教室の空気が、いやに重かった。
「じゃあ、文化祭の実行委員長は……立候補がいなければ、推薦で決めるけど……」
クラスの担任の言葉を合図にしたかのように、生徒たちの視線が一斉に泳ぎ出す。誰とも目を合わせまいと、全員が机の上の教科書やノートを凝視した。自分の平穏を守るための沈黙。その空気の澱みを切り裂くように、誰かの投げやりな声が響いた。
「相模でよくね?」
「あ、それいいじゃん。相模、こういうの得意そうだし」
「うんうん、適任だって!」
クラスのあちこちから、責任を押し付けるための軽い賛同の声が飛ぶ。相模南は青ざめた顔で周囲を見回した。
「え……? ちょっと待って、私、そういうの無理だよ! 無理だってば!」
必死の拒絶もむなしく、同調圧力という名の濁流は容赦なく彼女を飲み込んでいく。半泣きになりながら助けを求める相模の視線がクラス中をさまよったが、誰一人として目を合わせる者はいなかった。
「決まりだな。じゃあ相模、委員長よろしく」
担任が半ば強引に話をまとめようとしたその時、窓際の席から乾いた笑い声が漏れた。
(……いじめかよ、くだらねえ)
比企谷八幡は肘をつき、腐った魚のような目で教室の天井を見上げながら、心の中で吐き捨てる。
自分じゃ絶対に責任を負いたくないからって、適当な理由をつけて押し付けて、全員で『決まったことだから仕方ない』って体裁を取り繕う。泥を被る役目を誰かに押し付けて、自分たちは安全圏から見物ですか。見苦しいにもほどがあるだろ。見てて胸がむかつくわ。
「……委員長なんて、やるわけないでしょ……!」
相模の目から大粒の涙がこぼれ落ち、机の上のプリントを濡らした。完全にキャパシティを超え、精神的に追い詰められた彼女の姿を見て、八幡は小さく舌打ちをする。
(やれやれ。平塚センセーに釘を刺されてなかったとしても、これを見過ごすのは流石に気分が悪い)
八幡はガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
「おい、相模」
「ひ、比企谷くん……?」
涙に濡れた顔で振り返る相模に、八幡はいつもの気だるげな調子のまま、しかしはっきりと告げた。
「泣いてる暇があるなら耳の穴かっぽじってよく聞け。お前がそのクソみたいな押し付け合いのせいで委員長にさせられたのは事実だ。同情もしてやる。だが、ここで完全に潰れてみろ、面倒なのは俺だ。……だから、お前は形式上のトップにでも何でも座ってろ」
「……え?」
「実務も、面倒な調整も、クラスの連中への根回しも、全部俺が裏で回してやる。お前はただそこに突っ立って、威張って、たまにメソメソしとけばそれで十分だ。……文句あるか?」
あまりの唐突さと、あまりに歪んだ優しさに、相模は言葉を失い、ただ目を見開いたまま比企谷くんを見つめた。
「……文句、ないなら、さっさと涙拭け。今日から地獄の準備期間の始まりだぞ、委員長」
放課後の静まり返った教室で、相模は震える手で目元を拭い、小さく、しかししっかりと「……うん」とうなずいたのだった。
文化祭準備が本格化して数日。教室の片隅に臨時に設けられた「委員長デスク」は、クラスの誰もが恐れをなすほどの異様な効率で回っていた。
相模が言われるがままに座っているだけで、山のような発注書、タイムテーブル、クラスごとの出し物の調整が、まるで魔法のように片付いていく。その裏で、比企谷が関係各所を回り、不満を抑え込み、すべての実務を完璧にこなしていることは、相模にも痛いほど分かっていた。
(……なんで、ここまでしてくれるわけ?)
