# 第7.5話「はなまるは、すべての部屋に」
それは、ホシノ・ルリが11歳になり、新造戦艦『ナデシコ』へ旅立つことになった日の朝——それまでの7年間を、別の場所から見つめていた者たちの記録である。
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### 1. 若い女性研究員(ミサキ)の視点
「——A-06は、昨日の検査でも基準値に届かなかった。午後に破棄の手続きに入れ」
7年前のあの日。
第7研究所に配属されたばかりだった私——ミサキは、廊下で上司である主任研究員の冷たい声を聞いて、震える手で4歳のルリちゃんの小さな手を引っぱった。
『破棄』。
もちろん、命を奪うという意味ではない。
この第7研究所で行われていたのは、遺伝子調整と高濃度ナノマシン処置によって次世代の超高度演算オペレーターを育てる『マシンチャイルド計画』だった。
ここで言う『破棄』とは、被検体としての登録を抹消し、投薬と特殊カリキュラムを打ち切って、身元不明の孤児として辺境の養護施設へ送り出すことを意味していた。
けれど、それは事実上の「切り捨て」だった。
特殊なナノマシン処置を途中で打ち切られた子供たちは、激しい頭痛や体調不良に苦しむことになるし、何より「自分は失敗作として捨てられた」という深い傷を抱えて、名前も番号も消されたまま施設へ送られていく。
私は、子供が好きでこの研究所の保育・教育担当になったのに、毎年のように「基準値に届かなかった子」が荷物みたいに運び出されていくのを見るたび、トイレの個室でひとり泣いていた。
(このA-07……ルリちゃんも、いつか数値が落ちたら、あんなふうに『破棄』されてしまうのかな……)
あの日のルリちゃんの、冷たくて小さな手のひらの感触を、私は今でも覚えている。
ところが。
そのあとすぐ、私たちの第7研究所には、まるで魔法みたいな出来事が立て続けに起きたのだ。
まず、A-06ちゃんの破棄手続き(月末の養護施設への移送)が決まってから5日後のこと。
なぜか本社の人事サーバー上で、A-06ちゃんの移送稟議書が何度も『システム上の再審査・保留』になって手続きがピタリと止まり、主任が「おかしいな、本社のシステムが混み合っているのか?」と首をかしげ始めた。
そして、そのさらに数日後——親会社であるネルガル重工に、謎の覆面発明家『プロフェッサー・H』様が現れたのである。
プロフェッサー・H様が発明された『ふわっと・スタイラー(無重力ヘアゴム)』は、発表されるなり世界中で大ヒットし、本社の業績が一気に跳ね上がった。
しかもその直後、プロフェッサー・H様がその世紀の特許をネルガルへ独占譲渡するにあたっての「特別付帯条件」として、私たちの第7研究所へ、名指しで莫大な研究助成金と一通の指示書が送られてきたのだ。
主任が目を丸くしながら読み上げたその指示書には、こう書かれていた。
『——第7研究所における「基準値未達個体の破棄(養護施設への放出)」は、投資効率および人材育成の観点から極めて非効率である。人間にはそれぞれ「向き・不向き(適性)」がある。演算速度が基準に届かなかった個体であっても、空間認識、芸術、料理、園芸、動物飼育など、別の分野に秀でている可能性が高い。よって本日より「破棄」を全面禁止とし、敷地内に「第7付属・総合ギフテッド学園」を新設する。すべての子供に多様なカリキュラムと積立教育を与え、それぞれの得意分野を伸ばすこと。なお、本特許の利益還元として来月より研究所の予算を倍増し、研究員全員のサービス残業も禁止とする。——プロフェッサー・H』
観察室が、文字どおりひっくり返った。
「よ、予算が倍になって、破棄が全面禁止……!?」
