野田サトル『ゴールデンカムイ』×志賀直哉『網走まで』
原作終了からしばらくしての話。
故郷での用事を済ませた杉元が小樽のコタンにいるアシㇼパに会いに行く。
上野駅から北へ向かう列車に乗ると、網走まで行く親子に出会った。
親子が網走へと行く理由とは…
志賀直哉の『網走まで』の「主人公と網走まで行くという母親と子(原作では子供は二人)との列車内での交流」という設定を取り入れて描く杉元佐一の小樽までの旅。
クロスオーバー要素は上記設定のみですが、念のためにクロスオーバータグをつけておきました。
春まだ浅い3月の初め、杉元佐一は上野駅発の列車に乗って北へ向かっていた。
かつて彼は日露戦争で鬼神のごとく戦ったものの英雄というにはほど遠い
軍を退役した後は故郷へ帰ることもなく、あちらこちらを渡り歩いていた。
彼は今は亡き親友との約束で大金を必要としていたのだが、金を稼ぐためというよりどこかに自分の居場所を見つけようとしているような旅であった。
しかしアシㇼパとの邂逅によって一つの旅が始まり、その旅が終わったことで新たな旅が始まろうとしている。
杉元が北海道へ向かう理由はひとつではない。
アシㇼパとの約束。
金塊をめぐる騒動の後始末。
他にもまだあるが、まだ彼自身の知らない何かが北の大地に残されているような気がしていたからだ。
列車は北へ向かって走り続けている。
杉元は三等車の隅の席に腰を下ろし、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
車窓には冬枯れの田畑が続き、遠くの山々にはまだ雪が残っている。
これから向かう北海道ではまだ雪が降り、アシㇼパの住むコタンでも膝が埋まるくらい積もっているだろう。
退屈な景色をずっと見ていると、あの金塊争奪戦の日々が遠い昔のように思えてくる。
あの頃は生きるか死ぬかの闘いが何度も繰り返され、常に気の抜けない毎日だった。
そして多くの仲間や敵と出会い、そしてその中で生き残った者は彼を含めて数えるほどしかいない。
したがってなんの変哲もない景色であってもそれをのんびりと眺められるということはとても幸せなことである。
それが当然のことでそんな平穏な日々を嫌ってはいないのだが、長い間
そんな杉元の向かいの席には若い女と男の子が並んで座っている。
宇都宮から乗車した客だ。
女は二十代の終わりくらいで、男の子は五つか六つくらいであろうか。
女の身なりは質素だが品の良い女性で、背筋をすっと伸ばし膝の上に置いた風呂敷包みを大切そうに抱えている。
男の子は先ほどから落ち着かない様子で、窓の外を眺めたり通路を歩く車掌を目で追ったりしていた。
「おじさん、どこへ行くの?」
不意に男の子が杉元に尋ねた。
「おじさんじゃねえ。まだそんな歳じゃないぞ」
わざと少し拗ねた顔をして杉元が答えると、女が小さく笑った。
「すみません。この子、誰にでもすぐ話しかけるものですから」
「いや、いいんですよ」
杉元は男の子に向き直った。
「俺は北海道へ行くんだ」
「北海道?」
「ああ」
「クマがいるところ?」
「そうだ。クマもいるし、キツネもいるし、シカだってたくさんいるぞ。オオカミもまだいるかもしれないな」
「大きなクマも?」
「もちろんこーんなに大きなクマもいる」
杉元は少しおどけて両腕を大きく上げて言う。
「食べられちゃう?」
「うん。だから山に入るときには食べられないように気をつけないといけないな」
男の子は目を丸くした。
「お兄さんはクマを見たことがあるの?」
「何度もあるぞ」
「怖くない?」
「そりゃあ怖いさ」
杉元は笑った。
「クマが怖くない奴なんていないよ」
男の子はしばらく杉元の顔を見つめていたが、やがて母親の袖を引いた。
「お母さん、この人、兵隊さんだったの?」
「そうね。軍人さんだったのよ」
「今も兵隊さんなの?」
「いや、今は違う」
杉元は短く答えた。
「それ、鉄砲?」
杉元の脇には古びた銃が置いてあるり、それを男の子は興味津々で見ている。
「これか? これは俺の相棒だ」
「撃てるの?」