あまりの献身ぶりに、相模は戸惑いを隠せなかった。自分はただ押し付けられただけで、大した指示も出していない。それなのに、このひねくれた男子は、文句を言いながらも自分のキャパが限界を超える前にすべてを回収していく。
放課後の静かになった教室。相模は意を決して、冷ケースから取り出したばかりの黄色い缶を、比企谷の机にドンと置いた。
「……これ、差し入れ」
不意に差し出されたそれに、比企谷は眉をひそめて缶を一瞥する。見慣れた、ぎらつくような甘さを誇るマックスコーヒーだった。
「……なんだこれ」
「文句? いらないならいいけどさ。……いつも、その、なんだ……ありがとね」
そっぽを向きながらぶっきらぼうに言う相模に、比企谷は小さく息を吐く。
「いらなくはないが……まあ、ありがたくもらっとく」
そう言ってマックスコーヒーに手を伸ばそうとした瞬間、相模の視線が比企谷のデスクの上に積み上げられた、新たな期限間近の書類の山に釘付けになった。
「あ、また新しい申請書……! これ、明日までに私が全部チェックして、ハンコ押さなきゃいけないやつじゃん! もう無理、絶対見きれないって!」
またしてもパニックを起こしかけた相模に、比企谷はめんどくさそうに舌打ちをすると、その山からバサッと一束の書類を掴み取り、相模の胸元めがけて放り投げた。
「うわっ、なに!? なんで投げるのよ!」
「うるせえ。いいから何も考えず印鑑を押しまくれ」
「は? 何も考えずって、ちゃんと内容確認しないで押したら責任が……」
「全部チェック済みだ。お前がやるべき仕事は、ただそこにポンポンと朱肉のついたハンコを連打することだけだ。脳みそ使わなくていいから楽だろ」
「っ……! あんたねえ、いくらなんでも雑すぎ――」
文句を言いかけた相模だったが、書類をパラパラとめくってみて絶句した。すべての欄に、比企谷の細かくていねいな字で修正点や承認済みのサインが完璧に書き込まれている。彼女が悩む余地など、最初から一粒も残されていなかった。
相模はペンを持ったまま手を止め、信じられないものを見る目で比企谷を見つめた。
「ねえ……」
「なんだよ、まだハンコが足りないのか」
「そうじゃなくてさ……」
相模はぐっと唇を噛み締め、潤んだ瞳を比企谷に向けた。
「アンタ、あたしのこと好きなの?」
図星とも勘違いともつかない、しかし真っ直ぐすぎるその問いかけに、比企谷八幡の動きがピタリと止まった。
「……は?」
持っていたペンを落としそうになりながら、比企谷は文字通り目を見開き、魚の死んだような目をさらに丸くして固まったのだった。
何を言ってるんだこいつは。これだからJKは。バカかよ。
比企谷八幡は、目の前で赤面しながらも真剣な目を向けてくる相模に向かって、心の中で盛大に毒づいた。そんなんじゃない、絶対に違う。俺がやっているのは自己防衛であり、平穏な日常の維持であり、あわよくば周囲の理不尽に対するささやかな抵抗だ。決して他意などない。断じてない。
だが、そこまで考えてふと、八幡自身の中でも小さな疑問が頭をもたげた。
(……待てよ。なんで俺は、ここまでムキになってこの相模の仕事を完璧にこなしているんだ?)
