君の知らない夜を売って、僕は明日を買っている。 作:霜月ルイ
人間は、眠らなければ死ぬ。
そんなことは知っている。
子供の頃、母さんから何度も言われた。夜更かしをしてゼラオラと遊んでいた俺を見つけると、母さんは困ったように笑いながら、眠ることも身体を守るための大切な仕事なのだと教えてくれた。
あの頃は、明日が来るのが楽しみだった。
朝になればゼラオラと森へ行けたし、学校から帰れば母さんの作った夕食が待っていた。特別なものが食卓に並ぶことは少なかったけれど、三人で囲む食事はいつも温かかった。
だから、早く明日になってほしかった。
今は違う。
夜が明ければ、仕事が始まる。
仕事が終われば、夜が来る。
夜が来れば、戦わなければならない。
その繰り返しのどこに眠る時間を挟めばいいのか、最近はよく分からなくなっていた。
♦
ZAロワイヤルへの参加を始めてから、二か月目に入っていた。
最初の一週間は、驚くことばかりだった。たった一晩で何万円もの金が手に入る。工務店で何日も働かなければ届かなかった額が、夜明けとともに口座へ振り込まれる。
あれほど遠かった金額が、簡単に手の届く場所へ来た。
いや、簡単というのは正しくない。
ゼラオラがいなければ、俺は一勝だってできなかったかもしれない。夜の街を走り回り、相手を探し、次のバトルゾーンへ移動する。限られた時間の中で一人でも多く倒そうとすれば、身体を休める余裕はほとんどなかった。
ただ、それでも昼間の労働に比べれば、効率はあまりにもよかった。
だから、やめられなくなった。
「……あと四人か」
赤く照らされた歩道の端で、俺はスマートフォンの画面を確認した。
連続勝利による換金倍率が、もう少しで次の段階へ上がる。時間はまだ残っている。バトルゾーンの境界を越えれば、別の区域に何人かトレーナーがいるはずだった。
ゼラオラが隣に立っている。
黄色い毛並みには目立った傷もなく、呼吸も落ち着いていた。あいつの様子を確かめてから、俺は先へ進もうとした。
そこで、足元がわずかに揺れた。
舗装された地面が傾いたように感じたのは、ほんの一瞬だった。
立ち止まり、街路樹の根元へ手をつく。
「……大丈夫だ」
ゼラオラがすぐに振り返った。
「ちょっと立ちくらみがしただけ。お前は何ともないだろ?」
あいつは俺の顔を見つめたまま、動かなかった。
休めと言いたいのだろう。
最近、同じようなことが増えていた。俺が少しでも足を止めると、ゼラオラは必ず近づいてくる。座れと促し、帰ろうと袖を引く。
そのたびに、俺は同じ答えを返していた。
「あと少しだけだ」
ゼラオラの耳が伏せられる。
「本当に、あと少し」
俺は壁から手を離した。
ふらつきは収まっていた。
歩ける。考えられる。指示も出せる。
だったら、まだ問題ない。
そう判断して、次のバトルゾーンへ向かった。
その夜、目標の勝利数には届いた。
翌朝、換金結果を確認したとき、俺は達成感より先に、昨夜より増えた金額を計算していた。
身体の具合がどうだったかは、もう考えていなかった。
♦
ヤブクロンが家族になってから、部屋には小さな変化が生まれた。
六畳の古い部屋に、新しい家具が増えたわけではない。
相変わらず、俺の寝袋とゼラオラの布団があるだけだ。そこへヤブクロンが加わり、布団の端に小さな身体を丸めるようになった。
最初は、誰かが近づくたびに怯えていた。
俺が立ち上がるだけでも身体を縮め、物を落とすと反射的に部屋の隅へ逃げた。ゼラオラがゆっくり近づいても、慣れるまでは少し時間がかかった。
それが最近では、俺が帰ってくると玄関まで迎えに来る。
仕事から戻ると、小さな足音が床を叩く。ゼラオラの後ろから顔を出し、遠慮がちにこちらを見上げる。
その姿を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「ただいま」
声をかけると、ヤブクロンが小さく鳴いた。
