少し路地に入った場所にある、

暖簾のかかった小さな店だった。

店先からは、濃厚な香りが漂ってくる。

豚の骨を煮込んだような、鼻腔を直撃する強烈な匂い。

「らーめん……?」

「麺料理っす。ここのは魔国でも人気で、行列ができる日もあるんすよ。今日はラッキーっすね、空いてるっす」

ゴブタが暖簾をくぐると、威勢のいい声が飛んできた。

「いらっしゃいませぇ!」

カウンター席とテーブル席が少しずつ。

内装は、どこか異国めいた簡素さである。壁には手書きのメニューが貼られていた。

「ラーメン、餃子……この『餃子』とは何でしょうか?」

「焼いた包み料理っす。ラーメンと一緒に食べるのが定番っすよ。人数分頼むと喧嘩になるんで、いつも多めに頼むのがコツっす」

「喧嘩?」

「なんでもないっす」

四人は席に着き、注文を済ませた。

ヒルデトーラはあっさりした醤油ラーメン、レリアレッドは塩ラーメン。

ニアは「一番人気のものを」と頼み、ゴブタは「いつもの」とだけ言って店主に頷かれた。

そして、リノキスである。

リノキスは、メニューの端に書かれた一行に目を留めていた。

「この『ラーメン(特盛)野菜マシ、ニンニク、アブラ』というのは……」

「あ、それは」とゴブタが何か言いかけたが、リノキスはもう頷いていた。

「お嬢様と同じものにします。お嬢様と同じ量を食べて、お嬢様の健やかな成長をお支えするのが、私の務めです」

「リノキス、私は普通の量を頼みましたが」

「いえ、その中でも一番人気のものを頼まれましたね。つまり、あの『特盛』が人気なのでしょう。私も同じものを」

「リノキスさん、それ、多分」とゴブタが止めようとしたが、すでに店主が「あいよ、特盛一丁!」と威勢よく調理に入っていた。

ほどなくして、運ばれてきた丼を見て、レリアレッドが悲鳴を上げた。

「な、なによ、それ!?」

リノキスの前に置かれたのは、もはや丼ではなく山だった。

もやしとキャベツが天を衝くようにそびえ、その頂にはニンニクの白い雪、背脂の浅瀬、そしてその下に隠れた太い麺と分厚いチャーシュー。湯気とともに立ちのぼる香りが、店内の空気を支配している。

