君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
救急車の扉が閉まる音を、ぼくは一生忘れないと思う。
金属が噛み合う、乾いた音だった。
それだけで、リュカが手の届かないところへ連れていかれてしまったような気がした。
ほんの少し前まで、あいつは目の前にいた。何度呼んでも返事をしなかったけれど、肩に触れることはできた。顔を覗き込むことも、呼吸を確かめることもできた。
でも今は、白い車の中にいる。
閉じた扉の向こう側で、知らない人たちが何かをしている。
助けるためだ。
それは分かっている。
分かっているのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
「……カナリィ!」
名前を呼ばれて振り返ると、おじいちゃんが駆け寄ってきた。
いつもの作業着姿だった。急いで来たらしく、額には汗が浮かんでいる。ぼくの後ろにいるゼラオラとヤブクロンを見て、それから救急車へ目を向けた。
「リュカは?」
「……中」
「意識は」
首を横に振った。
声にしようとしたけれど、喉がうまく動かなかった。
おじいちゃんは一瞬、表情を強張らせた。
「……そうか」
それだけ言うと、救急隊員のところへ向かった。
何かを説明している。
勤務先の責任者であること。リュカが今朝、出勤してこなかったこと。昨日までは仕事に来ていたが、体調がひどく悪そうだったこと。
ぼくも説明しなければと思った。
あいつがどれくらい眠っていなかったか。
何を食べていたか。
いつから痩せ始めたのか。
全部、伝えなければならない。
けれど。
ぼくは、何一つ正確に知らなかった。
毎晩ZAロワイヤルへ出ていたことは知っている。でも、何時に帰っていたのかは知らない。
昼休みにパンを食べている姿は見ていた。でも、それ以外に何を食べていたのかは知らない。
顔色が悪かったことは覚えている。でも、いつからあんなに悪くなったのかと聞かれたら答えられない。
何か月も見ていた。
毎日のように顔を合わせていた。
それなのに。
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
ゼラオラがぼくの手を握った。
顔を上げる。
あいつも救急車を見ていた。
いつもなら、リュカのそばから絶対に離れないポケモンだ。工務店でも、外へ出るときでも、あいつは必ずリュカのことを気にしていた。
そのゼラオラが今、ぼくの隣にいる。
ぼくを信じて、助けを求めに来た。
なのに、何もできない。
「……ごめんね」
思わず呟いた。
ゼラオラの耳が動く。
「ぼく、もっと何かできると思ってた……」
誰よりも強いトレーナーになりたかった。
配信者としても、誰にも負けたくなかった。
何か問題が起きれば、自分の力で何とかできる人間でいたかった。
けれど、今は違う。
たった一人の男が目を覚まさないだけで、何も考えられなくなっている。
そのとき、救急隊員がこちらへ声をかけてきた。
搬送先の病院が決まったらしい。
ぼくは顔を上げた。
「……ぼくも、行きます」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「……あいつのところへ、行かせてください」
♦
救急車が走り去ったあと、ぼくはおじいちゃんの車に乗った。
ゼラオラとヤブクロンも一緒だった。
搬送中の救急車に同行できる人数や、ポケモンを連れていけるかどうかには制約があった。だから、ぼくたちは別の車で病院へ向かうことになった。
助手席に座り、膝の上で端末を握りしめる。
何度も画面を点けた。
何の通知も来ていない。
当然だった。
リュカが意識を失っているのに、あいつから連絡が来るはずがない。
それでも、何度も画面を確かめた。
「……カナリィ」
運転席から声がした。
「お前も少し落ち着け」
「……落ち着いてる」
「そうは見えんぞ」
返事ができなかった。
窓の外を流れる街並みが、ひどく遠く感じられた。
見慣れた店。
何度も歩いた通り。
