君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。   作:霜月ルイ

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第7話 壊れるまで、働ける。

 人間は、眠らなければ死ぬ。

 

 そんなことは知っている。

 

 子供の頃、母さんから何度も言われた。夜更かしをしてゼラオラと遊んでいた俺を見つけると、母さんは困ったように笑いながら、眠ることも身体を守るための大切な仕事なのだと教えてくれた。

 

 あの頃は、明日が来るのが楽しみだった。

 

 朝になればゼラオラと森へ行けたし、学校から帰れば母さんの作った夕食が待っていた。特別なものが食卓に並ぶことは少なかったけれど、三人で囲む食事はいつも温かかった。

 

 だから、早く明日になってほしかった。

 

 今は違う。

 

 夜が明ければ、仕事が始まる。

 

 仕事が終われば、夜が来る。

 

 夜が来れば、戦わなければならない。

 

 その繰り返しのどこに眠る時間を挟めばいいのか、最近はよく分からなくなっていた。

 

     ♦

 

 ZAロワイヤルへの参加を始めてから、二か月目に入っていた。

 

 最初の一週間は、驚くことばかりだった。たった一晩で何万円もの金が手に入る。工務店で何日も働かなければ届かなかった額が、夜明けとともに口座へ振り込まれる。

 

 あれほど遠かった金額が、簡単に手の届く場所へ来た。

 

 いや、簡単というのは正しくない。

 

 ゼラオラがいなければ、俺は一勝だってできなかったかもしれない。夜の街を走り回り、相手を探し、次のバトルゾーンへ移動する。限られた時間の中で一人でも多く倒そうとすれば、身体を休める余裕はほとんどなかった。

 

 ただ、それでも昼間の労働に比べれば、効率はあまりにもよかった。

 

 だから、やめられなくなった。

 

「……あと四人か」

 

 赤く照らされた歩道の端で、俺はスマートフォンの画面を確認した。

 

 連続勝利による換金倍率が、もう少しで次の段階へ上がる。時間はまだ残っている。バトルゾーンの境界を越えれば、別の区域に何人かトレーナーがいるはずだった。

 

 ゼラオラが隣に立っている。

 

 黄色い毛並みには目立った傷もなく、呼吸も落ち着いていた。あいつの様子を確かめてから、俺は先へ進もうとした。

 

 そこで、足元がわずかに揺れた。

 

 舗装された地面が傾いたように感じたのは、ほんの一瞬だった。

 

 立ち止まり、街路樹の根元へ手をつく。

 

「……大丈夫だ」

 

 ゼラオラがすぐに振り返った。

 

「ちょっと立ちくらみがしただけ。お前は何ともないだろ?」

 

 あいつは俺の顔を見つめたまま、動かなかった。

 

 休めと言いたいのだろう。

 

 最近、同じようなことが増えていた。俺が少しでも足を止めると、ゼラオラは必ず近づいてくる。座れと促し、帰ろうと袖を引く。

 

 そのたびに、俺は同じ答えを返していた。

 

「あと少しだけだ」

 

 ゼラオラの耳が伏せられる。

 

「本当に、あと少し」

 

 俺は壁から手を離した。

 

 ふらつきは収まっていた。

 

 歩ける。考えられる。指示も出せる。

 

 だったら、まだ問題ない。

 

 そう判断して、次のバトルゾーンへ向かった。

 

 その夜、目標の勝利数には届いた。

 

 翌朝、換金結果を確認したとき、俺は達成感より先に、昨夜より増えた金額を計算していた。

 

 身体の具合がどうだったかは、もう考えていなかった。

 

     ♦

 

 ヤブクロンが家族になってから、部屋には小さな変化が生まれた。

 

 六畳の古い部屋に、新しい家具が増えたわけではない。

 

 相変わらず、俺の寝袋とゼラオラの布団があるだけだ。そこへヤブクロンが加わり、布団の端に小さな身体を丸めるようになった。

 

 最初は、誰かが近づくたびに怯えていた。

 

 俺が立ち上がるだけでも身体を縮め、物を落とすと反射的に部屋の隅へ逃げた。ゼラオラがゆっくり近づいても、慣れるまでは少し時間がかかった。

 

 それが最近では、俺が帰ってくると玄関まで迎えに来る。

 

 仕事から戻ると、小さな足音が床を叩く。ゼラオラの後ろから顔を出し、遠慮がちにこちらを見上げる。

 

 その姿を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 

「ただいま」

 

 声をかけると、ヤブクロンが小さく鳴いた。

 

 ゼラオラは先に部屋へ戻り、いつものように布団へ腰を下ろす。ヤブクロンもその後を追いかけるが、途中で立ち止まり、俺がちゃんとついてきているかを確かめる。

 

