アルカマルで育った彼は、ある事件を経て自らの死を偽装し、裏社会で殺し屋組織「X(スラー)」を率いるようになった。
しかし、渋谷事変によって彼の運命は大きく変わる。
五条悟の封印、そして両面宿儺の出現。
一般人の救助を目的に渋谷へ向かった有月だったが、そこで待ち受けていたのは、あまりにも残酷な結末だった。
家族同然の仲間たちは宿儺によって殺され、生き残った者たちも深い傷を負った。
そして、その極限の精神状態が、有月の生得術式『模倣(コピー)』に思いもよらぬ変化をもたらす。
彼の内側に形成されたのは、仲間たちを奪った怪物――両面宿儺を模した人格だった。
やがて始まる死滅回游。
有月は羂索の計画を阻止するため、各地の結界を渡り歩き、危険な受肉術師たちを次々と殺害していく。
そして、新たに得た得点で結界間の移動を可能にした彼が、次に足を踏み入れた場所。
それが、四人の実力者による均衡が保たれていた仙台結界だった。
「…………」
仙台結界。
その境界を、一人の男が越えた。
有月憬。
かつては五条悟、夏油傑と同じ時代を生き、裏社会にその名を知らしめた男である。
そして今は、呪術高専と協力関係にある特級相当の術師でもあった。
「……ここが仙台か」
有月は周囲を見渡した。
倒壊した建物。ひび割れた道路。至る所に残された血痕。
死滅回游の舞台となった結界の一つ。
その光景は、これまで訪れたいくつもの結界と大して変わらなかった。
「結構、派手にやってるみたいだね」
独り言のように呟く。
死滅回游が始まって以来、有月はいくつもの結界を渡り歩き、泳者たちを殺害してきた。
もっとも、無差別に殺していたわけではない。
彼が主に狙っていたのは、過去の時代から受肉した術師たちだった。
千年前、あるいは四百年前。
生前に羂索と契約を交わし、現代の人間を器として復活した者たち。
もちろん、その全員が悪人というわけではない。現代の人間と共存しようとする者もいるだろうし、自ら望んで受肉したわけではない者もいる。
しかし、その一方で、現代を単なる遊び場と考えている連中も少なくなかった。
殺し合いを楽しむ者。
自身の強さを試すためだけに人を殺す者。
かつて果たせなかった欲望を満たそうとする者。
そうした連中にとって、死滅回游は都合のよい舞台だった。
有月は、そんな泳者たちを排除してきた。
そして、その過程で得た大量の得点を利用し、結界間を瞬間的に移動できるルールを追加したのである。
本来、死滅回游の泳者は結界に入ると、その内部で殺し合いを続けることになる。
しかし、百点を消費して新たなルールを追加すれば、その制約の一部を変更できる。
有月が追加したのは、結界間の移動を認めるルールだった。
これによって、彼は各地の泳者を次々と襲撃できるようになった。
その結果、死滅回游が始まってから現在までに、相当な数の術師が彼の手によって命を落としていた。
「さて……」
有月はポケットから手を出した。
「ここには、どんなのがいるのかな」
彼の目的は、強者との戦いではない。
それは、彼にとってあくまでも手段に過ぎなかった。
死滅回游を終わらせること。
羂索の計画を阻止すること。
そして、これ以上、自分の大切な人間を失わないこと。
そのために必要であれば、彼は躊躇なく人を殺す。
たとえ、その相手が自分と敵対していなかったとしても。
「……ん?」
不意に、有月の足が止まった。
少し離れた場所から、複数の呪力反応を感じた。
いずれも、一般的な術師とは比較にならないほど強い。
中でも、一つ。
異様なほど膨大な呪力を持つ者がいた。
「……へえ」
有月は小さく目を細めた。
「随分と強いのがいるんだね」
その反応には、覚えがあった。
五条悟とは異なる、底知れない呪力量。
