「だからこそ、私たちが刀を握り続けないと駄目なんだ」
「その先に必ず平穏は在る」
陽光が障子を柔らかく通り抜け、畳の目を優しく照らし出す平穏な昼間。
縁側からは庭の木々を揺らす風の音が聞こえ、どこか遠くで鳥のさえずりが微かに響く。そんなあまりにも長閑で、そして胸が締め付けられるほどに愛おしい時間。
「刀を握るべきなのは、悪を滅し弱者を救う……信念の在る者だ」
居間の壁に飾られたいくつもの刀を前に、『彼』はいつも通り熱弁を振るっていた。
「それは俺たちも同じ……」
「また言ってる」
飾られた刀の一振り一振りに視線をやりながら、真面目な顔で語る『彼』に、少女はくすりと笑う。
「いや、まだ数回しか言ってない」
「もう百回以上聞いたわよ」
「そうか? でも、お前がいつも楽しそうに聞いてくれるからな」
「別に楽しそうにしてなんかないわ。ただ、あなたのその真っすぐすぎる言葉が、少しおかしいだけで」
少女は微笑みながら、彼の隣に並び立つ。
呪術という超常が当たり前となり、世が争いと怨恨に呑まれる中、人々は大体己の肉体に刻まれた術式、あるいは呪いを刻んだ武器を振るう。
それでも、誰かの為に戦う者はいる。
そして、その中で『刀』はいつの時代も、迷う人間を救い、暗闇の中で道なき道を切り拓いてきた。
それでもなお、刀が本質的に人を殺す為の道具である事に変わりはない。
その冷たい鉄の理を理解しながら、しかしその先にある『死』や業をすべて背負って生きようとする『彼』の背中を、少女はいつも愛おしいと思う。
「なぁ、■■」
彼は小さく笑う。
ふと向けられたその温かい眼差しに、胸の奥が熱を帯びる。
「俺が作った刀はどれも『正解』じゃないし、これから先『正解』が作れるかも分からない」
それでも。
「見ていてくれないか、一緒に」
その問いへの答えはもう、とっくの昔から決まっていた。
迷うことなど、一瞬たりともなかった。
「えぇ、ずっと一緒よ」
遠い昔の、呪いのない一時の、あまりにも鮮やかで愛おしい記憶。
それは、血塗られた千年の歴史の底に沈んだ、たったひとつの温もりだった。
「随分と派手な余興だったな」
特級術師・九十九由基によるブラックホールという名の自爆。だが、その凄まじい質量を帯びた黒穴の重力すらも、彼は謀略と術式を重ね合わせて乗り越えた。
死線の淵をくぐり抜け、己の野望の最終段階へと至った男――羂索は今、この計画の要である全知の術師・天元の本体の前に立っていた。
「さらば、友よ」
呟いたその声に、感傷の色は微塵もない。
羂索は迷うことなく右手を前にかざした。彼の手に向かって歪みながら収束していく天元の肉体。そしてその肉体は一つの拳大の球体へと形を変えた。
そして羂索は、躊躇うことなくそれを口へと運ぶ。
両手で口を抑え込み、それからゴクンッと喉を鳴らす。
「ははっ、まっず」
かつての友、その成れの果ての味は他の呪霊と同じ、形容しがたいほどの悪酔いを催すような、醜悪な味だった。
僅かに顔をしかめて自嘲気味に小さく笑いながら、羂索は崩壊を始めた『薨星宮』の足元――その更に下へと視線を向けた。
「さて、邪魔者はもういないからね」
そこは天元の本体が眠る場所であり、日本にいる全ての術師にとっての絶対に侵すことのできない急所、『薨星宮』――その更に奥底。
現代の呪術界において、その最奥に封じられている『存在』の秘密を知る者はもはやごく僅かしか残っていない。
それこそ、あの天元ですらその奥底へ進むのを忌避する程の禁忌の領域へ向け、羂索は足を踏み出した。
瓦礫の山と化した通路を歩む途中、足元を塞ぐ障害物を、彼は自身の術式『反重力機構』で器用に、まるでゴミを払うかのように退かしていく。
崩れ落ちた天井の隙間から漏れる微かな光を背に受け、羂索は冷徹な足取りで『薨星宮』の奥へ、奥へと進んでいった。
「相変わらず埃臭い、高専の忌庫の方がマシだね」
