ジョニィ・ジョースター、テラを往く 作:マイルドハイブリッド
第12話です。第一章の最後の話になります。
「ぼくも行く」
E3小隊の装備庫に、その一言はやけに大きく響いた。
テラに来て二十四日目の朝。壁際の棚には盾や武器と箱詰めの携行食が並び、隊員たちが黙々と荷を詰めている。その真ん中で、エースは直ったばかりの盾の革紐を締めていた。手は止まらなかった。
「どこへだ」
「あんたが行く所へ。北の街だ」
革紐を最後の穴に通してから、エースはようやく顔を上げた。隊員の何人かも、荷を詰める手を止めてこちらを見ている。
「おい、天井から来た馬の奴だ」
「隊長、賭けますか。付いてくる方と、置いていかれる方」
声を潜めたつもりの若い隊員が、隣の隊員に肘で小突かれた。甲板の手合わせの日に揃って隊長へ張り、引き分けで賭けを流された連中だ。一昨日には札遊びの真ん中を馬に駆け抜けられてもいる。
盾を壁に立てかけたエースがジョニィの正面に立った。背の高い男で、見上げる形になる。
「やれやれ。朝から何を言い出すかと思えば。お前さんには、届けなきゃならん奴がいるだろう。海の向こうの、故郷まで。そいつを放り出して、他人の仕事に首を突っこむ暇はないはずだ」
「放り出すわけじゃない」
「じゃあ、何のためだ」
口を開きかけたが、嫌な予感がする、という言葉は喉で止まった。
予感は理屈ではない。レースの間、何度も命を拾ったのはこの理屈のない感覚のおかげだった。けれど、それを他人に説明できたためしは一度もない。言葉にした途端、ただの臆病に聞こえてしまう。
エースの声は責める調子ではなかった。
「……言えないのか。なら、連れてはいけんな。理由も言えん奴を、隊に入れるわけにはいかん。悪いな」
盾を背負い直したエースが顎で合図をすると、隊員たちの手がまた動き出した。
装備庫の扉の前で立ち尽くし、踵を返しかけた時、荷を運んでいた隊員の一人がすれ違いざまに囁いた。
「隊長は、ああ言いますけどね。断る時ほど、相手のことを気に入ってるんですよ。隊長は」
片目をつぶった隊員は箱を抱えて棚の向こうへ消えていった。
艦橋に近い執務室で、アーミヤは書類の山に埋もれていた。
「ジョニィさん? どうしたんですか、こんな朝早くに」
兎に似た長い耳がぴくりと動き、小さな手が書きかけのペンを置く。昨日、甲板の継ぎ目を睨んで号令をかけていた少女と、同じ人とは思えない。今は紙の山の向こうから覗く代表の顔をしている。
装備庫でのことを、ジョニィは短く話した。エースが北の街へ行くこと。自分も付いていきたいこと。断られたこと。
黙って聞き終えたアーミヤはペンを指先で転がした。
「北の街の件は、私も行きます」
「きみが?」
思わず問い返すと、アーミヤは小さく頷いた。
「はい。ロドスの代表として、私が責任を持つ作戦ですから。Aceさんと、E3小隊のみなさんと、ドーベルマン教官も一緒です。Scoutさんは、もう先に向かっています」
「あの教官もか」
昨日の甲板の号令が、耳の奥でよみがえった。
アーミヤは困ったように笑った。
「行き先は、ウルサスという国の移動都市です。ウルサスは感染者にとても厳しい国で……私たちは、見つからないように動かなければいけません。危ない作戦です。だから本当は、お客さまを連れていくような所じゃないんです」
「分かってる。それでも、行きたい」
言葉を切ったアーミヤがまっすぐにジョニィを見た。大きな目が少しだけ細くなる。
「……Aceさんを、心配してくださっているんですね」
息が詰まった。
言っていない。嫌な予感のことは誰にも話していない。それなのに、この少女はジョニィが言葉にできなかった物の形を、手で触れたように言い当てた。
「どうして、分かる」
「なんとなく、です。……昨日の甲板でも、ジョニィさんの気持ちは、張りつめた糸みたいでしたから」
短く叩く音の後、返事も待たずに扉が開いた。
入ってきたのはケルシーだった。記録板を胸に抱え、挨拶もなしにジョニィの前に立つ。話を聞いていたのか、それとも最初から察していたのか、表情からは読めなかった。
「北の街は、都市の中だ。君の馬は、建物の間では思うように走れない。つまり、無限の回転は撃てない」
「分かってる」
「切り札が使えない場所に、君は行こうとしている」
机の向こうで、アーミヤがペンを握ったままこちらを見ていた。
「爪はある。ACT4もいる」
ケルシーは少しの間ジョニィを見ていた。
「……見えない手が撤退の時に一つあれば、助かる場面はあるだろう。条件がある。行くなら、エースの指揮に従え。一人で先へ走るな」
「エースが、連れていくと言えばな」
