「『我は宵闇の果てより来たる、終焉を編む者』」
朗読しているのは、魔法収集が趣味のエルフ。
大事そうに抱えているのは、若い頃の自分が書いた魔導書。
「返してくれ。それは若気の至りなんだ」
「でも、私、この魔法好きだよ」
失われた古代魔法。
ただし作者にとっては、今すぐ失われてほしい。
黒歴史を回収したい魔法使いと、手放す気のないフリーレンのお話。
「『我は宵闇の果てより来たる、終焉を編む者』」
隣の席から聞こえた一文で、俺はスープを吹いた。
八百年ぶりに山を下りた。
人間の町もずいぶん変わっただろうと、少し楽しみにしていた。
まさか最初に出会うのが、昔の俺だとは思わなかった。
「フリーレン様。食堂で変なものを読まないでください」
「変じゃないよ。古代魔法の専門書」
銀髪のエルフが、隣の少女に革張りの本を見せていた。
見覚えがある。
表紙の端についた焦げ跡まで。
鍋敷きにした時のやつだ。
「『黎明すら恐れる我が叡智を、ここに記す』」
「やめろ」
二人がこちらを見た。
向かいで肉を食っていた赤髪の少年も、口を止めた。
俺は咳払いした。
「……食事中に読む内容じゃないだろう」
「そうかな」
エルフは本に視線を戻した。
「『ただし師匠には見せないこと』」
「そこは消したはずだろ!」
沈黙。
エルフが、初めて少し楽しそうな顔をした。
「作者?」
何も言わずに逃げればよかった。
「……違う」
「じゃあ、何を消したはずなの?」
詰んだ。
結局、同じテーブルに座らされた。
エルフはフリーレン。少女はフェルン。少年はシュタルクと名乗った。
「それで、終焉を編む者さん」
「レオンでいい」
「本名は普通なんですね」
フェルンという少女は、真顔で言った。
俺は本を指差した。
「その本はいくらで買った」
「村を襲っていた魔物を倒した報酬」
「金で解決できないやつか……」
「大変だったんだよ。三日かかった」
三日。
俺の落書きのために。
「別の魔法を教える。それと交換してくれ」
「どんな魔法?」
食いつきが早い。
俺は指先を軽く振った。
さっきこぼしたスープがテーブルから浮き上がり、一滴残らず空の皿へ戻った。
脂の染みも消えた。
フェルンがテーブルに触れる。
「……綺麗です」
「材質を問わず汚れだけを分離できる。繊維の奥に入ったものでもいい。服にも使える」
「フリーレン様。交換しましょう」
「フェルン、判断が早いよ」
「旅をしていると必要です」
よし。
少女は話が分かる。
ところがフリーレンは、本の中ほどを開いた。
「これだね。『万象より穢れを剥奪する、白き審判』」
俺は両手で顔を覆った。
「どうしてそんな名前にしたんですか」
「若かったんだ」
「おいくつの頃ですか」
「百二十」
シュタルクが何か言いかけて、やめた。
その気遣いが痛かった。
「じゃあ、これは?」
フリーレンが次のページを開いた。
「『絶対零度の理を拒む聖域』」
「湯が冷めなくなる」
「それも教えてください」
フェルンが椅子を寄せてきた。
「魔力の消費は?」
「風呂一杯なら、朝まで維持してもほとんど減らない」
「フリーレン様。この方は優秀です」
「私は最初からそう言ってるよ」
「言ってないだろ。ずっと朗読してただろ」
「私、これ好きなんだ」
フリーレンは、指で一つの術式をなぞった。
『漆黒を纏いし王の凱旋』。
俺は窓を見た。
二階だった。飛び降りても死なない。
「これは何だ?」
シュタルクが身を乗り出す。
答える前に、フリーレンが魔法を使った。
窓は閉まっている。
風も吹いていない。
なのに俺の外套だけが、ばさりと大きく翻った。
「おお」
シュタルクが声を上げた。
外套は落ちない。
肩の後ろで、威厳に満ちた角度を保ったまま、ゆっくりとはためいている。
俺が設計した角度だった。
鏡の前で三日かけて調整した。
「……それだけですか?」
「それだけだ」
フェルンの問いに、俺は床を見ながら答えた。
「雨は防げませんか」
「防げない」
「矢は」
「普通に刺さる」
「では、何のために」
分かりきったことを聞くな。
「格好いいだろ!」
食堂の客が振り返った。
俺の外套が、王の風格を漂わせながらはためいた。
シュタルクだけが、小さく頷いた。
「返してくれ」
俺は頭を下げた。
「頼む。それは研究成果じゃない。若気の至りなんだ」
「ちゃんと使える魔法だよ」
「名前が問題なんだ」
「名前も面白いけど」
「俺は面白くない!」
フリーレンは少し考え、もう一度本を開いた。
「この外套の魔法、ヒンメルも気に入ってた」
その名前は、町に入る途中で見た。
広場の銅像。
勇者の名前だった。
「銅像の姿を決める時に使ったんだ。風が止んでも、同じ形を保てるから」
「……あの銅像か?」
「見たんだね」
町の真ん中に立っていた勇者。
剣を掲げ、背中に外套を翻していた。
いい角度だと思った。
俺が三日かけた角度だった。
「彫刻家の人も喜んでたよ。ヒンメルは途中で別のポーズに変えたがってたけど」
フリーレンは、少しだけ口元を緩めた。
俺は何も言えなくなった。
自分が忘れていた黒歴史を、知らないところで誰かが使っていた。
しかも勇者が。
最悪だ。
けど、ちょっと嬉しい。
「……じゃあ、名前だけ直させてくれ」
ようやく、そう言った。
食事が終わる頃には、新しい冊子ができていた。
『服の汚れを落とす魔法』。
『湯が冷めなくなる魔法』。
『外套をはためかせる魔法』。
余計な前書きはない。
著者名も、レオン。それだけだ。
「ほら。術式も今の書き方に直した。使いやすいはずだ」
「ありがとう」
フリーレンは冊子を受け取ると、古い本と一緒に鞄へしまった。
俺はその手を掴んだ。
「待て。交換だ」
「これは新版。あっちは旧版」
「旧版はいらないだろ」
「余白の解説がなくなってる」
「消したんだよ」
「『強敵と相対する時は、少し斜めに立つこと』とか」
「そこを消したかったんだよ!」
後ろで、ばさりと音がした。
振り返る。
シュタルクが、外套をはためかせていた。
ほんの少し、斜めに立っていた。
「……どう?」
俺は少年を見た。
少年も、俺を見た。
「右肩を、もう少し後ろへ」
「こうか?」
「顎は引け。そうだ」
見違えた。
外套の流れと、背中の斧の線が綺麗につながった。
「いいじゃないか」
「だろ?」
フェルンが、長いため息をついた。
フリーレンは俺たちを眺めながら、新しい冊子に何か書き足していた。
『著者による実技指導あり』。
俺は見なかったことにした。
三人が町を出たあと、俺は広場へ戻った。
勇者ヒンメルの銅像を、今度は正面から見る。
よくできている。
外套も、姿勢も。
ただ、惜しい。
俺は周囲に誰もいないことを確かめた。
それから指を振り、銅像の足元にごく薄い霧を流した。
陽光が差し込み、勇者の輪郭が淡く輝いた。
『黎明に選ばれし者の顕現』。
当時、外套と組み合わせるために作った魔法だ。
「……やっぱり、こっちもあった方がいいな」
「いいね」
隣でフリーレンが頷いた。
俺はゆっくり顔を向けた。
彼女は、開いた本を持っていた。
「二巻もあるんでしょ」
山に帰ろうと思った。