君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
いつからだろう。
夜明けの空を見ても、綺麗だと思わなくなったのは。
ミアレシティの朝は、いつだって騒がしい。
夜通し営業していた店がシャッターを下ろし、代わりにパン屋や喫茶店が開店の準備を始める。道路を清掃する車が走り、まだ眠そうな顔をした人々が駅へ向かう。街路樹の枝先には朝日が差し込み、建物の窓が一枚ずつ明るくなっていく。
俺は、その景色をほとんど見ていなかった。
手元のスマートフォンには、昨夜の賞金メダルの換金結果が表示されている。
五万四千八百円。
前夜より、七千二百円少ない。
「……やっぱり、あそこで帰ったのが早かったか」
誰に聞かせるでもなく呟くと、隣を歩いていたゼラオラがこちらを見上げた。
昨夜、最後のバトルゾーンを離れる前、ゼラオラは一度だけ立ち止まった。怪我をしたわけではない。ただ、俺の顔を見て、もう帰ろうと促したのだ。
あの時点で、連続した勝利による換金倍率は十分に高くなっていた。あと数人倒せば、さらに稼げたかもしれない。しかし、ゼラオラが帰りたがっているのに、無理に戦わせるつもりはなかった。
そこだけは、絶対に譲りたくない。
「お前が悪いって言ってるわけじゃないぞ」
ゼラオラは返事をしなかった。
「俺の回り方が悪かっただけだ。もっと早く別のゾーンに移ってれば、時間を無駄にせずに済んだ」
そう説明すると、あいつは俺の手首を掴んだ。
黄色い指先が、袖口から覗く皮膚に触れる。
俺はその意味を理解していた。
分かっていて、目を逸らした。
「……帰ったら寝るから」
その言葉で納得したのかどうかは分からない。ゼラオラはしばらく俺の顔を見つめてから、ようやく手を離した。
ZAロワイヤルに招待されて、ひと月ほどが経っていた。
YランクからXランクへ昇格し、次の挑戦に必要なチケットポイントも着実に貯まっている。
ランクが上がること自体は、悪くなかった。
Aランクに近づけば、母さんの治療を実現できるかもしれない。そう思えば、ひとつでも上へ進む理由はある。
けれど最近の俺は、ランクアップの通知よりも、夜明けに口座へ入る金額を待つようになっていた。
勝負に勝った瞬間、まず見るのは獲得したメダル。
次に確かめるのは、換金倍率。
相手の顔や使っていたポケモンを覚えていなくても、昨日の収入との差額ならすぐに答えられる。
それが、少しだけ怖かった。
怖いと思いながら、次の夜にはどれだけ稼げるかを考えている。
いつの間にか、そんな毎日になっていた。
♦
ラシーヌ工務店へ着いた頃には、身体の奥が鉛でも詰まっているように重くなっていた。
朝の作業は資材の確認だった。
納品された部材の数量を照らし合わせ、傷や破損がないかを確かめる。以前なら特に意識しなくてもできていた仕事なのに、最近はひとつの数字を確認するのに妙な時間がかかる。
数を数えている途中で、何個目だったか分からなくなる。
伝票へ視線を落とし、もう一度最初から数え直す。
それを何度も繰り返した。
「おい、リュカ」
背後から声がした。
振り返ると、タラゴンが腕を組んで立っていた。
「その箱、さっきから三回数えてねえか?」
「……すみません。確認が曖昧だったので」
「曖昧なのは数じゃなくて、お前の頭の方だろ」
言い返せなかった。
タラゴンは俺の手元から伝票を取り上げ、すぐ横の机へ置いた。
「今日はもう、外の作業には出るな。事務所で軽い仕事だけしてろ」
「でも、まだ――」
「お前が現場で倒れたら、周りがどうなるか考えろ」
低い声だった。
怒鳴られるより、ずっと堪えた。
「……はい」
「あと、飯を食え。ちゃんとしたやつをな」
そう言い残し、タラゴンは別の作業員の方へ向かった。
俺は、その背中を見送ることしかできなかった。
昔から、働くことだけは得意だった。
学校を辞めてから、いくつもの仕事を経験した。早朝から荷物を運び、夜遅くまで片付けをし、疲れた身体を引きずって帰った。特別な技術も資格もない俺にとって、身体を動かせることは数少ない取り柄だった。
それさえ満足にできなくなったら、俺には何が残るのだろう。
そう考えてしまう自分が、情けなかった。