「……いるよ。大丈夫」

 

 そう言うと、安心したようにまた歩き出した。

 

 ヤブクロンの食事については、ポケモンセンターで相談した。

 

 必要な栄養を取れるように、専用のフードも用意している。野生で暮らしていた頃に口にしていたものとは違うらしく、最初は戸惑っていたが、今ではきちんと食べてくれるようになった。

 

 ゼラオラとヤブクロンの食事だけは、欠かさず用意した。

 

 それが終わると、自分の分を鞄から取り出す。

 

 値引きされたパン。

 

 中身の少ない惣菜。

 

 ときには、何も食べずに水を飲んで済ませることもあった。

 

 金がないわけではない。

 

 口座には、以前なら考えられなかった額が残っている。母さんへ送金する分を確保したうえで、俺自身がまともな食事を買うことだってできる。

 

 それでも、自分のために金を使おうとすると、胸の内側に妙な抵抗が生まれた。

 

 今日の食費を少し減らせば、明日送れる額が増える。

 

 明日の食費も減らせば、さらに増える。

 

 たった数百円の違いだと分かっていても、その数百円を残せなかった自分が、ひどく怠けているように感じられた。

 

 ヤブクロンは、俺が食べ終わるまで近くにいることが増えた。

 

 ある夜、パンを半分ほど残したまま横になろうとすると、小さな手が包装袋を押してきた。

 

「……何だ?」

 

 ヤブクロンはパンを見て、それから俺を見る。

 

「腹は減ってないよ」

 

 もう一度、袋を押された。

 

 ゼラオラまで隣へ来た。

 

「……お前ら、二人して何だよ」

 

 返事はなかった。

 

 ただ、食べるまで動かないつもりらしい。

 

 仕方なく残りを口へ運ぶと、ヤブクロンはようやく布団へ戻った。ゼラオラも、それを確かめてから横になる。

 

 俺は二匹の背中を見ながら、少しだけ笑った。

 

 けれど、その優しさを嬉しいと思うほど、胸が苦しくなった。

 

 俺が守らなければならないはずなのに。

 

 どうして、こんな小さなポケモンにまで心配をかけているのだろう。

 

     ♦

 

 最初の異変を指摘されたのは、それから三日後だった。

 

「リュカ、この数字、合ってるか?」

 

 同僚に声をかけられ、俺は手元の伝票を見た。

 

 午前中に確認した部材の数量が記入されている。品目も、納品日も、確認者の名前も間違っていない。少なくとも、最初に見たときはそう思った。

 

「……何か問題ありましたか」

 

「こっち、七十二本だろ。お前、二十七本って書いてるぞ」

 

 指差された数字を見て、言葉が止まった。

 

 確かに、二十七と書いてあった。

 

 どうして間違えたのか、分からなかった。

 

 俺は数えたはずだ。一本ずつ確認し、束になっているものも解いて、数量が合っていることを確かめた。その記憶はある。

 

 けれど、二十七と書いた記憶がない。

 

「……すみません。訂正します」

 

「いや、訂正すりゃいいんだけどさ。最近、こういうの増えてないか?」

 

 同僚の声に責める響きはなかった。

 

 それが、かえって堪えた。

 

 以前はこんな間違いをしなかった。

 

 数字を確認する仕事は得意だった。大きな作業を任せてもらえない時期でも、細かな記録や数量確認だけは信用してもらえていた。

 

 その信用を、自分で崩している。

 

「……気をつけます」

 

 伝票を受け取り、訂正した。

 

 赤い線を引き、正しい数字を書き直す。指先が微かに震え、七の横線が歪んだ。

 

 同僚はそれ以上何も言わなかった。

 

 ただ、俺が書き終えるまで、その場を離れなかった。

 

 午後には、さらに別の失敗をした。

 

 倉庫へ取りに行った部品を作業台へ置き、工具を探しに行く。戻ってから、何のためにその部品を持ってきたのか分からなくなった。

 

 手元には必要なものが揃っている。

 

 作業指示も聞いた。

 

 それなのに、何をすればいいのかが思い出せない。

 

 数秒のことだったと思う。

 

 あるいは、もっと長かったのかもしれない。

 

 気づけば、俺は作業台の前で立ち尽くしていた。

 

「……リュカ?」

 

 名前を呼ばれた。

 

 隣にいた作業員が、こちらを見ていた。

 

「大丈夫か?」

 

「……はい」

 

「さっきから呼んでたんだけど」

 

 俺は何も答えられなかった。

 

 呼ばれていたことに、気づいていなかった。

 

 そのあと何とか作業を再開したものの、手の震えが収まらなかった。部品を掴もうとすると指先が滑り、何でもない金属片を床へ落としてしまう。

 