大勢の人が、いつもどおりの朝を過ごしている。
ぼくだって、数時間前までは普通の朝を迎えるつもりだった。
夜には公式戦がある。
あいつに勝つために準備した作戦を、もう一度確認しよう。
勝ってやる。
負けたら、絶対に悔しがらせてやる。
そんなことばかり考えていた。
それが今では、試合のことなんて頭から消えている。
「……おじいちゃん」
「何だ」
「リュカって、いつからあんなだったの」
おじいちゃんはしばらく黙っていた。
「……少し前から、疲れた顔はしてたな」
「少し前って、いつ?」
「はっきりとは言えん。ただ、ここひと月ほどは特に酷かった」
ひと月。
そんなに長く。
「何度も休めと言った。病院にも行けとな。現場の仕事は外したし、最近は軽い作業しか任せてねえ」
「……なのに?」
「あいつは、まだ働けるって言うんだよ」
胸が痛んだ。
聞き覚えのある言葉だった。
大丈夫。
食ってる。
寝てる。
まだ働ける。
何度も聞いた。
そのたびに、ぼくは腹を立てた。
嘘をつくなと怒った。
いい加減にしろと文句を言った。
でも。
「……どうして、もっと休ませなかったの」
気づけば、そんなことを言っていた。
おじいちゃんの手が、ハンドルを握り直す。
「……休ませたつもりだった」
「でも、あいつ、毎晩戦ってたんだよ」
「ああ」
「夜中ずっと走り回って、朝になったら仕事して……そんなの、無理に決まってるじゃん!」
声が大きくなった。
後部座席でヤブクロンがびくりと震える。
ゼラオラが、小さな身体を守るように手を添えた。
ぼくは唇を噛んだ。
「……ごめん」
おじいちゃんは怒らなかった。
「お前の言うとおりだ」
静かな声だった。
「俺にも、もっとできたことはあったかもしれん」
「……」
「だが、あいつが何を抱えてるか、俺たちには分からなかった。無理に聞き出すこともできん。それでも、体調が悪いのは見えてたんだ」
おじいちゃんは前を向いたまま続けた。
「だからこそ、今日はちゃんと医者に診てもらう。仕事のことは後だ」
ぼくは窓の外へ目を向けた。
責めたかったわけじゃない。
おじいちゃんが心配していたことは知っている。
何度も仕事を軽くしていたことも、病院へ行けと言っていたことも。
それでも、誰かを責めなければ怖くて仕方なかった。
そうしている間だけは、目の前で起きていることから逃げられる気がした。
でも、逃げたところで何も変わらない。
あいつは、まだ目を覚まさない。
♦
病院へ着くと、ぼくたちは救急外来の受付へ向かった。
白い壁。
明るい照明。
消毒液の匂い。
廊下を行き交う医療スタッフの足音。
それらが全部、妙にはっきり感じられた。
ぼくは病院が嫌いというわけではなかった。
ただ、こんな気持ちで来たことはなかった。
誰かが怪我をしたときも、体調を崩したときも、医者に診てもらえばよくなるものだと思っていた。
薬をもらう。
治療を受ける。
休む。
そうすれば、いつか元気になる。
その程度の認識しかなかった。
けれど、受付でリュカの名前を告げたとき、職員の表情が変わった。
「現在、医師が診察と必要な処置を行っています」
それだけだった。
「……意識は?」
ぼくが聞くと、職員は一度、言葉を選ぶように口を閉じた。
「詳しい状態については、医師から確認のうえご案内します。少しお待ちください」
少し。
少しって、どれくらい。
何分。
十分。
一時間。
その間に、何かあったらどうするの。
聞きたいことがいくつもあったのに、声にできなかった。
おじいちゃんが受付で勤務先の情報を伝え、必要な連絡について相談していた。
ゼラオラとヤブクロンについても、病院の決まりを確認した。二匹は一般の診療区域へ勝手に入れないため、許可された待機場所で一緒に待つことになった。
ゼラオラは最初、リュカのいる方向へ行こうとした。
それを、ぼくが止めた。
「……今は、お医者さんに任せよう」
ゼラオラがこちらを見る。
「ぼくも、会いたいよ」
声が震えた。
「でも、今は邪魔しちゃ駄目なんだって」
あいつはしばらく動かなかった。
やがて、小さく頷いた。