ゼラオラは先に部屋へ戻り、いつものように布団へ腰を下ろす。ヤブクロンもその後を追いかけるが、途中で立ち止まり、俺がちゃんとついてきているかを確かめる。
「……いるよ。大丈夫」
そう言うと、安心したようにまた歩き出した。
ヤブクロンの食事については、ポケモンセンターで相談した。
必要な栄養を取れるように、専用のフードも用意している。野生で暮らしていた頃に口にしていたものとは違うらしく、最初は戸惑っていたが、今ではきちんと食べてくれるようになった。
ゼラオラとヤブクロンの食事だけは、欠かさず用意した。
それが終わると、自分の分を鞄から取り出す。
値引きされたパン。
中身の少ない惣菜。
ときには、何も食べずに水を飲んで済ませることもあった。
金がないわけではない。
口座には、以前なら考えられなかった額が残っている。母さんへ送金する分を確保したうえで、俺自身がまともな食事を買うことだってできる。
それでも、自分のために金を使おうとすると、胸の内側に妙な抵抗が生まれた。
今日の食費を少し減らせば、明日送れる額が増える。
明日の食費も減らせば、さらに増える。
たった数百円の違いだと分かっていても、その数百円を残せなかった自分が、ひどく怠けているように感じられた。
ヤブクロンは、俺が食べ終わるまで近くにいることが増えた。
ある夜、パンを半分ほど残したまま横になろうとすると、小さな手が包装袋を押してきた。
「……何だ?」
ヤブクロンはパンを見て、それから俺を見る。
「腹は減ってないよ」
もう一度、袋を押された。
ゼラオラまで隣へ来た。
「……お前ら、二人して何だよ」
返事はなかった。
ただ、食べるまで動かないつもりらしい。
仕方なく残りを口へ運ぶと、ヤブクロンはようやく布団へ戻った。ゼラオラも、それを確かめてから横になる。
俺は二匹の背中を見ながら、少しだけ笑った。
けれど、その優しさを嬉しいと思うほど、胸が苦しくなった。
俺が守らなければならないはずなのに。
どうして、こんな小さなポケモンにまで心配をかけているのだろう。
♦
最初の異変を指摘されたのは、それから三日後だった。
「リュカ、この数字、合ってるか?」
同僚に声をかけられ、俺は手元の伝票を見た。
午前中に確認した部材の数量が記入されている。品目も、納品日も、確認者の名前も間違っていない。少なくとも、最初に見たときはそう思った。
「……何か問題ありましたか」
「こっち、七十二本だろ。お前、二十七本って書いてるぞ」
指差された数字を見て、言葉が止まった。
確かに、二十七と書いてあった。
どうして間違えたのか、分からなかった。
俺は数えたはずだ。一本ずつ確認し、束になっているものも解いて、数量が合っていることを確かめた。その記憶はある。
けれど、二十七と書いた記憶がない。
「……すみません。訂正します」
「いや、訂正すりゃいいんだけどさ。最近、こういうの増えてないか?」
同僚の声に責める響きはなかった。
それが、かえって堪えた。
以前はこんな間違いをしなかった。
数字を確認する仕事は得意だった。大きな作業を任せてもらえない時期でも、細かな記録や数量確認だけは信用してもらえていた。
その信用を、自分で崩している。
「……気をつけます」
伝票を受け取り、訂正した。
赤い線を引き、正しい数字を書き直す。指先が微かに震え、七の横線が歪んだ。
同僚はそれ以上何も言わなかった。
ただ、俺が書き終えるまで、その場を離れなかった。
午後には、さらに別の失敗をした。
倉庫へ取りに行った部品を作業台へ置き、工具を探しに行く。戻ってから、何のためにその部品を持ってきたのか分からなくなった。
手元には必要なものが揃っている。
作業指示も聞いた。
それなのに、何をすればいいのかが思い出せない。
数秒のことだったと思う。
あるいは、もっと長かったのかもしれない。
気づけば、俺は作業台の前で立ち尽くしていた。
「……リュカ?」
名前を呼ばれた。
隣にいた作業員が、こちらを見ていた。
「大丈夫か?」
「……はい」
