一、草原の国へ
アルトワール王国の馬車が丘を越えた瞬間、窓にへばりついていたニアが歓声を上げた。
「リノキス、見て見て! 地面が全部緑! 地平線まで! 牛の匂いがする!」
「ニア様、顔を窓から出さないでください。ヒルデトーワ殿下の前です」
向かいの席でメイド服の背筋を一ミリも崩さず、リノキスが静かに言った。
声は丁寧だが、ニアの襟首を掴む手はすでに実力行使の構えに入っている。
「いいじゃない。国交樹立の使節団なんだから、楽しそうにしてたほうが印象いいでしょ?」
「楽しそうと、はしゃぎ過ぎは別物です」
隣でレリアレッドがくすくすと笑い、膝の上に抱えた革のケースをそっと撫でた。
中には魔法映像の撮影機材一式が収まっている。今回の旅の、もう一つの目的だ。
「二人とも、そのあたりにしておきなさい」
奥の席で書類に目を通していたヒルデトーワが顔を上げた。
外交の場に立つ者の落ち着いた眼差しで、窓の外を見やる。
「ここがハイラル王国。大陸の西に広がる平原の王国で、湖と森と火山と砂漠、それぞれの種族が一つの王家のもとで暮らしていると聞くわ。アルトワールとの国交が結ばれれば、互いの交易路は大きく開ける。……ニア、お願いだから今日だけは、大人しくしていてね」
「はーい! 任せてください、ヒルデトーワ!」
元気いっぱいの返事に、リノキスとレリアレッドが同時に遠い目をした。
この返事が守られた試しはない。
やがて丘の向こうに、白い城壁と青い屋根を戴いた城下町が見えてきた。
城の尖塔には、三つの三角形を重ねた紋章の旗が風にはためいている。
「わあ……」
さすがのニアも、窓から身を引いて小さく息を呑んだ。
二、ハイラル城の謁見
城下町は活気に満ちていた。
露店には果物や織物が並び、見慣れない耳の長い人々や、岩のような体躯の種族までが行き交っている。
ニアは馬車の窓から顔を引っ込める約束をぎりぎり守りつつ、目だけを忙しく動かした。
「ねえリノキス、あの屋台の串焼き、絶対おいしいやつ」
「仕事が終わってからです」
「あっちのパイも」
「仕事が終わってからです」
謁見の間は、高い天井に陽光の差し込む荘厳な広間だった。
玉座に座るハイラル王は、白い髭をたくわえた温和そうな人物で、ヒルデトーワの挨拶に穏やかに頷いた。
「遠路はるばる、よく来てくださった。アルトワール王国との友好は、我が国にとっても喜ばしいことだ」
形式通りの挨拶と贈答が済んだあと、ヒルデトーワは本題に入った。
「陛下。貴国との友好の証として、我が国で普及しつつある技術を一つ、お見せしたく存じます。レリアレッド、お願い」
「はい」
レリアレッドが革のケースから、手のひらほどの水晶板と、小さな魔導具を取り出した。広間の中央に据えて魔力を通すと、水晶の上の空間がふわりと明るくなり――。
そこに、映像が浮かび上がった。
アルトワールの王都の大通り。行き交う馬車、笑う子どもたち、パン屋の窯から立ちのぼる湯気。
音まで伴って、まるで窓を開けて覗き込んでいるかのように鮮やかに。
「おお……!」
居並ぶ大臣たちが、思わず身を乗り出した。
王も目を丸くして、髭に手をやる。
「これは……遠くの景色を映し取っておるのか。いや、映し取って、何度でも再生できると?」
「左様でございます、陛下」
ヒルデトーワが静かに頷く。
「これを魔法映像と呼んでおります。遠く離れた土地の様子を、民に等しく届けることができます。祭りも、政の報せも、旅の風景も。貴国の美しい平原や湖を、他国の民に知らせる手段にもなりましょう」
王はしばらく映像に見入っていたが、やがて慎重に言葉を選んだ。
「素晴らしい技術だ。だが、これは国の根幹に関わる話でもある。民の暮らしにどう影響するか、大臣や賢者たちとも諮らねばならん。……検討させていただきたい」
「もちろんでございます。ご判断を急かすつもりはございません」
ヒルデトーワは優雅に一礼した。
(まあ、そうよね。いきなり『はい導入します』とはならないわよね)
後ろに控えるニアは、表情を変えずに心の中で呟いた。