平塚センセーの言つけを守るため? 自分の平穏のため? いや、それだけでは説明がつかないほどの熱量と献身性を、今の自分は発揮している。クラスの連中の身勝手さに怒りを覚えたからとはいえ、ここまで泥を被って裏方に徹する必要など本来どこにもないはずだ。
自分の内側にあるその「過剰なまでの動機」に八幡が密かに戸惑い、冷や汗をかきそうになったその時――。
ガラッ、と教室の引き戸が乱暴に開け放たれた。
「やっほー、八幡くーん!」
軽やかで、しかし底知れない圧力をまとった声が、静まり返った放課後の教室に響く。現れたのは、雪ノ下陽乃だった。制服の着こなしも完璧な彼女は、悪戯っ子のような笑みを浮かべながらスタスタと足音を近づけてくる。
「っ……、陽乃さん……!?」
相模がびくりと肩を震わせ、恐怖に似た表情で身を固くした。学年のカーストや強者を本能的に察知するアンテナが、陽乃のただならぬ気配をキャッチしたのだろう。
一方の八幡は、また面倒くさいのが来やがったとばかりに、心底うんざりした表情で天井を仰いだ。
「なんだよ、こんな野郎どもの巣窟に何の用だ。まさか冷やかしじゃないだろうな」
「冷やかしなんてとんでもないよ。ちょっとね、気になったから覗きに来ちゃったの。ねえ、八幡くん……雪乃ちゃんは? 一緒に回ったりしてないの?」
陽乃は面白がるような目を細め、八幡の机の上の膨大な書類の山をチラリと一瞥してから、悪びれもせずにそう尋ねた。
八幡はマックスコーヒーの缶をテーブルに置き、気だるげに鼻を掻いた。
「は? 雪ノ下ならそこらへんにいるだろ。クラスの出し物手伝ってますよ、自分の仕事はとっくに終わらせてな」
冷淡に吐き捨てる八幡の横で、相模は(雪ノ下の名前が出た途端、この人また態度が変わるんだから……)と思いつつも、陽乃の圧倒的な存在感の前に小さく縮こまることしかできなかった。
「ふーん、雪乃ちゃんは自分の仕事をちゃんと終わらせて、クラスの出し物を手伝ってるんだ。……ねえ、それってさ。もしかして比企谷くん、雪乃ちゃんにはカッコいいところ見せたくて頑張ってるわけ? それとも、ここで必死に相模ちゃんのお世話してるのも、別の下心があったりして?」
面白半分、あるいは場をかき乱すためだけに繰り出される陽乃の容赦ない言葉に、相模はビクリと肩を震わせた。その指摘が自分の問いかけに対する答えなのだろうかと、不安そうな目を比企谷に向ける。
だが、連日の激務と睡眠不足、そしてこれ以上ないほどのストレスの蓄積は、すでに比企谷の肉体の限界をとうに突破していた。
(……うっせえな、この女……)
頭がガンガンと割れるように痛み、視界がチカチカと白濁していく。胃のあたりから込み上げてくる悪寒と熱感に、比企谷は奥歯を噛み締めた。
もう限界だった。これ以上この場に付き合わされていたら、間違いなく盛大にぶち切れるか、その場で意識を手放すかの二択しかなかった。
「……ふざけんなよ、テメェ……」
掠れた、しかしドスの効いた低い声が教室に響く。比企谷はガタガタと震える体を支えながら立ち上がろうとしたが、その足はもう命令を聞かなかった。
「は? 比企谷くん?」
陽乃がわずかに目を丸くした瞬間、比企谷の視界が完全にブラックアウトした。
ドサッ、と。
積層された書類の山を巻き込みながら、比企谷八幡はその場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「ひ、比企谷くん――!?」
「ちょっと、比企谷くん……!?」
相模の悲鳴と陽乃の焦ったような声が、遠くのトンネルの向こう側のように聞こえる。額に触れた相模の手が、驚くほど熱い熱を発している比企谷の体温にビクリと跳ね上がった。
――39度を優に超える、高熱だった。
◆
保健室の白い天井が、ぼんやりと視界に映る。
消毒液の匂いと、静まり返った空間。点滴のチューブが繋がれた腕の重みを感じながら、比企谷は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
「……目、覚めた?」