「それは君とエースの問題だ。艦としては、止めない」
それだけ言うと、ケルシーは記録板をアーミヤの机に置いて部屋を出ていった。アーミヤがほっとしたように小さく笑う。
「ケルシー先生、ジョニィさんのことを、ちゃんと信頼してるんですよ」
「止めないってだけだろ」
「ケルシー先生が止めないのは、すごく珍しいことなんです」
棺は、連れていけない。
部屋の隅で、木の棺はいつもと同じ場所にあった。テラに来てから、一日もこの棺から離れて眠ったことはない。回転を掛けてあるから、誰も触れられない。分かっていても、目の届かない所に置いていくのは初めてだった。
戸口にはいつの間にかBSWの四人が揃っていた。先頭のリスカムが背筋を伸ばす。
「行くと決まったら、の話ですけど。警備は、わたしの本職です。ジョニィさんが戻るまで、この部屋はわたしたちが守ります。誰も入れません」
「誰も触れないぞ。回転がはじく」
「触れられないことと、守られていることは違います。……あなたが安心して出ていけるようにするのが、わたしたちの仕事です」
廊下の灯りを受けて、リスカムの角が微かに光った。
壁にもたれたフランカが肩をすくめる。
「あたしたちも付いていきたいところだけど、この艦の警備が契約だものね。それに、そのうち龍門の方で、別のお仕事が回ってきそうだし。……ま、留守番は任せなさい。あなたのお友だちの部屋の前で、毎日優雅に紅茶でも飲んでてあげるわ」
「フランカ、それは警備じゃない」
「あら、立派な警備よ? 紅茶を飲みながら見張る。あたしの得意技」
苛立ったように床を叩くリスカムの尾も、涼しい顔のフランカも、いつもの二人だった。そのいつもの調子が今日はなぜかありがたかった。
おずおずと前へ出たジェシカとバニラは、二人とも手に何かを握っていた。ジェシカの手には小さなブラシ、バニラの手には大きなブラシ。毎朝、馬房で二人が使っていたものだった。
「あ、あの……これ。お馬さんは、連れていくんですよね。だったら、向こうでも、毎日掛けてあげてください。わたしたちの代わりに」
「私たち、ここで待ってます。お馬さんと、ジョニィさんが帰ってくるのを」
受け取った二本のブラシの柄には、二人の手の温かさがまだ残っていた。
「……ああ。毎日、掛ける」
廊下の先から、小さな足音が近づいてきた。端末を胸に抱えたロスモンティスが、部屋の前で立ち止まる。
「Aceから聞いたの。うまの人も、行くかもしれないって」
少女は端末を開いて一行を書きこみ、画面をジョニィに向けた。
『ジャイロの部屋。あたしも、毎日見に来る』
「忘れちゃっても、書いてあるから、大丈夫」
しばらく、何も言えなかった。少女の端末の字をもう一度だけ目でなぞってから、ジョニィは短く答えた。
「……頼む」
昼過ぎの馬房で、ジョニィは二本のブラシを交互に使っていた。
小さい方は首筋に、大きい方は背中と尻に。二人がいつも分けていた通りに掛けていくと、スロー・ダンサーは目を半分閉じて、うっとりと首を垂れた。毛並みが、少し艶を増した気がした。
「今度は、走れない所だ」
馬の首に額を寄せて、ジョニィは言った。
「建物ばかりで、平らな道も、広い空もない。おまえの脚の出番は、たぶん街の外だけだ。……それでも、来てくれるか」
スロー・ダンサーは答える代わりに、鼻面をジョニィの肩へぐいと押しつけた。レースの間も、何度もそうやって背中を押してきた。乗れと言っているのか、行けと言っているのか。どちらにしても、同じことだった。
夜、ジョニィは甲板の縁に一人で腰を下ろしていた。
停泊の間、天蓋は開いたままで、荒れ地の上に星が出ている。機関の唸りが鉄の床から背中へ伝わってくる。昨日の夕方、馬ごと五十周を言い渡された外周が、星明かりの下で白く続いていた。北の空は、ほかの方角よりも暗く見えた。
近づいてくる足音が誰のものかは、見るまでもなかった。
「隣、いいか」
返事を待たずに、エースは少し離れて腰を下ろした。盾は背負っていない。
「ケルシーから聞いた。艦としては止めない、だとさ。あの人にしちゃ、ずいぶん甘い」
「あんたが連れていくと言えば、の話だ」
「ああ。だから、もう一度訊きに来た。なぜだ」
今度は、逃げ場がなかった。
膝の上で指を組み、言葉を探す。その間、頭の中ではずっと一つの声が聞こえていた。旅の終わりに、あの男が言った言葉だった。
「ぼくの友だちが、最後に言ったことがある」
北の暗い空を見たまま、ジョニィは言った。
「オレはこのレースでいつも最短の近道を試みたが『一番の近道は遠回りだった』『遠回りこそが俺の最短の道だった』」
エースは黙っていた。夜風が二人の間を抜けていく。