ヤブクロンもゼラオラのそばへ座る。
二匹とも、いつもの元気がなかった。
ぼくは近くの椅子へ腰を下ろした。
膝の上で、両手を握る。
指先が震えていた。
待つしかない。
今は、それしかできなかった。
♦
時計の針が進む音が、耳についた。
待合室には、ほかにも人がいた。
腕を押さえて座る男の人。
小さな子供を抱えた母親。
疲れた顔で壁にもたれている女性。
それぞれに事情があるのだろう。
誰かが呼ばれれば立ち上がり、別の誰かが新しく入ってくる。
病院は、ぼくたちのためだけに動いているわけじゃない。
当たり前のことだった。
それなのに、その当たり前がひどく残酷に思えた。
どうして、こんなに普通に時間が進んでいるの。
どうして、誰も急いでくれないの。
リュカが倒れているのに。
あいつが目を覚まさないのに。
分かっている。
医師たちは、今も必死に対応してくれている。
ここで誰かを責めたところで、何も変わらない。
でも、そうでもしなければ、怖くて仕方なかった。
「……ねえ」
ぼくは隣のゼラオラへ声をかけた。
あいつは顔を上げた。
「リュカって、家ではどんな感じなの?」
ゼラオラが少し首を傾げる。
「……ちゃんと、ご飯食べてた?」
小さな沈黙。
それから、ゆっくり首を横に振った。
心臓が沈んだ。
「……寝てた?」
今度も、首を横に振る。
「……そっか」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
知っていた。
分かっていた。
だから何度も聞いた。
ちゃんと食べてるのか。
ちゃんと寝てるのか。
でも、あいつはいつも「大丈夫」と答えた。
ぼくは、その返事が嘘だと分かっていた。
分かっていたのに。
「……ごめんね」
何度目かの謝罪だった。
ゼラオラが、ぼくの手へ触れた。
その温かさが、余計に苦しかった。
あいつは言葉を話せない。
リュカがどんなに無理をしても、止めるためにできることは限られている。夜の街へ行くなと伝えても、リュカが行くと決めれば、最後にはついていくしかない。
でも、ぼくは違う。
言葉を話せる。
怒ることもできる。
手を引いて、休ませることだってできたかもしれない。
それなのに。
結局、何も変えられなかった。
そんな考えが、頭から離れなかった。
♦
医師から説明を受けられたのは、さらに時間が経ってからだった。
名前を呼ばれた瞬間、身体が跳ねた。
おじいちゃんと一緒に立ち上がる。
案内された部屋は、小さかった。
机と椅子があり、壁には医療に関する掲示が貼られている。医師は白衣を着ていて、手元に資料を置いていた。
ぼくたちが座ると、医師はゆっくり口を開いた。
「まず、現在も必要な治療と検査を続けています」
胸が締めつけられた。
「……助かるんですか」
気づけば、聞いていた。
おじいちゃんがこちらを見た。
けれど、止められなかった。
「……リュカ、助かるんですか」
医師は、すぐに答えなかった。
そのわずかな沈黙が、ひどく長く感じられた。
「現時点で、今後の経過を断言することはできません。ただ、呼吸や循環の状態を確認しながら、治療を進めています」
ぼくは両手を握りしめた。
「……何が、悪いんですか」
医師は、状況を一つずつ説明し始めた。
長い期間、十分な栄養を取れていなかったと考えられること。
水分も不足していたこと。
極端な睡眠不足と過労が重なり、身体が非常に衰弱していること。
血液検査などでも、栄養状態や脱水に関係する異常が確認されていること。
今後も身体の機能に問題が出ていないか、慎重に調べる必要があること。
言葉は理解できた。
でも、意味を受け止められなかった。
「……栄養、失調?」
自分の声が、知らない人のものみたいに聞こえた。
「はい。詳細については引き続き評価が必要ですが、かなり深刻な低栄養の状態です」
「……そんな」
あいつは、毎日働いていた。
重いものを持ち、書類を整理し、夜にはポケモンバトルをしていた。
ゼラオラと一緒に走り回っていた。
あんなに強かった。
誰よりも強かった。
それなのに。