「……」

リノキスの表情が、一瞬だけ凍った。

「リノキス、無理はなさらないほうが」

「いえ、お嬢様。これも修行です。いただきます」

「修行……?」

リノキスは覚悟を決め、箸をとった。そして山の斜面を攻略するように、野菜から崩していく。

十分後。

「…………」

リノキスは箸を持ったまま、テーブルに突っ伏していた。

「ぎ、ぎもぢ……わるくは、ないのですが……おなかが……」

「リノキス、リノキス!?」

「お嬢様……私は、まだ……」

丼の中身は、まだ半分以上残っている。

ゴブタが、同情の眼差しで言った。

「いやー、初見であれ頼む人、久しぶりっすね。二郎系は魔国でもたまに犠牲者が出るんす」

「それを先に言ってくださいまし!」

ヒルデトーラの悲鳴めいた抗議が店内に響いたが、リノキスは「ふふ……お嬢様の……笑顔のためなら……」と、うわごとのように微笑んで、そのまま動かなくなった。

「眠ってしまいました」

「眠ったんじゃなくて、ノックアウトですわ」

ニアは、そっとリノキスの頭を撫でた。

そして、残された丼にそっと手を伸ばす。

「もったいないので、私がいただきます」

「ニア、それ全部食べるの!?」

「武人たるもの、食べられるときにしっかり食べておくものです。そして、リノキスの努力を無駄にはできません」

ニアが涼しい顔で野菜の山を崩しはじめるのを見て、レリアレッドは、ますます彼女のことが分からなくなった。

そこへ、店主が威勢よく皿を運んできた。

「お待ち、餃子八個盛りぃ!」

きつね色の焼き目をつけた餃子が、じゅうじゅうと音を立てながらテーブルの中央に置かれる。

羽根つきのぱりぱりとした焼き面に、ヒルデトーラとレリアレッドの目が輝いた。

「まあ、綺麗な焼き色ですこと」

「八個……四人で、ちょうど二個ずつね!」

「いえ、レリア。リノキスは今動けませんから、三人で割ると」

「割り切れないじゃない!」

「そこにゴブタさんが加わると四人になりますが、ゴブタさんは別の卓で」

そのとき、ゴブタがひょいと身を乗り出した。

「あ、餃子っすか! いやー、自分も一個いただくっす!」

「ちょっと、勝手に――」

三膳の箸と一膳の箸が、同時に皿の上で交差した。

戦いの火蓋が切られたのは、まさにその瞬間である。

最初に動いたのはレリアレッドだった。

素直で勢いのよい彼女は、迷いなく一番手前の餃子を狙う。

だが、その箸が餃子に触れる直前、横から伸びたニアの箸が、軌道を読んだかのようにすっとそれを遮った。

「レリア、少し遅いですよ」

「なっ……!?」

「氣を読めば、箸の動きは先に分かります」

「料理に氣なんて使わないでよ!」

その隙を突いて、ヒルデトーラが優雅な笑顔のまま、二個の餃子を自分の取り皿に確保していた。

「あら、わたくしは争いなど好みませんの。公平に、話し合いで分配いたしましょう」

「言ってることとやってることが違うわよ!」

「外交とはそういうものですわ」

王女の外交術に、ニアが感心したように頷く。

が、次の瞬間、三人の頭上を黒い影がかすめた。ゴブタである。

「いただきっす!」

ゴブタの箸は、残る餃子の中でも一番大きなものを狙って風のように走った。

軽薄な見た目に反して、その動きは明らかに武の達人のそれである。

「……やりますね」

ニアの瞳が、わずかに愉しげに光った。

箸と箸が、卓上でぶつかり合う。

ニアは氣の流れを読んで最短の軌道を描き、ゴブタは長年の勘と素早さで死角から食らいつく。

ただの餃子一個をめぐる攻防が、いつの間にか高度な読み合いの様相を呈していた。

「おお、すげえ、あの嬢ちゃん」「ゴブタがマジで焦ってるぞ」

店内の魔物の客たちが、箸を止めて見物を始める。

レリアレッドは完全に置いてけぼりで、ヒルデトーラは笑顔で二個目の餃子を口に運んでいる。

そして最後の一個――ニアとゴブタの箸が同時にそれを挟んだ。

ぷつり、と餃子がはじけるように宙へ跳ねた。

「あっ」

放物線を描いて飛んだ餃子は、テーブルに突っ伏していたリノキスの、その頭上へ。

次の瞬間。

眠っていたはずのリノキスの右手が、すっと動いた。

人差し指と中指で、空中の餃子を挟み取る。

そのまま、ぱくりと口に運ぶ。

「……おいしい」

全員が静まりかえった。リノキスは目を閉じたまま、もぐもぐと咀嚼し、満足げに微笑んでいる。

「リノキス、起きていたのですか?」

「いえ……お嬢様のお声が聞こえましたので……」

「それは起きているということですわよ」

ヒルデトーラの冷静な指摘をよそに、ゴブタが両手を挙げた。

「参ったっす。魔国でも餃子争奪戦であの人は見たことないっす。降参っす」

「勝負がついたのですか?」

「ついたっていうか、あの餃子、リノキスさんの勝ちっすね……」

レリアレッドがぷくっと頬をふくらませた。

「私、一個も食べてないんだけど!」

そこへ店主が、苦笑しながら追加の皿を運んできた。

「はいよ、サービスだ。喧嘩せずに食べな」

「いいんですの?」

「見ていて面白かったからな。魔法映像とやらで撮ってたんだろう? うちの店も映してくれよ」

「もちろんですわ。店名もしっかり入れておきますわね」

ヒルデトーラがにっこり頷くと、店主はますます機嫌をよくして、厨房へ戻っていった。

こうして、ラーメン店での大戦は幕を閉じたのである。

リノキスだけが、翌朝まで二郎系の記憶に悩まされることになるのだが、それはまた別の話。

五、三人の来訪者

店を出た頃には、日がすでに傾きかけていた。

「ふう……食べた食べた。魔国の食事は、どれも想像以上でしたわね」

「はい。胃袋が、とても満足しています」

「リノキス、顔色はどうですか?」

「お嬢様のためなら平気です。いえ、少し、うっ」

足取りの重いリノキスを、ニアが肩で支えるようにして歩く。

そんなとき、ふと路地の先から、柔らかな気配が近づいてくるのを、ニアは感じ取った。

(……これは)