昼休みになり、休憩室へ向かう。
ゼラオラは窓際のいつもの場所で眠っていた。
あいつには、俺が働いている間だけでも十分に休んでもらっている。夜になれば、また街を走らせることになるからだ。
それを思うと、少し胸が痛んだ。
ゼラオラは何も文句を言わない。
昔からそうだった。
森で怪我をしていたあいつを、俺と母さんが家に連れて帰ったときも、最初は人間に触れられることを怖がっていた。それでも毎日一緒に過ごすうちに、少しずつ心を開いてくれた。
今では俺が何も言わなくても、何を考えているのか察することがある。
そして、そのことが最近は少し怖い。
自分でも見ないようにしているものを、あいつだけが見ている気がするからだ。
「……お前も、大変だな」
眠っているゼラオラへ小さく声をかけ、椅子に腰を下ろした。
鞄から取り出したのは、昨日の夜に買った安いパンだった。
包装を破ろうとしたところで、休憩室の扉が開いた。
「……あ、いた」
聞き覚えのある声。
顔を上げると、カナリィが立っていた。
「おまえ、今日もここにいたんだ」
「……休憩室だからな」
「そういう意味じゃないんだけど」
彼女は呆れたように言いながら、当たり前の顔で向かいの椅子へ座った。
最近、こういうことが増えた。
特に用事があるわけでもないのに、カナリィは工務店へ顔を出す。
タラゴンの孫娘なのだから、ここへ来ること自体は不思議ではない。だが、祖父に用があると言いながら、なぜか俺のいる休憩室へ入ってくることが多かった。
「……何か用か?」
「別に。おじいちゃんに会いに来ただけ」
「そうか」
「……何?」
「いや、何でもない」
パンの袋を開ける。
カナリィの視線が、俺の手元で止まった。
「またパン?」
「……ああ」
「おまえ、それ以外のもの食べないわけ?」
「食べるけど」
「いつ?」
「……いつって」
答えに詰まった。
昨日は朝も昼もパンだった。夜は食べ損ねた気がする。その前の日は、スーパーで値引きされた惣菜を買ったはずだが、いつ食べたのか曖昧だった。
そんなことを説明する必要はない。
「普通に食べてる」
「ふーん」
カナリィは納得していない顔だった。
「ねえ、おまえさ。最近、また痩せてない?」
「元からこんなもんだろ」
「いや、前より絶対細いって。顔もなんか疲れてるし」
「気のせいだ」
「……便利だね、その言葉」
彼女は頬杖をついた。
俺がパンを口へ運ぶと、露骨に眉をひそめる。
「それ、おいしいの?」
「普通」
「普通って……。もっとちゃんとしたもの食べたら?」
「食べたいものがあれば食べるよ」
「じゃあ、何で毎回それなの?」
俺は答えなかった。
何を食べるかなんて、自分で決めればいいことだ。
カナリィにはカナリィの生活がある。俺には俺の生活がある。
その間に、わざわざ理由を説明しなければならないような関係はない。
「……お前、最近よく来るな」
話を変えたくて、そう言った。
「は?」
「いや。忙しいんじゃないのか、配信とか」
「忙しいよ。めちゃくちゃ忙しいけど?」
「なら、無理して来なくてもいいだろ」
カナリィの眉が跳ね上がった。
「はあ!? ぼくが無理しておまえに会いに来てるとでも思ってるわけ?」
「そうは言ってない」
「言ってるようなもんじゃん!」
思った以上に大きな声が響き、窓際のゼラオラが片目を開けた。
俺は思わず、あいつの方を見る。
「……悪い。起こしたか」
ゼラオラは身体を起こし、こちらを見た。
俺の方ではなく、カナリィの方を。
「な、何よ」
カナリィが少し身を引く。
ゼラオラは何もせず、ただ彼女を見つめた。
それから俺へ視線を戻し、再び布団に横になった。
「……何なの、今の」
「さあ」
「絶対何か言いたそうだったんだけど」
「気のせいだろ」
「おまえたち、ほんっと似てるよね……」
カナリィは不機嫌そうに口を尖らせた。
その後、彼女は自分の配信で起きたことを話し始めた。
ゲームの大会で予想外の負け方をしたこと。視聴者から妙な挑戦状が届いたこと。新しい企画の準備が思うように進んでいないこと。
俺には分からない話も多かった。
だが、彼女は俺が詳しくないと分かっていても話し続けた。
途中で何度か質問すると、そのたびに驚いたような顔をした。