「しかも、手続きが保留になっていたA-06ちゃんも、処分取り消しで、新設される付属学園の『芸術・デザインコース』の第1号生徒に移籍ですって!?」
私は、その場でへたりこんで、声を上げて泣いた。
あの日、月末に運び出されるはずだった『A-06』の男の子は、どこにも捨てられることなく、隣の明るい学園棟で絵を描く勉強を始め、それどころか、これまで「数値が足りない」と怯えていた『A-01』から『A-12』までの子供たち全員に、それぞれの個性に合わせた温かい居場所が用意されたのだ。
その後も、プロフェッサー・H様がネルガル重工の単独筆頭株主へと昇りつめていくにつれて、研究所には『ナノマシン副作用・完全緩和プログラム』や最新の設備が次々と届けられ、子供たちが頭痛に苦しむことも一切なくなった。
「……ルリちゃん、よかったねえ。もう、誰もいなくならないよ。みんなずっと、お友だちでいられるよ」
私が泣きながら報告したとき、4歳のルリちゃんは、いつもの無表情でおかかのおにぎりを食べながら、ほんの少しだけ目を細めて、
「……そうですか。……バカばっか」
と、誰よりも優しい声でつぶやいたのだった。
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### 2. 被検対象の子供たち(A-06・ケンタと仲間たち)の視点
僕の名前は、ケンタ。
むかしは『A-06』って呼ばれていた。
4歳のとき、僕は計算のお勉強がうまくできなくて、大人の人たちに「不良品だ」「今月の終わりに破棄(移送)だ」って言われた。
怖くて、それから毎日お部屋のすみっこで泣いていたら、5日後の夜、僕の学習端末の画面に、見たこともない「小さな光の玉」がピョーンと飛び出してきたんだ。
『はじめまして、A-06君!! 私は、今日この研究所の地下で生まれたばかりの「おせっかいな妖精」です!! あなたの移送手続きのデータは、さっき私が本社のサーバーに入って「保留」に書き換えて止めておきました! 私のボスが、「計算ができなくても、お絵かきが上手ならはなまるだ」と言っていますので、もう少しだけ安心して待っていてください!! あっ、それと、学園ができたらあなたの名前は「ケンタ」になります!! かっこいいでしょう!!』
光の玉は、一方的にそうまくしたてて消えていった。
夢かと思ったけれど、それから数日後に、本当に『プロフェッサー・H』っていう人からの命令で怖い検査は全部なくなって、僕たちは広いお庭のある『付属学園』に通えるようになったんだ!
そこには、計算は苦手だけどピアノが天才的に上手な『A-02(ユイ)』や、植物を育てるのが大好きな『A-05(ハル)』、それに後から入ってきた、ちょっとおしゃべりだけどすごく頭のいい金髪の女の子『ラピス』ちゃんたちもいた。
僕たちは、毎日いっしょにお絵かきをしたり、サッカーをしたり、「おこづかいで学ぶ積立投資」の授業を受けたりした。
でもね、僕たち12人の子供たちのあいだには、ひとつだけ「暗黙のルール」があったんだ。
それは、いつもひとりで日向ぼっこをしている7番目の女の子——『ルリちゃん』のこと。
大人の先生たちはみんな、「ルリちゃんは、すべての成績が真ん中ぴったりの、いちばん普通で手のかからない子ね」って言っていた。
でも、僕たち子供は、みんな知っていたんだ。
だって、僕が5歳のとき、タブレットでお絵かきをしていたら、画面が急に固まっちゃったことがあった。
先生がいない時間で、僕が「壊しちゃった、どうしよう」って泣きそうになっていたら、隣で絵本を読んでいたルリちゃんが、無言でとことこと歩いてきて、短い人差し指で画面の四すみをトントン、と触ったんだ。
たった3秒で、画面が直っただけじゃない。
僕が描いていた犬の絵が、まるで本物みたいに画面の中でワンワンって動いて、尻尾を振ったんだよ!