どれほどの階層を潜り、どれほどの結界をすり抜けただろうか。
空間の質感が変わり、一切の気配が消失したその場所に、目的の空間は存在していた。
羂索が辿り着いた場所、それは『薨星宮』の最下層に位置する、完全に外界から隔絶された――巨大な『地下牢獄』だった。
音一つしないその空間の中心には、奇妙な形状の巨大な柱に囲われる形で冷たい床に座り込み、ピクリとも動かない一人の『少女』がいた。
その少女の装いは、時代を超越したぼろを纏っているかのように簡素。
無造作に乱れた黒髪は長く伸び、日光を一切浴びていない故か、異常なほどの蒼白い肌と、生気を失った細い体躯が痛々しいまでの虚ろさを醸し出していた。
周囲を取り囲む巨大な柱にはそれぞれ、無数の御札や注連縄が痛々しく巻き付けられ、彼女を外界から完全に断絶している。
呼吸をしているのかすら怪しい、その姿は生と死の境界であてどなく漂う亡霊のようだった。
「気分はどうだい?」
まるで、昨日別れたばかりの旧知の仲に話しかけるかのような、あまりにも気さくな声音が地下牢獄の静寂を切り裂いた。
「『剣聖』……それとも、元『予言の姫』と呼んだ方がいいのかな?」
「……」
返事はない。少女は微動だにせず、じっと座り込んだまま微動だにしない。
「…………」
彼女――『剣聖』は今から約千年前、呪術全盛の平安の世に『ある事件』を引き起こし、それからここに幽閉されていた。
本来であれば、犯した罪の重さから『処刑』以外の判決はない、にも関わらず、彼女があくまで『幽閉』止まりであり、今も生かされ続けているのには一つの理由があった。
それは、彼女が調伏している『特級呪具』……否、『特級
数多の命を吸い、多くの呪いを内包したそれが、彼女の死によって暴走し、この国が混沌に陥る危機があった。故にそれを危惧した千年前の術師は、『剣聖』を殺す事はせず、協力して築き上げた『空性結界』の亜種である、この『無の牢獄』に閉じ込めて現在に至る。
周りに聳え立つ柱は言わば『生命維持装置』、柱に囲まれている『剣聖』に対し自害する程の気力も与えず、しかし必要最低限の栄養だけを与え、生き地獄に閉じ込め続ける悪魔のシステム。
千年もの間、彼女はここに閉じ込められ、座り続けていた。
魂が擦り切れ、狂気に陥るのが必然の長い、長い時。
悠久にも等しい空白を経て、ようやく訪れた接触の機会。
それは――。
「あー、あー……」
かさかさに乾いた声が、地下牢獄の壁に反響する。
『剣聖』はゆっくりと上半身を起こし、膝を曲げては伸ばすという動作を繰り返して、長年の硬直で錆び付いた身体を解し始めた。
その姿には千年もの間、ずっと幽閉されていた者特有の狂気や悲壮感は微塵もなく、どこか拍子抜けするほどに軽い空気が漂っていた。
思わず呆気にとられるようなその様子に、羂索の眉がわずかに持ち上がる。
「あなた、羂索でしょう? なんとなく分かるわ」
少女は首を巡らせ、完全に振り返った。
その目は黒一色に染まり、底知れぬ闇を湛えているように見えたが、よく見ればそこには確かな理性の光が宿っていた。
そこには狂気のかけらもなく、ただ冷徹なほどの静けさだけがある。
――正気。
「外は寒い? それとも暑い? それすらもう分からなくて」
こてんと首を傾げ、まるで世間話でもするかのように彼女は問う。
その泰然自若とした態度を目の当たりにし、羂索はその場に立ち尽くしたまま、ようやく頬を綻ばせた。
「はは、まさかちゃんと正気を保っていたなんてね。流石に驚いたよ」
千年。千年もの途方もない時間だ。
この何もない、何もできない『無』の空間に閉じ込められ続け、光も音もない世界で過ごして尚、この精神の安定っぷり。
羂索自身でさえ、もしこんな『つまらない』の極致である部屋に永遠に閉じ込められ続けたら、正気を保てる自信などない。故にここに閉じ込められていた彼女も、いくら『剣聖』であろうと狂気に至るか、あるいは自我が崩壊してただの肉の塊になるのが当然だと思っていた。