「……おまえ、ちゃんと聞いてたんだ」
「目の前で話されてるんだから、聞くだろ」
「そういうところは、意外と普通なんだね」
「……何だと思ってたんだよ」
「感じ悪い男」
「それは今もだろ」
カナリィは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。
「……まあね」
それだけだった。
ただ、休憩が終わって彼女が出ていくとき、いつものようにすぐ悪態をつくことはなかった。
「……ちゃんと寝なよ」
扉の前で、振り返らずに言う。
「おまえ、ほんとに顔色悪いから」
俺が返事をする前に、扉が閉まった。
しばらく、その場所を見ていた。
何を言えばよかったのか、分からなかった。
♦
その日の夜も、俺はZAロワイヤルに参加した。
仕事が終わると一度部屋へ戻り、ゼラオラの食事を用意する。自分の分は簡単に済ませ、夜の街へ出る。
バトルゾーンでは、いつものように勝利を重ねた。
相手のポケモンが倒れ、端末に通知が届く。
賞金メダルが増える。
別のトレーナーを探す。
倒す。
また数字が増える。
その繰り返しだった。
最初の頃は、勝負のたびに相手の表情が気になっていた。
負けた人間にも、叶えたい願いがある。
それを知った夜のことは、今でも覚えている。
けれど、そのことを考えながら戦い続けるのは、思っていたよりずっと苦しかった。
相手にも事情がある。
その事情を理解しても、俺は勝たなければならない。
譲れば母さんの願いから遠ざかる。立ち止まれば金が減る。自分が負ければ、あの人にしてやれることがひとつ減るかもしれない。
そう考えるうちに、相手の事情を想像すること自体を避けるようになった。
顔を見ない。
名前を覚えない。
必要以上に言葉を交わさない。
勝負が終われば、倒れたポケモンの無事だけを確かめて立ち去る。
それでよかった。
そうしなければ、続けられなかった。
「……次、行こう」
俺が告げると、ゼラオラが振り返った。
その視線に気づいて、言葉を足す。
「あと三人だけ。そこまで行けば、今夜の倍率が変わる」
ゼラオラは少しの間、黙っていた。
やがて、ゆっくりと歩き出す。
俺はその後を追った。
街灯の下を通り過ぎるとき、自分の影がやけに細長く伸びていることに気づいた。
立ち止まれば、すぐにでも座り込んでしまいそうだった。
それでも、足は動いていた。
♦
夜明けが近づき、赤いバトルゾーンの光が薄れてきた頃だった。
いつもの帰り道へ入ると、ゼラオラが不意に足を止めた。
「……どうした?」
あいつは路地の奥を見ていた。
飲食店の裏手。
ゴミ袋が並ぶ、小さな集積所。
そこには、いつものヤブクロンがいなかった。
俺は何となく、暗がりへ目を凝らした。
初めて出会ってから、もう何度もこの場所を通っている。
毎晩いるわけではない。それでも、姿が見えないと少し気になるようになっていた。
「……今日は、いないみたいだな」
そう言って通り過ぎようとしたとき、ゼラオラが低く鳴いた。
耳を立て、通りの向こうへ顔を向ける。
俺も足を止めた。
遠くから、人の声が聞こえた。
「だから、向こう行けって!」
男の声だった。
続いて、何か硬いものが地面を擦る音。
「何回追い払っても戻ってきやがる……。ほんっと、迷惑なんだよ」
ゼラオラが走り出した。
「おい、待て!」
俺も慌てて後を追う。
大通りから外れた、細い搬入路だった。
朝の仕入れに使われるのだろう。片側には荷物を積んだ台車が並び、建物の裏口には金属製の扉がいくつもある。
その奥で、小さな緑色の身体が壁際へ追い詰められていた。
ヤブクロンだった。
男が二人いた。
一人は作業着姿で、長い柄のついた箒を持っている。もう一人は台車の近くに立ち、眉をひそめていた。
「おら、早くどっか行け!」
箒の先が地面を叩く。
ヤブクロンはびくりと身体を震わせた。
逃げようにも、背後には壁がある。
横へ移動しようとすると、男が箒を動かして行く手を塞いだ。
ヤブクロンの足元には、破れた袋と、そこからこぼれた紙くずが散らばっている。
小さな腕で何かを抱えていた。
よく見ると、潰れた空き容器だった。
「……ゼラオラ」
俺が呼ぶと、あいつは足を止めた。