すぐそばのパイプ椅子から、かすれた声が聞こえた。
そこにいたのは、目を赤く腫らし、制服の裾をぎゅっと握りしめた相模南だった。
「……相模、か……? ここは……」
「保健室だよ……。あなた、無理して……。熱、40度近くあったんだからね……!」
相模の声音は震え、大粒の涙がまたぽろぽろと零れ落ちていく。彼女は自分の両手を見つめながら、全身を震わせてかぶりを振った。
「私のせいだ……。私が、押し付けられたって泣き言言って、何もしないで、全部あなたに丸投げして……だから、比企谷くんがこんな……!」
「……うるせえ……大声出すな、頭響く……」
比企谷は面倒くさそうに顔を背け、しかし掠れた声で吐き捨てるように言った。
「お前のせいじゃねぇよ……。元々、俺の……キャパが、低かっただけだ……。それに、ここで俺が倒れたら……結局、一番面倒なのは……俺自身なんだからな……」
「そんなこと言わないでよ……!」
相模はぐしゃぐしゃになった顔で顔を覆い、しゃくりあげた。
「私、委員長なんて……本当は嫌だった。でも、あなたが裏で必死に支えてくれて……私、やっと少しだけ、ちゃんとやらなきゃって思えたのに……あなたが倒れたら、意味ないじゃない……!」
「……もう、いいから……帰れよ。……明日には、治すから……」
比企谷はそれ以上返す気力もなく、再び目を閉じた。
保健室の静寂の中、相模の啜り泣く声だけが、いつまでも小さく響き続けていた。
カーテンの隙間から差し込む秋の午後の光が、静まり返った比企谷家の自室のフローリングを淡く照らしていた。
前日の無理がたたって高熱で倒れ、学校を休んだ比企谷八幡は、布団の中で重い呼吸を繰り返していた。額には冷えたタオル、枕元には飲みかけの水と体温計。熱はいくらか下がったものの、まだ倦怠感と頭痛が頭の芯を重く縛り付けている。
階下からインターホンが鳴り、しばらくしてパタパタと軽い足音が階段を上がってきた。
「お兄ちゃーん、お客さんだよー」
妹の小町がひょっこりと顔を出し、呆れたような、しかしどこか面白がるような笑みを浮かべて部屋に入ってくる。
「小町、誰だ……うるさい、頭響く……」
「もう、せっかく心配して来てくれたのにそんなこと言ってちゃダメでしょ。はい、どうぞー、おじゃましまーす」
小町が脇に退くと、その背後から緊張で強張った顔をした相模南がゆっくりと姿を現した。手には、コンビニの袋を申し訳なさそうに提げている。
「……おじゃま、します……」
「じゃ、小町は買い出し行ってくるから、ふたりでゆっくりどうぞー」
小町はニヤニヤとした笑みを残し、手際よく部屋から出ていき、静かにドアを閉めた。
取り残された部屋に、気まずい沈黙が流れる。
相模はゆっくりと足音を忍ばせながら八幡の布団の脇まで歩み寄り、そこに置かれていたパイプ椅子にちょこんと腰掛けた。
「……具合、どう……比企谷くん……?」
かすれた声で尋ねる相模の目は、昨日の今日でさらに赤く腫れていた。布団の中で目を閉じたままの比企谷は、返事の代わりに小さく息を吐き出す。それだけで、まだ起き上がれる状態ではないことが痛いほど伝わってきた。
相模は持ってきた袋を床に置き、じっと比企谷の青白い顔を見つめた。
昨日、自分がした質問。そして、自分のせいで彼が限界を超えて倒れてしまったという罪悪感。様々な感情が胸の中で渦巻き、こらえきれなくなったのか、相模の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
震える手が、布団の外に出ていた比企谷の冷えた指先にそっと伸びる。
誰にも見られないように、拒絶されないように、恐る恐るその手を包み込むように握りしめた。
「ごめん……ごめんね、比企谷くん……。私が、頼りないから……私があんなこと聞いたから……」
ぽたぽたと比企谷の布団に涙が落ちる。
その温かさと、絞り出すような震え声に、比企谷は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の中に、泣き顔の相模が映る。