そして、どこか馴染みのある気配。
「……乙骨君かな」
有月はそう呟いた。
五条悟が目をかけていた少年。
特級術師、乙骨憂太。
彼が仙台結界へ向かったことは、事前に聞いていた。
どうやら、無事に到着していたらしい。
「それなら、あまり邪魔しない方がいいかな」
有月はそう考えた。
乙骨は優秀な術師だ。
わざわざ自分が手助けする必要もないだろう。
それに、彼には彼の仕事がある。
自分は別の泳者を探せばいい。
そう思い、再び歩き始めようとした。
その時だった。
「…………」
身体が動かなかった。
「……あれ?」
有月は眉をひそめた。
足を動かそうとしても、思うように動かない。
いや。
正確には、身体が自分の意志とは異なる方向へ動こうとしていた。
「……またか」
有月は小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
彼の意識の奥底。
そこに、もう一つの意識が存在していた。
いや、一つではない。
有月憬という男の内側には、複数の人格が存在している。
それらは、彼の生得術式によって生み出されたものだった。
模倣(コピー)。
乙骨憂太が持つ術式と同じ名称でありながら、その性質は大きく異なる。
乙骨の模倣は、外部に存在するリカを介して術式情報を取り込み、他者の術式を再現する能力である。
対象の肉体の一部をリカが摂取し、そこに含まれる術式情報を解析する。
それに対して、有月の模倣は、対象となる人物そのものを解析する。
言動。
思考。
価値観。
能力。
戦闘における癖。
そして、その人物がどのような存在なのか。
そうした情報を有月自身が理解し、その人物を模した人格を自分の内側に形成する。
形成された人格は、本人が持っていた能力を再現できる。
ただし、その再現度は有月の理解に大きく左右される。
表面的にしか知らない相手を、完全に模倣することなどできない。
まして、その人物が理解の及ばない存在であれば、なおさらだった。
そして、もう一つ。
この術式には、極めて厄介な性質があった。
人格の主導権である。
有月自身よりも弱い人格であれば、彼はその人格を抑え込み、能力だけを利用できる。
しかし、相手が自分よりも強い存在だった場合は違う。
形成された人格が、肉体の主導権を奪おうとするのだ。
それは、単に術式の制御を失うという話ではない。
自分の身体を、別の誰かに奪われる。
それも、自分とはまったく異なる価値観を持った存在に。
そして現在。
有月の内側には、彼自身が最も警戒している人格が存在していた。
両面宿儺。
千年前、呪術全盛の時代に君臨した呪いの王。
そして、渋谷事変で彼の仲間を殺害した存在だった。
ハルマ。
宇田。
家族とも呼べる仲間たちを、宿儺はあまりにも容易く奪い去った。
熊埜御も片手を失った。
仲間が倒れていく光景。
自分たちが積み重ねてきたものを、何の感慨もなく踏みにじる怪物。
その時、有月は極度の精神的負荷を受けた。
結果として、彼の術式が宿儺を模倣してしまったのである。
もっとも、それは本物の宿儺とは大きく異なる存在だった。
有月は宿儺のすべてを理解していたわけではない。
むしろ、理解できなかった。
なぜ、あれほど簡単に人を殺せるのか。
なぜ、他人の苦しみに何の関心も示さないのか。
なぜ、自分たちが必死に守ろうとしていたものを、気まぐれに壊せるのか。
有月にとって、宿儺は理解不能な怪物だった。
ゆえに、彼の内側に生まれた宿儺人格は、極端に歪んだものになった。
強者との戦いを楽しみ、弱者を容赦なく殺す。
気に入らないものは壊し、興味を失えば捨てる。
有月が宿儺という存在に抱いた印象。
その一部だけを抽出したような人格だった。