今にも飛び出しそうな身体を、かろうじて抑えている。
「手は出すな」
そのまま、男たちへ声をかけた。
「あの、すみません」
二人が振り返った。
「……何だ、あんた」
「そのポケモン、少し離してやってもらえませんか」
箒を持った男が顔をしかめた。
「はあ? こいつ、毎晩この辺うろついてんだよ。臭いし、ゴミも散らかるし。店に苦情が来てんだ」
「……そうですか」
「そうですかって、お前なあ。こっちは仕事なんだよ」
その言葉に、何も言い返せなかった。
実際、男たちにも生活がある。
店の裏口に野生のヤブクロンが居着けば、客や近所の住民から苦情が来るのだろう。衛生面の問題もある。追い払いたいと思うこと自体を、簡単に責めるつもりはなかった。
ただ、壁際で震えている小さな身体を見ていると、そのまま立ち去ることはできなかった。
「散らかったものは、俺が片付けます」
「……は?」
「そこにいると逃げられないので、少しだけ道を空けてもらえれば」
男は俺とゼラオラを交互に見た。
ゼラオラは黙っていた。
それでも、何かを察したのか、男は箒を下ろした。
「……あんたのポケモンか?」
「違います」
「じゃあ、何でそこまでするんだよ」
俺は答えられなかった。
理由なんて、分からなかった。
ただ、そこにいたから。
何度も顔を合わせていたから。
自分が知っている小さなポケモンが、怯えていたから。
それだけで十分な気がした。
「……すみません。少しだけ時間をください」
男は舌打ちした。
「さっさと片付けろよ。こっちも暇じゃねえんだから」
「はい」
俺はヤブクロンへ近づいた。
小さな身体が、びくりと縮こまる。
「……大丈夫だ」
しゃがみ、目線を低くする。
ヤブクロンの頭の一部が、少し擦れていた。箒で直接叩かれたのか、壁にぶつかったのかは分からない。身体を揺らすたび、抱えていた空き容器が乾いた音を立てた。
「……もう、追いかけない」
ヤブクロンは俺を見ていた。
その目が何を考えているのか、俺には分からない。
ただ、怖がっていることだけは分かった。
俺は少し距離を取り、地面に散らばった紙くずを拾い始めた。
ゼラオラも隣へ来る。
俺がまとめたものを、あいつが集積所の袋へ運んでいく。
しばらくすると、ヤブクロンが小さく動いた。
抱えていた容器を、俺が作った山のそばへ置く。
「……それも、片付けたかったのか」
ヤブクロンは何も言わなかった。
ただ、もう一つの紙くずへ手を伸ばした。
その姿を見て、ようやく気づいた。
こいつは、ここでも同じことをしていたのだ。
人間が散らかしたものを、一つずつ集めていた。
誰にも褒められず、誰にも頼まれず。
それが何のためなのか、本当のところは分からない。
自分の居場所を綺麗にしたかっただけかもしれない。食べ物を探していたのかもしれない。ただ、散らばっているものを集めるのが好きなのかもしれない。
理由はどうあれ、あの小さな身体は、誰かを傷つけようとしていたわけではなかった。
それなのに、追い払われていた。
邪魔だと言われていた。
そこにいるだけで、嫌な顔をされていた。
俺は最後の紙くずを拾い、袋の口を結んだ。
「……これで大丈夫ですか」
男たちへ声をかける。
一人が周囲を見回し、小さく頷いた。
「ああ。まあ、片付いたならいいけどさ」
もう一人は、ヤブクロンを見たままだった。
「でも、また来るだろ。こいつ」
「……分かりません」
「だったら困るんだよ」
俺はヤブクロンへ視線を戻した。
小さな身体は、まだ壁際にいた。
さっきより落ち着いたように見えるものの、人間たちの動きを警戒している。
「……少なくとも、今日は俺が連れて離れます」
そう答えると、男はそれ以上何も言わなかった。
俺たちは搬入路を出た。
ヤブクロンはしばらく動かなかったが、やがて小さな足音を立てて、後ろからついてきた。
♦
元の集積所へ戻る頃には、空が少しずつ明るくなり始めていた。
俺は足を止め、背後を振り返った。
ヤブクロンがいた。
一定の距離を保ったまま、こちらを見上げている。
「……もう大丈夫だぞ」
そう言うと、ヤブクロンは小さく身体を揺らした。
俺が歩き出す。
少し遅れて、小さな足音が続く。
もう一度立ち止まると、向こうも止まった。