「さっきから呼んでたんだけど」
俺は何も答えられなかった。
呼ばれていたことに、気づいていなかった。
そのあと何とか作業を再開したものの、手の震えが収まらなかった。部品を掴もうとすると指先が滑り、何でもない金属片を床へ落としてしまう。
拾い上げたとき、自分の手がひどく冷たいことに気づいた。
室内は寒くない。
外では日差しが強まり、作業員たちが汗を拭いている。
それなのに、俺の指先だけが冷えていた。
握りしめても、なかなか温かくならなかった。
♦
「座れ」
タラゴンに呼ばれたのは、終業まであと一時間ほどという頃だった。
事務所の奥へ入ると、机の上に俺が書き間違えた伝票が置かれていた。
胸の奥が冷えた。
「……すみません。確認不足でした」
「謝罪は聞いた。今は座れ」
言われるまま椅子へ腰を下ろす。
タラゴンは向かいに座り、しばらく俺の顔を見ていた。
「リュカ。お前、ちゃんと寝てるのか」
「……寝てます」
「何時間だ」
即答できなかった。
昨夜は、何時に帰っただろう。
夜明け前だったことは覚えている。帰宅してゼラオラとヤブクロンの様子を確かめ、寝袋へ入った。そのあと、スマートフォンの通知が鳴った気がする。
目を閉じた時間と、起きた時間。
その差を計算しようとして、頭の中で数字が絡まった。
「……三時間くらいです」
ようやく答えると、タラゴンは目を閉じた。
「毎日か」
「……日によります」
「二時間の日もあるってことだな」
黙っていると、重いため息が聞こえた。
「飯は?」
「食べてます」
「何を」
「……パンとか、惣菜とか」
「それで足りてると思うか」
「……」
「お前、最近どれだけ痩せたか分かってるのか」
分からなかった。
体重計なんて持っていない。
ただ、作業着の腰回りが緩くなったとは思っていた。以前はちょうどよかったベルトの穴を、一つ詰めるようになった。袖を捲ると、手首の骨が前より目立つ。
それくらいだった。
俺が黙っていると、タラゴンは伝票を脇へ寄せた。
「事情があるのは分かる。金が必要なのか、何か困ってるのか、俺にはまだ分からん。だがお前、このままじゃいつか倒れるぞ」
「……大丈夫です」
「その言葉を、何回聞いたと思う」
声は荒くなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「俺はな、お前の働きぶりを買ってる。真面目だし、手を抜かん。ほかの連中が嫌がる仕事も黙ってやる。だからこそ言ってるんだ」
タラゴンは一度言葉を切った。
「倒れるまで働く奴は、立派なんじゃねえ。倒れる前に止まれなくなってるだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に何かが引っかかった。
違う、と言いたかった。
俺は止まれないわけじゃない。
止まらないだけだ。
母さんのために、今できることを選んでいるだけだ。
やめようと思えば、いつだってやめられる。
そのはずだった。
「……仕事は、続けさせてください」
気づけば、そんなことを言っていた。
「頼みます。間違いは減らします。睡眠も取るようにしますから」
タラゴンは、すぐには答えなかった。
俺は膝の上で手を握った。
指先はまだ冷たかった。
「……続けたいなら、続けられる身体を作れ」
やがて、低い声が返ってきた。
「明日から当面、現場の作業は外す。資材の運搬もさせん。事務所の仕事を中心にして、確認は必ず誰かと二人でやれ」
「……はい」
「それと、休みを取れ。病院にも行け。ここで仕事中に倒れられちゃ、俺たちも困る」
病院。
その単語が、ひどく遠く感じられた。
俺が病院へ行けば、時間がかかる。診察代も必要になる。休みを取れば、その日の仕事が進まない。
夜のZAロワイヤルにも出られなくなるかもしれない。
その考えが真っ先に浮かんでしまった自分を、俺はどこか他人事のように見ていた。
「……分かりました」
そう答えた。
けれど、その時点で俺は、今夜のバトルゾーンをどう回るか考えていた。