足が止まる。ニアの口元が、ほんのわずかに上がる。

ゴブタの比ではない。

街ですれ違った誰とも、まったく別の次元だ。

静かで、深くて、底が見えない。

この世界に来てから、これほどの気配に出会ったのは、数えるほどしかない。

「お嬢様?」

「リノキス。前を」

リノキスもその視線を追い、すぐに顔色を失った。

先ほどまでの吐き気は、一瞬で消し飛んでいた。

「……お嬢様。私の後ろへ」

「それは無理な相談です」

夕暮れの路地の向こうから、三つの人影が歩いてくる。

先頭の一人は、優雅で気品に満ちた物腰の女性だった。

まるで舞踏会の主役のように、ゆったりと、しかし一切の隙なく歩を進める。

その後ろには、悪戯っぽい笑みを浮かべた小柄な少女。

そして最後尾には、腕を組んだ背の高い、荒々しい気配の女性。

ヒルデトーラが、一歩前に出た。

さすがに王族、驚きを表情に出さず、静かに会釈をする。

「突然のことで失礼いたしますわ。アルトワール王国のヒルデトーラと申します。あなたがたは」

「お初にお目にかかりますわ、ヒルデトーラ殿下。わたくし、リムル様にお仕えしております、テスタロッサと申します」

先頭の女性が、完璧な所作で礼をした。

「こちらはウルティマ、そしてカレラ。どうかお見知りおきくださいませ」

「やっほー。さっきのラーメン屋、ずーっと見てたよ。面白かったなあ、お箸のバトル!」

「ウルティマ、覗き見は感心しませんわよ」

「えー、だってニアちゃんたち、すっごく楽しそうだったんだもん♪」

悪びれない少女と、やれやれと首を振る貴婦人。その後ろで、カレラと呼ばれた女性が、じっとニアを見下ろしていた。

「……おい、チビ」

「はい?」

「いい目をしてるな。お前、どれくらいやる?」

「カレラ」とテスタロッサがたしなめる。

だが、ニアはすでに嬉しそうな顔で頷いていた。

「ぜひ、お手合わせを」

「お嬢様!」

「おう、話が早いじゃねえか」

「カレラ。ここは街中ですのよ。リムル様に叱られますわ」

「ちっ……」

カレラが舌打ちして引き下がる。

リノキスの膝は、まだ小刻みに震えていた。

「あ、あの……お嬢様、本日の予定は、観光と撮影のはずでは」

「ええ、分かっていますよ、リノキス。今はお仕事ですね」

「分かっていて、そのお顔をなさらないでください!」

テスタロッサは、そんなやり取りを微笑ましげに眺めてから、ヒルデトーラへ改めて向き直った。

「殿下。実はご到着の報告を受けて、お迎えにあがりましたの。魔法映像――遠く離れた場所へ、映像と音をお届けする技術。その噂がリムル様のお耳に入りまして、ぜひ詳しいお話をお聞きしたいと」

「まあ。リムル様ご自身が?」

「ええ。ことに、魔法映像の技術に深い関心をお持ちの方がおりまして。わたくしどもの国の研究者ですわ。ご案内させていただいてもよろしいでしょうか」

ヒルデトーラの目が、ぱっと輝いた。

「もちろんですわ! わたくしたちも、ぜひお話をしたいと思っておりましたの」

「ヒルデ、本音が」

「全て本音ですわ、ニア」

こうして一行は、三人の悪魔――もとい、原初の三人に案内され、魔国の中心部にそびえる研究区画へと向かうことになったのだった。

道中、ウルティマはリノキスの隣を歩きながら、しきりに話しかけていた。

「ねえねえ、メイドさん。二郎系で倒れたって聞いたけど、本当?」

「……聞こえていましたか」

「ボクもね、一度食べたことあるよ。三日間くらい、ニンニクの匂いが取れなかったの。あれ、悪魔でもキツイんだよ♪」

「悪魔でも」

リノキスは、静かに何かを悟った顔をした。

六、ベスター博士の研究所

研究区画は、街の喧騒から少し離れた、石造りの重厚な建物群だった。入口には魔法陣のような紋様が刻まれ、中からは時折、ぼふっという爆発音や、「うおおおお!」という叫び声が聞こえてくる。