「……ご飯、食べてなかったってことですか」
「必要な量を、長期間十分に取れていなかった可能性が高いです」
息が詰まった。
パン。
いつもの安いパン。
それしか食べていない日があったのだろうか。
いや、あいつは言っていた。
ちゃんと食ってる、と。
普通に食べてる、と。
あの言葉が、何度も頭の中で響いた。
医師は続けた。
「こうした状態では、単に食事を増やせばすぐに回復するというわけではありません。身体の状態を確かめながら、水分や栄養を慎重に補っていく必要があります」
「……どのくらい、悪いんですか」
おじいちゃんが尋ねた。
医師は少しだけ表情を引き締めた。
「長期間にわたって、かなり無理をされていたようです。現在の状態を見る限り……」
そこで言葉を切り、静かに続けた。
「今まで倒れなかったのが不思議なほどです」
耳の奥で、何かが切れた気がした。
今まで。
倒れなかったのが。
不思議。
言葉の一つひとつが、ゆっくりと胸へ沈んでいく。
あいつは、昨日まで働いていた。
昨日の夕方、ぼくと話した。
明日の試合に来ると言った。
そのときにはもう、いつ倒れてもおかしくないほど身体が弱っていたのだ。
なのに。
あいつは、いつもどおりの顔をしていた。
『……問題ない』
そう言っていた。
問題なんて、山ほどあったのに。
「……っ」
息ができなくなった。
口を開いても、空気がうまく入ってこない。
視界が滲む。
ぼくは俯いた。
泣くつもりなんてなかった。
ここで泣いたところで、何も変わらない。
医師の説明をちゃんと聞かなければならない。
何が必要なのか、何をすればいいのか、聞いておかなければならない。
それなのに。
涙が、勝手に落ちた。
「……ごめ、なさ……」
誰に謝っているのか分からなかった。
医師は何も責めなかった。
おじいちゃんが、そっと背中へ手を置いてくれた。
その温かさに触れた瞬間、もう駄目だった。
ぼくは両手で顔を覆った。
声を殺そうとした。
けれど、喉の奥から嗚咽が漏れた。
あんなに強かったのに。
あんなに普通に歩いていたのに。
そんな身体で。
そんな身体のまま。
毎日、働いていたなんて。
知らなかった。
ぼくは、何も知らなかった。
♦
説明は、それで終わりではなかった。
医師は、リュカの意識が十分に戻っていないこと、脱水や低栄養による影響を慎重に調べていること、しばらく入院して治療を続ける必要があることを伝えた。
心臓や腎臓などへの影響についても確認しているという。
身体の状態が悪いときには、治療そのものにも注意が必要になるらしい。
難しい言葉がいくつも出てきた。
そのたびに、おじいちゃんが一つずつ質問した。
ぼくは、隣で聞いていることしかできなかった。
分かったことは、ただ一つだった。
リュカは、ひどく弱っている。
今すぐ起こして、いつものように帰れる状態ではない。
それだけだった。
「……本人は、どうしてこんな状態になるまで働いていたんでしょうか」
おじいちゃんが低い声で尋ねた。
医師は首を横に振った。
「それは、本人から詳しく話を聞く必要があります。目を覚ましてから、生活状況も含めて確認していきます」
当然だった。
ぼくたちは、知らない。
リュカが何のために働き続けていたのか。
どうして金を稼いでも、自分の生活に使わなかったのか。
どうして、あそこまで自分を追い詰めたのか。
誰も、知らなかった。
おじいちゃんが、勤務先として必要な協力をすると伝える。
医師はそれに頷き、家族への連絡や今後の説明について病院側で調整すると話した。
ぼくにも、発見時の状況を教えてくれたことへの礼が伝えられた。
けれど、詳しい医療情報については家族と本人の意思を確認しながら扱う必要があるという。
それも当然だった。
ぼくは、家族じゃない。
恋人でもない。
リュカの親しい友達だと、胸を張って言えるかどうかも怪しかった。
工務店へ顔を出しては、あいつに文句を言っていただけの女。
ただ、それだけだ。
それなのに、どうして今、こんな場所に座っているのだろう。
「……ありがとうございました」
何とか声を絞り出した。
