底辺上がりの九等官ユーリ、誤植を直しただけで帝国の黒幕にされる 作:トマスアレポ
今朝、机に二つの束が置かれた。
一つは国境騎士団の封、もう一つは勘定方の封だ。配達の書記は二つとも私の机でなければならないと言って置いていった。宛先はどちらも同じだった。
『校正溜試補、ユーリ・レン付。代筆者殿』
読み上げた。「付」という字がついている。私に付いている者、という意味だ。私の隣の席は今日も空いている。椅子の脚に埃はない。誰も座っていないのに、誰かが毎朝拭いている。入庁の日に見たあの席だ。
束を解く。騎士団の方は招聘状と雇用契約書だった。勘定の方は招聘状と勤務条件の覚書。どちらも丁寧な字でこう書いてあった。試補レンの実務を担う代筆者を相応の俸給で迎えたい。ついては本日夕刻、調印と面会を行いたい。執行刻は暮れ六つ。場所は騎士団陣屋。勘定の方は面会だけでも先に、と書き添えてあった。
ベルンが綴じかけの束の向こうから言った。
「とうとう来たか。引き抜きだ」
「宛先の人がいません」
「いることになっている。お前の仕事は全部あの席の者がやっている。相場だよ」
相場。その言葉は入庁の日にも聞いた。誰も疑っていないものは直しようがない。申告書に書けるのは文書と文書の食い違いだけだ。
だが今朝の二束は文書だった。文書なら比べられる。
二通を並べて読み比べた。
騎士団の契約書は代筆者をこう特定していた。『御家人中間登録、第四百十二号。職名、代筆書記』。登録番号で人を指す書き方だ。間違いの入り込む余地のない書き方だった。
勘定方の覚書も同じ書き方をしていた。ただし番号が違った。『中間登録、第四百十三号』。
四百十二と、四百十三。一つずれている。二つの文書は、同じはずの人間を違う番号で呼んでいた。
登録の控えは黒書院の台帳溜にある。採用された家人は全員そこに載る。私も載っている。試補、ユーリ・レン。索引の札を引く。四百十二号。
出てきたのは写字溜の書記の名だった。三年前に退職している。朱の注記がある。在職中は写字溜一筋で、校正溜に来た記録はない。
四百十三号を引く。今度は現職の名だった。馬預方の厩務掛。馬の世話をする男だ。父と同じ馬預方だが、厩の方の男だ。字の読み書きはするだろう。だが今朝も厩にいるはずで、条約の写しなど読んだ覚えはない。
台帳溜の書記にもその場で聞いた。
「代筆書記という職名は登録にありますか」
「ないね。職名表にない字は載せようがない」
配置表も引いた。私の隣の補助席の欄には名がなかった。『欠員。勘定措置のため補充見送り』。登録の上でも配置の上でも、私の隣には誰もいない。
もう一つ確かめた。勘定方の覚書は招聘の根拠として監査要覧を引いていた。『校正の訂正実績は監査要覧の通り、代筆者によるものと認む』。原本を引く。訂正の記録は行ごとに官吏手形証跡の番号が残り、私の行に並ぶ番号は全部同じだった。私の木の官吏手形の番号だ。要覧と原本も合っていなかった。
思い込みは直せない。だが今朝は紙と紙が三か所で合っていなかった。二通の招聘文書同士。招聘文書と家人登録。そして要覧と監査記録だ。
文書の束を持ってヘルムの机へ行った。
「溜頭。申告ではありません。まだ相談です」
「言え」
「代筆者はいない、とは申しません。それは私の仕事の外のことです。申せるのは違いだけです」
私は三つの食い違いを順に置いた。番号が文書同士で違うこと。その番号の持ち主は二人とも別の職の者で、私の補助席は欠員であること。要覧の言う作業者と、監査記録の官吏手形証跡が合わないこと。
「執行刻は」
「暮れ六つ、騎士団陣屋で調印です。調印されれば登録のない職と、別人である番号の者が移籍したことになります」