「……なんだか、色々と不安になる音がしますわね」

「いつものことですわ」とテスタロッサが涼しく答える。

扉を開けると、そこには魔道具の部品や図面が山のように積み上げられた、混沌の空間が広がっていた。

その中央で、白衣の男性が両手を振り上げて叫んでいる。

「違う! これでは出力が足りん! もう一度、もう一度やり直しだ!」

「ベスター博士。お客様をお連れいたしましたわ」

「テスタロッサ武官、今忙しいところ――お客様……?」

博士が振り向いた。

眼鏡の奥の目が、ヒルデトーラたちを捉え、そしてリノキスが肩に担いだ撮影魔道具に吸い寄せられる。

「そ、それは……! まさか、魔法映像の撮影装置か!?」

「はい。アルトワール王国で開発された、わたくしたちの魔法映像ですわ」

「おおおおおおおお!」

男性は、ものすごい勢いで駆け寄ってきた。

「わたしはベスター。この国の魔道具研究を預かる者でして! 映像と音を魔晶石に記録し、離れた場所の魔晶板へ送り届ける……そんな技術を、噂でしか聞いておりませんでした! ぜひ、ぜひ現物を! 分解しても!?」

「ぶ、分解!?」

リノキスが、撮影魔道具を抱きしめて後ずさった。

「いけません。これはシルヴァー領から提供された大切な備品です。壊されでもしたら」

「壊さん! 絶対に壊さん! 構造を見るだけです! そして元通りに組み立てる!」

「博士、落ち着いてくださいまし」

テスタロッサの一言で、博士はぴたりと止まった。その眼光は、ほんの少しだけ冷たかった。

「……失礼した。取り乱しました」

ヒルデトーラは、ふっと笑みを浮かべた。

「構いませんわ。あなたのその熱意こそ、魔法映像が最も求めているものです。外から見る分には、どうぞご自由に。分解は、後ほどわたくしたちの前で、ということで」

「おお、感謝いたしますぞ、姫君!」

博士が目を輝かせて撮影魔道具に飛びつこうとした、そのとき。

「おいおい、ベスター。客人を前にはしゃぎすぎだぞ」

研究所の奥の扉が開き、四人の人影が入ってきた。

先頭に立つのは、淡い青みがかった長い髪の、整った顔立ちをした人物だった。

男とも女ともつかない、中性的で穏やかな微笑。

その後ろには、堂々とした体躯に鋭い眼光を宿した青年、気品ある微笑を浮かべた和装の女性、そして紫がかった髪を揺らす、凛とした立ち姿の女性が続いている。

「リムル様!」

テスタロッサたち三人が一斉に礼をとる。

それを見て、ヒルデトーラは直感的に悟った。

この人物こそが、魔物の国の盟主なのだと。

「初めまして。俺はリムル、リムル=テンペスト。ジュラ・テンペスト連邦国の盟主ってことになってる。堅苦しいのは苦手だから、気楽にしてくれ」

「アルトワール王国第三王女、ヒルデトーラ・アルトワールですわ。お招きいただき、光栄です」

王女としての礼を完璧にこなしながらも、ヒルデトーラの目は鋭く相手を観察していた。

盟主というには、あまりにも肩の力が抜けている。

だが、周囲の空気が、この人物を中心にして整っているのが分かる。

「こっちは、軍務を担当してるベニマル。それから、衣装や織物担当のシュナ。そして、えーと、俺の秘書のシオンだ」

「ベニマルだ。よろしく頼む」

「シュナと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

「シオンです! リムル様の秘書をしています!」

三者三様の挨拶に、令嬢たちも順に名乗る。

ニアは、ベニマルの前で、わずかに足を止めた。

「……ニア・リストンです。こちらのベニマルさんは」