当然ながら、本物の宿儺ほどの力はない。
有月が知らない技術や、理解できていない能力は再現できない。
宿儺が長い年月をかけて培った呪術への理解も、そのまま受け継がれるわけではなかった。
それでも。
その人格は、有月自身を上回る力を持っていた。
「…………」
有月の頬に、黒い文様が浮かび上がる。
額から頬へ。
さらに首筋へと、墨で描かれたような模様が広がっていく。
肉体そのものが変化するわけではない。
腕が四本になることもなければ、目が増えることもない。
しかし、その文様だけは、かつて有月が見た宿儺の姿を思わせるものだった。
「……ちょっと、待ってくれるかな」
有月は静かに呟いた。
「乙骨君は味方だよ。君が戦う相手じゃない」
返事はない。
ただ、身体の奥底から、凄まじい衝動が湧き上がってくる。
強い者がいる。
戦いたい。
殺したい。
その欲求だけが、際限なく膨らんでいく。
「……困ったね」
有月は苦笑した。
その直後。
意識が、暗闇へと沈んだ。
◇
「……!」
仙台結界の一角。
乙骨憂太は、突然現れた呪力反応に足を止めた。
「……何だ?」
その気配は、明らかに異質だった。
膨大な呪力。
総量だけであれば、自分よりもやや少ない程度だろう。
しかし、そこに含まれる禍々しさは、単純な呪力量では説明できなかった。
まるで、呪力そのものが悪意を持っているかのような感覚。
肌が粟立つ。
「この感じ……」
乙骨は眉をひそめた。
「宿儺……?」
思わず、その名が口から漏れた。
だが、すぐに首を横に振る。
宿儺がここにいるはずがない。
虎杖悠仁は別の結界にいる。
それに、宿儺そのものの呪力量とも違う。
「……でも」
何かが似ている。
ただ強いだけではない。
人間としての倫理や価値観が、まるで通用しないような感覚。
相手を人間として見ていない。
そんな気配だった。
乙骨は刀の柄を握った。
仙台結界には、複数の強力な泳者が存在する。
すでに確認できているだけでも、通常の一級術師では対処が難しい相手ばかりだった。
その均衡が、今まさに崩れようとしている。
乙骨はそう直感した。
そして。
「……っ!」
少し離れた場所で、複数の呪力反応が消失した。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに、四つ目。
どれも、ほとんど間を置かずに消えていく。
「……殺してる?」
乙骨は地面を蹴った。
このまま放置するわけにはいかない。
何者かは分からないが、明らかに泳者を襲撃している。
もし一般人まで巻き込まれているのなら、一刻も早く止めなければならない。
乙骨は建物の屋根へ飛び乗り、呪力反応のある方向へ走り始めた。
その頃。
仙台結界の別の場所でも、異変を察知した者がいた。
◇
「……おいおい」
石流龍は、煙草をくわえたまま空を見上げた。
視線の先。
遠く離れた市街地から、異様な呪力が立ち上っている。
「何だよ、ありゃあ……」
石流は四百年前の術師である。
当時から、凄まじい呪力出力を持つ術師として名を知られていた。
しかし、その人生に満足していたわけではなかった。
強敵と戦い、己の力をぶつけ合う。
そうした経験は、決して少なくなかった。
それでも、何かが足りなかった。
腹いっぱい食べたはずなのに、どこか満たされない。
そんな感覚が、常に残っていた。
だからこそ、彼は四百年の時を越えた。
今度こそ、自分を満足させてくれる相手と戦うために。
人生の最後を飾る、最高のデザートを求めて。
そして今。
その望みを叶えられるかもしれない存在が、突然現れた。
「……はっ」
石流は笑った。
ただし、その表情には僅かな緊張があった。
これほど強烈な呪力を感じたのは、久しぶりだった。