♦
Wランクへ昇格したのは、その週の終わりだった。
ランクアップ戦の相手は、三匹のポケモンを繰り出した。
ゼラオラは、いつもどおり強かった。
俺が技を指示すると、あいつは迷いなく動いた。一匹目が倒れ、二匹目が倒れ、最後の一匹も起き上がれなくなるまで、それほど時間はかからなかった。
対戦相手が敗北を認め、昇格の通知が届いた。
Wランク。
俺は画面を一度確認し、すぐに閉じた。
勝った相手の名前を、覚えていない。
どんな顔をしていたのかも、はっきりしない。
覚えているのは、その夜の賞金メダルの枚数と、夜明けまでに残された時間だけだった。
帰り道、ゼラオラが俺の前へ回り込んだ。
「……どうした」
あいつは立ち止まり、俺の顔を見上げる。
そこで初めて、自分がひどく息を切らしていることに気づいた。
走っていたわけじゃない。
ただ歩いていただけだ。
それなのに、胸が苦しかった。
「……少し、休むか」
近くのベンチへ腰を下ろす。
ゼラオラが隣に座り、俺の手へ前脚を重ねた。
冷たい指先が、毛並みの温かさに包まれる。
俺はしばらく、何も言えなかった。
遠くでは、ほかのトレーナーたちが笑っていた。勝負の結果を話し合い、次にどこへ行こうかと相談している。
俺も、あんなふうに戦っていた時期があった。
前世の記憶なんてものはない。
ただ、子供の頃にゼラオラと遊びながら覚えた技や、初めて真剣に勝負した日の興奮なら覚えている。
勝つことが嬉しかった。
相手の動きを読み、ゼラオラと息を合わせ、思いどおりに戦えたときには、胸が熱くなった。
今は、どうだろう。
勝利の通知が届いても、ほとんど何も感じない。
それなのに、換金額が予想を下回ると、ひどく落ち込む。
「……俺、何やってんだろうな」
小さく呟く。
ゼラオラが、こちらを見た。
俺はその頭へ手を伸ばした。
「……悪い。何でもない」
あいつは目を閉じなかった。
いつまでも、俺を見ていた。
♦
カナリィが以前より頻繁に工務店へ来るようになったことには、ほかの作業員も気づいていた。
「最近、カナリィちゃんと仲いいのか?」
昼休みの終わり際、同僚からそう聞かれた。
「……別に。話すことはありますけど」
「そうか? 昨日もお前のこと聞いてたぞ」
手元の伝票から顔を上げる。
「……俺のこと?」
「ああ。今日はもう帰ったのかって。昨日はタラゴンさんに早退させられてただろ?」
そうだった。
前日は午後から頭痛がひどくなり、作業を続けられなくなった。タラゴンから帰って休めと言われ、ゼラオラとヤブクロンを連れて、いつもより早く工務店を出たのだ。
部屋へ戻って少し横になったあと、結局その夜もZAロワイヤルへ出ていた。
「……何か用事でもあったんですかね」
「さあな。お前がいないって言ったら、妙に慌ててたけど」
同僚はそれ以上深く聞かなかった。
俺も仕事へ戻った。
だが、その日の夕方、またカナリィが現れた。
「……あ。いた」
休憩室の入口で、彼女が足を止める。
俺は書類を片付けているところだった。タラゴンに頼まれた最後の確認が終わり、あとは帰るだけになっていた。
「……何だよ」
「別に」
カナリィは短く答えた。
しかし、いつものようにすぐ近づいてこなかった。
少し離れた場所に立ったまま、俺の顔をじっと見ている。
「……昨日、早く帰ったんだって?」
「……ああ」
「何で?」
「頭が痛かったから」
その瞬間、カナリィの表情が変わった。
「は? 大丈夫なの?」
「寝たら治った」
「ほんとに?」
「……ああ」
カナリィは何か言いかけて、口を閉じた。
それから、小さく息を吐く。
「……そっか」
妙に静かな返事だった。
俺は鞄へ書類をしまい、立ち上がった。
「配信は?」
「もう終わった」
「そうか。お疲れ」
言うと、彼女が目を瞬かせた。
「……なに、急に」
「何が?」
「いや、別に……」
カナリィは視線を逸らした。
それから、思い出したように腕を組む。