「もちろん撃てるとも」
「人も撃った?」
女が慌てて男の子の口を押さえた。
「こら、そんなことを聞くんじゃありません」
杉元は苦笑した。
「いいんですよ。まあ、そういうこともあったのは事実ですし」
男の子は杉元の顔をじっと見た。
「ぼくも撃ってみたい!」
「おいおい、駄目だぞ。これはおもちゃじゃない」
杉元は銃を手の届かない場所へ移した。
男の子は不満そうに頬を膨らませた。
杉元は男の子の無邪気な姿を見て思った。
この子はまだ何も知らない。
戦争も、人を殺すということも。
いずれ知ることになろうとも、知らないままでいられるなら今は知らないほうがいい。
戦争なんてものは失うものはたくさんあっても得るものなど一つもないのだから。
「お兄さんは強いの?」
男の子が杉元の顔を覗き込んで訊く。
「強いかどうかは知らねえな。だけどこの相棒のおかげで何度も助けられた。だから
杉元は窓の外へ目を戻した。
強いという言葉はどうにも好きになれなかった。
たしかに弱い者は簡単に死んでしまうが、戦場では強い者から死んでいくこともある。
生き残ったからといって強いとは言い切れないし、何かを得たわけでもない。
得たものよりも失ったもののほうがはるかに多いことを身をもって知っている。
「撃ってみせて!」
「駄目だ。これはおもちゃじゃないと言っただろ」
「そうよ、お兄さんが困るようなことを言ってはいけません」
「…うん」
杉元と母親に窘められ、男の子は残念だという顔を見せた。
この子に悪気があったのではなく、単に幼い子供の好奇心でしかない。
もう少し大人になって分別がつけば自分が愚かなことを言ったのだとわかるだろう。
女は男の子の頭を撫でながら言う。
「この子の父親も軍人だったんです」
「そうなんですか」
「ええ。第七師団の歩兵第27連隊におりました」
杉元の目がほんのわずかに動いた。
「第七師団…」
「もう亡くなりましたけれど」
女は風呂敷包みに目を落とした。
「主人は先の網走での戦いで亡くなったのです」
杉元は窓の外に目を戻した。
「網走で?」
「はい。網走監獄の近くで大きな戦闘があったそうです。主人もその場にいたと聞いています」
ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン
杉元に返す言葉はなく、静かな車内に単調な車輪の音だけが響いている。
「私は詳しいことを知りません。主人がどんなふうに戦ったのか、どこで倒れたのか。誰が一緒にいたのかもわからないのです」
女は膝の上の風呂敷包みを両手で押さえた。
「ただ、主人が亡くなったという知らせと遺骨が届いただけでした」
「…そうですか」
「それで網走まで行こうと思いまして」
「網走まで?」
「はい。主人が亡くなった場所に一度行ってみたいのです。せめてそこで手を合わせてやりたいと思いまして」
杉元は女の顔を見た。
その顔には悲しみがあった。
しかし取り乱した様子はなかった。
長い時間をかけて悲しみを自分の胸の中にしまい込んできた人間の顔だった。
「小さなお子さんと一緒に網走みたいな遠くまで行くのは大変でしょう」
「大丈夫です。夫がいなくなってから、ずっとこの子と二人で生きてきましたから」
女は微笑んだ。
「この子が父親のことを忘れてしまわないうちに、一度連れて行ってやりたいと思ったのです」
「お父さんのこと、覚えてるか?」
杉元が尋ねると、男の子は少し考えた。
「お父ちゃんは…おっきかった」
「そうか」
「肩車してくれたんだよ。一緒に魚釣りにも行った」
「いいお父さんだったんだな」
「うん。でも今はいないんだ」
男の子は不思議そうな顔をして言う。
「お母さんは、お父ちゃんが網走にいるって言うんだ」
女は男の子の顔を見た。
「お父さんはもう帰ってこないのよ。でもお父さんが生きていた場所は残っているから、そこへ行ってお父さんのことを思い出してあげるの」
「そこに行けばお父ちゃんに会える?」
「そうね。会うことはできないけれど、きっとお父さんも喜んでくれるわ」
杉元は膝の上で拳を握った。