「あいつは、ずっと近道を探してた。……ぼくも、ずっと探してる。あいつを故郷に帰す近道を」
組んでいた指を、ほどいた。
「でも、ここであんたに背中を向けて、何もしないで待って、それで何かが起きたら。……その後で、ぼくはネアポリスへまっすぐ歩けない。あいつの前で、胸を張って棺を下ろせない。だから、ぼくは行く。これは寄り道じゃない。遠回りだ」
長い沈黙の間、エースは星を見上げていた。
「……俺にも、遠い所で眠ってる仲間がいる、って話をしたな」
「覚えてる」
「そいつは、俺たちにとって本当に大事な奴でな。ロドスがここまで来られたのは、そいつのおかげと言っていい。……迎えに行けるなら、どんな遠回りでもするさ」
ふっと、エースが笑った。
「同じか。お前さんも、俺も。……しかし、いい言葉だな。今度から、俺の受け売りの一つにさせてもらってもいいか」
「好きにしろ。あいつも、喜ぶ」
「ありがたく」
膝を払って腰を上げたエースが、ジョニィを見下ろした。その顔には甲板で初めて手合わせをした日と同じ、面白がる気配がにじんでいる。
「なら、賭けるか」
「賭け?」
「お前さんが付いてきて、全員で帰ってくる方に。……俺は、そっちに張る」
差し出された右手を、ジョニィは見た。大きな、盾を握り続けてきた手だった。
重ねた自分の右手が固く温かい手に包まれる。
「乗った」
「ハハッ、決まりだな。出発は明後日の夜明けだ。遅れるなよ。俺の指揮に従えないなら、置いていくからな」
手を離したエースは昇降口へ向かい、途中で一度だけ片手を上げて、闇の向こうへ消えた。
右手を握りしめる。左腕の奥が、また微かに温かかった。
▽
出発の前の夜、ジョニィは棺の前に座っていた。
部屋の灯りは消してある。廊下から差しこむ細い光が棺の木目を斜めに横切っていた。
「少し、遠回りする」
声に出すと、思ったよりも静かな声になった。
「北の街に、迎えに行く奴がいる。ここの連中の、大事な仲間だ。……きみなら、文句を言いながら付いてくる」
棺は何も答えなかった。答えるはずもなかった。
いつの間にか、桃色の像が棺のそばに立っていた。ACT4は蓋の上に青い籠手をそっとかざし、触れはせずに、手のひらを少し上に浮かべている。回転がはじくことを、像も知っているのだろう。
『……ニョホ』
小さな声だった。場違いでも、得意げでもない。あいつが旅の途中の夜に、焚き火の向こうで一人で笑った時の声に、少しだけ似ていた。
あの頃、焚き火の前でジャイロがくだらない話を始めるたび、ジョニィは真顔で聞き流した。明日の道がどうなるか、二人とも知らなかった。知らないまま、それでも次の朝には鞍に上がった。
目を閉じて、ジョニィは言った。
「……行ってくる、ジャイロ」
夜明け前、ロドスの艦の横腹が開いた。
搬入口から冷たい風が吹きこみ、三台の装甲車がエンジンを唸らせて並んでいる。E3小隊の隊員たちが荷を積み、アーミヤが端末を見ながら一台ずつ声を掛けて回っていた。
車列の脇ではドーベルマンが腕を後ろで組み、積み荷の結び目を一つずつ睨んでいる。
車列のいちばん後ろに並んだ一頭の馬の鞍の脇には、大小二本のブラシが括りつけてあった。
両手の指先を、一本ずつ確かめる。爪は十枚、揃っている。昨夜のうちにカモミールの茶を二杯飲み、腰の袋には育苗室で分けてもらった乾いた葉をひと掴み入れてきた。湯の沸かせない街の中でも、葉のまま噛めば爪の戻りは少しは早くなる。
茶ほどではないが、ないよりずっといい。
搬入口の奥、灯りの落ちた廊下の角に、細い人影が立っていた。記録板を胸に抱えたまま、ケルシーは何も言わずに車列を見ている。目が合うと、医者はほんのわずかに顎を引いた。それが見送りなのか、ただの確認なのかは分からなかった。
その足元の影が一度だけ緑に揺らいだ。
先頭の車の屋根で振り返ったエースが、エンジンの音に負けない声を張った。
「遅れなかったな。賭けは、まだ始まったばかりだぞ」
鐙に足を掛け、ジョニィは鞍の上へ身を引き上げた。待ちかねたように首を振るスロー・ダンサーの耳が、北を向いている。
「張ったのはあんただ。降りるなよ」
第12話をお読みいただき、ありがとうございました。
・「一番の近道は遠回りだった」「遠回りこそが俺の最短の道だった」は、ジョジョ7部『スティール・ボール・ラン』のジャイロの言葉です。原作の台詞をそのまま引いています。
・エースとスカウトが迎えに行く「眠っている仲間」と、行き先のウルサスの移動都市は、アークナイツの序章につながります。
・ジェシカとバニラのブラシは、第4話から二人が毎朝掛けてきたものです。
ブラシは、鞍の脇に括りつけてあります。