 拾い上げたとき、自分の手がひどく冷たいことに気づいた。

 

 室内は寒くない。

 

 外では日差しが強まり、作業員たちが汗を拭いている。

 

 それなのに、俺の指先だけが冷えていた。

 

 握りしめても、なかなか温かくならなかった。

 

     ♦

 

「座れ」

 

 タラゴンに呼ばれたのは、終業まであと一時間ほどという頃だった。

 

 事務所の奥へ入ると、机の上に俺が書き間違えた伝票が置かれていた。

 

 胸の奥が冷えた。

 

「……すみません。確認不足でした」

 

「謝罪は聞いた。今は座れ」

 

 言われるまま椅子へ腰を下ろす。

 

 タラゴンは向かいに座り、しばらく俺の顔を見ていた。

 

「リュカ。お前、ちゃんと寝てるのか」

 

「……寝てます」

 

「何時間だ」

 

 即答できなかった。

 

 昨夜は、何時に帰っただろう。

 

 夜明け前だったことは覚えている。帰宅してゼラオラとヤブクロンの様子を確かめ、寝袋へ入った。そのあと、スマートフォンの通知が鳴った気がする。

 

 目を閉じた時間と、起きた時間。

 

 その差を計算しようとして、頭の中で数字が絡まった。

 

「……三時間くらいです」

 

 ようやく答えると、タラゴンは目を閉じた。

 

「毎日か」

 

「……日によります」

 

「二時間の日もあるってことだな」

 

 黙っていると、重いため息が聞こえた。

 

「飯は?」

 

「食べてます」

 

「何を」

 

「……パンとか、惣菜とか」

 

「それで足りてると思うか」

 

「……」

 

「お前、最近どれだけ痩せたか分かってるのか」

 

 分からなかった。

 

 体重計なんて持っていない。

 

 ただ、作業着の腰回りが緩くなったとは思っていた。以前はちょうどよかったベルトの穴を、一つ詰めるようになった。袖を捲ると、手首の骨が前より目立つ。

 

 それくらいだった。

 

 俺が黙っていると、タラゴンは伝票を脇へ寄せた。

 

「事情があるのは分かる。金が必要なのか、何か困ってるのか、俺にはまだ分からん。だがお前、このままじゃいつか倒れるぞ」

 

「……大丈夫です」

 

「その言葉を、何回聞いたと思う」

 

 声は荒くなかった。

 

 だからこそ、逃げ場がなかった。

 

「俺はな、お前の働きぶりを買ってる。真面目だし、手を抜かん。ほかの連中が嫌がる仕事も黙ってやる。だからこそ言ってるんだ」

 

 タラゴンは一度言葉を切った。

 

「倒れるまで働く奴は、立派なんじゃねえ。倒れる前に止まれなくなってるだけだ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。

 

 違う、と言いたかった。

 

 俺は止まれないわけじゃない。

 

 止まらないだけだ。

 

 母さんのために、今できることを選んでいるだけだ。

 

 やめようと思えば、いつだってやめられる。

 

 そのはずだった。

 

「……仕事は、続けさせてください」

 

 気づけば、そんなことを言っていた。

 

「頼みます。間違いは減らします。睡眠も取るようにしますから」

 

 タラゴンは、すぐには答えなかった。

 

 俺は膝の上で手を握った。

 

 指先はまだ冷たかった。

 

「……続けたいなら、続けられる身体を作れ」

 

 やがて、低い声が返ってきた。

 

「明日から当面、現場の作業は外す。資材の運搬もさせん。事務所の仕事を中心にして、確認は必ず誰かと二人でやれ」

 

「……はい」

 

「それと、休みを取れ。病院にも行け。ここで仕事中に倒れられちゃ、俺たちも困る」

 

 病院。

 

 その単語が、ひどく遠く感じられた。

 

 俺が病院へ行けば、時間がかかる。診察代も必要になる。休みを取れば、その日の仕事が進まない。

 

 夜のZAロワイヤルにも出られなくなるかもしれない。

 

 その考えが真っ先に浮かんでしまった自分を、俺はどこか他人事のように見ていた。

 

「……分かりました」

 

 そう答えた。

 

 けれど、その時点で俺は、今夜のバトルゾーンをどう回るか考えていた。

 

     ♦

 

 Wランクへ昇格したのは、その週の終わりだった。

 

 ランクアップ戦の相手は、三匹のポケモンを繰り出した。

 

 ゼラオラは、いつもどおり強かった。

 

 俺が技を指示すると、あいつは迷いなく動いた。一匹目が倒れ、二匹目が倒れ、最後の一匹も起き上がれなくなるまで、それほど時間はかからなかった。

 