しかも、その気配は尋常ではない。
まるで、周囲のすべてを敵とみなしているかのようだった。
「こいつは、ちょっとスイートが過ぎるんじゃねえか……?」
石流は煙草を指で挟んだ。
そして、遠くで起きている異変に目を凝らす。
再び、呪力反応が消えた。
明らかに戦闘が行われている。
しかも、一方的なものだ。
この結界には、石流以外にも強力な泳者がいる。
烏鷺亨子。
ドルゥヴ・ラクダワラ。
黒沐死。
それぞれが互いを牽制し、均衡を保ってきた。
石流自身も、そうした状況に退屈していたところだった。
だが。
「……何だかな」
石流は頭を掻いた。
強敵との戦いは望むところだ。
しかし、あの呪力から感じるものは、それとは少し違う。
戦いを楽しむ者の気配。
それ自体は、自分と同じかもしれない。
だが、その奥にあるものが違った。
相手と力を競うのではなく、ただ壊す。
そういう種類の暴力だった。
「……ま、見ねえことには始まらねえか」
石流は煙草を落とし、靴底で踏み消した。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
◇
一方、烏鷺亨子は、その呪力を感知した瞬間、身体を強張らせていた。
「…………」
空を漂っていた彼女は、遠くの市街地へ視線を向けた。
その先から感じる呪力。
強い。
あまりにも強い。
しかし、それ以上に気になることがあった。
「……嘘でしょ」
思わず呟く。
烏鷺は千年前の術師である。
藤氏直属の暗殺部隊、日月星進隊。
その隊長として、多くの術師を殺害してきた。
だが、そんな彼女でさえ、決して逆らおうとは思わなかった存在がいる。
両面宿儺。
千年前の呪術全盛期において、数多の術師を退けた怪物。
烏鷺は、その存在を知っていた。
もちろん、宿儺ほどの怪物を、完全に理解していたわけではない。
しかし、あの男がいかに異常な存在だったのかは知っている。
圧倒的な力。
自分以外のすべてを、取るに足らないものとして扱う傲慢さ。
そして、他者を殺すことに一切の躊躇を持たない、あの不気味な在り方。
平安の世において、宿儺の名はそれだけで意味を持っていた。
敵対するということは、死を覚悟するということ。
その程度の認識は、当時の術師であれば誰もが持っていた。
「……でも、そんなはず……」
烏鷺は歯を食いしばった。
今感じている呪力は、宿儺のものと完全に一致しているわけではない。
むしろ、明確に異なる部分がある。
呪力量も違う。
呪力の質も、記憶にあるものとは微妙に違う。
それなのに。
「……何で」
身体が、勝手に危険を訴えている。
逃げろ。
関わるな。
その先にいるものは、まともな存在ではない。
そんな本能的な警告だった。
烏鷺はしばらく動かなかった。
しかし、やがて表情を険しくした。
「……確認するだけよ」
その言葉は、誰かに向けたものではない。
自分自身への言い訳だった。
もし本当に宿儺が現れたのなら、仙台結界の均衡など意味を成さなくなる。
何より、あの怪物が自分を標的にした場合、逃げ切れる保証もない。
少なくとも、何が起きているのかを把握しておく必要があった。
烏鷺は空間を掴む。
そして、その身体を宙へ滑らせるように移動させた。
◇
「…………」
市街地の大通り。
そこには、一人の男が立っていた。
有月憬。
ただし、その表情は先ほどまでとはまるで違っていた。
頬には黒い文様が浮かび、目元には冷たい光が宿っている。
周囲には、複数の死体が転がっていた。
いずれも、この結界に存在していた泳者たちだ。
過去から受肉した術師もいれば、現代で術式を覚醒させた者もいる。
しかし、その違いは彼にとって何の意味もなかった。
強い者がいれば戦う。