前世の記憶を持つ彼女には、こういう『持ち帰って検討します』の重みがよく分かる。
そのとき、ニアの背筋に、ぞくりとしたものが走った。
視線だ。
謁見の間の端、王の傍らに控える一団の中に、ひときわ背の高い男がいた。
赤い髪に褐色の肌、黒い装束に身を包み、礼を尽くした笑みを浮かべている。
砂漠の民の使節だと紹介されていたその男は、水晶の上の映像ではなく――映像を映す魔導具と、それを扱うレリアレッドの手元を、獲物を見定めるような目で見つめていた。
ニアと目が合うと、男はにっこりと笑って会釈した。
ニアも反射的に笑顔で会釈を返した。
だが、掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
(……今の人。笑ってたのに、目が全然笑ってなかった)
「ニア様」
リノキスが、ほとんど唇を動かさずに囁いた。
「お気づきですか」
「……リノキスも?」
「あの男、重心が常に半歩、王に近い位置にあります。礼装の下に、剣を隠し持っていてもおかしくありません。もっとも、ここは王の御前。今は何も起こりません」
「うん。でも、あの人には近づかないでおこう」
二人はそれきり黙って、何事もなかったように背筋を伸ばした。
男の名は、ガノンドロフといった。
三、ゼルダ姫の瞳
謁見のあと、使節団は城の中庭へ案内された。
色とりどりの花が咲き、中央には小さな噴水がある。
ヒルデトーワは大臣たちとの実務協議に呼ばれ、ニアたち三人は『姫君がお会いしたいと仰せです』という侍従の言葉に導かれて、中庭の奥へ進んだ。
花壇の傍らに、少女が立っていた。
金色の髪を後ろで結い、淡い紫と白の衣装に身を包んだ、ニアと同じ年頃の少女。
その隣には、背筋の伸びた、鋭い眼光の女性が、影のように寄り添っている。
「ようこそ、ハイラルへ。わたくしはゼルダと申します」
少女は優雅に膝を折った。年齢に似合わぬ、静かで深い声だった。
「こちらは乳母のインパ。お会いできて光栄です、ニア・リストン様、レリアレッド様、リノキス様」
「ご丁寧にありがとうございます、姫様。ニア・リストンです! えっと、お花、きれいですね!」
「ふふ、ありがとう。母が好きだった花なのです」
ゼルダはそう言って微笑んだが、その視線がふと、ニアの顔に留まった。
そして、そのまま動かなくなった。
深い青の瞳が、ニアの奥の奥まで覗き込んでいる。まるで、水面の下の影を見透かすように。
「……あの、姫様?」
「失礼を。ニア様、一つだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
「はい、どうぞ!」
「あなたの魂は、この世界の生まれではありませんね」
中庭の空気が止まった。
レリアレッドが小さく息を呑み、リノキスの指先が音もなくスカートの内側に伸びる。
その手を、ニアが片手で制した。
ニアは少しだけ考えて――それから、あっさりと頷いた。
「そうですけど?」
「ニア様!?」
リノキスが悲鳴に近い声を上げた。
ゼルダは目を丸くし、それから小さく笑った。
「……ごまかさないのですね」
「だって、見えちゃってるんですよね? ごまかしても仕方ないかなって。それに、姫様、悪い人じゃなさそうだし」
「あなたは、不思議な方ですね」
ゼルダは噴水のそばの石のベンチに腰を下ろし、三人にも隣を勧めた。
インパが、周囲に人が近づかないよう、さりげなく少し離れた位置に立つ。
「わたくしには、少しだけ、視える力があるのです。人の魂の形や、遠い先の出来事が、夢の中に流れ込んでくることがあります。ニア様の魂には、この世界にはない色が混じっていました。優しくて、強くて、そして……とても長い旅をしてきた色」
「前世の記憶が、あるだけですよ。ちょっと、その、ありすぎるだけで」
ニアは頬をかいた。
「でも、姫様。その力で、何を視たんですか? 私に会いたかったのは、それが理由ですよね」
ゼルダの笑みが、消えた。
「ここ数か月、同じ夢を繰り返し視ます。空が黒い雲に覆われ、城が炎に包まれ、民が散り散りになる夢。そして、その中心に――」
少女の指先が、かすかに震えた。