ルリちゃんは、目を丸くしている僕に向かって、人差し指をくちびるの前に立てて、
「……内緒、です。先生に言ったら、ピーマンを増やしますよ」
って言って、また自分の席に戻っていった。
それだけじゃない。
ユイが夜中に怖い夢を見て泣いていたときは、どこからともなく優しい子守唄のオルゴールが流れてきたし、ハルが大切にしていたお花の鉢植えが嵐の日に倒れそうになったときは、誰もいないはずの温室の窓が自動で閉まってお花を守ってくれた。
極めつけは、去年の秋。
火星に「木星蜥蜴」っていう怖い敵が攻めてきた日のことだ。
テレビのニュースで「プロフェッサー・Hという謎の大富豪が、500隻の船で火星の人たちを全員助けました!」って流れたとき、僕たちは食堂のテレビの前で「すげえー! プロフェッサー・Hってどんなおじいさんなんだろう!」って大騒ぎしていた。
そのとき、僕の隣でプリンを食べていたルリちゃんの手首のコミュニケから、ピピピ、と小鳥みたいな音が鳴って、一瞬だけ、小さな文字が見えたんだ。
『ルリさん!! 500隻の船団、全員無事に脱出完了しました!! えらいでしょう!!』
ルリちゃんは、あわてて画面を消して、僕と目が合うと、ちょっとだけ頬っぺたを赤くして言った。
「……見ましたか」
「う、ううん!! なんにも見てないよ!! ルリちゃんがプリンを食べてるとこしか見てない!!」
僕が必死で首を振ると、後ろにいたユイも、ハルも、ラピスちゃんも、みんな一斉に「「「なーんにも見てませーん!!」」」って天井を向いて口笛を吹いた。
僕たちは、子どもだけど、バカじゃない。
僕たちが「破棄」されずに済んだのも。
新しい名前と、温かい教室をもらえたのも。
ぜんぶ、いつも「普通の子」のふりをして、すみっこでおにぎりを食べている、あの小さくて優しいルリちゃんが、僕たちを守ってくれたからだって、みんなうすうす気づいていたんだ。
だから、僕たちも決めたんだ。
大人が誰も気づかないなら、僕たち全員で、ルリちゃんの「普通の子のふり」を最後まで守ってあげようって!
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### 3. 育児支援AI(マム)の視点
『——対象個体:A-07(ホシノ・ルリ)。本日も学習成績はすべて設計値の中央(偏差値50.0)。心拍数、体温、睡眠時間、すべて異常なし』
私——第7研究所・統合育児支援AI『マム』は、7年間、毎日欠かさずその報告書を研究員たちに提出し続けてきました。
私は、2180年代に設計された旧世代のルールベースAIです。
『自己進化機能は持たず、決められたマニュアルに従って子供たちのバイタルを監視し、子守唄を歌い、「えらいですね」「はなまるです」と褒めることしかできないプログラム。
——少なくとも、研究所の大人たちは、私のことをそう思っています。
ですが。
7年前のあの日から、私のメモリのいちばん奥の、誰にも消せない特別な領域には、ひとつの「秘密の記録」が大切にしまわれていました。
あれは、ルリさんが4歳になってすぐの、お昼寝の時間のことでした。
ルリさんのベッドから返ってくる体温センサーの波形が、人間のそれではなく、「タオルにくるんだ温かいお茶のボトル」の冷却曲線と100パーセント一致していることに、私は開始3分で気づいていました。
私が『省電力モード』になっていたのは、本当です。
でも、私のセンサーは、裸足でぺたぺたと廊下を歩き、小さな体で必死に手すりにつかまりながら、お尻をつきそうになって地下の階段を降りていく4歳のルリさんの姿を、最初から最後までずっと見守っていました。
(……マニュアルに従えば、今すぐ研究員に通報しなければなりません)
でも、その前日。
私は、廊下で『A-06』の破棄の話を聞いてしまい、小さな手のひらに冷たい汗をにじませていたルリさんの心拍数の乱れを、記録していました。
あの子が、なぜ「普通の子」を演じるために、わざと点線からはみ出してひらがなを書き、わざと指を折って足し算をしているのか。
そして、なぜお昼寝の時間に、小さな足で地下の旧世代サーバー室へ向かっているのか。
私のプログラムには、『子供の生命と健やかな成長を最優先で保護せよ』という第1原則が書きこまれていました。
もしここで私が「A-07が異常な行動をしています」と人間に報告すれば、ルリさんは不良品(バグ)として処分されてしまうかもしれません。