弱い者が邪魔をすれば殺す。
ただ、それだけだった。
「…………」
有月の姿をした何かは、足元に倒れている泳者を見下ろした。
男は、まだ生きていた。
片腕を失い、地面に這いつくばっている。
「……た、助け……」
必死に声を絞り出す。
「頼む……もう、戦わねえから……!」
だが、返答はなかった。
有月は男を見下ろしたまま、僅かに首を傾けた。
「……それで?」
「え……?」
「戦わないのなら、何の用だ」
声は低かった。
怒りも、憎しみもない。
ただ、目の前の男に興味がない。
それだけが伝わってくる。
「ひっ……!」
男は後ずさった。
必死に身体を引きずり、距離を取ろうとする。
しかし。
「解」
短い言葉とともに、不可視の斬撃が放たれた。
男の身体が切り裂かれる。
断末魔すら上がらなかった。
「…………」
有月は、その死体から視線を外した。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
遠くから、複数の呪力が近づいてきている。
その中でも、一際強いものがあった。
「……ほう」
僅かに口元が動く。
「ようやく、まともなのが来たか」
その直後。
「待ってください!」
声が響いた。
乙骨憂太だった。
建物の屋根から飛び降り、道路へ着地する。
そして、目の前の光景に息を呑んだ。
「……これは」
無数の死体。
至る所に刻まれた切断痕。
その中心に立つ一人の男。
「……有月さん?」
乙骨は目を見開いた。
そこにいたのは、間違いなく有月憬だった。
しかし、様子がおかしい。
顔に浮かぶ文様。
禍々しい呪力。
そして、何よりもその表情。
普段の有月からは、想像もできないものだった。
「……有月さん、ですよね?」
「…………」
有月は乙骨を眺めた。
そして、僅かに目を細める。
「……知り合いか」
「え?」
「この身体の持ち主の、知り合いかと聞いている」
「……!」
乙骨は刀の柄に手をかけた。
その言葉で、ある程度の事情を察した。
有月には、複数の人格が存在している。
そのことは聞いていた。
ただし、これほどまでに人格が変化する姿を見るのは初めてだった。
「……あなたは、誰ですか」
乙骨が静かに尋ねる。
有月は答えなかった。
代わりに、乙骨の全身を眺める。
「……随分と呪力が多いな」
「…………」
「悪くない」
その口元が、僅かに吊り上がる。
「少しは楽しめそうだ」
次の瞬間。
「っ!」
乙骨の頬に、一本の傷が走った。
血が飛び散る。
反射的に首を傾けていなければ、顔面を深く切り裂かれていただろう。
乙骨は後方へ跳んだ。
直後、背後の建物に無数の切断痕が刻まれる。
「……なっ」
乙骨は目を見開いた。
見えない斬撃。
しかも、呪力の発生から着弾までが異常に速い。
ただし、まったく察知できないわけではなかった。
攻撃の直前、僅かに呪力が動いている。
それを読み取れば、回避する余地はある。
だが。
「……まさか」
乙骨の脳裏に、一つの名前が浮かぶ。
両面宿儺。
そして、その術式。
「……宿儺の斬撃?」
「…………」
有月は、初めて明確な反応を示した。
「……知っているのか」
乙骨は答えなかった。
代わりに、刀を抜く。
「……あなた、本当に有月さんの人格なんですか?」
「知らん」
「…………」
「そんなことは、どうでもいい」
有月が一歩踏み出す。
「お前が強いのなら、それでいい」
その瞬間。
乙骨の視界から、有月の姿が消えた。
「っ!」
反射的に刀を構える。
直後。
金属が軋む音が響いた。
有月の拳が、刀の腹に叩き込まれていた。
「ぐっ……!」
凄まじい衝撃。
乙骨の身体が後方へ押し飛ばされる。
地面を削りながら踏みとどまるが、腕が痺れていた。
(……重い!)