だが、その予想は良い意味で裏切られた。
何より、これだけの正気を保てていながら、そして健全な精神を保っていたという事はつまり。
過去に彼女が引き起こした『
「私がこうして来ることも『予言』で知っていたのかな?」
「いや、別に」
羂索の問いかけに、少女は淡々と首を横に振った。
「元々、『予言』で見れるのは断片的な災害とかだし、それに……」
彼女は身体を完全に起こし、ゆっくりと足を踏み出しながら立ち上がる。
「数十年分の未来を見た後に、私はそれを『捨てた』。だから今日この日のは予想外よ」
「そっか、じゃあこれも予想外?」
羂索は面白がるように小さく指を鳴らした。
その足元、影の染み出すような空間から、わざとらしい演出で一体の呪霊を這い出させる。
『呪霊操術』によって完全に傀儡と化したその呪霊は、まるで赤子と芋虫がグロテスクに融合したかのような、悍ましい容姿をしていた。しかし、少女はその醜悪な姿に顔色一つ変えず、ただじっとその呪霊を見つめた。
より正確には、呪霊そのものではなく、その体内に隠された『あるもの』を凝視していた。
そしてその呪霊は、体内に隠していた『それ』を吐き出す。
強力な呪力が込められた一本の『刀』。それが地面に落下するよりも前に、先に地面から咲いた草木がクッションのように受け止め、刀を宙に浮かせる。
「……だろうと思った」
少女は小さく首をすくめ、吐き捨てるように呟いた。
「ここ最近になって急に刀が動き出したから。それで……私をどうする気? 殺す?」
「まさか」
羂索は苦笑を一つ零し、肩をすくめて見せた。
「殺してどうなるんだい? 私がまさかこれを振るうとでも? 私に剣は向かないし、この『真打』には釣り合わないさ。まぁ蘆屋貞綱ならもしかしたら……あぁいや、それでも君には届かないかもね」
「……」
「とにかく、私は君と"縛り"を結びに来たんだ」
少女は何も言わず、ただまっすぐに羂索を見つめている。
そして羂索もまた、その底の見えない黒い瞳を見つめ返し淡々と、しかし確かな熱を込めて言葉を紡ぎ続けた。
「もちろん知っているさ。君にとって私は許し難い存在だろう。なにせ私の存在そのものがこの国を縛り付ける『悪』の一つなのだから」
「……」
「けれど、私が生き続ける限りこの『刀』は誰の手にも渡らず、君は永遠に誰の身体も使うことができないまま、この無の牢獄に縛られ続ける。君はこの先、一生『悪』を滅ぼす機会を得られない」
「…………」
「互いに互いを無視し続ける……これは私にとっても、君にとっても不都合なままだ。だからこそ、ここで取引をしに来たのさ」
「内容は」
少女は短く、ただそれだけを促した。
「私に何を求めるの」
「君が作り出す混沌を」
その問いに、羂索の口元に深い笑みが浮かんだ。
そこにあるのは恐怖でも、打算による狂気でもない。
彼の目に宿る光は、純粋無垢な愉悦と、世界に対する底知れぬ『好奇心』のみだった。
「私の目的が達成されるまで、もしくは私の命が終わる時。それを機に、君をここから解放しようじゃないか……――」
――
平安の都、その絢爛たる寝殿造りの邸宅の奥深く。外の喧騒を遮る上質な几帳の向こう側で、衣擦れの音が静寂に溶け込んでいた。
幾重にも重なる重厚な十二単を纏った貴族たちが細目を開いて溜息を零す、盃に揺れる淡い酒の波紋を見つめながら、男の一人が重苦しい口を開いた。
「また東の方で悍ましい争いが起きたそうだ。何でも戦いの余波で村の畑が呪力に汚染され、更に生き残った者もいないとか」
その言葉に、別の貴族が扇子で口元を隠しながら、やれやれと首を横に振る。
「最近の術師たちは血気盛んで困る。そんなに己の権勢と私欲が大事なのかね、藤原は」
「好き放題に術師を使い潰すのは勝手にすればいいが、それで無駄に土地を穢すなと言いたいな」