網走 ────
その名を聞くだけで、あの夜のことが頭に浮かんだ。
銃声
怒号
悲鳴
血と火薬のにおい
第七師団の兵士たち
そしてあの戦いに巻き込まれた大勢の人間たち
杉元はあの場にいた。
しかし一部の記憶が欠落し、何があって自分が何をしたのかを正確には覚えていない。
撃たなければ殺される。
殺さなければ生き残れない。
戦場ではそれがすべてだった。
記憶の欠落があろうとも、それだけは頭ではなく心の奥に深く刻みつけられている。
撃たれたり砲撃の爆風で吹き飛ばされた人間の中に誰がいたのかは杉元に知る由もなかった。
目の前の女の夫もその中の一人だったのだろう。
顔も知らない赤の他人だが杉元にとって決して無関係な人間ではない。
「お兄さん?」
男の子が杉元の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
杉元は笑ってみせた。
「ちょっと考え事をしてたんだ」
「お兄さんにもお父ちゃんがいるの?」
「俺の父親はもういないよ」
「そうなんだ」
男の子は子供ながらもそれ以上訊いてはいけないことなのだと察したのか、それについてはもう何も言わなかった。
しばらくして女が杉元に尋ねた。
「北海道には何かご用事があるのですか?」
「友人に会いに行くんです」
「お友達?」
「ああ。アイヌの女の子なんですがね」
「まあ、そうですか」
「アシㇼパって名前です。山のことも動物のことも俺よりずっと詳しい。俺はあいつに助けられてばかりでしたよ」
「素敵なお友達ですね」
「そうですね」
杉元は少し笑った。
「あいつに会わなかったら…きっと今の俺はもっと荒んだ生き方をしていたでしょう。もしかしたらどこかで野垂れ死にしていたかもしれません。だからあいつは命の恩人といっても過言ではないんですよ」
女はその笑顔を見て安心したように頷いた。
「大切になさってくださいね」
「はい」
杉元は窓の外を見た。
自分には大切な人がいる。
自分を待ってくれている人がいる。
そう思うとあの戦場で死んでいった人間にも同じように大切な人たちがいたのだということを改めて考えずにはいられなかった。
列車は北へ北へと進んでいった。
やがて夜が来て、男の子は女の膝に頭を乗せてぐっすり眠っている。
女はずっと無言で窓の外を見つめていたが、杉元に視線を移してから口を開いた。
「あの…」
「ん?」
「あなたは戦争で人を殺したことがありますか?」
突然の問いだった。
「…ああ」
「そうですよね。軍人さんだったんだから当然ですよね。馬鹿なことを訊いてすみません」
「いえ、気にしないでください。…でも俺が殺した奴らにも家族がいたんだろうな」
杉元は窓に映る自分の顔を見た。
そこには人を殺した人間の姿が映っている。
「俺だって生きて帰るために必死だった。あの頃はそうするしかなかったんだ」
女に聞いてもらおうとか誰かに許してもらいたいというのではなく、自分に言い聞かせるように杉元は呟いた。
女はそれ以上訊こうとはしなかった。
前日に上野駅を発った列車は丸一日以上走り続けて青森駅に到着した。
疲れ切った表情の乗客たちは各々荷物を抱えて降りていく。
杉元も荷物を肩に担ぎ、女と男の子の後からホームへ降りた。
「お兄さんもここで降りるの?」
男の子が尋ねた。
「ああ。列車はここでおしまいだからな。北海道へ渡るには船に乗るんだ」
「船?」
「そうだ。海を渡るんだよ」
「お母さん、船に乗るんだって!」
「ええ、そうね」
女も少し疲れた顔をしていたが、男の子のはしゃぐ様子を見て微笑んだ。
港へ向かう跨線橋の階段を上る杉元たち。
女は右手に風呂敷包みを抱え、左手で男の子と手をつないでいて大変そうだ。
杉元は女に言った。
「その荷物、持ちましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
「遠慮しなくていいですよ。船に乗るまでですから」
「ありがとうございます。では、お願いします」
杉元は風呂敷包みを受け取ると、それは彼の想像より重かった。