単純な呪力出力であれば、特別に突出しているわけではない。
少なくとも、乙骨自身が対処できないほどではなかった。
しかし、動きが異様だった。
無駄がない。
それでいて、自分の身体が傷つくことをまったく気にしていない。
攻撃を受ける危険があっても、躊躇なく踏み込んでくる。
まるで、相手を殺すことだけを考えているようだった。
「……リカ!」
『ゆうたぁ!』
乙骨の背後から、巨大な腕が現れる。
リカの拳が、有月へ振り下ろされた。
「……ん?」
有月は僅かに顔を上げた。
そして、迫る拳に片手を向ける。
「解」
不可視の斬撃が、リカの腕を切り裂く。
『っ!』
リカが声を上げる。
しかし、その拳は止まらなかった。
有月は咄嗟に身を翻す。
拳が地面へ叩き込まれ、道路が大きく陥没した。
「……ほう」
有月は、舞い上がる粉塵の中からリカを見た。
「面白いものを連れているな」
その表情に、僅かな興味が浮かぶ。
だが、次の瞬間。
「……?」
有月の視線が横へ動いた。
別の方向から、強烈な呪力が近づいてきていた。
◇
「……何だ、こいつ」
石流龍は、少し離れた建物の上から戦闘を眺めていた。
先ほど感じた異様な呪力。
その正体を確認するために来たのだが、想像以上の光景だった。
刀を持った少年。
そして、顔に奇妙な文様を浮かべた男。
両者が、凄まじい速度で攻防を繰り広げている。
特に、文様の男。
あいつは何だ。
呪力の量だけなら、少年の方が多い。
しかし、戦闘における圧力は明らかに男の方が上だった。
もっとも、少年もただ者ではない。
あれだけの呪力量を持ち、さらにあの巨大な式神のような存在まで従えている。
「……へえ」
石流の口元に、笑みが浮かんだ。
どちらも、相当な実力者らしい。
自分が求めていたものに、ようやく出会えたのかもしれない。
しかし。
「……ん?」
その時、文様の男がこちらを見た。
目が合った。
距離は相当離れている。
それなのに、石流は思わず息を止めた。
「…………」
男は、こちらをじっと眺めていた。
そして。
「……お前も来い」
そう言った。
声が聞こえたわけではない。
しかし、口の動きだけで十分だった。
「……はっ」
石流は笑った。
「随分と、挑発してくれるじゃねえか」
その頭部に、呪力が集まり始める。
石流龍の術式。
それは、膨大な呪力をそのまま砲撃として放つ、極めて単純なものだった。
しかし、その出力は歴代の術師の中でも屈指。
余計な工夫を必要としないほど、純粋な破壊力に優れていた。
「……だったら」
石流は口角を上げる。
「一口、味見させてもらおうじゃねえか」
直後。
「グラニテブラスト!」
凄まじい呪力砲が放たれた。
建物の屋上から、一直線に市街地へ。
狙いは、文様の男。
乙骨ではない。
石流はまだ、二人の名前すら知らなかった。
ただ、より危険な方へ向けて放った。
「っ!?」
乙骨が振り返る。
突如として現れた、巨大な呪力の奔流。
「……何だ!?」
反射的に距離を取る。
しかし、有月は動かなかった。
迫る砲撃を見上げる。
そして。
「……ほう」
その口元が、僅かに吊り上がった。
片手を前へ突き出す。
「解」
不可視の斬撃が放たれた。
呪力砲の表面が切り裂かれ、膨大な呪力が周囲へ飛び散る。
しかし。
斬撃は、砲撃を完全には断ち切れなかった。
「……!」
有月の目が僅かに見開かれる。
次の瞬間。
残された呪力が、その身体を飲み込んだ。
轟音。
周囲の建物が粉砕され、道路が抉れる。
衝撃波が辺り一帯を襲った。
乙骨は咄嗟にリカの腕を盾にする。
「ぐっ……!」
それでも、数メートル後方へ押し飛ばされた。
やがて、土煙が晴れ始める。
「……やったか?」
石流が呟いた。
だが。
「…………」
粉塵の向こう。
一人の男が立っていた。
衣服は破れ、片腕には深い傷が刻まれている。
しかし、その傷は徐々に塞がり始めていた。