「黒い、大きな影が立っているのです。その影の足元で、緑の服を着た少年が、剣を手にしている。そこまでしか、まだ視えていません」
レリアレッドが、思わず口を開いた。
「それは、予言、ということですか」
「そう呼ぶ者もいるでしょう。ですが、父には、まだ信じてもらえません。大臣たちも、子どもの悪い夢だと」
ゼルダは唇を噛んだ。
ニアは、先ほどの謁見の間で感じた視線を、思い出していた。
赤い髪、褐色の肌、笑っていない目。
「……姫様。その影って、もしかして」
「いいえ、まだ確かなことは言えません」
ゼルダは静かに首を横に振った。
「ですが、ニア様。あなたのような、世界の理の外から来た魂を持つ方と、こうして出会えたことが、偶然とは思えないのです。どうか、あなたの国の方々にも、この国に迫る災いのことを、心の片隅に留めておいていただけませんか」
インパが、そこで初めて口を開いた。
低く、よく通る声だった。
「ヒルデトーワ殿下には、わたくしから改めてお伝えいたします。来たるべき災厄に備え、アルトワールの方々にも、備えを怠らぬようにと」
「備え、ですか」
リノキスが、静かに問い返した。
「ええ。いかなる形の災厄であれ、備えをしておくことに損はございません。この国にも、あなた方の国にも」
ニアは、ゼルダの小さな手を、そっと両手で包んだ。
「姫様。私、難しいことはよく分からないけど」
「はい」
「困ったことがあったら、いつでも呼んでください。魔法映像は、遠くの人とも顔を合わせられるから。私、強いので、飛んできます」
少女は、驚いたように瞬きをして、それから、年相応の笑顔で笑った。
「……ありがとう、ニア様」
レリアレッドは、その光景を見ながら、そっと革のケースを握りしめた。
魔法映像は、娯楽のための技術ではない。
遠い誰かと、誰かを繋ぐための技術だ。
その意味が、少しだけ、重みを増した気がした。
四、ロンロン牧場にて
翌朝、ニアたち三人は、インパの手配した護衛の兵とともに城下町を出て、南の平原へ向かった。
国王の返答は「検討する」のままだった。
だが、ゼルダ姫が父王に「民の暮らしを映すだけなら、害はありませんでしょう」と取りなしてくれたおかげで、撮影の許可だけは下りたのだ。
ヒルデトーワは城に残り、大臣たちとの協議を続けている。
「撮影は、あなたたちに任せるわ。くれぐれも、くれぐれも、大人しくね」
出がけに三度繰り返されたその言葉を、ニアは「はーい!」の一言で受け流し、リノキスは額を押さえた。
丘をひとつ越えると、柵に囲まれた広い牧場が見えた。
赤い屋根のサイロ、のんびり草を食む牛の群れ、風に揺れる草の波。
「ここがロンロン牧場……! 空気がおいしい!」
「ようこそ、ロンロン牧場へ! お城のお客さんだって?」
出迎えたのは、人の良さそうな口髭の男だった。
牧場主のタロンだ。
城から知らせは届いていたらしく、帽子を取って大げさなほど丁寧にお辞儀をする。
「こんな田舎に、異国のお姫様方がおいでになるとは。うちの牛乳を飲んでいってくれよ。ハイラルいちの味だって、娘も言ってるんだ」
「お父さん、自分で言わないでよ。……はじめまして! マロンです!」
牛舎の陰から駆けてきたのは、栗色の髪を揺らす、ニアたちと同じ年頃の少女だった。
ぱっと咲くような笑顔に、レリアレッドの頬も思わずゆるむ。
撮影が始まった。
レリアレッドが魔法映像の機材を構え、ニアはその前に立つ。
リノキスは機材の護衛と、周囲の警戒。
肩書きだけは堂々としているが、実際のところ、この旅における撮影係と案内役は、すっかりニアとレリアレッドの役目になっていた。
「はーい、みなさんこんにちは! ニア・リストンです! ただいま、ハイラル王国のロンロン牧場に来ております! 見てください、この広さ! この牛の数! そしてこちら、搾りたてのミルクです!」
差し出された木のカップを、ニアは両手で受け取って、ぐいっと一気に煽った。
「…………っ! おいしい!!」
大声が牛舎に響き渡り、驚いた牛が一頭「モー」と抗議した。
