人間というものは、どうしてこうも身元を気にするのだろう。
マキは、目の前に置かれた小型端末を眺めながら、そんなことを考えていた。
クリスタル地帯の崩落から数時間。一行が避難先として選んだのは、岩壁に半ば埋もれた古い保守施設だった。かつて地上に人類が暮らしていた頃の設備らしく、内部には錆びた配電盤や用途のわからない機械がいくつも残されている。
幸い、建物の骨組みそのものは頑丈だった。グレイブが周辺の構造を確認し、ラピたちが安全を確保したことで、短時間なら休息できると判断されたのである。
そして現在、マキは施設の一室で、指揮官たちから事情を聞かれていた。
「では、改めて確認させてください。名前はマキ、で間違いありませんね?」
「ええ。神に仕える敬虔なる聖女、マキよ」
「所属は?」
「神様のところかしら」
「……正式な所属です」
「あら、神様じゃ不満?」
指揮官が困ったように眉を寄せた。
その隣で、アニスが露骨にため息をつく。
「ねえ、指揮官。これ、絶対まともに答える気がないわよ」
「失礼ねえ。ちゃんと答えてるじゃない」
「神様のところって、どこの組織よ!」
「うーん。天国?」
「もう!」
マキは楽しそうに笑った。
もっとも、左腕は相変わらず動かない。肩口にはラピが施した応急処置が残されており、支持帯によって腕が固定されていた。
わずかに身体を捻るだけでも鈍い痛みが走るため、普段のように大げさな身振りを交えることもできない。
そのことが、本人には何より不満だった。
「……ところで、お兄さん」
「何でしょう?」
「これ、いつまで続くの? 私、そろそろお腹が空いてきたんだけど」
「まだ始めたばかりです」
「えー?」
「まずは基本的なことを確認させてください。あなたが危険な人物ではないと判断できれば、こちらとしても安心できますから」
指揮官の返答は穏やかだったが、決して甘いものではなかった。
ヘレティック二体と知り合いで、正体不明の機械の身体を持ち、その上、地上の危険地帯を単独で行動していた女性。
そんな人物を、何の確認もせずに信用することなどできない。
たとえ彼女がネオンを助けてくれたとしても、それと警戒すべきかどうかは別の問題だった。
「……危険人物ねえ」
マキは小さく笑った。
「まあ、確かに私は詐欺師だけど」
「……え?」
指揮官が瞬いた。
アニスも顔を上げる。
「……ちょっと待って。今、自分で何て言った?」
「詐欺師よ、詐欺師」
マキは平然と答えた。
「昔はそれで食べてたの。まあ、今は聖女だけどね」
「いや、聖女を名乗ってる時点で詐欺じゃないの!?」
「失礼ねえ。ちゃんとありがたいお話をしてるでしょう?」
「全部適当じゃない!」
「そんなことないわよ。たまには本当のことも言うもの」
「たまになの!?」
アニスが頭を抱えた。
一方、指揮官はマキの返答を静かに受け止めていた。
自分から詐欺師であることを認めるのは、普通なら不自然な行動だ。
だが、目の前の女性に関しては、それが何らかの計算によるものなのか、単に何も考えていないだけなのか、判断がつかなかった。
「……では、過去の職業はともかく、現在は特定の組織に所属していないということでいいですか?」
「そうねえ。最近はあちこち歩いてるだけだもの」
「アークの住民ですか?」
「住んでたことはあるわよ」
「……現在は?」
「家出中、ってところかしら」
マキは悪戯っぽく笑った。
「昔、ちょっと面倒な連中に目をつけられちゃってねえ。ほら、聖女って目立つでしょう?」
「……具体的には、どのような人たちですか?」
「宗教関係の偉い人たちよ。私のことが気に入らなかったみたいでねえ」
マキは懐かしそうに目を細めた。
かつてアークでは、宗教組織も強い影響力を持っていた。そんな場所で、どこの組織にも属さない自称聖女が勝手に説法を繰り返していたのだから、当然といえば当然の結果だった。
もっとも、本人はそのことを大して気にしていない。
追いかけられたら逃げればいいし、捕まりそうになったら適当なことを言って煙に巻けばいい。
それが、マキという女の生き方だった。
「……アークには、いつ頃から住んでいたんですか?」
指揮官が尋ねた。
マキは少しだけ考えた。
「……いつだったかしらねえ」
「おおよそで構いません」
「そうねえ。まだ入るのも大変だった頃よ」