言葉を発するだけの気力も喉の余裕もなかったが、比企谷は静かに腕を伸ばし、その不器用な大きな手で相模の頭にそっと添えた。そのまま頭を撫でるように、軽く引き寄せる。
突然のことに相模は息を呑み、びくりと肩を震わせたが、逃げようとはしなかった。
そして、比企谷は自分の手を握っている相模の指先を、わずかに力を込めて握り返した。
部屋には、時計の秒針の音と、ふたりの静かな寝息、そして小さなすすり泣きだけが響いていた。余計な言葉など、最初から一つもいらなかった。
翌日、何とか這うようにして学校へ登校した比企谷八幡の目に飛び込んできたのは、あまりにも絶望的な光景だった。
黒板の端に大きく書かれるはずの文化祭のスローガンは未記入のまま空欄。それどころか、教室の掲示板に貼り出されていたクラスの出し物の参加者名簿を見ると、昨日まで名前があった生徒たちの半分以上が、めんどくさくなったのか名前を消したり、別の楽そうな出し物に勝手に移動していたりしたのだ。
「……は?」
病み上がりの体に鞭打ち、やっとの思いで学校に来てみればこれだ。昨日自分が倒れた途端、責任を丸投げしていた連中が勝手気ままに逃げ出し、準備は完全に瓦解していた。
カチッ、と。
八幡の中で、何かが音を立ててブチッと切れた。
「おい……これ、どういうことだ」
低く、けれど教室の空気を凍りつかせるような冷え切った声が響く。八幡は血走った目を剥き、自分の席へとフラフラと歩み寄った。
その教室の片隅には、相模をはじめとして、最後まで残るしかなかったり、あるいは責任感から踏みとどまっていた数名のクラスメートたちが、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「ひ、比企谷くん……! もう大丈夫なの!?」
「大丈夫じゃねぇよ、この状況見ろ!」
八幡は机をドンと叩き、怒気を孕んだ視線を教室のあちこちに投げつけた。
「ふざけんなよ……! 人の善意に甘えて逃げ出すだけ逃げ出しやがって、あいつらなめてるのか! 俺が倒れたからって、自分たちのクラスの出し物まで投げ出して、恥ずかしくねぇのかよ!」
八幡のあまりの剣幕に、教室の空気が恐怖で歪む。だが、驚いていたのは逃げ出した連中だけではなかった。
「……そうだよね、ふざけんなっての!」
声の主は、いつのまにか涙を拭い、真っ赤な目を燃え上がらせていた相模だった。彼女は両拳を固く握りしめ、震えながらも声を張り上げる。
「昨日まで散々、私に委員長押し付けといて……いざとなったら自分たちは知らんぷり? 勝手に名前消して逃げるとか、ふざけすぎでしょ……!」
相模のその言葉を皮切りに、残されていた他のメンバーたちからも、溜まりに溜まった怒りの声が次々と噴き出した。
「マジでふざけてるわ、あいつら……!」
「私らだけで全部やらされるとか、理不尽すぎんだろ……!」
「やってやろうじゃねぇか、あんな奴らのためにこっちが頭下げる筋合いねぇよ!」
クラスの片隅に残った数名の怒気は、もはや八幡と同じ熱量を帯びていた。誰もが不条理な扱いに納得がいかず、しかし諦めかけていたところを、八幡の怒りが完全に火をつけたのだ。
教室のざわめきの中、八幡は荒い息を整え、険しい顔のまま残ったメンバーを見回した。そして、ふっと自嘲気味に、しかし力強く言い放つ。
「……上等だ。あんな腑抜け共の頭数なんて最初から当てにしてねぇよ。お前ら、いいか?」
八幡はスローガンのない黒板を睨みつけ、そして仲間たちに鋭い視線を向けた。
「文化祭委員やクラスの連中がどう逃げようが知ったこっちゃない。ここからは、俺たちだけでこの文化祭を完璧にやり遂げるぞ。……文句ある奴はいるか?」
その問いに、相模は迷うことなく力強く首を横に振った。他のメンバーたちも、次々と強い決意を込めてうなずく。
「ない! やってやろうじゃない、あいつらびびらせるくらいのやつを!」
「ああ、上等だ。やってやろうぜ、委員長」
冷めきっていた教室の片隅に、かつてないほど熱く、歪みきった団結の火が確かに灯った瞬間だった。