「ニア様。味の感想が、語彙ごと吹き飛んでおります」
「だって本当においしいんだもん! 甘いのに、あとがさっぱりしてて、喉をするっと通るの! リノキスも飲んでみて!」
「私は仕事中ですので」
「いいから!」
押し付けられたカップを仕方なく傾けたリノキスの目が、わずかに見開かれた。
「……確かに。口当たりが、非常に澄んでおります」
「でしょ!」
タロンが、感極まったように胸を押さえた。
「うちの牛乳が、あんなふうに国の外まで届くのかい。ありがたいことだよ。この牧場は、わたしにとっても、娘にとっても、何より大事な場所でね」
「お父さんたら、泣かないでよ」
マロンが笑いながら父親の背を叩き、それから柵の向こうを指さした。
「ねえ、うちの自慢の子も、映してあげて!」
柵の向こうの広場から、栗毛の若い馬が、こちらを覗いていた。
額には、白い斑点、賢そうな黒い瞳。
「エポナっていうの。わたしの親友よ」
「わあ、かわいい!」
ニアが近づこうとすると、エポナはひょいと首を伸ばし、ニアの肩の布を、はむっと甘噛みした。
「わっ!?」
「あ、ごめんなさい! この子、気に入った人にしかやらないの!」
「えっ、私、気に入られたの?」
「うん! すごく!」
エポナはもう一度、ニアの頭の上に鼻先を押し付けて、満足そうに鼻を鳴らした。
レリアレッドが、その様子を逃さず魔法映像に収める。
そこへ、牛舎の奥から、不機嫌そうな声が響いた。
「おいおい、さっきから何を騒いでるんだ。仕事の邪魔だぞ」
現れたのは、牧場で働くインゴーという男だった。ニアたちを一瞥し、露骨に面倒そうな顔をして、馬具の置かれた棚の陰に引っ込んでいく。
「ごめんなさいね、インゴーさん、いつもああなの」
マロンが小声で肩をすくめた。
(……あの人も、あまりいい目をしていない)
ニアは、ふと胸にざわつくものを覚えた。
だが、それが何なのか確かめる前に、マロンが手を打った。
「そうだ! せっかくだから、歌を聴いてもらってもいい? わたし、歌うのが大好きなの」
「ぜひ!」
マロンは牧草の上に立ち、胸の前で手を組んで、すう、と息を吸った。
歌声は、驚くほど澄んでいた。
言葉の一つ一つが風に乗り、牛たちが首を上げ、エポナが耳を澄ませる。
柵の向こうの空に、雲が静かに流れていく。
ただ、それだけの、のどかで穏やかな景色。
レリアレッドは、魔法映像の水晶越しに、その光景を見つめていた。
(これが、魔法映像の本当の力かもしれない)
どこか遠くの、誰かの暮らしのひとときを、そのまま持ち帰ることができる。
ただ美しいというだけで、人の心をつなぐことができる。
歌い終えたマロンが、照れくさそうに笑った。
「ごめんなさい、恥ずかしかった?」
「ううん、すごくよかった! 今の、国のみんなにも見せたいなあ!」
ニアは本気でそう言った。
「わたし、いつかこの歌を、大切な人に聴かせたいなって思ってるの。……変かな?」
「全然、変じゃないよ。きっと届くよ」
ニアの言葉に、マロンは、ぱっと顔を輝かせた。
夕暮れ、撮影を終えた三人は、タロンの用意してくれた温かいシチューをいただいた。
野菜も、肉も、牛乳も、すべてこの牧場のものだという。
「おかわり!」
「ニア様、三杯目です」
「だって、おいしいんだもん!」
笑い声が、牧場の夜に溶けていった。
五、帰りの馬車
三日後、使節団はハイラルを発つことになった。
城門の前で、ヒルデトーワは国王に深く礼をした。
「結論を急がぬ姿勢、敬意を表します。魔法映像の件は、ぜひ、お心に留めておいてくださいませ」
「うむ。必ず、前向きに考えておこう」
王は穏やかに頷いた。
だが、その言葉が社交辞令にすぎないことは、ヒルデトーワにも、ニアにも分かっていた。
少し離れた柱の陰に、ゼルダが立っていた。見送りの人混みから距離を置き、ただ静かに、こちらを見つめている。
ニアが手を振ると、ゼルダはほんの少し驚いて、それから小さく、手を振り返した。
隣のインパが、何も言わず、一歩ヒルデトーワのほうへ進み出る。
「ヒルデトーワ殿下。昨日の件、どうか、お忘れなきよう」