その言葉に、ラピがわずかに眉を動かした。
「……入るのが大変だった?」
「ええ。昔は入口に人がたくさんいてねえ。みんな必死だったわよ。金持ちも貧乏人も、子供も老人も、生き残りたくて仕方がなかったの」
マキは、何でもないことのように答えた。
「まあ、偉い人の中には自分だけ助かろうとするろくでもない奴もいたけどねえ」
「……それは、アークへの避難が行われていた頃の話ですか?」
ラピが尋ねる。
「そうそう。それよ」
マキは頷いた。
「懐かしいわねえ。あの頃は本当に大変だったわ」
ラピは黙った。
アークへの大規模な避難。
それが、どれほど昔の出来事なのか。
その時代を直接知る人間など、現在ではほとんど残されていない。
「……マキさん」
指揮官も表情を改めた。
「つまり、あなたはアークが完成した当時から生きている、ということですか?」
「あら、そうなるのかしらねえ」
「……年齢を教えていただけますか?」
マキは目を瞬かせた。
そして、少しだけ頬を膨らませる。
「もう! 女性に年齢を聞くなんて失礼ねえ!」
「……そういう問題ですか?」
「そういう問題よ。お兄さん、女性の扱いはもう少し勉強した方がいいわね」
指揮官は困ったように笑った。
しかし、ラピは笑わなかった。
彼女は目の前の女性を、改めて観察していた。
長い年月を生きてきたという言葉。
通常のニケとは異なる機械の身体。
そして、現代の観測装置では正確に捉えられない認識阻害機能。
そのすべてを合わせれば、彼女の発言を単なる冗談として片づけることはできなかった。
「……指揮官」
ラピが声を落とした。
「記録を確認した方がよいと思います」
「そうだな」
指揮官は頷き、端末へ視線を向けた。
そして、マキへ向き直る。
「ひとつ、協力していただけますか?」
「……なあに?」
「身元確認用の写真を撮らせてください」
「あら、写真?」
マキの顔がぱっと明るくなった。
「いいわよ! でも、できれば綺麗に撮ってちょうだいね。私、こう見えて写真写りにはうるさいの」
「……わかりました」
指揮官は端末の撮影機能を起動した。
画面には、椅子に座るマキの姿が映っている。
古い修道服。
擦り切れた聖書。
左腕を固定する支持帯。
そして、実に胡散臭い笑顔。
「……はい、撮ります」
「はーい」
電子音が鳴った。
指揮官は保存された画像を確認する。
「…………」
沈黙が流れた。
「……どうしたの?」
マキが首を傾げる。
指揮官は何も言わず、画像をラピへ見せた。
ラピの表情が変わる。
「……これは」
「何よ、変な顔してるわねえ」
マキは興味深そうに端末を覗き込んだ。
そこに映っていたのは、古い椅子と、背後の錆びた壁だった。
そして、椅子の上に置かれた影のような、不自然な模様。
マキの姿は、どこにもない。
「……あら?」
マキ自身も目を瞬かせた。
「私、映ってないじゃない」
「……ええ」
「やだもう。故障してるんじゃないの?」
「……いいえ。端末自体は正常に動作しています」
ラピが答えた。
指揮官は、もう一度撮影を試みた。
結果は同じだった。
肉眼では確かにそこにいるはずの女性が、保存された画像では認識できない。
その輪郭があった場所には、背景と区別のつかない雑音のようなものが残されるだけだった。
ネオンが後ろから覗き込む。
「……すごいですね」
「……何が?」
アニスが尋ねる。
「聖女様、写真に映らないんですよ! これはもう、幽霊のような存在なのでは?」
「ちょっと! 勝手に幽霊扱いしないでちょうだい!」
マキが叫んだ。
「私はちゃんと生きてるわよ!」
「……機械の身体ですけど」
「細かいことはいいのよ!」
アニスは、深々とため息を吐いた。
しかし、その表情には明らかな警戒が浮かんでいた。
写真に映らない。
それだけなら、特殊な光学迷彩の可能性も考えられる。
だが、マキは目の前に座っている。
肉眼で見えているにもかかわらず、電子的な記録に残らない。
そんな技術を、アニスは知らなかった。
「……グレイブ」
シンデレラが静かに声をかけた。
「どう思う?」
「……異常だ」
グレイブは短く答えた。
「存在そのものが、機械の認識をすり抜けている。通常のカモフラージュとは違う」
「……そうね」
シンデレラはマキへ視線を向けた。
「あなた、本当に何者なの?」
その問いに、マキは困ったように笑った。