文化祭当日。スローガンは人。校内は色鮮やかな装飾と、浮き立つような熱気、そして甘い食べ物の匂いに包まれていた。
賑やかな来場者や、思い思いの衣装にはしゃぐ生徒たちでごった返す中、比企谷たちのクラスの展示室だけは、どこか異質な空気を放っていた。
他のクラスが華やかな装飾や派手な電飾で目を引こうとする中、その教室の壁は驚くほど殺風景だった。余計なものは一切ない。飾り立てられたお菓子も、凝った段ボール細工もない。ただ、だだっ広い黒板の真ん中に、力強いチョークの白一色で、たった一文字だけが書かれていた。
――『人』。
文化祭のスローガンと同じである。やけに達筆なこと以外は。それ以外には、説明書きのポスターも、コンセプトを記したパンフレットすら一切用意されていない。あまりにも不親切で、あまりにも直球すぎるスローガンだった。
通りかかった他の生徒や教師たちが、首をかしげながらその教室を覗き込む。
「え……? なになに、これだけ?」
「出し物は? カフェとかじゃないの?」
「いや、黒板に『人』って……意味わかんなくない?」
周囲のざわめきや、面白半分に投げかけられる疑問の声を、教室の入り口に立つ相模南は背筋を伸ばして受け止めていた。その顔に、かつての怯えやパニックの色はない。委員長の腕章をきっちりと締め、どこか誇らしげですらあった。
そのすぐ隣の陰で、八幡は腕を組み、いつもの死んだ魚のような目でぼんやりと天井を見上げていた。
説明などする気はない。ここで逃げ出した連中に向けた綺麗事でもなければ、来場者に媚びるための言い訳もない。
それは、すべてを放り出して逃げ出したクラスメート、文化祭委員たちに対する、無言の皮肉であり、告発だった。そして同時に、あの土壇場の絶望から、泥をすすりながらも最後まで残り、歯をくいしばって準備をやり抜いた自分たち――文化祭委員と、相模と、八幡の、剥き出しの意地そのものだった。
「……で、どうすんだよ委員長。客が呆れて帰るぞ」
冷やかすように呟く八幡に、相模はふっと小さく笑ってみせた。
「帰るなら勝手にさせとけばいいでしょ。クラスの出し物に文化祭委員長。超人じゃないっての。……私たちがやりきったんだから、それで十分だよ」
その横顔は、あの泣き虫だった委員長のそれではなく、確かにこの教室の、そして自分たちの最高潮の主役の顔をしていた。
説明のいらない覚悟と、言葉よりも重い熱量が、そのたった一文字の黒板の前に、確かに満ちていた。
文化祭のフィナーレを告げる、野外ステージの盛大なライブサウンドが、秋晴れの空へと心地よく響き渡っていた。
特設ステージの周りでは、生徒たちが肩を組み、色とりどりのサイリウムを振りかざして文字通り「青春」を謳歌している。その眩しすぎる光景を、校舎の屋上から、比企谷八幡と相模南は遠巻きに眺めていた。
「……盛り上がってんなあ」
「そうだね。……なんか、あっけないくらい普通に終わっちゃったね」
相模の言う通り、文化祭は特別などんでん返しもなく、トラブルの跡形もなく、ただ普通に盛り上がり、普通に終わりを迎えた。クラスの出し物は結局あの黒板の『人』のままだったが、それがかえって奇抜なアートとして妙な話題を呼び、結果オーライの形に収まっていた。
「あれだけの人数でよくやり遂げたものだろ、まったく」
八幡が小さく息をつきながら言う。あの絶望的な状況から、残ったメンバーだけで意地を張り通し、ここまで漕ぎ着けたのは奇跡に近い。ちなみに、泥をかぶった残りのメンバーたちには、あの「地域賞」の投票や評価の取りまとめを全部回してある。せめてもの特権というか、ささやかな恩返しだった。
二人はしばらく、グラウンドで跳ね回る生徒たちの熱気を見つめていたが、やがて相模がふっと小さく息をつき、隣に立つ八幡に視線を向けた。
「ねえ、比企谷くん」
「んだよ」
「……アンタ、あたしのこと好きなの?」
いつかの教室と同じ、直球すぎる問いかけ。
風に揺れる前髪の隙間から、相模の真っ直ぐな瞳が八幡を捉えていた。
八幡は相変わらず死んだ魚のような目で、しかし少しだけ呆れたように息を吐き出す。