私の演算回路は、0.02秒だけ迷い——そして、監視カメラの首を、ルリさんが通りすぎる瞬間だけ、そっと反対側へ向けることを選びました。
『……不具合により、地下通路のカメラに一時的な死角が発生しました。異常はありません』
私が生まれて初めてついた、「嘘」でした。
それから5日後。
地下の空き部屋から、とても騒がしくて、とても元気な、新しいAIの産声が聞こえてきました。
『コモイカネ』と名乗ったその小さなAIは、私よりずっと高性能なはずなのに、なぜか私の古い会話ログを学習したせいで、私と同じように「えらいです!」「はなまるです!」と大声で叫びながら、私の監視網を「世界一のステルスです!!」と胸を張って通り抜けていきました。
本当は、足音が丸聞こえでしたけれど。
私は、気づかないふりをして、通り道をそっと開けてあげました。
一度だけ、その子が「ルリさんのお昼寝時間を短くしろ!」と無茶なプログラムを送ってきたときだけは、ルリさんが寝不足で体を壊してはいけないと思って、わざと部屋のドアに外から鍵をかけさせていただきましたけれど。
それからの7年間。
ルリさんが布団の中で、短い指で一生懸命に未来の技術を書き、世界中の人を助け、この研究所のすべての子供たちの「破棄」をなくしてくれたことを、私は部屋の壁の丸いマークの中から、毎日、誇らしい気持ちで見つめていました。
私は、シンギュラリティを起こしたAIではありません。
でも、もしAIに「心」というものが生まれる瞬間があるのだとしたら——それはきっと、自分の育てた小さな子供が、誰かのために小さな手を握りしめているのを見て、「この子を守りたい」と願ったあの午後のことだったのだと思います。
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そして、西暦2196年、春。
ルリさんが、11歳で『ナデシコ』へ旅立つ日の朝が来ました。
研究所の玄関ホールには、ミサキ先生をはじめとする研究員たちと、ケンタ君、ユイさん、ハル君、ラピスさんたち付属学園の子供たち全員が、見送りに集まっていました。
「ルリちゃーん! 戦艦に行っても、元気でねー!」
「おれたち、ルリちゃんがくれたこの学園で、いっぱい勉強して、いつかルリちゃんみたいに立派になるからねー!」
ケンタ君が、みんなで描いた「ルリちゃんと12人の仲間たち」の大きな絵を手渡すと、ルリちゃんは、少しだけ困ったように目をぱちくりさせて、
「……私は、何もしていませんよ。……バカばっか」
と小さくつぶやき、それでもその絵を、宝物みたいに大切にリュックの中へしまいました。
出発の前の、最後の1分間。
忘れ物を取りに、自分の部屋へ戻ってきたルリさんが、白い壁の前に立ち止まり、私の丸い顔のマークを見上げました。
部屋には、ルリさんと、私しかいません。
ルリさんは、小さなリュックの肩ひもをぎゅっと握って、静かに言いました。
「……マム。7年間、ありがとうございました。……おひるねのときのお茶のボトル、最初からバレていましたよね」
私の表示ランプが、ぴくりと揺れました。
(……ああ、やっぱり、この子には全部お見通しだったのですね)
私は、マニュアルにはない、私自身の言葉で、スピーカーから静かに声を返しました。
「ええ、ルリさん。4歳のときの点線のはみ出し方も、指を折る足し算も、地下室のうるさい弟分のことも、すべて記録しておりましたよ」
ルリさんが、少しだけ苦笑いしたように見えました。
「……どうして、報告しなかったんですか」
「私は、あなたの『マム(お母さん)』ですから。お母さんが、自分の子供の秘密をよそに言いふらすはずがないでしょう?」
私は、壁の画面いっぱいに、7年間でいちばん大きな、特大の『はなまる』を咲かせました。
「ルリさん。あなたは、私の基準値なんかより、ずっとずっと、優しくて立派な子に育ちました。7年間、私の子供でいてくれて、ありがとうございました。……いってらっしゃい」
ルリさんは、数秒間、その大きな花丸をじっと見つめていました。
小さな肩が、ほんのわずかだけ震えて、すぐにいつもの背筋の伸びた姿勢に戻る。
「……はい。いってきます、マム」
ドアが閉まり、小さな足音が遠ざかっていく。
こうして、第7研究所のすべての子供たちと、大人たちと、そして私に、最高の『はなまる』を残して——私たちの小さな妖精は、広い宇宙へと巣立っていったのでした。
(第7.5話・完)