「だから聖女だってば。もう、何度言わせるのよ」
「……そういう意味じゃないのだけれど」
「うふふ。難しいことは、私にもわからないのよねえ」
それは、嘘ではなかった。
エブラ博士が自分の身体へ何を組み込んだのか、マキ自身もほとんど理解していない。
何しろ、目が覚めた時には、すでに全身が機械に置き換わっていたのだ。
研究者でもなければ、技術者でもない。
元々は口先ひとつで生きてきた詐欺師である。
そんな女が、自分の身体に使われている技術を理解できるはずもなかった。
「……まあ、便利な時もあるんだけどねえ」
マキは笑った。
「追いかけられてる時とか、隠れたい時とか。どういうわけか、みんな私を見失っちゃうのよ」
「……それで、ヘレティックの攻撃も避けられたんですね」
ラピが呟く。
「そういうことらしいわねえ。私も、詳しい仕組みは知らないけど」
マキは右手をひらひらと振った。
「もっとも、さっきみたいに広い範囲で何かが崩れたりすると、全然役に立たないんだけどね」
そう言って、傷ついた左肩へ視線を向ける。
支持帯の下には、依然として深い損傷が残されていた。
痛みも、一向に引く気配がない。
「……あーあ。ほんっと、困ったものだわ」
マキは、心底嫌そうに呟いた。
その言葉だけは、誰が聞いても本心だとわかった。
◇ ◇ ◇
「……それで、マキさん。レヴィアタンとは、どのような関係なんですか?」
指揮官の質問に、マキは少しだけ考え込んだ。
「うーん。顔見知り、かしらねえ」
「顔見知りにしては、随分と親しそうでしたが」
「あら、そう? 向こうはいつも怒ってるわよ」
「……それは、あんたが魚とお酒を盗んでるからじゃないの?」
アニスが指摘した。
マキは右手を口元へ添え、楽しそうに笑った。
「うふふ。細かいことを気にする子ねえ」
「細かくないわよ!」
指揮官は苦笑したが、すぐに表情を改めた。
「ヘレティックは人類にとって危険な存在です。あなたが彼女たちと接触している理由は、できる限り把握しておきたい」
「……そうねえ」
マキはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「あの子が危険なのは知ってるわよ。気に入らない相手には容赦しないし、怒るとすぐにダークマターを振り回すし。私だって何度もひどい目に遭ってるもの」
「……それなのに、なぜ?」
「だって、あの子にも事情があるんでしょう?」
マキはあっさりと答えた。
「私は別に、あの子が何をしてもいいなんて思ってないわよ。誰かを傷つけたなら、その責任は取らなきゃいけないでしょうね」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、あの子が人類の敵だからって、私まで話しちゃいけない理由にはならないじゃない」
指揮官は黙って聞いていた。
「それにね、あの子たち、仲間のことになるとすごく一生懸命なのよ」
マキは、崩れ落ちる結晶を受け止めていたベヒモスの姿を思い出した。
巨大な機械アームで落下物を防ぎ、その間にレヴィアタンを逃がそうとしていた。
レヴィアタンもまた、自分の安全より先にベヒモスの足場を守ろうとしていた。
「ああいうところを見るとねえ。なんだか、放っておけないのよね」
「……それは、彼女たちを信頼しているということですか?」
「さあ?」
マキは首を傾げた。
「信用しすぎると、ろくなことにならないでしょう? 私、詐欺師だもの。それくらいは知ってるわよ」
「……自分で言うのね」
アニスが呆れたように呟いた。
「でも、だからって最初から疑ってばかりいるのも疲れるじゃない。少しくらい付き合ってみて、それから考えればいいのよ」
マキは笑った。
その返答を聞いて、指揮官は小さく息を吐いた。
危険な考え方にも思える。
だが、彼女は相手がヘレティックであることを忘れているわけではないらしい。
その点だけは、確認できた。
「……わかりました。ただし、私たちの位置や目的を彼女たちへ伝えることは控えてください」
「はーい」
「それから、単独で接触しに行く場合も、事前に知らせてください」
「あら。私、監視されちゃうの?」
「あなたの安全のためでもあります」
マキは少し考え、それから悪戯っぽく笑った。
「……お兄さんって、意外とお節介なのねえ」
「よく言われます」