「ん?」

「とても、お強いですね」

ベニマルの目が、ぴくりと動いた。

「ほう。この嬢ちゃん、分かるのか」

「ええ。立っているだけで、重心に一切の乱れがありません」

「……なるほど。ただの令嬢ってわけじゃなさそうだ」

「そのうち、機会があれば、ぜひ手合わせを」

「はは、いいだろう。そのうちな」

ベニマルが豪快に笑うと、リノキスが青い顔でニアの袖を引いた。

「お嬢様、本当に、今日は撮影ですから」

「分かっています、リノキス」

そんな二人のやり取りを見て、シオンがぱっと目を輝かせた。

「あなた、お嬢様の侍女なのですね! その、お嬢様を守りたいという気持ち、とてもよく分かります!」

「えっ」

「私も、リムル様のためなら、何でもします! お仕えする方のために全力を尽くす。それが私たち従者の務めですよね!」

「……! その通りです」

リノキスの目が、キラリと光った。彼女は思わずシオンの手を取り、ぎゅっと握りしめる。

「お嬢様の幸せこそが、私のすべて。あなたとは、いいお話ができそうです」

「私もです! いいお友達になれそうです!」

熱烈な握手を交わす二人を見て、ベニマルが小声でつぶやいた。

「……危険な組み合わせが誕生したな」

「ベニマル、聞こえていますよ」

「失礼」

「それで、魔法映像ってのは、具体的にどういうものなんだ?」

リムルが身を乗り出した。

その目は、新しいおもちゃを前にした子供のように、きらきらと輝いている。

「論より証拠、ですわ」

ヒルデトーラがリノキスに目配せをする。

リノキスは名残惜しげに撮影魔道具を机に置き、記録済みの魔晶石を取り出して、研究所に置かれていた魔晶板へとセットした。

魔晶板が淡く光り、やがて映像が浮かび上がる。

最初に映ったのは、てりやきバーガーにかぶりつくヒルデトーラの、頬にタレをつけた満面の笑みだった。

「まあ、わたくしの顔がこんなに大きく」

「あはは! 姫様、口の横にタレがついてるっす!」

ゴブタが爆笑する。

続いて映し出されたのは、てりやきバーガーを両手で持ち、真顔で「よい肉ですね」と評するニアの姿だった。

「くくっ、肉の感想かよ」とベニマルが肩を揺らし、シュナが袖で口元を隠して微笑む。

さらに映像は進み、ラーメン店での特盛との死闘、リノキスの敗北、そして餃子争奪戦のくだりへ。

ニアとゴブタの箸が火花を散らし、最後の餃子が宙を舞い、眠っているはずのリノキスの指がそれを挟み取る瞬間まで、ばっちりと記録されていた。

「おおおお! 今の、空中で挟んだぞ!」

「リノキスさん、すごいです! 私も負けていられません!」

「シオン、何と張り合うつもりだ」

研究所は、大爆笑に包まれた。

そのただ中で、リムルだけは、ぽつりと小さくつぶやいていた。

「……まんま、テレビじゃないか」

「てれび?」

「あ、いや、こっちの話だ。いや、本当に凄いな、これ。遠くの景色や音を、こうして記録して再生できるなんて」

ヒルデトーラは、その言葉に胸を張った。

「これを国中、いえ、世界中に届けることができれば、人々の暮らしはもっと豊かになりますわ。その第一歩として、魔物と人が共に暮らす国の姿を、映像として世に伝えたいのです」

「なるほど。それは魔国にとっても、願ってもない話だ」

リムルは、真剣な顔つきでそう頷いた。

「魔物は怖いもの、危ないもの。そう思ってる人間はまだ多い。でも、こうして映像で見てもらえば、ラーメンを食べて餃子で喧嘩して、笑ってる姿が伝わるだろ? 百聞は一見に如かずってやつだ」