「四百十三号の男は厩から騎士団へ行くのか」
「紙の上ではそうです」
ヘルムはしばらく天井を見た。それから言った。
「昼に両方の使いが来る。受け取りに来るそうだ」
「受け取る相手がいません」
「その場で言うな。……いや、言え。言ってどうなるか見ていろ」
昼、使いは二人同時に来た。
騎士団の方は人事掛の騎士だった。若く礼儀正しい。勘定の方は年配の書記官で、条件の覚書をもう一通、余分に持ってきていた。二人は溜の入口で互いを見て、少しだけ空気が変わった。
「代筆者殿にご挨拶を」
「席はこちらです」
私は空の椅子を示した。二人は椅子を見た。誰も座っていない椅子を丁寧に見た。
「お留守ですか」
「留守ではありません。欠員です。配置表では最初から誰もいません」
「……交渉の席ではそうおっしゃる」
騎士は穏やかに笑った。
お嬢さん。窓口。私はユーリ・レン本人としてここに立っているのだが、二人の中では私は本人の代理でしかないらしい。本人がいないと言うほど、二人は値踏みの顔になっていった。否定はこの場では交渉の言葉に翻訳される。私は言うのをやめた。
ヘルムが顔を上げずに言った。
「登録を確認されたい。台帳溜は廊下の先だ」
それだけだった。手続きの声はいつもこういう温度だ。二人は少し戸惑った顔をして、それでも丁寧に頭を下げて出ていった。調印は暮れ六つ。相手は来ると信じて帰っていった。
――いない男が、今日はずいぶん忙しいな。
声がした気がした。私は答えなかった。
申告は夕方のうちに書いた。
壁の刻漏を見た。水は暮れ六つに向けて落ち続けていた。
理由の欄には食い違いだけを書いた。招聘文書二通の宛先特定の不一致。家人登録控えとの不一致。監査要覧と監査記録原本の官吏手形証跡の不一致。代筆者がいるかいないかは一行も書かなかった。それは紙の外のことで、私の申告の届く範囲ではなかった。
壁の刻漏を見た。水は暮れ六つに向けて落ち続けていた。
申告が受理されるのが執行刻より後になれば、紙は止まらない。今朝の紙は暮れ六つに別人と空席を騎士団へ連れていく。明日の束を待っている暇はなかった。
申告書に自分の官吏手形を捺し、朱を入れる。ヘルムの副署の官吏手形が隣に重なった。
「証跡は残るぞ」
「はい」
「止めるたび、お前の名が残る」
「はい」
照合は二日で済んだ。
台帳溜の登録控えが正だった。四百十二号も四百十三号も代筆者ではなかった。四百十三号の厩務掛は台帳溜の書記に呼ばれ、騎士団に招聘されたことになっていると初めて聞いたという。招聘は二通とも宛先の特定が登録と一致しないため差し戻された。調印は行われなかった。私の隣の席は今日も空いている。
それで終わるはずだった。
四日後、勘定方から回る回覧の写しが私の机に来た。
『校正試補レン付代筆者について。騎士団・勘定双方の招聘は、窓口の意向により保留となった。提示条件への回答はいまだなく、当該代筆者の市場価格は上昇を続けているものと見られる。窓口係の令嬢、目下値踏みの最中と推察される。次席の提示額については別途協議されたい』
ベルンが言った。
「値が上がったな、お前のいない男」
「訂正しただけです。番号が合っていなかった」
「勘定の中では値踏みになっている」
私は回覧の写しを綴じた。申告書には食い違いしか書いていない。だが勘定の物語の中では、本人がいないと言うほど値が上がっていた。
夕方、新しい束が溜に届いた。相続登録関係の束だという。アーレン子爵家、当主継承の登録。運んできた書記が束の札を見せた。新当主の名がそこにあった。レニス・フォン・アーレン。若い字だった。
机の隣の席は空いている。
束の紐は、まだ解いていない。