「……ええ。姫君の言葉、確かに、胸に留めたわ」
ヒルデトーワは、短く、しかし深く頷いた。
馬車が走り出す。
ハイラル城の白い城壁が、ゆっくりと遠ざかっていく。
窓の外の草原を眺めながら、ニアは小さくつぶやいた。
「ねえ、リノキス。あの赤い髪の人……」
「ガノンドロフ殿、ですか」
「うん。もし、姫様の見た夢が本当になるなら、あの人、何か関係あるのかな」
「まだ確証はありません」
リノキスは、表情を変えずに答えた。
「ですが、ニア様の直感は、たいてい当たります。……ですので、帰国後は、念のため、訓練の量を増やしましょうか」
「えっ」
「ご安心ください。私も付き合います」
「それ、安心できる要素どこ!?」
レリアレッドが、思わず吹き出した。
ヒルデトーワも、書類で口元を隠して、肩を震わせている。
笑い声の中で、レリアレッドは革のケースを開いた。
撮ったばかりの映像を、水晶に映す。
ロンロン牧場の青い空、ミルクを飲んで叫ぶニア。
エポナに甘噛みされて慌てるニア。そして、マロンの歌声。
馬車の中は、いつの間にか、静かになっていた。
誰もが、その映像を、息をひそめるように見つめていた。
「……この国が、ずっと、こんなふうに平和でありますように」
レリアレッドの小さな祈りは、誰にも聞き取られないまま、車輪の音に紛れて消えた。
六、アルトワールの夜
帰国して数日、ニアたちの暮らしは、元の日常に戻った。
王宮の広間では、持ち帰ったロンロン牧場の映像が、ささやかな上映会にかけられた。
「おお、これは……なんとのどかな」
「あの牛乳、ぜひ取り寄せられぬものか」
居並ぶ貴族たちが目を細める横で、ニアは得意満面に胸を張った。
「そうでしょ、そうでしょ! ほら、ここ! 私がエポナに噛まれるところ!」
「ニア様。そこは、わざわざ指摘なさらなくてよろしいかと」
「え、一番の見どころなのに」
「見どころの質が、違います」
リノキスの冷静な突っ込みに、広間のあちこちから、くすくすと笑いが起きた。
その夜、ヒルデトーワは王宮の書斎に、ニアたち三人を呼んだ。
窓の外には、静かな月が浮かんでいる。机の上には、ハイラルから持ち帰った、一通の封書が置かれていた。
差出人の名は、ない。ただ、封蝋には、三つの三角形を重ねた紋章。
「ゼルダ姫からよ。インパ殿が、出立前に、そっと渡してくれたの」
中身は、短い文面だった。
――災いの兆しが、日に日に濃くなっています。もしその日が来たなら、遠い国の友として、どうか、あの子の味方でいてください。
「あの子、というのは」
レリアレッドが、小さく首をかしげる。
「夢の中の、緑の服の少年のこと、でしょうね」
ヒルデトーワは、窓の月を見上げた。
「私たちは、ハイラルの民ではない。彼らの運命に、気軽に口を挟める立場でもない。……それでも、この手紙を受け取ったからには、何かできることを探しておきたいのよ」
「それなら、簡単です」
ニアが、きっぱりと言った。
「何かあったら、駆けつければいいんです。私、強いので」
「ニア様、そう簡単に仰いますが」
「だって、そうでしょ? 呼ばれたら行く。困ってたら助ける。それだけ。……あと、魔法映像のことも、諦めません」
ヒルデトーワは、驚いたようにニアの顔を見て、それから、静かに笑った。
「……そうね。そのどちらも、決して、忘れないでおきましょう」
月が、ゆっくりと雲に隠れていった。
七、赤い髪の男
ニアたちが去って、七日が過ぎた夜。
ハイラル城の最上階近く、窓のない小さな一室に、ひとつの人影があった。
燭台の炎が、赤い髪を揺らしている。ガノンドロフは、椅子に深く腰を下ろし、卓上に置かれた小さな水晶板を、指先で弄んでいた。
使節団が置いていった、魔法映像の試作品だ。
「……面白い道具だ」
低く、静かな声が、部屋に染みる。
水晶の上に、ロンロン牧場の青い空が浮かび上がる。
牛たちの鳴き声、風の音、そして、少女の歌声。
ガノンドロフは、その映像を、最後まで、静かに見届けた。
歌が終わる。水晶の光が、ふっと消える。
男は、ゆっくりと、笑った。
