豪奢なシャンデリアが冷たい光を落とす、我が家の応接室。しかし、そこにいつもの静寂はなかった。空気そのものが重く、ねっとりとした魔力に満ちており、呼吸をするたびに肺が凍りつくような感覚に陥る。ホグワーツ魔法魔術学校のスリザリン寮を卒業して間もない私を、父と母は恭しく、そしてどこか狂信的な熱を帯びた瞳で、あの方の御前に連れて行った。
純血の誇り。由緒正しき魔法族の血を引く我が家門にとって、闇の帝王に忠誠を誓うことは必然であり、誉れであった。幼い頃から両親にそう教え込まれてきた私は、ローブに身を包み、玉座のごとく設えられた椅子に腰掛けるその御方に、深い敬意と畏れを抱いて頭を垂れた。
「……ほう。優秀な成績でホグワーツを卒業したと聞いている。我が忠実なる僕の娘よ、顔を上げなさい」
滑らかで、それでいてひやりとした刃のような声。ゆっくりと顔を上げると、蛇のように細められた真紅の瞳と視線が絡み合った。その瞬間だった。
『開心術(レジリメンス)』
呪文の詠唱すらなく、私の精神の深い場所へと、圧倒的な力を持つ何かが踏み込んできた。防御することすら許されない。冷酷なまでに私の記憶を、思考を、感情を、一枚一枚剥がしていく。そして、その記憶の底に触れた瞬間、私の中で何かの蓋が弾け飛んだ。
——痛い。頭が割れる。いや、違う。魂が引き裂かれる。
濁流のように流れ込んできたのは、私の知らない記憶だった。魔法など存在しない、鉄とコンクリートで覆われた見知らぬ世界。そこで男として生き、死んだ記憶。そして何より、私が今生きているこの世界が、かつてその男が読んだ『ハリー・ポッター』という名の物語であったという事実。
「あ、あああ……っ!」
抵抗する余裕はなかった。私の精神を探っていた闇の帝王、ヴォルデモート卿にも、私の中に突如として湧き上がった前世の記憶の全てが流れ込んでいたのだから。
全七巻にわたる物語の結末。分霊箱の秘密。予言の真実。そして、絶対的な力を持つはずの彼が、愛の魔法によって肉体を失い、最終的には物語の主人公の前に敗れ去るという破滅の未来。
真紅の瞳が見開かれ、次いで、私の脳髄を直接鷲掴みにするような激しい探求が始まった。彼は私の前世の記憶の隅々までを、まるで興味深い禁書を読み漁るかのように貪欲に読み取っていく。私の意志など関係ない。七年間のホグワーツでの出来事、ダンブルドアの死、そして、ヴォルデモート自身の終滅。
全てを奪い尽くしたあと、ふっと精神の拘束が解かれた。私は荒い息を吐きながら石の床に崩れ落ちた。
「……素晴らしい。実に、興味深いものを見た」
闇の帝王の声は、激怒するでもなく、ひどく冷静で、知的な探求心に満ちていた。彼は怯えて縮み上がる私の両親に向かって、冷たく言い放った。
「この娘をひどく気に入った。しばらく私の手元に置くことにしよう。下がれ」
両親は娘が選ばれたという喜びに打ち震えながら、私を置いて部屋を退出していった。閉ざされた扉の音と共に、私は闇の帝王と二人きりになった。
「さて、未来を知る娘よ。お前のその頭の中は、今どうなっている?」
私は答えられなかった。言葉を発しようにも、私の中で二つの人格が凄惨な殺し合いを繰り広げていたからだ。
私は名門純血の令嬢だ。この世界で生まれ育ち、親の教えに従い、闇の帝王を崇拝している。しかし、前世の男の記憶がそれを激しく拒絶する。目の前にいるのは、鼻を削ぎ落とされたような醜悪な怪物であり、自己中心的な理由で無数の命を奪った残酷な殺人鬼だという批判が、吐き気と共に込み上げてくる。
それだけではない。私がホグワーツで七年間、同じスリザリン寮で過ごした同級生、セブルス・スネイプ。私は彼を薄汚い半純血と心の底から見下していた。ジェームズ・ポッターたちと呪いを掛け合い、みすぼらしいローブを引きずっていた彼を、安全な高みから冷笑していた。彼の方も、貴族ぶった私を酷く嫌っていたはずだ。
だが、前世の私は知っている。あの陰気な男が、一人の女性への愛を生涯貫き通し、誰よりも勇敢に二重スパイとして死んでいった敬愛すべき英雄であることを。
「我が君、貴方様は素晴らしい……違う、お前は狂っている……!」
「半純血の……薄汚い、スネイプ……。いや、彼は、勇敢な……」
口から漏れ出る言葉は支離滅裂だった。純血主義の傲慢さと、前世の倫理観。帝王への狂信と、読者としての客観的視点。スネイプへの軽蔑と、深い敬意。相反する価値観が激しくぶつかり合い、脳が沸騰しそうだった。今の私は令嬢なのか、日本の男なのか。自我の輪郭がドロドロに溶け出し、私は発狂の一歩手前にいた。
その時、冷たい杖の先が私の顎に触れた。
『服従せよ(インペリオ)』