医師が静かに頷く。
説明室を出たあと、ぼくは廊下の椅子へ座り込んだ。
立っている力が、残っていなかった。
♦
おじいちゃんは、その場で工務店へ連絡を入れた。
リュカがしばらく入院すること。
勤務の調整が必要なこと。
急ぎの仕事は、ほかの人間で分担すること。
必要な事務手続きを進めること。
ぼくは隣で聞いていた。
『リュカは、どうなんですか』
電話の向こうから、誰かの声が漏れた。
おじいちゃんは少し黙ったあと、低く答えた。
「……今は治療中だ。詳しいことは、まだ分からん」
その声が、ひどく疲れて聞こえた。
通話を終えると、おじいちゃんはしばらく端末を見つめていた。
「……俺も、甘かったな」
小さな呟きだった。
「……おじいちゃん」
「働くのが好きな奴だと思ってた。事情があるにしても、少し休ませりゃ自分で何とかするだろうってな」
ぼくは何も言えなかった。
「でも、あいつは……」
そこまで言って、おじいちゃんは首を振った。
「……いや。今は余計なことを考えても仕方ねえ。まずは治療だ」
そう言って立ち上がる。
「緊急連絡先の確認も、病院と一緒に進める。お前は少し休んでろ」
「……うん」
返事をした。
けれど、休めるはずがなかった。
椅子へ座って目を閉じると、あの部屋が浮かぶ。
六畳。
何もない部屋。
寝袋。
ゼラオラの布団。
開けかけのパン。
その床で、目を閉じていたリュカ。
あの光景が、何度も繰り返される。
目を開ける。
病院の白い壁が見える。
もう一度閉じる。
また、あの部屋が浮かぶ。
逃げられなかった。
♦
家族への連絡が取れたと聞いたのは、それから少し経ってからだった。
病院側が、緊急連絡先として登録されていた母親へ状況を伝えたらしい。
おじいちゃんも、勤務先として必要な範囲で連絡を取っていた。
ぼくは、少し離れた椅子からその様子を見ていた。
「……クレールさん、ですね」
おじいちゃんの声が聞こえた。
リュカの母親。
名前は、クレールというらしい。
それを知ったとき、胸の奥が妙に締めつけられた。
あいつには、母親がいる。
当たり前のことだ。
以前、電話で話しているところを見たことがあった。いつもは無愛想なあいつが、そのときだけ驚くほど優しい声になっていた。
『僕は大丈夫だよ』
確か、そんなふうに話していた。
ぼくに向ける言葉とは、まるで違った。
それを聞いたときは、腹が立った。
何だよ、普通に優しく話せるんじゃん。
ぼくにはあんなに感じ悪いくせに。
そんなことを思った。
今は、その声を思い出すだけで苦しかった。
母親にも、あいつは大丈夫だと言っていた。
あんな身体で。
あんな生活をしながら。
大丈夫だと。
「……ええ。今は病院で処置を受けています」
おじいちゃんは静かに説明していた。
電話の向こうの声は、ここまでは聞こえない。
何を話しているのか、分からなかった。
ただ、しばらくして、おじいちゃんが深く頭を下げた。
「……申し訳ありません。こちらでも、もっと注意しておくべきでした」
その言葉を聞いて、胸が痛んだ。
違う。
おじいちゃんだけが悪いんじゃない。
ぼくだって、何度も見ていた。
リュカが痩せていくところも。
顔色が悪くなっていくところも。
返事が遅くなっていくところも。
全部、見ていた。
それなのに、止められなかった。
電話が終わるまで、ぼくは動けなかった。
おじいちゃんが戻ってきたとき、そっと尋ねた。
「……お母さん、何て?」
「……心配されてたよ。そりゃそうだろうな」
「……来るの?」
「病院と相談してる。遠方にお住まいらしいし、移動のこともあるからな」
遠方。
そうだったんだ。
リュカは、ミアレの出身じゃなかったんだ。
そんなことすら、知らなかった。
「……あいつ、毎日お母さんに電話してたんだよね」
おじいちゃんが、こちらを見る。
「そうなのか?」
「……何度か、見たことある」
声が震えた。
「すっごく、優しい声で話してた」
あのとき、ぼくは何を思っただろう。
自分には冷たいくせに、なんて。
そんなくだらないことを考えていた。