「ていうか、おまえさ。せっかく早く帰ったんなら、ちゃんと寝てなよ」
「寝たよ」
「何時間?」
また、その質問だった。
最近、誰と話していても同じことを聞かれる。
寝ているか。
食べているか。
身体は大丈夫か。
俺は仕事の話がしたかった。ランクが上がったことなら、少しは話せるかもしれない。だが、誰もそんなことを聞いてこなかった。
「……必要なだけ」
「何それ。答えになってないじゃん」
「……」
「ねえ、ちゃんと言ってよ」
カナリィが一歩近づいてくる。
「おまえ、最近ほんとにおかしいよ。前から感じ悪かったけど、今はそれ以前の問題っていうか……」
「……食ってるし、寝てるよ」
「嘘。絶対嘘じゃん」
思わず顔を上げた。
カナリィは、まっすぐこちらを見ていた。
「だって、前よりずっと痩せてる。顔色も悪いし、話しててもぼーっとしてることあるし。ぼくが話しかけても、聞こえてないときあるじゃん」
「……疲れてるだけだ」
「だから、休めって言ってるんでしょ!」
声が大きくなった。
その瞬間、近くで休んでいたヤブクロンが身体を縮める。
カナリィはすぐに口を閉じた。
「……ごめん」
小さな声で、ヤブクロンに謝る。
それから、もう一度俺を見た。
「……ねえ。何でそんなに無理するわけ」
答えられなかった。
答えたくなかった。
ここで母さんの話をすれば、きっと彼女は心配する。何か手伝おうとするかもしれない。知り合いを紹介すると言い出すかもしれない。
カナリィは有名な配信者だ。
金も、人脈も、俺なんかよりずっと持っているのだろう。
だからこそ、怖かった。
助けてもらえば、きっと何かを返さなければならない。何も返せなければ、いつか相手の善意に押し潰される。
そうなるくらいなら、最初から受け取らなければいい。
「……お前には関係ない」
いつもの言葉だった。
何度も使ってきた言葉。
それを言えば、相手は怒るか、呆れるか、離れていく。
だから今回も、そうなると思っていた。
けれどカナリィは、何も言い返さなかった。
唇をきつく結び、俺を見ている。
やがて、ふっと視線を落とした。
「……そっか」
それだけだった。
いつものように怒鳴られるより、胸が痛んだ。
俺は何かを言おうとした。
だが、言葉が見つからなかった。
カナリィは静かに鞄を持ち直した。
「……じゃあ、帰る」
「……ああ」
彼女は扉へ向かった。
しかし、出ていく直前に一度だけ振り返った。
「……おまえが何考えてるか、ぼくには分かんないけどさ」
声が、少しだけ震えていた。
「倒れたら、ほんとに何にもできなくなるんだからね」
そう言い残し、部屋を出ていった。
俺は、しばらく動けなかった。
ゼラオラが静かに近づいてくる。
ヤブクロンも、その後ろにいた。
「……分かってるよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「そんなこと、言われなくても」
分かっている。
分かっているはずだった。
それなのに、今夜も俺は戦いに行く。
♦
母さんから電話があったのは、その二日後だった。
仕事を終えて部屋へ戻り、ゼラオラとヤブクロンの食事を用意していたときだった。
古いスマートフォンが震え、画面に母さんの名前が表示される。
俺は手を拭き、通話をつないだ。
「もしもし、母さん」
『リュカ。今、大丈夫?』
「うん。ちょうど帰ってきたところだよ」
自然と、声が柔らかくなる。
それを聞いていたゼラオラが、こちらを見た。
『お仕事、お疲れさま。ちゃんと食べた?』
「これから食べるところ。今日はね、ちょっと忙しかったんだ」
『そうなの。無理してない?』
「大丈夫だよ。僕は元気だから」
いつものやり取りだった。
母さんは少し安心したように笑った。
それから、診療所の先生と話したことを教えてくれた。
専門施設への紹介は進んでいるが、腫瘍の位置や神経への影響を詳しく調べなければ、手術の可否や方法は決められないらしい。受け入れ先での診察も必要で、今すぐ日程が確定するわけではないという。