 対戦相手が敗北を認め、昇格の通知が届いた。

 

 Wランク。

 

 俺は画面を一度確認し、すぐに閉じた。

 

 勝った相手の名前を、覚えていない。

 

 どんな顔をしていたのかも、はっきりしない。

 

 覚えているのは、その夜の賞金メダルの枚数と、夜明けまでに残された時間だけだった。

 

 帰り道、ゼラオラが俺の前へ回り込んだ。

 

「……どうした」

 

 あいつは立ち止まり、俺の顔を見上げる。

 

 そこで初めて、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。

 

 走っていたわけじゃない。

 

 ただ歩いていただけだ。

 

 それなのに、胸が苦しかった。

 

「……少し、休むか」

 

 近くのベンチへ腰を下ろす。

 

 ゼラオラが隣に座り、俺の手へ前脚を重ねた。

 

 冷たい指先が、毛並みの温かさに包まれる。

 

 俺はしばらく、何も言えなかった。

 

 遠くでは、ほかのトレーナーたちが笑っていた。勝負の結果を話し合い、次にどこへ行こうかと相談している。

 

 俺も、あんなふうに戦っていた時期があった。

 

 前世の記憶なんてものはない。

 

 ただ、子供の頃にゼラオラと遊びながら覚えた技や、初めて真剣に勝負した日の興奮なら覚えている。

 

 勝つことが嬉しかった。

 

 相手の動きを読み、ゼラオラと息を合わせ、思いどおりに戦えたときには、胸が熱くなった。

 

 今は、どうだろう。

 

 勝利の通知が届いても、ほとんど何も感じない。

 

 それなのに、換金額が予想を下回ると、ひどく落ち込む。

 

「……俺、何やってんだろうな」

 

 小さく呟く。

 

 ゼラオラが、こちらを見た。

 

 俺はその頭へ手を伸ばした。

 

「……悪い。何でもない」

 

 あいつは目を閉じなかった。

 

 いつまでも、俺を見ていた。

 

     ♦

 

 カナリィが以前より頻繁に工務店へ来るようになったことには、ほかの作業員も気づいていた。

 

「最近、カナリィちゃんと仲いいのか?」

 

 昼休みの終わり際、同僚からそう聞かれた。

 

「……別に。話すことはありますけど」

 

「そうか? 昨日もお前のこと聞いてたぞ」

 

 手元の伝票から顔を上げる。

 

「……俺のこと?」

 

「ああ。今日はもう帰ったのかって。昨日はタラゴンさんに早退させられてただろ?」

 

 そうだった。

 

 前日は午後から頭痛がひどくなり、作業を続けられなくなった。タラゴンから帰って休めと言われ、ゼラオラとヤブクロンを連れて、いつもより早く工務店を出たのだ。

 

 部屋へ戻って少し横になったあと、結局その夜もZAロワイヤルへ出ていた。

 

「……何か用事でもあったんですかね」

 

「さあな。お前がいないって言ったら、妙に慌ててたけど」

 

 同僚はそれ以上深く聞かなかった。

 

 俺も仕事へ戻った。

 

 だが、その日の夕方、またカナリィが現れた。

 

「……あ。いた」

 

 休憩室の入口で、彼女が足を止める。

 

 俺は書類を片付けているところだった。タラゴンに頼まれた最後の確認が終わり、あとは帰るだけになっていた。

 

「……何だよ」

 

「別に」

 

 カナリィは短く答えた。

 

 しかし、いつものようにすぐ近づいてこなかった。

 

 少し離れた場所に立ったまま、俺の顔をじっと見ている。

 

「……昨日、早く帰ったんだって?」

 

「……ああ」

 

「何で?」

 

「頭が痛かったから」

 

 その瞬間、カナリィの表情が変わった。

 

「は? 大丈夫なの?」

 

「寝たら治った」

 

「ほんとに?」

 

「……ああ」

 

 カナリィは何か言いかけて、口を閉じた。

 

 それから、小さく息を吐く。

 

「……そっか」

 

 妙に静かな返事だった。

 

 俺は鞄へ書類をしまい、立ち上がった。

 

「配信は?」

 

「もう終わった」

 

「そうか。お疲れ」

 

 言うと、彼女が目を瞬かせた。

 

「……なに、急に」

 

「何が?」

 

「いや、別に……」

 

 カナリィは視線を逸らした。

 

 それから、思い出したように腕を組む。

 

「ていうか、おまえさ。せっかく早く帰ったんなら、ちゃんと寝てなよ」

 

「寝たよ」

 

「何時間?」

 

 また、その質問だった。

 

 最近、誰と話していても同じことを聞かれる。

 