指揮官が答えると、マキは一瞬だけ目を丸くした。
そして、愉快そうに笑った。
「あはは! あんた、なかなか話がわかるじゃない!」
その横で、ラピが新しい用紙を机へ置いた。
「では、こちらに署名をお願いします」
「……署名?」
「電子的な記録が難しいため、ひとまず手書きの記録を残します」
「あら、そういうことね」
マキは右手でペンを受け取り、さらさらと名前を書いた。
ラピは用紙を確認し、念のためもう一枚差し出した。
「こちらにも同じ署名をお願いします」
「はいはい」
マキは再び名前を書いた。
しかし、二枚を見比べたラピの手が止まった。
「……マキさん」
「なあに?」
「筆跡が違うのですが」
「あら?」
マキは二枚の用紙を眺めた。
一枚目は柔らかい丸文字で、二枚目は流れるような達筆だった。
「……本当ねえ」
「……なぜ違うのですか?」
「昔からの癖かしら。ほら、筆跡って変えられた方が何かと便利だったのよ」
「……どんな時に便利なんですか?」
ラピが尋ねる。
マキは、にんまりと笑った。
「うふふ。内緒」
アニスが机に突っ伏した。
「……もう嫌、この聖女」
◇ ◇ ◇
事情聴取が一段落した頃には、すっかり時間が経っていた。
マキの身元は結局確認できなかった。
現在のアークに登録された住民情報からは該当者を見つけられず、電子的な記録もまともに残らない。本人の説明には明らかに冗談が混じっており、どこまでが真実なのかを判断することも難しかった。
それでも、指揮官はこれ以上の追及を一旦見送った。
怪我人を長時間拘束してまで調べる必要はない。
何より、マキが質問を拒んでいる部分には、単に知られたくないという以上の事情がありそうだった。
「……少し休んでください」
指揮官が告げる。
「ただし、単独行動は避けてください。周辺の安全が完全に確認できたわけではありません」
「はいはい。ありがとうねえ」
マキは椅子から立ち上がった。
その瞬間、左肩に鋭い痛みが走る。
「……いった!」
思わず身体を丸めた。
ラピがすぐに近づく。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないけど、何とかなるわよ」
「無理はしないでください」
「はいはい」
マキは苦笑した。
この身体になってから、怪我らしい怪我をする機会はあまりなかった。
そもそも、大抵の敵は彼女を正確に認識できない。ラプチャーに見つかりそうになっても、機械の照準が合わず、追跡が途切れてしまう。
そのせいで、どこか油断していたのかもしれない。
今回の負傷は、敵に狙われた結果ではなかった。
ただ落ちてきた結晶に当たっただけである。
そんな単純なことで、左腕が使えなくなってしまった。
(……ほんっと、神様ってのは役に立たないわねえ)
マキは心の中でぼやいた。
もっとも、神様を信じていない人間が何を言っているのかという話ではある。
「……マキ」
不意に、シンデレラが声をかけてきた。
「あら、なあに? 美人のお嬢ちゃん」
「少し、お話ししてもいいかしら?」
「ええ、もちろん」
シンデレラはマキの隣へ腰掛けた。
少し離れた場所では、グレイブが彼女たちを見守っている。
「……あなた、随分と長く生きているのね」
「そうみたいねえ」
「昔の地上は、どんなところだったの?」
マキは少しだけ目を細めた。
その問いは、思いがけず懐かしいものだった。
街には人が溢れ、車が走り、店先から音楽が流れていた。夜になれば看板が光り、酒場には酔っ払いが集まり、どうでもいいことで喧嘩する連中がいた。
今となっては、すべて遠い昔の出来事である。
「……そうねえ」
マキは、ゆっくりと口を開いた。
「案外、今と変わらないところもあったわよ」
「……そうなの?」
「ええ。偉い人は偉そうにしてたし、お金持ちは美味しいものを食べてたし、貧乏人は毎日大変だったもの」
シンデレラは目を瞬かせた。
マキは笑った。
「でもね、街は綺麗だったわよ。夜になると明かりがたくさん灯って、音楽が聞こえてきて。何でもない日でも、みんなそれなりに楽しそうにしてたわ」
「……素敵ね」
「でしょう?」
マキは少しだけ笑みを深めた。
「また、ああいう景色が見られるといいわねえ」
シンデレラは黙っていた。
彼女にとって、地上を取り戻すことは特別な意味を持っている。
それは単に土地を奪還することではない。