「……お前、帰らないのか?」
ヤブクロンは答えなかった。
元の集積所は、すぐそこだ。
いつも過ごしていた場所へ戻ろうと思えば、戻れる。
けれど、ヤブクロンは動こうとしなかった。
ゼラオラが俺の隣でしゃがみ、小さな身体へ何か話しかけるように鳴いた。
ヤブクロンも、短く鳴き返す。
そのやり取りを見ながら、俺はため息をついた。
「……まさか」
胸の奥に、小さな予感が生まれる。
俺はヤブクロンの前へしゃがみ込んだ。
「……俺のところに来たいのか」
ヤブクロンは、すぐには動かなかった。
少しだけ頭を下げる。
それから、ゆっくりと頷いた。
心臓が妙な音を立てた。
嬉しいと思った。
その直後に、困ったと思った。
俺の暮らしには、余裕がない。
金だけの話ではなかった。
六畳の古い部屋。家具も家電もほとんどない生活。昼間は工務店で働き、夜はZAロワイヤルへ出る。まともに眠る時間も確保できていない。
ゼラオラは昔から一緒にいるから、俺の生活に慣れている。
だが、新しく仲間を迎えるとなれば、そうはいかない。
食事が必要になる。
休む場所もいる。
体調が悪くなれば治療を受けさせなければならない。そもそも、俺の生活に付き合わせること自体が正しいのか分からなかった。
「……今までより暮らしやすくなる保証はないぞ」
ヤブクロンは俺を見つめていた。
「狭い部屋だし、俺はほとんど働いてる。ずっと構ってやれるわけでもない」
言葉を重ねるたび、胸が苦しくなる。
断る理由なら、いくらでもあった。
俺には母さんがいる。
今は、あの人の治療を最優先にしなければならない。
これ以上、守るものを増やすべきじゃない。
そう考えるのに、目の前の小さな身体から視線を外せなかった。
「……それでも、来るのか」
ヤブクロンは、もう一度頷いた。
今度は、はっきりと。
そして、一歩だけ近づいた。
小さな腕が、俺の作業着の裾に触れる。
強く掴むわけではない。
ただ、確かめるように、布を指先で摘まんでいた。
その感触に、昔のことを思い出した。
十年前。
森で怪我をしていたゼラオラを、家へ連れ帰った日のことだ。
母さんは驚いた。
見たこともないポケモンが、血を流しながら俺の腕の中にいたのだから、当然だった。
それでも母さんは、追い返さなかった。
古いタオルを敷き、できる限りの手当てをして、温かい場所を用意してくれた。
家に余裕なんてなかった。
あの頃から、俺たちは貧しかった。
それでも母さんは、ゼラオラが回復しても森へ帰ろうとしないことを知ると、少し困ったように笑った。
『……うち、そんなに居心地がよかったのかしらね』
その声を、今でも覚えている。
母さんは、ゼラオラを拾ったつもりだったのだろう。
でも俺にとっては、あの日から家族が一人増えた。
学校で嫌なことがあった日も、仕事が見つからず落ち込んだ日も、母さんの病状を聞いて何も考えられなくなった夜も、ゼラオラは隣にいてくれた。
助けたはずの相手に、何度も助けられてきた。
俺は、裾を掴んでいるヤブクロンを見下ろした。
「……分かった」
小さな手が動く。
「一緒に来い」
ヤブクロンは、しばらく俺を見つめていた。
言葉の意味を確かめるように。
やがて、小さく鳴いた。
ゼラオラが、隣で嬉しそうに尻尾を揺らした。
俺は、その二匹を見ながら、久しぶりに少しだけ笑った。
♦
ポケモンセンターへ向かう途中、何度か振り返った。
ヤブクロンは、ついてきていた。
ゼラオラの隣を歩こうとして、少し離れる。また近づき、こちらを見る。慣れない人通りに驚いて立ち止まることもあったが、逃げようとはしなかった。
ポケモンセンターへ着くと、俺は売り場で一番安い普通のモンスターボールを一個だけ買った。
ほかの種類には目も向けなかった。
そもそも、捕まえるための道具を買いに来たわけじゃない。
あいつが、自分で来ると決めたから。
そのために、帰る場所を用意するだけだった。
センターの外へ出ると、ヤブクロンが少し不安そうにこちらを見ていた。
「……嫌なら、入らなくていいからな」
俺はボールを見せた。
「ゼラオラみたいに、ずっと外にいたっていい。ただ、うちの部屋は本当に狭いからさ。休みたいときに使えた方がいいと思う」
ゼラオラが隣で頷く。