 寝ているか。

 

 食べているか。

 

 身体は大丈夫か。

 

 俺は仕事の話がしたかった。ランクが上がったことなら、少しは話せるかもしれない。だが、誰もそんなことを聞いてこなかった。

 

「……必要なだけ」

 

「何それ。答えになってないじゃん」

 

「……」

 

「ねえ、ちゃんと言ってよ」

 

 カナリィが一歩近づいてくる。

 

「おまえ、最近ほんとにおかしいよ。前から感じ悪かったけど、今はそれ以前の問題っていうか……」

 

「……食ってるし、寝てるよ」

 

「嘘。絶対嘘じゃん」

 

 思わず顔を上げた。

 

 カナリィは、まっすぐこちらを見ていた。

 

「だって、前よりずっと痩せてる。顔色も悪いし、話しててもぼーっとしてることあるし。ぼくが話しかけても、聞こえてないときあるじゃん」

 

「……疲れてるだけだ」

 

「だから、休めって言ってるんでしょ!」

 

 声が大きくなった。

 

 その瞬間、近くで休んでいたヤブクロンが身体を縮める。

 

 カナリィはすぐに口を閉じた。

 

「……ごめん」

 

 小さな声で、ヤブクロンに謝る。

 

 それから、もう一度俺を見た。

 

「……ねえ。何でそんなに無理するわけ」

 

 答えられなかった。

 

 答えたくなかった。

 

 ここで母さんの話をすれば、きっと彼女は心配する。何か手伝おうとするかもしれない。知り合いを紹介すると言い出すかもしれない。

 

 カナリィは有名な配信者だ。

 

 金も、人脈も、俺なんかよりずっと持っているのだろう。

 

 だからこそ、怖かった。

 

 助けてもらえば、きっと何かを返さなければならない。何も返せなければ、いつか相手の善意に押し潰される。

 

 そうなるくらいなら、最初から受け取らなければいい。

 

「……お前には関係ない」

 

 いつもの言葉だった。

 

 何度も使ってきた言葉。

 

 それを言えば、相手は怒るか、呆れるか、離れていく。

 

 だから今回も、そうなると思っていた。

 

 けれどカナリィは、何も言い返さなかった。

 

 唇をきつく結び、俺を見ている。

 

 やがて、ふっと視線を落とした。

 

「……そっか」

 

 それだけだった。

 

 いつものように怒鳴られるより、胸が痛んだ。

 

 俺は何かを言おうとした。

 

 だが、言葉が見つからなかった。

 

 カナリィは静かに鞄を持ち直した。

 

「……じゃあ、帰る」

 

「……ああ」

 

 彼女は扉へ向かった。

 

 しかし、出ていく直前に一度だけ振り返った。

 

「……おまえが何考えてるか、ぼくには分かんないけどさ」

 

 声が、少しだけ震えていた。

 

「倒れたら、ほんとに何にもできなくなるんだからね」

 

 そう言い残し、部屋を出ていった。

 

 俺は、しばらく動けなかった。

 

 ゼラオラが静かに近づいてくる。

 

 ヤブクロンも、その後ろにいた。

 

「……分かってるよ」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

「そんなこと、言われなくても」

 

 分かっている。

 

 分かっているはずだった。

 

 それなのに、今夜も俺は戦いに行く。

 

     ♦

 

 母さんから電話があったのは、その二日後だった。

 

 仕事を終えて部屋へ戻り、ゼラオラとヤブクロンの食事を用意していたときだった。

 

 古いスマートフォンが震え、画面に母さんの名前が表示される。

 

 俺は手を拭き、通話をつないだ。

 

「もしもし、母さん」

 

『リュカ。今、大丈夫?』

 

「うん。ちょうど帰ってきたところだよ」

 

 自然と、声が柔らかくなる。

 

 それを聞いていたゼラオラが、こちらを見た。

 

『お仕事、お疲れさま。ちゃんと食べた?』

 

「これから食べるところ。今日はね、ちょっと忙しかったんだ」

 

『そうなの。無理してない?』

 

「大丈夫だよ。僕は元気だから」

 

 いつものやり取りだった。

 

 母さんは少し安心したように笑った。

 

 それから、診療所の先生と話したことを教えてくれた。

 

 専門施設への紹介は進んでいるが、腫瘍の位置や神経への影響を詳しく調べなければ、手術の可否や方法は決められないらしい。受け入れ先での診察も必要で、今すぐ日程が確定するわけではないという。

 

『でもね、先生が言ってたの。急がないといけないことはあるけど、焦って決めていいことじゃないって』

 

「……うん」

 

『だから、私もちゃんと話を聞いて、考えようと思うの』

 