電話の向こうにいる人が、あいつにとってどれほど大切なのかも知らずに。
ぼくは両手を握った。
「……おじいちゃん」
「何だ」
「リュカって、お母さんにお金送ってたんだよね」
おじいちゃんは少し驚いた顔をした。
「……知ってたのか」
「前に、電話で聞こえたの」
何度も送ってくれた。
こんなに多くて大丈夫なの。
そんな声だった。
ぼくは、そのとき初めて、あいつが誰かに仕送りしていることを知った。
夜通しZAロワイヤルへ出ているのも、金が必要だからなのだろうか。
でも、それだけでは説明できない。
なぜ、自分が倒れるまで。
どうして、あの部屋で。
何を、そんなに恐れていたの。
聞きたいことばかりが増えていく。
けれど。
「……今は、何も聞けないね」
小さく呟いた。
おじいちゃんは、黙って頷いた。
♦
待合室へ戻ると、ゼラオラがすぐに立ち上がった。
ぼくの顔を見て、何かを尋ねるように鳴く。
「……まだ、目を覚ましてない」
正直に答えた。
ゼラオラの耳が伏せられる。
「でも、お医者さんがちゃんと診てくれてる。今、治療してるって」
あいつは黙っていた。
ヤブクロンが近づき、ぼくの足元で小さく身体を丸める。
普段なら、人間に近づくのを怖がる子だ。
リュカに初めて会った頃だって、すぐに逃げようとしていた。
それなのに今は、ぼくの近くにいる。
ゼラオラも、隣へ座った。
ぼくは二匹を見下ろした。
この子たちは、あいつの家族なんだ。
ただの手持ちポケモンじゃない。
リュカがどれほど大切にしていたか、知っている。
ヤブクロンを初めて工務店へ連れてきた日。
あいつは、あの小さなポケモンへ驚くほど優しく話しかけていた。
『……かわいいだろ』
そう言って、少しだけ笑った。
ぼくは、その顔を覚えている。
自分には見せたことのない表情だった。
あのとき、少しだけ羨ましかった。
でも。
今になって思う。
あいつは、誰かを大切にすることはできるんだ。
ゼラオラにも、ヤブクロンにも、きっと母親にも。
自分の持っているものを、全部渡してしまうくらい。
それなのに。
どうして、自分だけは大切にできないんだろう。
「……ねえ、ゼラオラ」
ぼくはしゃがんだ。
「リュカってさ、昔からあんななの?」
ゼラオラは、しばらく考えるように俯いた。
それから、小さく首を横に振った。
胸が締めつけられた。
「……そっか」
昔は、違ったんだ。
少なくとも、今みたいな暮らしをしていたわけじゃないんだ。
何があったのかは、分からない。
誰があいつをあんなふうにしたのかも、知らない。
けれど。
きっと、何かがあった。
そう思った。
ぼくはゼラオラの頭へ、そっと手を伸ばした。
「……リュカが起きたら、いっぱい怒ってやろうね」
ゼラオラが顔を上げる。
「こんなになるまで無理するなんて、馬鹿だって」
小さく笑おうとした。
うまくできなかった。
「……でも、まずは起きてもらわないとね」
ゼラオラが静かに頷いた。
ヤブクロンも、小さく鳴いた。
その声を聞いて、また涙が出そうになった。
♦
午後になっても、リュカの意識がはっきり戻ったという知らせはなかった。
必要な検査と治療が続いている。
詳しい経過については、家族への説明を含めて病院側で対応しているらしい。
ぼくにできることは、もう何もなかった。
いや。
最初から、ほとんど何もできていなかった。
救急車を呼んだ。
ゼラオラとヤブクロンを連れてきた。
状況を説明した。
それだけだ。
でも、その「それだけ」のことをするのに、ぼくは何度も泣きそうになった。
自分はもっと強い人間だと思っていた。
もっと冷静で、もっと賢くて、もっと何でもできると。
配信では、いつも自信満々に振る舞っている。
負けたって、次に勝てばいい。
失敗したって、やり直せばいい。
そんなふうに考えてきた。
でも。
人が死ぬかもしれないという恐怖は、そんな簡単に割り切れるものじゃなかった。
勝てば終わりじゃない。
次がある保証もない。
今ここで失ってしまったら、取り戻せないものがある。
そのことを、ぼくは初めて思い知った。
端末が震えた。
画面を見る。