特に興味があったわけではないが何気なく訊いてみた。
「何が入ってるんです?」
「主人の遺品です」
杉元は女の気持ちを察し、詮索することはしなかった。
青函連絡船が港に停泊している様子が見えてきた。
黒い煙突から煙が上がり、甲板には乗客の姿が見える。
海は冬の風で荒れ、灰色の波が岸壁にぶつかっている。
この様子では津軽海峡の中間辺りでかなり揺れるかもしれない。
銅鑼の音が鳴り響くと船が岸壁を離れ、男の子は手すりにしがみついて興奮気味で海を眺めた。
「お母さん! 海が動いてる!」
「海は動いていないのよ。船が進んでいるの」
「でも海が動いてるみたいに見えるよ!」
男の子の横で親子の会話を聞いていた杉元は笑った。
「お前、船に乗るのは初めてか?」
「うん!」
「じゃあ、よく見ておけ。向こうに見えるのが北海道だ」
杉元が指で示す先にぼんやりとだが北海道の山並みが見える。
「あれが北海道?」
「そうだ」
「お兄さんの友達もあそこにいるの?」
「ああ。いるはずだ」
「会えるといいね」
「そうだな」
杉元は海を見た。
北海道 ── あの大地に
戦場で負った傷は今でも時折痛んだ。
だがそれ以上に心に残っているものがあった。
自分が生き残ったという事実だった。
生き残った者は死んだ者のことを忘れずに生きていかなければならないと思う。
しかしそれができているのかどうか、杉元にはわからなかった。
船室では女が男の子を膝に乗せて遊んでいた。
そのそばに座っていた杉元に女が声をかける。
「杉元さん」
「はい?」
「列車の中では主人の話を聞いてくださってありがとうございました」
「いえ、そんな」
「誰かに話すと少し気持ちが楽になるものですね」
「…そうですか」
「主人はあまり自分のことを話さない人でした。軍隊で何をしていたのかも、どんな仲間がいたのかも、ほとんど話してくれませんでした」
女は男の子の髪を撫でた。
「それでも家に帰るとこの子を抱いてよく笑っていたんです」
「いいお父さんだったんですね」
「はい。だからこの子には父親のことを覚えていてほしいんです」
杉元は黙っていた。
「戦争が終わって世の中は少しずつ元に戻っているようです。でも私たちの暮らしはあの人がいなくなってからずっと止まったままなのです」
女は窓の外を見て言う。
「網走に行けば何か変わるかもしれません。…いえ、私自身が変わりたいから行くことにしたんです。いつまでもあの人のことを考えてばかりで前に進めなければそれはあの人にとっても不幸でしょうし、私たちのことが心配で成仏できないかもしれないと思います」
杉元はその言葉を聞きながら、女の夫が最後に何を考えていたのかを想像した。
妻のことを思っただろうか。
子供の顔を思い出しただろうか。
それともただ目の前の敵を殺すことしか考えていなかったのだろうか。
もしかしたら何も考える暇もなく突然命の灯が掻き消されたのかもしれない。
わからない。
どれだけ考えてもわかるはずがなかった。
杉元はふと自分の手を見た。
この手で何人もの人間を殺した。
その中の誰かにも帰りを待っている妻や子供がいただろうし、年老いた親がいた人間もいたはずだ。
自分はそのことを一度でも考えたことがあっただろうか。
いや、戦場で敵の事情を知ってしまえば自分が命を奪われる側になっていたかもしれない。
そう思うと胸の中がざわついた。
「杉元さん?」
「何でもないですよ」
杉元は笑った。
「少し海風に当たってきます」
甲板に出ると冷たい風が杉元の頬を打った。
北海道の陸地が近づいて、逆に本州の姿が小さくなっていく。
杉元は手すりに両手を置いて海を見つめた。
「不死身、ねえ…」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
不死身 ── 死ななかったことが必ずしも幸運だったとは思えない。
だからといって死んでしまえば幸運も不運もない。
それに自分が生きている間にも誰かの人生は終わり、そしていつか必ず自分の人生にも終わりのときはやってくる。