甘く、心地よい声が頭の中に響き渡った。途端に、私を苛んでいた引き裂かれるような苦痛も、相反する価値観の軋轢も、全てが遠のいていった。真っ白な霧の中に包まれたような、恐ろしいほどの平穏。前世の記憶も今世の感情も、ただそこにあるだけのものへと成り下がり、私の自我は糸を引かれた人形のように静まり返った。
感情の波が消え失せた私の瞳を覗き込みながら、ヴォルデモートは薄く笑った。
「哀れなことだ。大きすぎる知識の奔流に、お前の器が耐えきれなかったようだな。だが、案ずるな。私が導いてやろう」
彼は優雅に歩き出し、私を見下ろした。すでにシビル・トレローニーによる予言は下され、スネイプを通じて彼に伝わっている。
「私は、お前の記憶の中で敗北した。忌まわしい『愛』とやらによってな」
ヴォルデモートは、不快な汚物を口にするかのように愛という言葉を吐き捨てた。
彼は私の記憶をすべて読み取っていた。物語の展開も、誰がいつどう動くかも、そのすべてを把握している。だが、彼には決定的に欠落しているものがあった。なぜ、敵対するものたちが愛を理由にそのような非合理的な選択をするのかが、全く理解できなかったのだ。
リリーがなぜ命を投げ出して赤子を守ったのか。スネイプがなぜ愛のために陣営を裏切ったのか。ダンブルドアがなぜ愛の力をそれほどまでに信奉するのか。行動の結果は知っていても、その根源にある感情を、彼は理解できない。
「だが、知は力だ。未来の敗因を知った以上、計画を見直す必要がある。さて、私のかわいい預言者よ。お前の知識に基づき、私はどう動くべきか。あの赤子、ハリー・ポッターをどうすべきか、言ってみろ」
服従の呪文に沈んだ私の口が、私の意志とは無関係に、しかし私の中にある知識を引き出して紡ぎ出した。
「……我が君。物語の展開を不用意に歪めることは、我々が持つ最大の武器である未来の知識を失うことを意味します。事象をコントロールしつつ、表面上は物語通りの歴史をなぞらせるべきです」
「ほう。では、私はあの赤子に敗北して消滅しろと?」
「消滅したように見せかけるのです、我が君。敗北を偽装し、ダンブルドアの目を欺き、勝利のための準備を整える期間を設けるべきです」
私は感情のない人形の声で、淡々と提案を行った。
「ゴドリックの谷への襲撃は、予定通り行ってください。ジェームズ・ポッターは殺害します。しかし……リリー・ポッターは殺してはなりません」
「穢れた血の小娘を? なぜだ」
「セブルス・スネイプを離反させないためです」
スネイプへの軽蔑と敬愛が入り混じる感情は、服従の呪文によって完全に沈黙していた。ただ純粋な駒として、私は彼を評価した。
「スネイプの忠誠の根源は、リリーへの愛にあります。彼女が死ねば、彼は確実にダンブルドアの駒となります。彼女を生かしておけば、彼は貴方様への決定的な敵対心を抱くことはありません。ジェームズを殺し、リリーの記憶を魔法で改ざんするのです」
「どのような記憶を植え付けるというのだ?」
「貴方様が赤子のハリーに死の呪いを放ち、それが跳ね返って貴方様が消滅した、という偽の真実です。そして、ハリーの額には、その証拠となる稲妻型の傷だけを刻むのです」
ヴォルデモートは目を細め、私の提案を頭の中で吟味しているようだった。
「なるほど。リリー・ポッター自身の口から、私の破滅をダンブルドアに報告させるわけか。死喰い人の闇の印は私が生きている限り薄まることはないが、誤魔化しは効く。ダンブルドアは疑うだろうが、魔法界全体は私の消滅を信じて歓喜するだろう」
「はい。そして我々は、誰も手の届かない場所へと潜伏します。物語は十年後まで大きく動きません。その間に、我が君の勝利の条件を整理し、計画を練り直すのです。現在の時点では、変数の多さから正解を導き出すことは不可能です」
ヴォルデモートは満足げに頷いた。無能な力押しを好むような三流の悪役ではない。彼は極めて理知的で、己の目的のためならば、自らの敗北すらも偽装する冷徹な戦略家としての顔を持っていた。
「よかろう。お前の提案を受け入れる。私は歴史の表舞台から姿を消し、お前と共に潜伏しよう」
彼は氷のように冷たい指先で私の頬を撫でた。
「私は理解せねばならない。私を破滅に導いたという、不可解極まりない『愛』の正体を。お前にはそれに協力してもらう。何年かかろうともな」
「御心のままに、我が君」
白濁した意識の中で、私は静かに首を垂れた。令嬢としての私と、男としての私の魂が、真っ暗な底なし沼の中で悲鳴を上げながら溶け合っていくのを感じていた。
いずれこの服従の呪文が解かれた時、私はどうなってしまうのだろうか。狂気に沈むのか、それとも自らの意志を取り戻すことができるのか。
今はただ、彼が与える抗いがたい支配の麻痺に身を委ねるしかなかった。こうして、原作知識という禁断の果実を分かち合った、私と闇の帝王の長い潜伏生活が幕を開けたのである。