ZAロワイヤルの公式通知だった。
『F→Eランクアップ戦について』
今日の対戦は実施できないため、延期手続きが進められるという連絡だった。
ぼくは、その文字を見つめた。
Fランク。
Eランク。
昨日まで、あれほど大切だったもの。
勝ちたいと思っていた。
あいつに負けたままで終わりたくなかった。
今度こそ、ぼくの強さを見せつけてやりたかった。
でも。
今は、何の意味もなかった。
勝負なんて、いつでもできる。
あいつが目を覚まして。
ちゃんと食べて。
ちゃんと眠って。
また、あの無愛想な顔でぼくを見てくれるなら。
それでいい。
「……ほんっと、馬鹿」
小さく呟いた。
画面が滲んだ。
「……勝負なんか、どうでもいいからさ」
涙が、一粒落ちた。
「……起きてよ」
返事はなかった。
♦
夕方、おじいちゃんが工務店へ一度戻ることになった。
仕事の調整や必要な連絡があるらしい。
ぼくにも帰って休むように言った。
「……嫌」
即答した。
おじいちゃんが、少し困ったような顔をする。
「カナリィ。お前も昨日からろくに寝てねえだろ」
「……大丈夫」
「その言葉は、今日は聞きたくねえな」
胸が痛んだ。
リュカも、何度も同じことを言っていた。
大丈夫。
まだ働ける。
問題ない。
その言葉を、ぼくは信じなかった。
なのに、今、自分が同じことを言っている。
「……でも、帰りたくない」
声が小さくなった。
「リュカが……起きたとき、誰もいなかったら……」
そこまで言って、口を閉じた。
何を言っているんだろう。
家族でも、恋人でもない。
あいつが目を覚ましたところで、ぼくがいれば迷惑そうな顔をするかもしれない。
勝手に心配するなと言われるかもしれない。
お前には関係ないと、突き放されるかもしれない。
それでも。
「……いたいの」
顔を上げられなかった。
「……ここに、いたい」
おじいちゃんは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷いた。
「……分かった。ただし、飯は食え。眠れるときは休め」
「……うん」
「お前まで倒れたら、あいつが目を覚ましたとき困るだろ」
その言葉に、胸が詰まった。
リュカが、困る。
ぼくが倒れたら。
あいつは、心配するだろうか。
そんなことを考えてしまった自分が、少し嫌だった。
今は、そんなことを考えている場合じゃないのに。
それでも。
あいつに心配してもらいたいと思う自分が、どこかにいた。
最低だ。
こんなときに、何を考えているんだろう。
♦
夜が近づいても、病院の中は明るかった。
窓の外では、ミアレの街に少しずつ灯りがともっていく。
いつもなら、配信の準備を始める時間だった。
ゲーム機を起動し、音声の確認をし、視聴者へ今日の予定を告知する。
そんな日常が、今は遠い。
ぼくは椅子に座ったまま、手元の端末を見つめていた。
そこには、リュカとの短いやり取りが残っている。
『明日の資料、事務所に置いてあるから』
『分かった』
『ちゃんと確認しなよ』
『ああ』
それだけ。
何の面白みもない会話。
あいつらしい、短い返事。
いつもなら、もっと何か言えないのかと腹を立てるところだった。
でも今は、その二文字がひどく恋しかった。
分かった。
ああ。
何だよ。
関係ない。
そんな言葉でもいい。
何でもいい。
もう一度、聞かせてほしい。
ぼくは端末を閉じた。
ゼラオラが隣で静かに座っている。
ヤブクロンは、その身体に寄り添うように丸まっていた。
ぼくは二匹を見つめた。
「……ねえ」
声が震えた。
「リュカ、起きるよね」
ゼラオラが顔を上げる。
答えられるはずがなかった。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……ちゃんと、帰ってくるよね」
ゼラオラは、ぼくの手へ前脚を重ねた。
温かかった。
ぼくは、その手を握り返した。
どれくらいそうしていただろう。
ふと、医師の言葉が蘇った。
『今まで倒れなかったのが不思議なほどです』
何度も頭の中で繰り返される。