「まあ。わたくしも、まさに同じ言葉を考えておりましたわ」

「お、気が合うな」

ヒルデトーラとリムルが、にやりと笑みを交わす。その様子を見て、ニアが小声でレリアレッドに囁いた。

「あの二人、少し似ていますね」

「……ええ。見た目の可愛らしさと、中身の腹黒さが」

「聞こえていますわよ、レリア」

「聞こえてないってば!」

一方、ベスター博士は、撮影魔道具の前で今にも卒倒しそうな勢いだった。

「リムル様! こ、これを……この装置を、分解して調べる許可を!」

「ああ、いいぞ。ただし、ちゃんと持ち主のお許しをもらってからな」

博士が懇願の目でヒルデトーラとレリアレッドを見つめる。

二人が顔を見合わせると、レリアレッドが小さく頷いた。

「いいわ。でも、元通りにするのが条件よ。それと、シルヴァー商会の技師さんから教わったところまでなら、私が説明してあげる」

「感謝致しますぞ、お嬢ちゃん!」

こうして、研究所の作業台に撮影魔道具が運ばれた

。リノキスは、まるで手術に立ち会う家族のような表情で、博士の手元を一瞬も目を離さず見守っている。

「そこ、ネジが違います。いえ、ネジではなく魔力の流れが……ああっ、そこは触らないでください!」

「うむうむ、この魔晶石の配置……実に興味深い。映像を記録する核と、音を拾う核とを、二重に重ねて……おおお、なるほど!」

ベスター博士が、図面と部品を次々と広げていく。

そんな様子を、リムルが腕を組んで見守りながら、ぽつりと言った。

「ラファエル先生、どう思う?」

――告。解析を完了しました。

ヒルデトーラたちには聞こえない声が、リムルの内側で響く。

――魔法映像の構造は、映像の記録魔術と音声の記録魔術に、魔晶石による伝送機構を組み合わせたものです。既存の魔道具技術の応用であり、ドワーフ王国の技術者の水準であれば、再現は十分に可能と判断します。

「やっぱりな。ありがとう、助かる」

そう言ってリムルは、ヒルデトーラたちへ向き直った。

「ドワーフの国の技術者なら、これと同じものが作れるらしい。カイジンあたりに話を通しておくよ。ガゼル王にも、俺から話しておこう」

「え? 今の、誰が……?」

「ああ、こっちの話。俺の中にいる相談役でさ。ラファエル先生っていうんだ」

「……先生、ですか」

――告。「先生」という呼称は、適切なものとして受理します。

「ほら、本人も満更でもないらしい」

「は、はあ……」

理解が追いつかないヒルデトーラの隣で、ニアだけは、じっとリムルを見つめていた。

(この方の内側に、もう一つの意思がある。ただのお人好しではありませんね)

そして、ヒルデトーラは、すぐに頭を切り替えていた。

「ドワーフ王国の技術で、魔法映像が量産できるのなら……」

「お、お姫様の目が輝いてるぞ」

「当然ですわ。魔法映像の生産拠点が増えれば、普及のスピードは飛躍的に上がります。シルヴァー商会、リストン領、そして魔国連邦とドワーフ王国……ああ、夢が広がりますわ!」