『でもね、先生が言ってたの。急がないといけないことはあるけど、焦って決めていいことじゃないって』
「……うん」
『だから、私もちゃんと話を聞いて、考えようと思うの』
「そうだね。それがいいと思う」
母さんの声は、思っていたより落ち着いていた。
少しずつ悪くなっている身体のことを、俺よりずっと冷静に受け止めているように聞こえた。
だから余計に、自分だけが焦っている気がした。
『それから、お金のことなんだけど』
心臓が小さく跳ねた。
『また、たくさん送ってくれたでしょう?』
「……うん」
『ありがとう。本当に助かってる。でもね、リュカ。あんなに無理して送らなくてもいいのよ』
「無理なんかしてないよ」
『本当に?』
「うん。仕事も順調だし、ちょっと収入が増えただけだから」
電話の向こうで、母さんが小さく息を吐く。
『あなたの声、少し疲れてる気がするわ』
「……気のせいだよ」
『リュカ』
名前を呼ばれた。
その声は、昔と同じだった。
俺が熱を出したとき。
学校で嫌なことがあったとき。
ゼラオラの怪我が治らず、不安で眠れなかった夜。
母さんはいつも、こんなふうに名前を呼んでくれた。
『私のことを考えてくれるのは、すごく嬉しい。でも、あなたが自分を大切にしてくれないと、母さんは悲しいのよ』
喉の奥が詰まった。
「……分かってる」
『本当に、分かってる?』
「……うん。僕は大丈夫だから」
それ以上、何も言えなかった。
母さんはしばらく黙っていた。
やがて、いつものように優しい声で言った。
『……ゼラオラたちにも、よろしくね』
「うん。今、二匹ともいるよ」
ゼラオラが小さく鳴く。
ヤブクロンも、少し遅れて声を上げた。
母さんが笑った。
『にぎやかになったわね。いつか会えるといいなあ』
「……うん」
その一言が、胸に刺さった。
いつか。
その日が来る保証なんて、どこにもない。
俺は、あの日を迎えるために戦っている。
母さんが元気になって、ゼラオラとヤブクロンに会える日。
三人だった家族が、四人になって、一緒に食卓を囲める日。
そのためなら、何だってできる。
そう思った。
通話が切れたあと、俺はしばらくスマートフォンを握りしめていた。
ゼラオラが近づき、俺の膝へ前脚を乗せる。
「……大丈夫だよ」
いつもの言葉が口から出た。
あいつは、何も言わなかった。
ただ、俺の手を離そうとしなかった。
♦
Vランクへ昇格したのは、二か月目も終わりに近づいた頃だった。
その頃には、夜の街を走ることが生活の一部になっていた。
仕事が終わる。
部屋へ帰る。
ゼラオラとヤブクロンの食事を用意する。
自分の食事は、食べられるときに済ませる。
日が落ちれば、ZAロワイヤルへ向かう。
勝つ。
メダルを集める。
夜明けとともに換金結果を確認する。
帰宅して、少し眠る。
そして、また仕事へ行く。
何日も同じことを繰り返しているうちに、日付の感覚が曖昧になっていた。
昨日の夜と、一昨日の夜。
どちらでどのトレーナーを倒したのか、思い出せない。
覚えているのは、換金額だけだった。
ランクアップ戦では、ゼラオラが三匹のポケモンを倒した。
相手がどんな指示を出したのか、俺はほとんど覚えていない。
勝ったことは覚えている。
ゼラオラが怪我をしなかったことも、確かめた。
だが、試合が終わってから自分が何を言ったのか、思い出せなかった。
気づけば、画面にVランク昇格の通知が表示されていた。
俺はそれを見て、ただ頷いた。
「……次だな」
ゼラオラがこちらを見る。
「次に上がれば、また近づく」
何に近づくのか。
もちろん、Aランクだ。
母さんの治療だ。
そのはずなのに、最近は自分が何のために戦っているのかを、何度も確かめなければならなくなっていた。
勝つこと自体が目的になっているわけじゃない。
金を稼ぐことだけが目的でもない。
俺は、母さんを救いたい。
ただ、それだけだ。
なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
♦
その翌朝、工務店で奇妙なことが起きた。
午前中、俺は事務所で資材の発注記録を確認していた。
タラゴンの指示どおり、現場には出ず、書類の整理だけを任されている。
机には伝票が並び、横には確認済みの書類が積まれていた。
俺は一枚ずつ数字を照らし合わせていた。
そのはずだった。
「……リュカ?」
名前を呼ばれた。
顔を上げると、同僚が心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
「……はい?」
「いや、さっきからずっと同じところ見てるから」
手元へ視線を落とす。
同じ伝票が、開かれたままだった。
鉛筆は握っている。
だが、何も書いていない。
「……すみません。ちょっと考え事を」
「そうか。無理すんなよ」
同僚が離れていく。
俺はもう一度、伝票を見た。
何を確認していたのか、思い出せなかった。
最後に覚えているのは、朝の点呼だった。
そのあと、事務所へ来た。
席に座り、書類を広げた。
そこまでは覚えている。
だが、何枚確認したのか。
誰と話したのか。
どれくらい時間が経っているのか。
その一部が、ぽっかりと抜け落ちていた。
机の上の時計を見る。
思っていたより、ずっと時間が進んでいた。
背中に冷たいものが走った。
「……何だ、これ」
小さく呟く。
指先が震えた。
鉛筆を持ち直そうとして、床へ落とした。
拾おうとすると、視界が一瞬暗くなった。
慌てて机へ手をつく。
息を整え、ゆっくり身体を起こす。
誰にも見られていないことを確かめた。
情けなかった。
怖かった。
でも、それ以上に、仕事を失うことが怖かった。
もしタラゴンに知られたら、また休まされる。
そうなれば、昼の収入が減るかもしれない。
休んでいる時間、何もできなくなる。
その間にも、母さんの病気は進んでいくかもしれない。
俺は鉛筆を拾い、伝票を一枚目から確認し直した。
何もなかったことにした。
そうするしかなかった。
♦
夕方、カナリィがまた工務店へ来た。
配信を終えてから寄ったらしく、少し疲れた顔をしていた。それでも休憩室の扉を開けると、真っ先にこちらを見た。
「……あ。いた」
最近、よく聞く言葉だった。
「……いるよ。仕事だからな」
「分かってるし」
カナリィは椅子へ座った。
手には、小さな紙袋を持っていた。
「……これ」
机の上に置かれる。
中には、惣菜パンが二つ入っていた。
「買いすぎたから、ひとつあげる」
「……いらない」
「は?」
「自分の分はある」
鞄から、いつものパンを取り出した。
カナリィは、それを見て眉をひそめる。
「……またそれ?」
「悪いかよ」
「悪いっていうか……。おまえ、ほんとにそればっかりじゃん」
「……好きなんだよ」
嘘だった。
嫌いではない。
ただ、安いから買っているだけだ。
カナリィはしばらく俺を見ていた。
それから、紙袋を自分の方へ引き寄せる。
「……ふーん。じゃあ、ぼくが食べる」
「そうしろよ」
「……ほんっと、かわいくない」
言葉はいつもどおりだった。
だが、声に力がなかった。
彼女は一つ目のパンを取り出し、包装を開けた。食べ始めても、もう一つには手をつけようとしない。
俺は自分のパンを口へ運んだ。
噛む。
飲み込む。
その動作が、以前より少し面倒になっていることに気づいた。
腹が減っていないわけではない。
ただ、食べたいと思えない。
口へ入れても、味がよく分からない。
半分ほど食べたところで、手が止まった。
カナリィがこちらを見る。
「……もう食べないの?」
「……あとで」
「あとでって、いつ?」
「……」
「ねえ、リュカ」
名前を呼ばれた。
いつもの「おまえ」ではなかった。
思わず顔を上げる。
カナリィは、真剣な表情をしていた。
「……お願いだから、ちゃんと食べて」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