「だが仕方ない。この時代はより優れた呪術を持つ者が天下を握るのは世の理よ。暴走する術師を止めるために新たな術師が台頭し、今度はその強大化した術師を討つために、また別の勢力が新たな術師を送り込む……呪いの連鎖は止まらん」
「いっそ宿儺の方がまだマシであるな」
別の男が皮肉な笑みを浮かべ、冷め切った声でそれに同調する。
権力者たちの冷酷な利害の一致。民の命を軽視し、己の富と権力だけを憂うその身勝手な会話が、屋敷の冷えた空気を更に淀ませていく。
「巻き込まれた下々の者たちには同情するが、しかし仕方のないことだ。彼らの命など、我らが抱える術師たちの価値に比べれば塵芥に等しい」
「まぁそうだろうな。優秀な術師が一人死ねば、我が一門が築き上げてきた利権そのものが揺らぐ。失われる利益の大きさを考えれば……嘆くべきは民の死ではなく、術師たちの損耗よ」
「藤原も前回の戦いで『涅漆鎮撫隊』が滅びたと聞く、今度の覇権を握るのは安倍であろうな」
「さて、彼らに取り入るにはどうすべきか……」
しかし、その時――貴族たちの会話がピタリと止まる。
誰もが言葉を失い、盃を持つ手を宙に止めたまま、視線を一点へと釘付けにする。
「なんだ、これは……」
彼らの視線の先、磨き上げられた縁側のすぐ脇、あるいは手入れの行き届いた庭の白砂の上に――突如として不気味で、しかし鮮烈ないくつもの『花』が咲き誇っていた。
12月24日、岩手県御所湖結界。
張り詰めた冬の冷気と血の匂いが混ざり合う戦場。その中心で、『史上最悪の術師』羂索は、突如背後から現れた『現代の異能』――乙骨憂太によって一刀両断された。
千年にも及ぶ悠久の暗躍、その最期はあまりにも呆気のない『不意打ち』による奇襲という――常に『面白さ』を求めて生きてきた彼にとっては究極の皮肉であり、あまりにも『つまらない』ものだった。
「だが、私の遺志は受け継がれる」
頭と胴を両断され、意識が急速に暗転していく中で、それでも彼は微笑んでいた。
術者の支配を失った事による『呪霊操術』の暴走。彼がこれまで溜め込んだ数百、千にも届く膨大かつ凶悪な呪霊たちが一斉に解き放たれ、狂乱の叫びをあげて周囲を埋め尽くしていく。
しかし、それは直後に動き出した『リカ』による圧倒的な暴力を受け、瞬く間に一掃されていった。
「宿儺とは既に『継承の儀』を終えてある、後は基礎となる死滅回游で同化の儀の親を変えてやればこの通りさ」
「……!」
乙骨の突き出した刀の先、そこで穿たれた呪霊と羂索の頭の位置が入れ替わり、羂索は脳天を貫かれる。
それでも羂索は笑っていた。
「千年分楽しんだとは言わないさ、けれど最後に遊ぶのが彼でよかった。次は君たちの番だ」
――きっと楽しいよ。
それだけを残し、羂索はこの世を去った。
「リカ」
羂索の絶命を見届けた乙骨は、ちょうど暴走した呪霊の全てを殺し終えた『リカ』を近くに呼び、その体内に羂索の頭を収納させた。
れは、彼が次に取るべき『怪物』の手段の布石。
万が一、恩師である五条悟が両面宿儺に負けて死んだ時に行う最後の手段、死者の肉体を乗っ取る羂索の術式を模倣し、自分が恩師の死体を操って戦うという、非人道的な戦略。
だが、それに苦悩する時間はない。
既に五条悟は敗北し、彼の犠牲を無駄にはしないと仲間たちは皆、宿儺に向かって戦いを挑んでいる。
今もこうしている間にも、仲間たちは史上最強の術師と戦っているのだ。
自分もすぐに彼らの下へ戻り、加勢しなければいけない。
――その時。
「――――ッッ!!」
――新たな呪力の反応。
自分のではない、ましてや『リカ』のものでもない。
今、近くで寝転がっている覚醒型泳者の髙羽史彦のものでも、先ほどの奇襲でも自分をサポートしてくれた男、東堂葵のものでもない。
それは自分のよりも深く、そしておどろおどろしい――。
(新手!? でもこの呪力の質は――!)