「そうだね。それがいいと思う」

 

 母さんの声は、思っていたより落ち着いていた。

 

 少しずつ悪くなっている身体のことを、俺よりずっと冷静に受け止めているように聞こえた。

 

 だから余計に、自分だけが焦っている気がした。

 

『それから、お金のことなんだけど』

 

 心臓が小さく跳ねた。

 

『また、たくさん送ってくれたでしょう?』

 

「……うん」

 

『ありがとう。本当に助かってる。でもね、リュカ。あんなに無理して送らなくてもいいのよ』

 

「無理なんかしてないよ」

 

『本当に?』

 

「うん。仕事も順調だし、ちょっと収入が増えただけだから」

 

 電話の向こうで、母さんが小さく息を吐く。

 

『あなたの声、少し疲れてる気がするわ』

 

「……気のせいだよ」

 

『リュカ』

 

 名前を呼ばれた。

 

 その声は、昔と同じだった。

 

 俺が熱を出したとき。

 

 学校で嫌なことがあったとき。

 

 ゼラオラの怪我が治らず、不安で眠れなかった夜。

 

 母さんはいつも、こんなふうに名前を呼んでくれた。

 

『私のことを考えてくれるのは、すごく嬉しい。でも、あなたが自分を大切にしてくれないと、母さんは悲しいのよ』

 

 喉の奥が詰まった。

 

「……分かってる」

 

『本当に、分かってる?』

 

「……うん。僕は大丈夫だから」

 

 それ以上、何も言えなかった。

 

 母さんはしばらく黙っていた。

 

 やがて、いつものように優しい声で言った。

 

『……ゼラオラたちにも、よろしくね』

 

「うん。今、二匹ともいるよ」

 

 ゼラオラが小さく鳴く。

 

 ヤブクロンも、少し遅れて声を上げた。

 

 母さんが笑った。

 

『にぎやかになったわね。いつか会えるといいなあ』

 

「……うん」

 

 その一言が、胸に刺さった。

 

 いつか。

 

 その日が来る保証なんて、どこにもない。

 

 俺は、あの日を迎えるために戦っている。

 

 母さんが元気になって、ゼラオラとヤブクロンに会える日。

 

 三人だった家族が、四人になって、一緒に食卓を囲める日。

 

 そのためなら、何だってできる。

 

 そう思った。

 

 通話が切れたあと、俺はしばらくスマートフォンを握りしめていた。

 

 ゼラオラが近づき、俺の膝へ前脚を乗せる。

 

「……大丈夫だよ」

 

 いつもの言葉が口から出た。

 

 あいつは、何も言わなかった。

 

 ただ、俺の手を離そうとしなかった。

 

     ♦

 

 Vランクへ昇格したのは、二か月目も終わりに近づいた頃だった。

 

 その頃には、夜の街を走ることが生活の一部になっていた。

 

 仕事が終わる。

 

 部屋へ帰る。

 

 ゼラオラとヤブクロンの食事を用意する。

 

 自分の食事は、食べられるときに済ませる。

 

 日が落ちれば、ZAロワイヤルへ向かう。

 

 勝つ。

 

 メダルを集める。

 

 夜明けとともに換金結果を確認する。

 

 帰宅して、少し眠る。

 

 そして、また仕事へ行く。

 

 何日も同じことを繰り返しているうちに、日付の感覚が曖昧になっていた。

 

 昨日の夜と、一昨日の夜。

 

 どちらでどのトレーナーを倒したのか、思い出せない。

 

 覚えているのは、換金額だけだった。

 

 ランクアップ戦では、ゼラオラが三匹のポケモンを倒した。

 

 相手がどんな指示を出したのか、俺はほとんど覚えていない。

 

 勝ったことは覚えている。

 

 ゼラオラが怪我をしなかったことも、確かめた。

 

 だが、試合が終わってから自分が何を言ったのか、思い出せなかった。

 

 気づけば、画面にVランク昇格の通知が表示されていた。

 

 俺はそれを見て、ただ頷いた。

 

「……次だな」

 

 ゼラオラがこちらを見る。

 

「次に上がれば、また近づく」

 

 何に近づくのか。

 

 もちろん、Aランクだ。

 

 母さんの治療だ。

 

 そのはずなのに、最近は自分が何のために戦っているのかを、何度も確かめなければならなくなっていた。

 

 勝つこと自体が目的になっているわけじゃない。

 

 金を稼ぐことだけが目的でもない。

 

 俺は、母さんを救いたい。

 

 ただ、それだけだ。

 

 なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

 

     ♦

 

 その翌朝、工務店で奇妙なことが起きた。

 

 午前中、俺は事務所で資材の発注記録を確認していた。

 