怒鳴られたわけじゃない。
責められたわけでもない。
ただ、頼まれただけだった。
それなのに、どうしてか息苦しくなった。
「……食ってるよ」
「嘘。絶対嘘じゃん」
彼女は静かに言った。
「おまえ、自分がどれだけ痩せたか分かってないでしょ」
「……」
「ぼく、最初に会ったときのこと覚えてるよ。あのときだって細かったけど、今はもっと……」
言葉が途切れる。
カナリィは唇を噛んだ。
俺は、目を逸らした。
「……お前には関係ない」
また、その言葉だった。
自分でも嫌になるほど、簡単に口から出た。
カナリィは、しばらく何も言わなかった。
やがて、紙袋を握りしめる。
「……そうだね」
小さな声だった。
「ぼくには、関係ないんだよね」
胸が痛んだ。
けれど、何も言えなかった。
カナリィは立ち上がった。
いつものように怒鳴らない。
嫌味も言わない。
ただ、少しだけ俯いていた。
「……でもさ」
扉の前で、足を止める。
「関係ないって言われても、心配くらいするから」
それだけ言って、出ていった。
俺は、しばらく動けなかった。
机の上には、食べかけのパンが残っていた。
カナリィの紙袋も、置かれたままだった。
中には、もう一つの惣菜パンが入っている。
彼女が忘れていったのか。
それとも、わざと置いていったのか。
分からなかった。
俺は、その紙袋へ手を伸ばさなかった。
受け取れば、何かが変わってしまう気がした。
それが怖かった。
♦
その夜も、ZAロワイヤルへ向かった。
Vランクになっても、やることは変わらない。
勝つ。
メダルを集める。
夜明けまで走る。
母さんのために、少しでも多くの金を稼ぐ。
ゼラオラは、いつもどおり隣にいた。
ヤブクロンは、夜のあいだは部屋で休んでいる。新しく仲間になったばかりのあいつまで、俺の都合に付き合わせるつもりはなかった。
ゼラオラにも、何度も休息を取らせている。
あいつが疲れれば、その日は帰る。
そこだけは守っていた。
だが、自分自身については、もう何が正しいのか分からなくなっていた。
足が重い。
指先が冷たい。
頭の奥が、ずっと鈍く痛んでいる。
それでも、戦いになれば指示は出せた。
ゼラオラは勝ってくれた。
メダルも増えた。
だから、まだ大丈夫だと思った。
少なくとも、そう思いたかった。
夜明け前。
赤いバトルゾーンの光が薄れていく中、俺は街路樹の下で立ち止まった。
ゼラオラが隣に来る。
俺はスマートフォンを取り出し、昨夜の換金結果を確かめた。
数字が表示される。
昨日より、多かった。
「……よし」
小さく呟く。
それだけで、少しだけ救われた気がした。
母さんに送れる金が増える。
また、一歩近づける。
何に近づいているのか。
その答えを考える前に、画面を閉じた。
ゼラオラが、俺の手を握る。
温かかった。
その温かさに触れて初めて、自分の指先がひどく冷えていることを思い出した。
「……大丈夫だよ」
俺は笑おうとした。
うまく笑えたかどうかは、分からなかった。
遠くでは、ミアレの街が朝を迎えようとしていた。
人々が目を覚まし、店が開き、今日という一日が始まる。
俺も、もうすぐ仕事へ行かなければならない。
帰って、少し眠って、また働く。
それでいい。
まだ歩ける。
まだ考えられる。
まだ、ゼラオラに指示を出せる。
仕事だって、間違えなければ続けられる。
だったら、止まる理由なんてない。
俺は自分の手を見下ろした。
細くなった指。
浮き上がった骨。
震えを隠すように握り込んだ拳。
その手で、まだ何かを掴めると信じていた。
働けなくなれば、母さんを救えない。
ならば、働ける限り働けばいい。
たとえ、壊れるまでだったとしても。
俺は、まだ働ける。
その言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、ゼラオラとともに夜明けの道を歩いた。
隣を歩くあいつが、何度も俺の顔を見上げていることには、気づかないふりをした。