人によってそれが早いか遅いかの違いであり、生きている人間は
もちろん誰も杉元の疑問に答えを与えてはくれないが、その代わりに一羽の白いカモメが頭上を掠めて飛んで行った。
連絡船が函館港に着くと、三人は函館駅から再び北へ向かう列車に乗った。
北海道の景色は本州とは少し違っていた。
広い土地、低い家々、遠くに続く山並み。
どれもが北海道独特のもので、杉元にとっては懐かしいにおいのするものばかりだ。
男の子は窓に顔を近づけていた。
「お母さん、あの山にクマはいるかな?」
「いるかもしれないわね」
「お兄さん、クマはどこにいるの?」
「山の中ならどこにでもいるぞ」
「会ってみたい!」
「会わないほうがいい」
杉元が真顔で言うと、男の子は笑った。
「お兄さん、ほんとうにクマが怖いんだね」
「当たり前だ。クマはすごく強いからな。だけど美味いんだぞ。ヒンナ、ヒンナだ」
「ヒンナ…ヒンナ…?」
男の子は不思議そうな顔をして訊く。
「動物の命をいただいて余すことなく美味しく食べる。アイヌの人は自然の恵みをいただくときにそう言うんだ。感謝、感謝って」
「それ、いただきます、ってこと?」
「そうだ」
「他に何を食べたの?」
「いっぱい食べたぞ。エゾシカやサケ、他にもいろいろ。どれもみんな美味かった」
「いいな…ぼくも食べてみたい」
男の子はよほど食べてみたいと思ったのか口からよだれを垂らし、女は笑いながら手ぬぐいで拭いてやった。
人間も動物も命をいただいて生きている。
戦場で忘れてしまったことだったがそれを教えてくれたのがアシㇼパで、自分がこれから何をすべきなのかを考えるたびに杉元の脳裏には彼女の顔が浮かんでくる。
杉元は目を閉じた。
北海道へ行けばまたアシㇼパに会える。
そのことが何よりも心強かった。
列車は北の大地を進んでいく。
やがて男の子は母親に体を預けて眠ってしまった。
杉元はその姿を見ながら思った。
この子が大きくなったとき、今日の旅を覚えているだろうか。
いや、覚えていなくてもいい。
ただいつか北海道の広い大地を歩いたとき、自分が誰かと旅をしたことをほんの少しでも懐かしく思ってくれればいい。
楽しい思い出として心に残っていてほしいと心の中で願った。
女は風呂敷包みを膝の上に置き、その結び目を見つめながら静かに言う。
「杉元さん」
「はい」
「もし網走に行ったことがおありなら教えていただけませんか」
杉元は女を見た。
「網走ですか…」
「ええ。主人が亡くなった場所がどのようなところなのか知りたいのです。監獄の近くだと言われても網走という土地のことすら何もわからないのですから」
杉元はすぐには答えなかった。
網走監獄の近く。
あの場所のことを思い出したくないわけではない。
ただ忘れることもできずにいる。
「俺も網走には行ったことがあります。監獄の近くで戦闘があったことも知っています」
杉元はゆっくりと言った。
「でも詳しいことはわかりません…」
「そうですか」
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「謝らないでください。あなたには関係のないことですもの。網走に着いたら地元の人に訊いてみます」
「…すみません」
杉元は女に謝ると視線を窓の外に移した。
女は知らない。
自分の目の前に座っている男が夫の死んだ戦闘に関わっていたことを。
杉元もまた彼女の夫の顔を知らない。
それでも二人は同じ列車に乗っていた。
女は車窓を見ながらぽつりと言った。
「夫は言っていました。人間は遠くへ行けば行くほど、自分が何者なのかわからなくなることがあると」
「……」
「けれど帰る場所は絶対に忘れてはいけないとも」
「……」
「いい旦那さんだったんだな」
「はい。私にはもったいないくらいの人でした」
そう言って女は微笑んだ。
杉元たちの乗った列車が小樽駅に着いたのは日が傾き始めた頃だった。
駅のホームには人が行き交い、荷物を抱えた旅人たちがそれぞれの行き先へと急いでいた。
杉元は荷物を肩に担いで立ち上がった。
「ここでお別れですね」