ヤブクロンはボールへ近づき、しばらく眺めていた。
それから、ちょん、と自分から触れた。
赤い光が小さな身体を包み込む。
ボールが手の中で揺れた。
一度。
二度。
やがて、静かになった。
俺は手のひらに収まった小さなボールを見つめた。
ゼラオラが、嬉しそうに俺の腕へ触れる。
「……家族が増えたな」
そう言うと、あいつは大きく頷いた。
それだけのことだった。
特別な音楽が流れたわけでもない。
誰かが祝ってくれたわけでもない。
空はもう明るくなっていて、街では人々が今日の仕事を始めていた。
俺は、買ったばかりのモンスターボールを握りしめた。
たった一個の、小さな赤と白の球。
その中に、俺を選んでくれた命がいる。
不思議と、重く感じた。
♦
部屋へ帰ると、いつも以上に狭く感じた。
六畳。
床に敷いた寝袋。
壁際に置かれた鞄。
積み重ねた衣類。
そして、母さんが昔作ってくれたゼラオラの布団。
新しいポケモンを迎えるための場所なんて、どこにも用意されていなかった。
「……悪いな。こんなところで」
ボールを開く。
ヤブクロンは床へ現れると、きょろきょろと部屋を見回した。
窓。
壁。
寝袋。
そして、ゼラオラの布団。
しばらく立ったまま、動かなかった。
俺は何をすればいいのか分からず、鞄の中から古いタオルを取り出した。
「とりあえず、これ敷いておくか」
床の隅を片付け、タオルを広げる。
しかし、ヤブクロンはそこへ向かわなかった。
ゼラオラの方を見ている。
ゼラオラは少し考えたあと、自分の布団の端を前脚で引っ張った。
空いた場所を、軽く叩く。
ヤブクロンが首を傾げた。
ゼラオラはもう一度、布団を叩いた。
ここへ来い。
そう言っているように見えた。
ヤブクロンは、おそるおそる近づいた。
布団の端へ触れ、すぐに手を引っ込める。
身体の汚れを気にしているのか、それとも柔らかい布に慣れていないのか。
俺には分からなかった。
「……大丈夫だぞ」
そう声をかけると、ヤブクロンは俺を見た。
「汚れたら洗えばいい。ゼラオラだって気にしてないみたいだし」
ゼラオラが頷く。
ヤブクロンはしばらく迷ったあと、ようやく布団の端へ腰を下ろした。
身体を小さく丸める。
ゼラオラはその隣に横になった。
黄色い毛並みの横に、小さな緑色の身体がある。
それだけで、部屋の景色が少し変わった。
「……狭いな」
思わず呟く。
ゼラオラがこちらを見た。
「いや、お前らが悪いって意味じゃないぞ」
慌てて付け足すと、ヤブクロンまで顔を上げた。
「……もう少し、何とかするから」
何をどうするのかは、まだ考えていなかった。
布団をもう一枚用意するべきだろうか。
食事は何を好むのだろう。
野生で暮らしていた頃と同じものを食べさせていいのか、ポケモンセンターで相談した方がいいかもしれない。
必要なものが、いくつも浮かんだ。
それらには、きっと金がかかる。
俺は無意識に、今朝の口座残高を思い出した。
そこから母さんへ送る予定の額を引き、家賃を引き、ゼラオラの食事代を引く。
さらに、ヤブクロンの分を足す。
その計算を始めたところで、ふと手が止まった。
まだ、何も買っていない。
必要な額だって分からない。
それなのに、俺はもう、何を削ればいいか考えている。
床へ座り込む。
手の中には、さっき買ったモンスターボールがあった。
「……変だよな」
二匹へ聞かせるつもりはなかった。
「金は、前よりあるはずなのに」
返事はなかった。
「……何で、こんなに怖いんだろうな」
ヤブクロンが、こちらを見ていた。
ゼラオラも、黙っている。
俺は、二匹の視線に耐えきれず、少しだけ笑った。
「……いや。何でもない」
いつものように、そう言って終わらせようとした。
すると、ヤブクロンが布団から立ち上がった。
小さな足で近づいてくる。
俺の膝の前まで来ると、頭を少し下げた。
それから、小さな手を俺の指先へ伸ばした。
指の腹に、柔らかな感触が触れる。
俺は動けなかった。
何かを要求するわけでもない。
ただ、触れている。
その小さな手を見つめているうちに、胸の奥にあったものが少しだけ緩んだ。
「……ありがとう」
何に対する礼なのか、自分でも分からなかった。
ヤブクロンは小さく鳴き、またゼラオラの布団へ戻っていった。