「ヒルデ、世界征服という言葉が漏れかけていますよ」

「文化交流ですわ、ニア」

魔法映像を西方諸国に広めるべきか、広めるならどのような形が良いか。

その検討は、また別のお話である。

そんなやり取りの最中、シュナがレリアレッドの前にそっとしゃがみ込んでいた。

「レリアレッドさん。そのお召し物、とても素敵ですね」

「え? あ、これはお姉様が仕立ててくれた旅装で」

「お姉様というと、服飾の商会を営んでいらっしゃる方ですね。生地の織りも縫い目も、とても丁寧です。もしよろしければ、撮影用の衣装を、わたくしがお作りしましょうか」

「い、いいの!?」

「ええ。魔国には、織物や染物の腕に覚えのある者がたくさんおりますの。映像で映える色や柄を、一緒に考えましょう」

レリアレッドは目をまん丸にして、それから、ぱあっと笑顔になった。

「お願いします! ニア、あんたの分もお願いしておくわね!」

「私もですか?」

「当然でしょ、三人揃ってのひろめ隊なんだから!」

ニアは、少しだけ戸惑いながらも、静かに頷いた。そんなニアの様子に、リノキスが後ろで目頭を押さえていた。

「お嬢様が……お友達と……」

「リノキスさん、泣いておられるのですか?」

「感動しているだけです」

そこへ、シオンが元気よく両手を打ち鳴らした。

「そうだ! 皆さん、お疲れでしょう? 私、お料理を振る舞いますね! リムル様にも毎日作っている、特製のメニューです!」

瞬間。

魔国側の全員の動きが、ぴたりと止まった。

ベニマルが無言で天井を見上げ、シュナがそっと視線をそらし、ウルティマは「あ、ボク急用思い出した♪」とテスタロッサの背に隠れる。

カレラですら、わずかに眉をひそめていた。

「あ、あの、皆さん?」

「……シオン」

リムルが、とても穏やかな声で言った。

「お客様の前だ。今日はお茶だけにしよう。お茶だけ」

「えっ、でも」

「お茶だけ。これは盟主命令だ」

「は、はい……! お茶なら、お任せください!」

胸を張るシオンに、リノキスがきらりと目を光らせた。

「私もお手伝いします。お茶を淹れるのは、侍女の基本ですから」

「本当ですか! 心強いです!」

「いけません、リノキスさん、わたくしが」とシュナが慌てて割って入り、結局、お茶はシュナが淹れることになった。

ニアは、そんな賑やかなやり取りを、どこか懐かしむような目で眺めている。

その傍らに、いつの間にかリムルが立っていた。

「なあ、ちょっといいか」

「はい」

「ラファエル先生が、さっきから気にしててさ。ニア、お前の魂の波長、ちょっと変わってるって」

「……」

「間違ってたらごめんな。お前さん、もしかして転生者か?」

ニアは、ゆっくりと瞬きをした。

そして、ふっと微笑む。

「貴方も、ですか」

「ああ。人間からスライムに生まれ変わった口だ」

「スライム。……なるほど、底が見えないはずです」

ニアは心底納得したように頷いた。

「私は、かつて戦場で生きた武人でした。死んだとき、強い相手と戦って死にたかったと思ったのです。そうしたら、この体に」

「そりゃまた、凄い話だな。でも、今は楽しそうじゃないか」

「はい。強い方にも、美味しいものにも、友人にも、出会えましたから」

「なら、結構なことだ。お互い、この世界で楽しくやろうぜ」

リムルが拳を軽く差し出す。ニアも、小さな拳をこつんと合わせた。

「それと、一つ頼みがある。うちの連中――ベニマルやカレラあたりと、そのうち手合わせしてやってくれ。ただし、街の外で、被害が出ない範囲でな」

「喜んで」

ニアの瞳が、獰猛に輝く。その瞬間、リノキスが背筋を凍らせて振り返った。

「お嬢様、今、物騒な約束をなさいませんでしたか!?」

「いいえ。ただの友好の握手です」

「本当ですか!?」

「本当ですよ」

そんな攻防を、ヒルデトーラは遠くから眺めながら、満足げにため息をついていた。

「……本当に、素敵な国ですわね」

七、夏の終わりのシュークリーム

別れの時が来たのは、夕陽が街を茜色に染める頃だった。

研究所の前には、見送りのために、リムルたちが勢ぞろいしていた。

ベスター博士は、ようやく撮影魔道具を元通りに組み立て終え、満足げに汗を拭っている。

「素晴らしい体験でしたぞ! ドワーフ王国との試作が完成したら、真っ先に報告します故に!」

「期待しておりますわ、博士」

「ニアちゃん、またね! 今度はボクとも遊んでよ♪」

「ええ、ぜひ。次は、ウルティマさんともお手合わせを」

「お嬢様」

「冗談です、リノキス」

「お嬢様の冗談は、冗談に聞こえません」

テスタロッサは優雅に微笑み、カレラは「次は逃がさねえからな」とにやりと口の端を上げる。

ベニマルとシオン、シュナも、それぞれに穏やかな顔で手を振った。

そして、リムルが、後ろ手に持っていた大きな箱を差し出した。

「これ、持っていってくれ。吉田さんのシュークリームだ」

「ヨシダさん……?」

「うちの国の、洋菓子の名人なんだ。これが魔国で一番人気のお菓子でさ。皮がさくっとしてて、中のクリームがとろっとしてる。冷やして食べるのもいいけど、できれば今日中に食べてくれ」