女が言った。
「私たちは札幌まで行って、それから乗り換えて網走へ向かいます」
「そうですか」
「杉元さんにはいろいろと親切にしていただきましたし、息子の遊び相手にもなってもらって助かりました」
「いや、こちらこそ。思いがけなく良い旅になりました」
男の子が杉元の前に立った。
「お兄さん!」
「ん?」
「クマに食べられないでね」
杉元は声を出して笑った。
「ああ。気をつけるよ」
「それから友達に会えたらよろしく言ってね」
「わかった」
杉元は男の子の頭を撫でた。
「お前もお母さんを大事にするんだぞ」
「うん!」
女は風呂敷包みを抱え直した。
「主人に会いに行ってきます」
その言葉に杉元は一瞬だけ目を伏せ、軍帽を目深にかぶり直した。
「ええ。どうか気をつけて」
杉元は列車を降り、車内にいる女と男の子に窓越しに一礼した。
すると女は会釈をし、男の子は手を振る。
そして発車の合図のベルが鳴ると、汽車は汽笛を鳴らしてゆっくりと動き出した。
杉元はその様子を見送っていた。
杉元はしばらくその場を動かなかった。
いや、動けなかったのだ。
網走 ──
自分もあそこへ行けばまた思い出すことになるだろう。
銃声、怒号、悲鳴、血と火薬のにおいと倒れていった兵士たちの姿。
そして顔も知らないあの女の夫のことも。
杉元は煙草を取り出して火をつけた。
煙を吐き出すと冷たい北海道の空気が肺に入ってきた。
ふと、アシㇼパの顔が脳裏に浮かんだ。
あいつなら何と言うだろう。
死んだ人間のことを忘れるな、と言うだろうか。
それとも生きている者は生きていかなければならない、と言うだろうか。
杉元にはわからなかった。
ただ自分が生きている限りあの戦いのことを忘れてはいけないと思った。
誰かの夫が死んだ。
誰かの父親が死んだ。
それは戦場ではただ一人の兵士が倒れたという出来事だったのかもしれない。
しかしその兵士が帰らなかった家には家族が残されていて、その家族は大事な人の死を受け入れなければ生きてはいけないのだ。
杉元は歩きだした。
彼の行く先にはまだ会わなければならない人間がいる。
そして網走へ向かった親子にも行かなければならない場所がある。
人はそれぞれが、それぞれの目的を抱えて旅をしている。
杉元の旅と女の旅 ── 奇妙な巡り合わせの二つの旅は長い人生のほんの一瞬だけ同じ列車に乗り合わせたことで交わったが、すぐに別々の道を進みだした。
杉元は振り返らなかった。
ただ遠くへ向かう列車の汽笛が聞こえなくなるまであの親子のことを考えていた。
網走まで ── そこへ行って女は夫に手を合わせるだろう。
夫がどのように死んだのかを知らないまま。
なぜ死ななくてはいけなかったのかを知らないまま。
もう彼女とは二度と会うことはないだろう。
しかし杉元はこの出会いを決して忘れることはない。
駅の改札を出るとコタンに向かって歩き始めた。
アシㇼパがフチと一緒に温かいオハウを用意して待っていてくれるだろうと思うと自然に歩みが早くなる杉元だった。
第七師団には月島や宇佐美のように鶴見の目指すものを知ってすぐそばで付き従う者もいれば、何も知らずにいて例の網走監獄での戦闘で囚人たちと戦わされた無名の兵士も大勢いました。
この小説の「女」の夫は無名兵士の一人で、女も夫が死んだことを知らされただけで詳しいことは何も知りません。
それが杉元というこの戦闘におけるキーパーソンと偶然出会い、何も知らずに心の中にある様々な気持ちを彼に吐露します。
夫を殺した相手のことを憎んでいるわけでもなく、もちろん杉元に謝罪させようというものではなく、ただ現実を受け入れて心の整理をすべく網走へと向かっています。
ですが事情を知る杉元にとってはいろいろ考えさせられることになりました。
それを踏まえた上で彼は新たな人生を送ることになるでしょう。
杉元佐一のこの先の人生に幸いあれ。
【挿絵表示】
イラストは連絡船で北海道へ渡る杉元の後ろ姿です。
頭巾ちゃん(ヴァシリ・パヴリチェンコ)が杉元の後を追っていて、こっそりと描いたというイメージです。