 タラゴンの指示どおり、現場には出ず、書類の整理だけを任されている。

 

 机には伝票が並び、横には確認済みの書類が積まれていた。

 

 俺は一枚ずつ数字を照らし合わせていた。

 

 そのはずだった。

 

「……リュカ?」

 

 名前を呼ばれた。

 

 顔を上げると、同僚が心配そうにこちらを見ていた。

 

「大丈夫か?」

 

「……はい?」

 

「いや、さっきからずっと同じところ見てるから」

 

 手元へ視線を落とす。

 

 同じ伝票が、開かれたままだった。

 

 鉛筆は握っている。

 

 だが、何も書いていない。

 

「……すみません。ちょっと考え事を」

 

「そうか。無理すんなよ」

 

 同僚が離れていく。

 

 俺はもう一度、伝票を見た。

 

 何を確認していたのか、思い出せなかった。

 

 最後に覚えているのは、朝の点呼だった。

 

 そのあと、事務所へ来た。

 

 席に座り、書類を広げた。

 

 そこまでは覚えている。

 

 だが、何枚確認したのか。

 

 誰と話したのか。

 

 どれくらい時間が経っているのか。

 

 その一部が、ぽっかりと抜け落ちていた。

 

 机の上の時計を見る。

 

 思っていたより、ずっと時間が進んでいた。

 

 背中に冷たいものが走った。

 

「……何だ、これ」

 

 小さく呟く。

 

 指先が震えた。

 

 鉛筆を持ち直そうとして、床へ落とした。

 

 拾おうとすると、視界が一瞬暗くなった。

 

 慌てて机へ手をつく。

 

 息を整え、ゆっくり身体を起こす。

 

 誰にも見られていないことを確かめた。

 

 情けなかった。

 

 怖かった。

 

 でも、それ以上に、仕事を失うことが怖かった。

 

 もしタラゴンに知られたら、また休まされる。

 

 そうなれば、昼の収入が減るかもしれない。

 

 休んでいる時間、何もできなくなる。

 

 その間にも、母さんの病気は進んでいくかもしれない。

 

 俺は鉛筆を拾い、伝票を一枚目から確認し直した。

 

 何もなかったことにした。

 

 そうするしかなかった。

 

     ♦

 

 夕方、カナリィがまた工務店へ来た。

 

 配信を終えてから寄ったらしく、少し疲れた顔をしていた。それでも休憩室の扉を開けると、真っ先にこちらを見た。

 

「……あ。いた」

 

 最近、よく聞く言葉だった。

 

「……いるよ。仕事だからな」

 

「分かってるし」

 

 カナリィは椅子へ座った。

 

 手には、小さな紙袋を持っていた。

 

「……これ」

 

 机の上に置かれる。

 

 中には、惣菜パンが二つ入っていた。

 

「買いすぎたから、ひとつあげる」

 

「……いらない」

 

「は?」

 

「自分の分はある」

 

 鞄から、いつものパンを取り出した。

 

 カナリィは、それを見て眉をひそめる。

 

「……またそれ?」

 

「悪いかよ」

 

「悪いっていうか……。おまえ、ほんとにそればっかりじゃん」

 

「……好きなんだよ」

 

 嘘だった。

 

 嫌いではない。

 

 ただ、安いから買っているだけだ。

 

 カナリィはしばらく俺を見ていた。

 

 それから、紙袋を自分の方へ引き寄せる。

 

「……ふーん。じゃあ、ぼくが食べる」

 

「そうしろよ」

 

「……ほんっと、かわいくない」

 

 言葉はいつもどおりだった。

 

 だが、声に力がなかった。

 

 彼女は一つ目のパンを取り出し、包装を開けた。食べ始めても、もう一つには手をつけようとしない。

 

 俺は自分のパンを口へ運んだ。

 

 噛む。

 

 飲み込む。

 

 その動作が、以前より少し面倒になっていることに気づいた。

 

 腹が減っていないわけではない。

 

 ただ、食べたいと思えない。

 

 口へ入れても、味がよく分からない。

 

 半分ほど食べたところで、手が止まった。

 

 カナリィがこちらを見る。

 

「……もう食べないの?」

 

「……あとで」

 

「あとでって、いつ?」

 

「……」

 

「ねえ、リュカ」

 

 名前を呼ばれた。

 

 いつもの「おまえ」ではなかった。

 

 思わず顔を上げる。

 

 カナリィは、真剣な表情をしていた。

 

「……お願いだから、ちゃんと食べて」

 

 胸の奥が、嫌な音を立てた。

 

 怒鳴られたわけじゃない。

 

 責められたわけでもない。

 

 ただ、頼まれただけだった。

 