俺は寝袋へ横になった。
眠る前に、もう一度二匹を見た。
ゼラオラがヤブクロンの隣で目を閉じている。
ヤブクロンも、安心したように身体を丸めていた。
あの路地で震えていた小さなポケモンが、今は自分から布団の上で眠ろうとしている。
その光景を見ていると、久しぶりに金のことを考えずに済んだ。
ほんの数分だけだった。
けれど、その数分が、妙に温かかった。
♦
翌日の昼休み。
俺はタラゴンへ事情を話し、仕事の邪魔にならない場所でヤブクロンを休ませてもらえないかと相談した。
もちろん、作業現場には連れていけない。
安全面も、衛生面も考える必要がある。
タラゴンは少し考えたあと、事務所の外にある屋根付きの休憩スペースを指差した。
「そこなら構わん。ただし、片付けと管理はお前が責任持てよ」
「……ありがとうございます」
「それと、ちゃんと自分の飯も食え。ポケモンが増えたからって、自分の分を減らすんじゃねえぞ」
思わず、顔を上げた。
タラゴンは苦々しそうに笑った。
「お前の考えそうなことくらい、分かるわ」
返す言葉がなかった。
その後、ゼラオラとヤブクロンを休憩スペースへ連れていく。
ヤブクロンは最初、人の声や機械の音に驚いていたが、ゼラオラが隣にいることで少しずつ落ち着いていった。
俺がしゃがんで声をかけると、小さく鳴き返してくれる。
「……ここなら、少しは外の空気も吸えるな」
そのときだった。
「……え?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、カナリィが立っていた。
いつものように派手な服装で、片手には飲み物を持っている。
ただ、目は俺ではなく、足元のヤブクロンへ向けられていた。
「……おまえ、それ」
「ヤブクロンだけど」
「それは分かるよ!」
カナリィは少し声を上げた。
「何で、ここにヤブクロンがいるわけ?」
「昨日、仲間になった」
「……は?」
ぽかんとした顔をする。
「いや、待って。おまえ、新しくポケモン捕まえたの?」
「……ああ」
「ゼラオラ以外にも?」
「そうだけど」
「……ふーん」
彼女は少し考えるようにヤブクロンを見つめた。
ヤブクロンは、その視線を受けると、小さく身体を縮めた。
見知らぬ人間が近づいてきたことを、警戒しているらしい。
「……何か、怯えてない?」
「人間に追い払われてたからな。まだ慣れてないんだと思う」
「……追い払われてた?」
「店の裏で。まあ、向こうにも事情はあったんだけど」
それ以上、詳しく説明するつもりはなかった。
けれどカナリィは、いつものように軽口を叩かなかった。
しゃがみ込み、ヤブクロンと目線を合わせる。
「……そっか」
小さな声だった。
「怖かったんだね」
ヤブクロンが、わずかに身体を揺らした。
カナリィはすぐには手を伸ばさなかった。
少し離れた場所から、様子を見守っている。
その姿が意外で、俺は思わず彼女を見た。
「……何?」
「いや」
「言いたいことあるなら言いなよ」
「……お前、意外と待てるんだな」
「はあ?」
カナリィの眉が吊り上がる。
「ぼくを何だと思ってるわけ?」
「……せっかちな奴」
「失礼すぎない!?」
いつもの調子だった。
それでも、ヤブクロンがびくりと震えたのを見ると、カナリィはすぐに声を落とした。
「……あ、ごめん」
その反応を見て、俺は少しだけ驚いた。
カナリィはヤブクロンへ向き直り、ゆっくりと話しかける。
「別に、取って食ったりしないからさ。そんなに怖がらなくてもいいよ」
ヤブクロンは、まだ警戒していた。
けれど、逃げなかった。
ゼラオラが隣で小さく鳴く。
すると、ヤブクロンも少しだけ顔を上げた。
カナリィはその様子を見て、ふっと表情を緩めた。
「……案外、かわいいじゃん」
聞こえるか聞こえないかくらいの声だった。
「……そうだな」
俺が答えると、彼女は驚いたように振り返った。
「……え?」
「かわいいだろ」
ヤブクロンの頭へ、そっと手を伸ばす。
あいつは逃げなかった。
俺の指先を見つめ、それから小さく身体を寄せてくる。
まだ慣れていない。
それでも、昨日より少しだけ近づけるようになった。
俺はその頭を、できるだけ優しく撫でた。