失われた人々の暮らしを、もう一度取り戻すことでもあるのだ。
「……ええ」
シンデレラは静かに頷いた。
「きっと、取り戻してみせるわ」
その声には、確かな決意が宿っていた。
マキは感心したように彼女を眺める。
「あらまあ。頼もしいじゃない」
「当然よ。私はシンデレラだもの」
「うふふ。いいわねえ、そういうの」
マキは笑った。
自分が誰であるかを、胸を張って言える少女。
その姿を見ていると、なぜか少しだけ嬉しくなる。
「……あんた、きっといい女になるわよ」
マキがそう告げると、シンデレラは優雅に微笑んだ。
「あら。私はもう十分に美しいわよ?」
「それもそうねえ!」
二人は楽しそうに笑った。
その様子を見ていたグレイブは、警戒を完全には解かなかったものの、少なくとも会話を止めようとはしなかった。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
クリスタル地帯のさらに奥深くでは、別の女性が机へ向かっていた。
薄暗い研究室。
複雑な機械装置が並び、その中央では黒いダークマターがゆっくりと形を変えている。
作業台には、解体されたラプチャーの部品がいくつも並べられていた。駆動機構、通信装置、外装部材。通常なら到底組み合わせることのできない技術が、ひとつの装置へまとめられようとしている。
白衣姿のマリア博士は、作業用端末から視線を上げた。
「……それで、マキは?」
目の前には、腕を組んだレヴィアタンが立っていた。
先ほどから何度も同じ説明を繰り返しているためか、随分と不機嫌そうな顔をしている。
「だから、人間たちと一緒に行ったって言ってるでしょ!」
「……左肩を負傷したまま?」
「そうよ」
「どの程度の損傷だったの?」
「知らないわよ! 遠くから見ただけなんだから!」
レヴィアタンは苛立たしげに答えた。
しかし、その声音には不安が滲んでいた。
マリアはしばらく彼女を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「……そう」
視線を端末へ戻す。
だが、先ほどまで行っていた研究へ集中することはできなかった。
マキの身体。
エブラ博士が、何十年も前に造り上げた特殊機体。
マリア自身も、その構造を完全には理解していない。
母の研究記録には、マキに関する資料がいくつか残されていた。しかし、その大部分は断片的であり、完成した機体については具体的な仕様すらわからなかった。
「……困ったわね」
マリアが小さく呟く。
「通常のニケなら、部品の交換や応急修理ができるでしょうけど……あの身体はそう簡単にはいかないわ」
「……じゃあ、どうするのよ」
レヴィアタンが尋ねた。
マリアは少し考えた。
「実際に見てみないことには、何とも言えない。少なくとも、これ以上無理をさせるべきではないでしょうね」
「……あいつに無理するなって言っても、聞くと思う?」
「……思わないわ」
二人は、ほとんど同時にため息を吐いた。
マリアは少しだけ笑った。
「……あなたも、随分とマキのことを気にかけているのね」
「……は?」
レヴィアタンの表情が変わる。
「別に、そんなことないわよ!」
「そう?」
「そうよ! あの女が勝手に怪我したんだから、自業自得でしょうが!」
「……ええ」
マリアは穏やかに頷いた。
「でも、心配なのね」
「だから違うって言ってるでしょ!」
レヴィアタンは顔を赤くした。
その姿を見て、マリアはそれ以上何も言わなかった。
ただ、目の前の少女が自分でも理解していない感情を抱えていることだけは、何となくわかった。
誰かと親しくなること。
その相手が傷つくこと。
そして、いつか失ってしまうかもしれないという恐怖。
マリア自身にも、覚えのある感情だった。
マリアンを送り出したあの日。
もう二度と会えないかもしれないと思いながら、それでも彼女を自由にしたかった。
その選択を後悔しているわけではない。
しかし、誰かを大切に思うということが、これほど苦しいものだとは、それまで知らなかった。
「……レヴィアタン」
「何よ」
「もしマキに会えたら、私のところへ来るように伝えてくれる?」
「……わかったわよ」
「それから、なるべく無茶をしないようにって」
「それは自分で言いなさいよ」
レヴィアタンは顔をしかめた。
マリアは小さく笑った。