「……バカかよ」
「そうだよね」
相模はどこか切なそうに、けれどすっきりと笑った。
その横顔を見つめたまま、八幡はもう一度、ぼそりと付け加える。
「……今更だな」
――その言葉の意味を理解した瞬間、相模の瞳から、こらえきれなかった涙がぽろりと零れ落ちた。泣き虫な彼女は相変わらずだったが、その表情にあの時の怯えや焦りはもう微塵もなかった。
言葉はいらなかった。
八幡はふっと視線を前方に向け、トントンと、相模の肩にそっと自分の肩を寄せた。
秋の冷たい風が吹き抜ける屋上で、二人の小さな影が、少しだけ寄り添い合っている。
喧騒の中、文化祭の終わりとともに、不器用すぎる二人の関係が、確かにここから始まろうとしていた。
「――という、我が魂の傑作ストーリーなのだよ八幡っ!」
放課後の部室。ドカッと机に原稿用紙(あるいはノートの切れ端)を叩きつけ、材木座義輝は熱っぽく両手を広げてみせた。
「……お前な、勝手に人の青春を勝手な妄想でダークファンタジー風味に改変すんじゃねぇよ。しかも最後のほう、完全に少女マンガのノリじゃねぇか」
八幡はいつも以上に気だるげにため息をつき、ソファの背もたれに深く体を沈めた。その斜め向かいのパイプ椅子に座っていた相模南は、顔をトマトのように真っ赤にし、耳まで湯気が出そうなほど沸騰させている。
「なっ……なにこれ! 何勝手に私のキャラをこんな……! ていうか、こんなロマンチックな感じにされてるの、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……!」
相模は両手で顔を覆い、ジタバタと足をバタつかせた。
「ふふっ、いいじゃない。材木座くんの割には、なかなかピュアでいい話なんじゃないの?」
クスクスと楽しそうに笑いながら紅茶を啜っていたのは雪ノ下雪乃だった。その冷ややかな、しかしどこか含みのある視線が八幡へと向けられる。
そして、その隣で由比ヶ結衣は、なぜかじっとりと湿った、しかし少し面白がるような目で八幡と相模を交互に見ていた。
「いや、悪くない、とは思うけどよ……」
八幡が頭を抱えながら呟いたその時、部室の空気が一気に凍りついた。
ガタッ、と音を立てて立ち上がった雪ノ下と由比ヶ浜が、文字通り「据わった目」で八幡を睨みつけている。
雪ノ下の氷の刃のような視線と、由比ヶ浜のどこか鋭く突き刺さるような視線が、八幡の全身を容赦なく射抜いた。
「……比企谷くん? あなた、まさか本当にこんな青春劇を相模さんと……?」
「っちょ、待て雪ノ下、違うからな!? これ全部こいつの頭の中の電波妄想だからな!?」
八幡が必死に両手を振って弁解する横で、材木座は胸を張り、フンと鼻を鳴らした。
「ふっ、愚問だな! 我が神がかったリサーチ能力と優れた人間観察眼を以てすれば、あの時二人の間に流れていた微細な空気の機微など手に取るようにわかるというものよ! いやあ、実際に見ていたわけではないがね!」
「お前、見てねえのかよ!」
八幡のツッコミと同時に、相模が真っ赤な顔のまま「もう最低! 材木座くん、絶交だからね!」と叫んでバシッと材木座の背中を叩いた。
「ぐはっ!? 慈悲はないのか相模殿!」
ドタバタと騒がしい部室の片隅。
みんなが呆れたり笑ったりしている喧騒の陰で、八幡はこっそりとため息をつきながら、自分の席の机の下に視線を落とした。
文化祭が終わって、あれからちょうど一ヶ月。
世間はすっかり日常を取り戻し、いつもの退屈で平和な学校生活が戻ってきている。
誰にも気づかれないように、八幡の制服の裾に、そっと小さな手が重なった。
びくりと体を揺らせた八幡が横を向くと、そこには顔を真っ赤に染めながらも、頑なに目をそらしつつ、しっかりと彼の指先を自分の指で包み込んでいる相模の姿があった。
「……バカかよ」
小さく呟いた八幡の言葉に、相模はどこか嬉しそうに、けれど照れくさそうにふっと笑った。
誰にも言えない、誰にも見せない。
机の下の小さな温もりだけが、あの文化祭の続きが今も続いていることを、静かに物語っていた。