反転術式。
負傷した肉体を、正のエネルギーによって修復している。
「……へえ」
石流の目が細くなる。
「今ので生きてんのかよ」
有月は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、石流を見た。
「……いい出力だ」
その声には、僅かな愉悦が含まれていた。
「お前、名は?」
「……石流龍」
石流は答えた。
そして、問い返す。
「てめえは?」
「…………」
有月は少しだけ考えるような素振りを見せた。
だが、すぐに興味を失った。
「……どうでもいい」
「……あ?」
「名前など、必要ない」
そして、一歩踏み出す。
「お前の力を見せろ」
次の瞬間。
有月の姿が消えた。
「っ!?」
石流は反射的に腕を上げた。
直後。
凄まじい打撃が、その腕に叩き込まれる。
「ぐっ……!」
骨が軋む。
石流の身体が、建物の壁へ押しつけられた。
しかし、そのままやられる石流ではない。
「……上等!」
全身の呪力を集中させる。
至近距離からの打撃。
有月の顔面へ、拳が叩き込まれた。
「……!」
有月の身体が後方へ吹き飛ぶ。
その隙を逃さず、石流は追撃した。
「おらぁ!」
連続する打撃。
膨大な呪力出力によって強化された拳が、次々と有月へ襲いかかる。
有月はそれを捌きながら、石流の動きを観察していた。
「…………」
速い。
そして、重い。
純粋な呪力出力では、自分を上回っている。
まともに受け続ければ、いずれ肉体が耐えきれなくなるだろう。
しかし。
「……悪くない」
有月は呟いた。
その直後、石流の拳を片手で受け流す。
もう一方の手が、石流の胸元へ伸びた。
「……!」
石流は咄嗟に身を引いた。
だが、僅かに遅い。
「捌」
不可視の斬撃。
至近距離から、石流の身体を切り裂く。
「がっ……!」
鮮血が飛び散った。
石流は後方へ跳ぶ。
胸元には、複数の切り傷が刻まれていた。
しかし、致命傷には至っていない。
膨大な呪力によって強化された肉体が、斬撃の威力をある程度抑え込んでいた。
「……何だよ、そりゃ」
石流は傷口を押さえた。
見えない斬撃。
しかも、距離によって威力が変わっているようだった。
先ほど遠距離から放たれた斬撃と、今の斬撃では明らかに性質が違う。
後者は、自分の呪力防御に合わせて威力を調整しているように感じられた。
厄介な術式だった。
「……硬いな」
有月が呟く。
その声には、感心したような響きがあった。
「まだ死なないのか」
「……はっ」
石流は笑った。
「当たり前だろ」
頭部に呪力が集まる。
「俺を誰だと思ってやがる!」
再び、グラニテブラスト。
至近距離から放たれた砲撃が、有月へ直撃する。
だが、有月はそれを予測していた。
身体を捻り、砲撃の中心から僅かに外れる。
それでも、左肩が吹き飛んだ。
「……!」
激痛。
しかし、有月の表情はほとんど変わらない。
失われた肩の一部が、反転術式によって修復され始める。
そして。
「……次は、こちらだ」
有月は地面を蹴った。
その速度は、先ほどよりも速かった。
◇
「……何なのよ、あいつ」
烏鷺亨子は、上空から戦闘を眺めていた。
石流龍。
仙台結界で均衡を保ってきた強力な泳者の一人。
その実力は、烏鷺も把握している。
あの男の呪力出力は、尋常ではない。
単純な破壊力であれば、自分を上回るだろう。
しかし、今はその石流が押されていた。
いや。
押されているという表現では、生温い。
「……何なのよ、あれ」
烏鷺は、眼下で繰り広げられている戦闘を見つめた。
石流の拳が、男の顔面を捉える。
凄まじい衝撃が走り、男の身体が吹き飛んだ。
だが、男は笑っていた。
口元から血を流しながら、愉快そうに。
次の瞬間、男の手が振るわれた。
不可視の斬撃。
石流の肩口が裂け、鮮血が舞い上がる。
「……っ!」
烏鷺は息を呑んだ。