「実に、優れた道具だ。遠くのものを、あまねく、民の目に届ける。……ああ、確かに、民の心を、動かすだろうな」
部屋の隅の闇が、かすかに揺れた。
控えていた配下が、無言で頭を下げる。
「だが、不要だな」
ガノンドロフは、水晶板を、指先で軽く弾いた。
乾いた音を立てて、板が机の上を滑り、床に落ちる。
「王が、民の目に、すべてを見せる。それは、善き王の振る舞いだ。だが、これから先、この国に必要なのは、善き王ではない」
男は立ち上がり、窓のない壁に手を置いた。
まるで、その向こうに広がる王都を、見透かすように。
「見られる者は、隠せなくなる。隠せなくなれば、事を成すのが面倒になる。……民に、余計な目を持たせてはならんのだ」
配下が、わずかに顔を上げた。
「では、予定通りに」
「ああ。急げ」
男の声は、あくまで穏やかだった。それが、かえって、部屋の空気を凍らせた。
「あの異国の娘たちには、ほんの少しだけ、感謝しておこう。おかげで、決心がついた」
ガノンドロフの視線が、床に落ちた水晶板へ向く。
砕けた欠片の中に、わずかに残った光が、ちらちらと瞬いていた。
そこに、映っていた。
馬の隣で、笑っている少女。
大きな口を開けて、ミルクを飲んでいる少女。
――あの娘の目だけは、あのとき、わずかに、俺を見ていた。
男の眉が、ほんの僅かに、動いた。
「……さて。あの娘が、また来るかどうかは、知らんがな」
燭台の炎が、ふっと、消えた。
暗闇の中に、赤い髪の男の笑い声だけが、低く、長く、響いていた。
八、コキリの森の噂
ハイラル平原の南東、深い緑に包まれた森の奥に、コキリの森はある。
子どもの姿のまま、年を取らずに暮らす、コキリ族の隠れ里だ。
木の上に作られた小さな家々、苔むした石畳、いつもどこかで、ころころと笑い声が響いている。
「ねえねえ、聞いた? お城の人たちが、不思議な水晶を持ってきたんだって!」
「水晶? なにそれ、光るの?」
「光るどころじゃないんだよ! 遠くの景色を、そのまま映しちゃうんだって! しかも、音も付いてるんだって!」
切り株に腰かけた子どもたちが、鼻息荒く、噂話に花を咲かせている。
その輪の端で、緑の服を着た少年が、じっと耳を傾けていた。
リンクだ。
コキリ族の中で、ただ一人、妖精の相棒を持たない少年。
それを理由に、ミドたちからからかわれることも多い。
それでも、彼の瞳は、いつも前を向いていた。
「ねえ、サリア。その話、ほんとかな」
「うん、本当みたい。森の外から来たデクナッツの商人さんが、教えてくれたの」
リンクの隣に座っていた、緑の髪の少女が、にこにこと答えた。
コキリの森の友人、サリアだ。
「商人さんね、ハイラル城下町でお店を開いたとき、見たんだって。遠い国から来たお姫様たちが、お城の広間で、水晶の上に景色を浮かばせてたって。大臣さんたちも、王様も、びっくりしてたって」
「へえ……」
「しかもね、その国のお姫様たち、ロンロン牧場にも来て、撮影っていうのをしたんだって。マロンさんの歌も、一緒に映ったんだって」
「マロンの……」
リンクの目が、ぱちりと開いた。
リンクは、まだ、ロンロン牧場に行ったことがない。
森の外に出ることが、そもそも、コキリ族の子どもには許されていない。
ただ、噂に聞いた、遠くの牧場のこと、牧場の娘のことが、ずっと、心のどこかに引っかかっていた。
「その水晶に、ぼくも、映ってみたいな」
思わず、口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
「え、リンクが?」
「あ、いや……変かな。ぼく、森の外のこと、なんにも知らないから。ただ、そんなふうに、遠くの人と、顔を合わせられたら、いいなって」
リンクは頬を掻いて、足元の土を蹴った。
サリアは、少し驚いたような顔をして、それから、ふわりと微笑んだ。
「ううん、変じゃないよ。わたしもね、森の外のこと、ときどき、考えるの」
「サリアも?」
「うん。外の世界って、どんなところなのかな。そこには、どんな人がいるのかなって。……あ、ミドには内緒ね」
「あたりまえだよ」
ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「おい、そこの二人! なにをこそこそ話してるんだ!」
案の定、木の上から、偉そうな声が降ってきた。赤い髪の少年、ミドだ。腕を組み、仁王立ちで、ふたりを見下ろしている。
「また、森の外の話だろ。いいか、コキリ族は、森から出ちゃいけないんだ! それが、掟なんだからな!」
「別に、出るなんて言ってないよ」
「言わなくても、顔に書いてある! だいたい、妖精もいない奴が、森の外に出たって、すぐ、魔物に食われるだけだぞ!」
「ミド!」
サリアが、さすがに声を尖らせた。
ミドはぐっと言葉に詰まり、ふんと顔を背けて、木から飛び降りて走り去った。
「ごめんね、リンク。ミドったら、ほんとに……」
「ううん、いいんだ」
リンクは、小さく笑って、首を振った。
夕暮れ。サリアと別れたリンクは、ひとりで森の奥の道を歩いた。
木々の隙間から、赤く染まった空が、のぞいている。
その向こうに、まだ見ぬ広い世界が、あるのだと、ぼんやり思う。
――遠くの人と、顔を合わせられたら。
その願いは、淡い。ただ、少年の胸の中で、確かに、ひとつの灯火になっていた。
九、デクの樹サマの夢
その夜、リンクは、不思議な夢を見た。
暗い、暗い、平原。空は黒い雲に覆われ、稲妻が走り、城のほうから、炎が上がっている。
その足元に、大きな影が立っていた。
リンクは、立ち尽くしたまま、動けなかった。そのとき、遠くから、歌声が聞こえた。
澄んだ、優しい、牧場の少女の歌。
そして、もうひとつ、別の声。
――大丈夫。呼ばれたら、行くから。
知らない少女の声だった。元気いっぱいで、少しだけ、大雑把で、でも、不思議と、胸の奥に染みこむような。
リンクは、はっと目を覚ました。
夜明け前の、冷たい空気。
窓の外では、虫の声が、まだ静かに続いている。
(……今の、なんだったんだろう)
胸が、どきどきしていた。
怖さと、懐かしさが、不思議に混ざったような、奇妙な感覚。
そのとき、森の奥のほうから、重々しい声が、かすかに響いてきた。
――リンクよ。
はっと、息をのむ。声は、頭の中に、直接、語りかけていた。
――リンクよ。もうすぐ、おぬしを呼ぶときが、来る。
「デクの樹サマ……?」
――おぬしは、森の外へ出る定めの者じゃ。恐れることはない。ただ、心の準備をしておくのじゃ。
声は、それきり、静かに消えた。
リンクは、しばらく、暗い天井を見つめていた。そして、小さく、息を吐いた。
(森の、外へ)
怖くなかった、と言えば、嘘になる。
だが、それ以上に、胸の奥に灯った、淡い光が、少しだけ、強く輝いた気がした。
終章、遠い空の下で
アルトワール王国、王宮のバルコニー。
月明かりの下、ニアは、手すりに肘をついて、夜空を見上げていた。
「ニア様。夜風は、お体に障ります」
背後から、リノキスが、ショールを肩にかけてくれる。
ニアは、くすぐったそうに笑って、振り返った。
「ありがとう、リノキス。……ねえ、ハイラルの空も、今、この月と、つながってるのかな」
「ええ。同じ月です。距離が、いくら離れていても」
「そっか。なら、もし何かあっても、きっと、気づけるよね」
「……ニア様」
リノキスは、何かを言いかけて、やめた。
そして、静かに、主の隣に並んだ。
「その時が来たら、私も、お供いたします」
「うん。お願いね」
ふたりは、並んで、月を見上げた。
そのころ、遠く離れたハイラルの城の一室で、金色の髪の少女が、同じ月を見上げていた。窓辺に立つ彼女の手には、小さな水晶板が、そっと握られている。
異国の娘が、別れ際に残していった、小さな試作品のひとつだった。
「……必ず、会えますように」
少女のささやきは、夜風に溶けて、広い平原の上を、遠く、遠くへ流れていった。
平原の南、緑深い森の奥で、少年は、まだ眠りの中にいた。
そして、城の最上階近く、窓のない部屋の中で、赤い髪の男が、静かに、目を開いた。
時を超えた物語が始まるまで、あと、二週間。
世界は、まだ、嵐の前の静けさの中にあった。
――完――