「まあ、よろしいのですか?」

「いいって。観光と、いい話のお礼だ。それに」

リムルは、いたずらっぽく笑った。

「次に来るときには、魔法映像の新しい番組、楽しみにしてるからさ」

「もちろんですわ! その時は、最高のものをお届けします」

ヒルデトーラが力強く頷き、箱を受け取る。

ずしりとした重みが、ふわりと甘い香りとともに腕に伝わってきた。

「ありがとうございました、リムル様」

「また来いよ。今度は、もっとゆっくりな」

こうして一行は、魔国連邦の人々に見送られながら、帰路についた。

馬車が街を抜け、ジュラの大森林へ入る頃。揺れる車内で、四人は顔を見合わせていた。

「ねえ、開けてもいい? 今、食べていい?」

「レリア、お行儀が」

「だって、いい匂いなんだもん!」

結局、ヒルデトーラも我慢の限界だったらしく、そっと箱を開けた。

中には、きれいに並んだ丸いシュークリームが、人数分以上詰まっていた。

「では、いただきましょうか」

四人が、一斉にシュークリームを手に取る。

さくっという軽い音とともに、まず香ばしいバターの香りが広がり、続いて、なめらかなクリームが口いっぱいにとろけた。

「…………」

「…………」

「…………!」

長い沈黙の後、最初に声を上げたのは、ヒルデトーラだった。

「……おいしいですわ」

「おいしい、おいしい、おいしい! なにこれ、皮がさくっとしてて、クリームが濃厚で、甘すぎなくて、どうなってるのよ!」

レリアレッドが、涙目になりながら叫ぶ。

ニアは、静かにシュークリームを味わい、満足げに頷いた。

「……これは、よい生地です。軽やかで、それでいて芯がある。そして、中身が決して負けていない。見事な均衡です」

「お嬢様、やはり感想が武人です」

「そうですか? では、おいしい、です」

「はい、お嬢様。お口にクリームがついております」

リノキスが、ハンカチでニアの口元を拭う。

そして、自分の分のシュークリームを、一口、ぱくり。

「……生き返りました」

「リノキス、二郎系の後遺症は大丈夫ですか?」

「甘い物は別腹です。お嬢様の笑顔のために、私は不死鳥のようによみがえりました」

「大げさですわね」

馬車の窓から、夕焼けの空が見えた。

ジュラの大森林の向こうに、魔国の灯りが小さく瞬いている。

魔物と人間が、肩を並べて暮らす国。

美味しいものがあふれ、笑顔がある国。

そして、魔法映像を、あれほど喜んでくれた国。

「……いい夏休みでしたわね」

ヒルデトーラのつぶやきに、三人は、静かに頷いた。

「はい。とても」

「また、行きたいわ」

「次は、手合わせも」

「それは却下です、お嬢様」

笑い声が、夕暮れの森へ、軽やかに響いていった。

余談

王都に戻ってしばらくして、シルヴァー商会の本店に、一人の少女が勢いよく飛び込んでいった。

「お願い! この味を、再現してほしいの!」

レリアレッドが差し出したのは、一枚の紙包みだった。

ジュラ・テンペスト連邦から持ち帰った、あのシュークリームの、最後の一個の残りである。

ちなみに、取り分を巡って、ニアとヒルデトーラと激しい攻防があったらしい。

「お嬢様、これは……?」

「魔国のお菓子よ! 皮がさくっとしていて、クリームがとろっとしてるの。これを、うちの商会で作れるようにして!」

商会の職人たちは、紙包みを受け取り、おそるおそる口に運んだ。

次の瞬間。

「な、なんだこの皮の食感は!」

「バターの香りが、段違いだ! どうやって焼いているんだ!」

「クリームの口溶け……これを再現するには、一体どれほどの修行が……!」

店内が、阿鼻叫喚の大騒ぎになったのは言うまでもない。

「エスエラ、見て! 職人さんたち、全員頭を抱えてるわ!」

「はい、お嬢様。それほどの難題ということでしょう」

涼しい顔で控えるエスエラの隣で、長女のラフィネも、一口味見して目を見開いていた。

「……レリア。これは、とんでもないお菓子ね。商品化できれば、きっと大変な評判になるわ」

「でしょう!? だから、お願い! 絶対に、再現して!」

シルヴァー商会が、あの魔国のシュークリームを再現できたのかどうか。

それは、また別の機会に語られることになるだろう。

ただ一つ確かなのは、あの夏休みが、四人にとって、忘れられない最高の思い出になったということである。

(おわり)


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