 それなのに、どうしてか息苦しくなった。

 

「……食ってるよ」

 

「嘘。絶対嘘じゃん」

 

 彼女は静かに言った。

 

「おまえ、自分がどれだけ痩せたか分かってないでしょ」

 

「……」

 

「ぼく、最初に会ったときのこと覚えてるよ。あのときだって細かったけど、今はもっと……」

 

 言葉が途切れる。

 

 カナリィは唇を噛んだ。

 

 俺は、目を逸らした。

 

「……お前には関係ない」

 

 また、その言葉だった。

 

 自分でも嫌になるほど、簡単に口から出た。

 

 カナリィは、しばらく何も言わなかった。

 

 やがて、紙袋を握りしめる。

 

「……そうだね」

 

 小さな声だった。

 

「ぼくには、関係ないんだよね」

 

 胸が痛んだ。

 

 けれど、何も言えなかった。

 

 カナリィは立ち上がった。

 

 いつものように怒鳴らない。

 

 嫌味も言わない。

 

 ただ、少しだけ俯いていた。

 

「……でもさ」

 

 扉の前で、足を止める。

 

「関係ないって言われても、心配くらいするから」

 

 それだけ言って、出ていった。

 

 俺は、しばらく動けなかった。

 

 机の上には、食べかけのパンが残っていた。

 

 カナリィの紙袋も、置かれたままだった。

 

 中には、もう一つの惣菜パンが入っている。

 

 彼女が忘れていったのか。

 

 それとも、わざと置いていったのか。

 

 分からなかった。

 

 俺は、その紙袋へ手を伸ばさなかった。

 

 受け取れば、何かが変わってしまう気がした。

 

 それが怖かった。

 

     ♦

 

 その夜も、ZAロワイヤルへ向かった。

 

 Vランクになっても、やることは変わらない。

 

 勝つ。

 

 メダルを集める。

 

 夜明けまで走る。

 

 母さんのために、少しでも多くの金を稼ぐ。

 

 ゼラオラは、いつもどおり隣にいた。

 

 ヤブクロンは、夜のあいだは部屋で休んでいる。新しく仲間になったばかりのあいつまで、俺の都合に付き合わせるつもりはなかった。

 

 ゼラオラにも、何度も休息を取らせている。

 

 あいつが疲れれば、その日は帰る。

 

 そこだけは守っていた。

 

 だが、自分自身については、もう何が正しいのか分からなくなっていた。

 

 足が重い。

 

 指先が冷たい。

 

 頭の奥が、ずっと鈍く痛んでいる。

 

 それでも、戦いになれば指示は出せた。

 

 ゼラオラは勝ってくれた。

 

 メダルも増えた。

 

 だから、まだ大丈夫だと思った。

 

 少なくとも、そう思いたかった。

 

 夜明け前。

 

 赤いバトルゾーンの光が薄れていく中、俺は街路樹の下で立ち止まった。

 

 ゼラオラが隣に来る。

 

 俺はスマートフォンを取り出し、昨夜の換金結果を確かめた。

 

 数字が表示される。

 

 昨日より、多かった。

 

「……よし」

 

 小さく呟く。

 

 それだけで、少しだけ救われた気がした。

 

 母さんに送れる金が増える。

 

 また、一歩近づける。

 

 何に近づいているのか。

 

 その答えを考える前に、画面を閉じた。

 

 ゼラオラが、俺の手を握る。

 

 温かかった。

 

 その温かさに触れて初めて、自分の指先がひどく冷えていることを思い出した。

 

「……大丈夫だよ」

 

 俺は笑おうとした。

 

 うまく笑えたかどうかは、分からなかった。

 

 遠くでは、ミアレの街が朝を迎えようとしていた。

 

 人々が目を覚まし、店が開き、今日という一日が始まる。

 

 俺も、もうすぐ仕事へ行かなければならない。

 

 帰って、少し眠って、また働く。

 

 それでいい。

 

 まだ歩ける。

 

 まだ考えられる。

 

 まだ、ゼラオラに指示を出せる。

 

 仕事だって、間違えなければ続けられる。

 

 だったら、止まる理由なんてない。

 

 俺は自分の手を見下ろした。

 

 細くなった指。

 

 浮き上がった骨。

 

 震えを隠すように握り込んだ拳。

 

 その手で、まだ何かを掴めると信じていた。

 

 働けなくなれば、母さんを救えない。

 

 ならば、働ける限り働けばいい。

 

 たとえ、壊れるまでだったとしても。

 

 俺は、まだ働ける。

 

 その言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、ゼラオラとともに夜明けの道を歩いた。

 

 隣を歩くあいつが、何度も俺の顔を見上げていることには、気づかないふりをした。

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