まるで、宿儺の――。
特大の警戒と共に振り返った先、そこにあった光景を、乙骨は飲み込む事ができなかった。
目の前に、首なしの遺体が浮かんでいる。
五条袈裟を着たその身体は、間違いなく先ほど殺した羂索のものだ。
だが、先ほど間違いなく羂索は死んだ。それに暴走した呪霊によって、彼の身体は粉微塵に弾け飛んでいた筈。
ならば、これは一体――。
「私は、あの地下で死んでも良かったんだ」
どこからか響く声と、目の前で変異する肉体。
首の断面から盛り上がる肉、より濃く露わとなっていく呪力――。
明らかな異変、よって乙骨はすぐに意識を切り替える。
「リカ!」
刹那の迷いを裂き、乙骨の命令に従って『リカ』が剛腕を振るう。
目の前の身体は、『リカ』の攻撃を無防備に受けて後方へ吹き飛び、多くの建築物を巻き込んで消えていく。
「多くの人間を殺し、悪を一掃した。それが受け入れられないのも知っている」
それでも、声は絶えなかった。
数百メートルもの距離をまるでなかったものとするかのように、瞬きの間に平然と、その身体は乙骨の目の前に舞い戻っている。
「一般的な倫理観……天元のそれと私は相性が悪い」
その者は、一本の刀と共に宙に浮かんでいた。
崩れ散る破片と微小な大気の震えを背景に、圧倒的な静寂を纏いながらその身を浮遊させている。
五条袈裟を、直綴を脱ぎ去った一人の少女。
その元となったであろう、羂索の肉体の面影はもうどこにもなく、間違いなく別人に『成った』という事実だけが突きつけられる。
受肉による変身。それに似た、そしてそれ以上に悍ましいもの――。
刀と共に浮かぶ少女は、その言葉を紡ぐ。
「それでもどうやら、まだ『私』はこの世に必要らしい」
そして、目の上に浮かぶ刀の柄を確かな手つきで握った。
瞬間、世界の色が変質した。
地面が、森林が、視界の隅々までが真っ黒に染め上げられていく。
鞘から零れ出した呪力が、刃から滴り落ちる凄まじい呪力が、世界を侵食し、穢し続ける。
真っ黒に染まる両目に理性の光を静かに灯しながら、その少女は冷徹に相手を見据え、そして問いかける。
――乙骨のすぐ目の前で。
「あなた、現代の術師?」
「……ッ」
――速すぎる。
再び、瞬きする間に距離を縮め、彼女は乙骨のすぐ目の前に現われた。
移動に何かしらの術式が絡んでいるのかどうかも分からない、その『未知』も相まって、乙骨の警戒心は天井知らずに昇っていく。
少女は、刀の背を肩に置いて軽快に、しかし底知れない気配を纏ったまま言った。
「なぁんだ。今の術師はシャイね、シャイ」
「……?」
「使い方合ってるかな、羂索の記憶を読んだのだけれど」
羂索の名を知る術師。
それが示す彼女の正体に至ってもなお、乙骨の警戒心を緩める事は微塵もなかった。
圧倒的な存在感を放つ謎の少女、乙骨はそれから全身の毛穴から冷や汗が噴き出すようなプレッシャーを感じながら、しかし一歩も引くことなく、絞り出すようにその問いを発した。
「羂索とどういう関係ですか」
その問いに対する、少女の返答は――。
「他人だけど」
「……」
「強いて言うなら、いつかは殺そうと思ってた相手? あいつ悪い奴だし」
「えっ?」
あまりにもあっけらかんと言い放つ少女に、乙骨は思わず動揺の色を隠せなかった。
だが、彼女はそこで言葉を切らず、さらに続ける。
「こうして身体を奪ったから分かる。こいつやっぱりろくでもない奴よ、死んで良かった」
「……??」
「にしても、今の時代の刀もいいものね。それ、結構良い代物でしょう?」
「????」
乙骨を襲う凄まじい違和感。
それは今までに相対したどの敵とも違う、吐き気のする程おどろおどろしい呪力を垂れ流しにしておきながら、裏表のない調子で言葉を紡ぐ、若い少女というギャップの化身そのものだった。
そして、羂索の事を知っておきながら、彼の肉体を奪うという離れ業を披露しておきながら、彼自身の悪行に憤るという様子。
それら全てが、今も尚放ち続けられている濃密な『殺気』に全く釣り合っていない。