あいつは、そんな身体で働いていた。
そんな身体で戦っていた。
それでも、まだ大丈夫だと言っていた。
ぼくは、そのたびに怒った。
馬鹿だと言った。
休めと言った。
でも、あいつが帰る場所を見たことはなかった。
何もない六畳の部屋。
寝袋。
ゼラオラの布団。
開けかけのパン。
あの部屋で、あいつは毎晩眠ろうとしていた。
誰にも頼らず。
誰にも何も言わず。
何かを守ろうとして、ただ働き続けていた。
そして、ついに起き上がれなくなった。
「……何で」
小さく声が漏れた。
「……何で、あんなになるまで……」
涙が、止まらなかった。
あいつが何を抱えているのか、ぼくには分からない。
知る権利があるとも思わない。
でも。
もう一度、あの部屋へ帰らせていいのだろうか。
目を覚ましたとして。
身体がよくなったとして。
また同じ寝袋に横たわって。
また同じパンを食べて。
また夜になれば、街へ出ていく。
そんな生活へ戻ったら。
今度こそ、取り返しがつかなくなるんじゃないか。
そんな考えが浮かんだ。
ぼくは唇を噛んだ。
何かしなければ。
何かを変えなければ。
あいつが自分を大切にできないなら。
誰かが、大切にしてやらなければ。
そう思った。
その考えが、どれほど危ういものなのか。
このときのぼくは、まだ知らなかった。
♦
夜になって、病院の職員から短い案内があった。
リュカは引き続き治療を受けている。
身体の状態を慎重に見ながら、経過を確認しているという。
まだ、十分に意識が戻ったという知らせはない。
それでも、治療は続いている。
ぼくは何度も頷いた。
「……ありがとうございます」
頭を下げる。
職員が離れたあと、ぼくはしばらく立ち尽くしていた。
助かるかどうか、まだ分からない。
その事実だけが、重く残っていた。
ぼくは待合室の椅子へ戻った。
ゼラオラが、こちらを見上げる。
「……まだ、起きてないって」
小さく伝えた。
あいつは静かに頷いた。
ヤブクロンが不安そうに鳴く。
ぼくは二匹のそばへ座り、そっと手を伸ばした。
「……大丈夫」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
リュカと同じ言葉だった。
あいつは、ずっと大丈夫と言っていた。
大丈夫じゃなかったのに。
ぼくまで、同じことを言っている。
「……ごめん」
言い直した。
「……大丈夫かどうか、ぼくにも分かんない」
ゼラオラが顔を上げる。
「でも、ここにいるから」
声が震えた。
「……ぼく、ここにいるから」
ゼラオラは、ゆっくりとぼくの手を握った。
ヤブクロンも、小さな身体を寄せてきた。
三人で、静かに座っていた。
窓の外では、ミアレの夜が始まっている。
どこかでバトルゾーンが形成され、今夜も大勢のトレーナーたちが戦っているのだろう。
勝利を重ね、賞金メダルを集め、夜明けの換金を待っている。
リュカも、昨日まではその中にいた。
昼間働いて。
夜は走り回って。
自分の身体を削って。
何かを守ろうとしていた。
でも今夜、あいつは戦わない。
戦えない。
目を覚ますことさえできない。
ぼくは窓の向こうを見つめた。
あの男は、どれだけの夜を売ってきたのだろう。
何を買うために。
誰のために。
自分の命を、いくらで差し出してきたのだろう。
その答えを、ぼくはまだ知らない。
ただ、一つだけ思った。
どれだけ金を積まれたって。
どれだけ強いポケモンをもらえたって。
どんな願いを叶えてもらえると言われたって。
今、ぼくが欲しいものは、一つしかない。
あいつが目を開けて。
いつもの、あの感じの悪い顔で。
『……お前には関係ない』
そう言ってくれること。
それだけだった。
ぼくは両手で顔を覆った。
泣き声を、誰にも聞かれたくなかった。
けれど、涙は止まらなかった。
ゼラオラが隣にいてくれた。
ヤブクロンも、そばにいてくれた。
それでも。
あいつがいないだけで、世界がこんなにも冷たく感じるなんて。
知らなかった。
ぼくは、リュカという男のことを何も知らない。
なのに。
どうして、こんなに苦しいんだろう。