カナリィが黙った。
顔を上げると、彼女は妙な表情で俺を見ていた。
「……何だよ」
「……別に」
「何か言いたそうだけど」
「……おまえってさ」
カナリィはそこで言葉を止めた。
少しだけ視線を逸らし、飲み物を持ち直す。
「……ポケモンには、そういう顔するんだね」
俺は答えられなかった。
自分がどんな顔をしているのかなんて、分からない。
ただ、ヤブクロンが怖がらなくなってくれたことが嬉しかった。
それだけだった。
「……おかしいか?」
そう尋ねると、カナリィは小さく首を振った。
「……別に。おかしくないよ」
珍しく、素直な返事だった。
少しの間、沈黙が続く。
カナリィは立ち上がると、いつものように俺を見下ろした。
「……ま、ちゃんと面倒見なよ」
「分かってる」
「あと、自分のこともちゃんとしなよ」
「……何でそっちの話になるんだよ」
「おまえ、放っておいたら自分の飯までポケモンにあげそうだし」
図星だった。
俺が黙ると、カナリィは大きくため息をついた。
「……ほんっと、手がかかる」
「頼んでないだろ」
「そういうところが、手かかるって言ってんの!」
いつものように怒鳴りかけて、彼女は慌ててヤブクロンの方を見た。
小さな身体が、また少し縮こまっている。
「……ああ、もう。ごめんってば」
その姿が何だかおかしくて、俺は思わず笑った。
声を出すほどではなかった。
口元が、わずかに緩んだだけだ。
それでも、カナリィは気づいたらしい。
「……今、笑った?」
「……別に」
「笑ったでしょ」
「気のせいだ」
「絶対笑った!」
彼女は不満そうに頬を膨らませた。
けれど、その顔はどこか楽しそうだった。
♦
夕方になり、仕事を終えた俺は、ゼラオラとヤブクロンを連れて帰路についた。
街には、これから夜を楽しむ人々が溢れている。
飲食店の明かり。
楽しそうに笑う恋人たち。
親子連れ。
肩を並べて歩く学生たち。
俺はその間を、いつものように通り抜けた。
今夜もZAロワイヤルがある。
勝てば金が入る。
母さんへ送れる額が増える。
それは、何も変わらない。
ただ、今日は少しだけ違うことがあった。
俺の隣にはゼラオラがいて、その少し後ろをヤブクロンが歩いている。
何度か立ち止まり、周囲を見回しながら、小さな足でついてくる。
俺が振り返ると、ヤブクロンも顔を上げた。
「……疲れたか?」
小さく首を振る。
「そうか。無理するなよ」
ゼラオラが隣で鳴いた。
それから、ヤブクロンの歩幅に合わせるように、少しだけ速度を落とした。
俺も歩く速度を緩めた。
普段なら、一分でも早く部屋へ戻り、夜の準備をしたいところだった。
けれど今日は、急ぐ気になれなかった。
小さな足音が、ちゃんとついてきていることを確かめながら歩く。
それだけのことが、妙に大切に思えた。
俺はヤブクロンを拾ったのだろうか。
そう考えて、少し違う気がした。
あいつは、自分で俺のところへ来た。
俺が連れて帰ろうとしたわけではない。
立派な家を用意してやれるわけでもない。
これから、どれだけ幸せにしてやれるかも分からない。
それでも、あいつは俺を選んだ。
もしかしたら、拾われたのは俺の方なのかもしれない。
あの暗い路地で、小さなポケモンが俺の裾を掴んでくれなかったら。
今夜もきっと、獲得したメダルの数と、明日の入金額のことしか考えずに歩いていた。
俺は足を止め、二匹を見下ろした。
「……帰ったら、飯にしようか」
ゼラオラが嬉しそうに鳴く。
ヤブクロンも、小さく身体を揺らした。
その姿を見て、俺は少しだけ笑った。
明日も仕事がある。
夜になれば、また戦わなければならない。
母さんの病気が治ったわけじゃない。
金が足りなくなるかもしれないという不安も、消えていない。
何も解決していなかった。
それでも、帰る場所で待っているのが自分一人ではなくなったことを、今夜は少しだけ嬉しく思えた。
六畳の部屋は、きっと今まで以上に狭くなる。
寝袋も、ゼラオラの布団も、昨日と同じ場所にある。
家具が増えたわけでもない。
生活が楽になったわけでもない。
ただ、家族が一匹増えた。
その事実だけが、胸の奥に小さな温かさを残していた。
俺はその温かさを、まだ何と呼べばいいのか知らなかった。