「……そうね。次に会えたら、ちゃんと言うことにするわ」
彼女は、机の上に置かれた未完成の装置へ視線を向けた。
ラプチャーの技術とダークマターを組み合わせた、新しい研究。
それは、マリア自身がこれからの人生を歩むために始めたものだった。
誰かの代わりになるためではない。
誰かの記憶を残すためでもない。
自分が、自分として生きるため。
その研究を続けるうえでも、マキには元気でいてもらわなければ困る。
何しろ、あの女にはまだ、言いたい文句が山ほどあるのだから。
◇ ◇ ◇
保守施設の一室で、マキはようやく食事にありついていた。
指揮官が分けてくれた携行食を右手で器用に食べながら、実に満足そうな顔をしている。
「……うーん。悪くないわねえ」
「……それ、普通の携行食よ?」
アニスが呆れたように言った。
「贅沢言っちゃ駄目よ。食べられるだけありがたいじゃない」
「……さっきまでお酒がないって文句言ってたくせに」
「それはそれ、これはこれよ」
マキはにっこりと笑った。
その横では、ネオンが何やら興味深そうに彼女の肩を見つめていた。
「……聖女様」
「なあに?」
「肩、まだ痛みますか?」
「ええ。ものすごくね」
マキは顔をしかめた。
「もう、こんなことになるなら、もう少し頑丈に作っておいてほしかったわ」
「……でも、助けていただいてありがとうございました」
「はいはい。もう何度も聞いたわよ」
マキは笑った。
それから、ネオンの赤い眼鏡へ視線を向ける。
「……大事にしなさいね、それ」
「……はい?」
「何でもないわ。ちょっと懐かしくなっただけ」
ネオンは首を傾げた。
マキは、それ以上何も言わなかった。
遠い昔のことを、少しだけ思い出していた。
まだアークに入る前。
地上には、行き場を失った人々が溢れていた。
誰もが生き残ろうと必死で、時には他人を押しのけ、時には騙し、奪い合っていた。
そんな中で、マキはひとりの高官から入場の権利を奪った。
もちろん、正当な手段ではない。
詐欺師として培った技術を使い、相手の油断を突き、言葉巧みに権利を横取りしたのである。
そして、その権利を手にした彼女は、自分だけが助かろうとはしなかった。
逃げ惑う人々を集め、怒りと不安を煽り、希望を語り、アークの入口まで押しかけた。
そこで出会った男は、確か随分と真面目な顔をしていた。
オスワルド。
そんな名前だった気がする。
(……あの人、最後は本当に困った顔してたわねえ)
マキは懐かしそうに笑った。
あの時、自分が何をしたのか。
今となっては、もう細かなことまでは覚えていない。
ただ、自分の後ろには大勢の人々がいた。
誰もが生き残りたがっていた。
ならば、少しくらい嘘をついてでも、助かる道を探してやればいい。
その程度の考えだった。
そうしてアークへ入った後、随分といろいろなことがあった。
絶望した研究者に説法をしたり、変な酒を飲まされて眠らされたり、目が覚めたら全身が機械になっていたり。
思い返してみれば、実に騒がしい人生だった。
「……はぁ」
マキは小さくため息を吐いた。
「ほんっと、ろくなことがないわねえ」
「……どうしたんですか?」
ネオンが尋ねる。
マキは首を振った。
「何でもないわよ。昔のことを思い出してただけ」
そして、にっこりと笑った。
「それより、お嬢ちゃん。食後のデザートってないの?」
「……ありません!」
「えー?」
マキが残念そうに声を上げる。
アニスが呆れたようにため息をつき、ネオンは楽しそうに笑った。
そんな何でもない会話を交わしながら、彼女たちの夜は更けていった。
マキの左肩には、依然として深い損傷が残されている。
修理の方法もわからず、痛みも引かない。
それでも、彼女はいつものように笑っていた。
自分の身体に何が組み込まれているのか。
かつて自分を改造した科学者が、どのような未来を夢見ていたのか。
そんなことは、今のマキにとってどうでもよかった。
明日も美味しいご飯が食べられて、できればお酒が飲めれば、それで十分なのだから。
ただ、もしひとつだけ願いが叶うのなら。
「……あー、もう」
マキは、痛む左肩を見下ろした。
「この痛みだけは、何とかしてほしいわねえ……」
神様に願ってみるのも悪くないかもしれない。
もっとも、彼女自身はその神様を信じていないのだが。
次回 第5話『聖女様、古い約束を思い出す』