「あなたも誰かの為に戦っているの? 正義の為に力を振るっているのかな」
「……あの、僕は」
「力には振るう理由がある、振るわれるべき場所がある」
少女は、虚空を見上げて静かに言葉を続けた。
困惑したままの乙骨を無視し、まるで何かの思い出に酔いしれるように。
「悪を滅し弱者を救う。……それが強者の使命、だから私は使命を全うする」
「……」
その考え自体には乙骨自身も同意できる。
故に、初めてそこで乙骨が彼女に本格的な言葉を返そうとした、その時。
「禪院家にまだ生き残りがいるな?」
「――――」
呼吸が、止まる。
彼女の殺意が向けられる存在、それに気づいた乙骨に、冷たい感覚が迸る。
変わった口調と、より鋭く、肌を抉るような威圧感。
それが辺りを支配する。
「宿儺の身体になっている男とは違う、禪院家を滅ぼしたあの女だ」
「ッ、それは――」
声を荒げる乙骨を後目に、少女は淡々と、しかし揺るぎない確信を持って言葉を重ねる。
「己の為だけに力を振るう者、加えてかつての『罪人』の血が流れているのなら猶更だ、生かしておく理由はない」
彼女は続ける。
「私の使命は誰にも邪魔させない、渋谷で人間を殺した九相図の長兄も、他の結界内にいる受肉した術師も殺す。今度は誰一人として取り溢さない」
純粋で純然な、研ぎ澄まされた正義の『殺意』。
「障壁となる者も全て殺す」
「――――ッ」
乙骨がこの『死滅回游』で出会った存在は全員、その目にそれぞれの色の光を宿していた。
妄念にしがみつく者、欲に溺れた者、手にした異能に振り回されて人間性を捨てた者。様々な者が光を目に宿していた。
だが、今目の前にいる彼女の目には、彼らのような淀みが一切なかった。
そこにあるのは、あまりにも真っすぐで、思わず目を背けたくなる程に黒く眩しい――理性の光。
即ち、彼女が一切の狂気に触れておらず、しっかりと理性を保った上で、この結論に至っている事実。
「……違う」
絶対的な『個』による指向性を伴った殺意。
それの行く先――過ぎた正義という真っ直ぐな暴走を前にして、乙骨は歯噛みする。
「あなたの裁量では死ななくてもいい人間が死ぬ」
「それはあなたの裁量でしょう」
優れた力を持った者、違いの生じた思想のぶつかり合い。
互いに『呪い』を扱う者、ならばその後に起こる事もまた、言葉の投げ合いではなく。
「『力』を持つ者同士、果てが違えば戦うしかない。――そうでしょう?」
それはすぐに、言葉の領域を超え、物理的な衝突となって顕在化しようとしていた。
代々、地震などの自然災害が起こるであろう場所と時期を伝え、人々を守り続けてきた『予言』の術式を持った一族『曽我』がいた。
『曽我』の一族はこの術式をもって、この国で唯一の『皇族』に直接関与できる程の影響力を持った外部の存在であり、多くの人間を災害から守り続けてきた。
この予言の力は国の統治においても絶対的な価値を持っていた。故に『曽我一族』は何百年もの間、政治的・宗教的な権威の礎となっていた。
しかし、呪術全盛の平安時代――その一族は終わりを告げた。
当時、呪術全盛の時代における政戦は現代とは違い、多くの血と呪いが渦巻くものだった。
多くの無辜な人間が巻き込まれ、権力を持った術師、そんな術師に飼われた術師だけが好き放題に生きる時代。
当時の呪術界は、現在のような組織的に隠蔽されたものではなく、権力者たちの権闘に呪術が直接的に用いられる血塗られた闘争の連続であった。
そして、そんな呪術全盛の世は、『曽我』の一族と同時に終わりを迎えた。
ある刀鍛冶が遺し、そして過呪状態と成った『呪具』。それを握る"縛り"として『予言』の術式を捨てた一族の子――『剣聖』。
彼女は愛した男の愛刀を手に、当時の政戦に参加していた術師、そしてあろうことか『皇族』も含めた全ての『悪人』を――約二十万もの命を平らげ、後に全知の術師・天元によって『薨星宮』の奥へと幽閉された。
元・史上最善の術師。
特級過呪具・妖刀『勾罪』契約者。
「悪人は皆殺しだ」
――『剣聖』曽我
続かない。