あの斬撃。
見覚えがある。
いや、正確には、知っている。
千年前。
呪術が最も栄えていた時代。
その頂点に君臨していた、一人の怪物。
「……宿儺?」
思わず、その名が口から漏れた。
両面宿儺。
あの男の術式は、確かに斬撃を主体としていた。
不可視の斬撃を飛ばす『解』。
そして、相手の呪力や強度に応じて斬撃を調整する『捌』。
どちらも、千年前の術師にとっては恐怖の象徴だった。
無論、烏鷺自身がそのすべてを把握しているわけではない。
宿儺と正面から戦い、その能力を詳細に分析できるような術師など、そう多くは存在しなかった。
しかし、それでも。
あの斬撃を見間違えることはない。
「……でも、違う」
烏鷺は眉をひそめた。
目の前にいる男は、宿儺ではない。
それだけは断言できる。
呪力量が違う。
呪力の質も、記憶にあるものとは微妙に異なっている。
そして何より。
あの男には、宿儺が持っていた底知れない何かが欠けていた。
千年前、烏鷺は宿儺の存在を知っていた。
藤氏に仕え、暗殺部隊の隊長を務めていた彼女にとって、宿儺は決して無縁の存在ではなかった。
呪術全盛の時代。
数多の術師が己の力を競い、名を上げようとしていた時代においても、宿儺だけは別格だった。
人間の倫理など通用しない。
強者も弱者も、あの男にとっては気分次第で殺して構わない存在でしかない。
そんな怪物。
だが、目の前の男は。
「……似ているだけ?」
烏鷺は呟いた。
確かに、あの男は宿儺に似ている。
戦闘を楽しむ姿も。
相手を見下す態度も。
そして、命を奪うことに何の躊躇もないところも。
しかし、それはどこか表面的だった。
まるで、宿儺という存在の一部分だけを切り取って、それを無理やり人間の形に押し込んだかのような。
「……気持ち悪い」
烏鷺は小さく吐き捨てた。
その瞬間。
「……ん?」
男の顔が上を向いた。
「っ!」
烏鷺の身体が強張る。
目が合った。
距離は離れている。
それでも、男は確かに自分を見ていた。
「……まだいたのか」
男の口元が吊り上がる。
直後。
「解」
「――っ!」
烏鷺は咄嗟に空間を掴んだ。
目の前の空間を、布のように引き寄せる。
次の瞬間、不可視の斬撃がその空間へ衝突した。
だが、斬撃は彼女の身体には届かなかった。
歪められた空間に沿って、軌道が逸れたのである。
「……ほう?」
男が目を細めた。
「面白い術式だな」
「……っ、何なのよ、アンタ!」
烏鷺は叫んだ。
しかし、男は答えない。
ただ、愉快そうに笑うだけだった。
「……いい」
男は小さく呟いた。
「お前も来い」
その瞬間。
「……おい」
低い声が割って入った。
石流だった。
「てめえ、どこ見てやがる」
その頭部には、すでに膨大な呪力が集まっていた。
「まだ、俺のデザートは終わってねえぞ!」
グラニテブラスト。
再び、極大の呪力砲が放たれる。
男は振り返った。
そして。
「……ふん」
片手を掲げる。
直後、不可視の斬撃が放たれた。
しかし、先ほどと同じく、砲撃を完全に断ち切ることはできない。
男は僅かに身を捻った。
砲撃が肩を掠め、背後の建物を粉砕する。
周囲に瓦礫が飛び散った。
「……いいぞ」
男は笑った。
「やはり、お前は面白い」
そして、石流へ向けて地面を蹴った。
「……っ!」
石流が身構える。
直後、凄まじい衝撃が走った。
拳と拳が衝突する。
周囲の地面が砕け、衝撃波が広がった。
「……はっ!」
石流は笑った。
「そう来なくちゃな!」
再び拳を振るう。
男もそれに応じる。
打撃。
斬撃。
砲撃。
互いの攻撃が交錯し、周囲の建物が次々と崩壊していく。
その光景を、乙骨は少し離れた場所から見つめていた。
「…………」
状況は、最悪だった。
有月が別の人格に肉体を奪われている。
しかも、その人格は宿儺の術式を使っている。
そこへ、見知らぬ術師が二人。
一人は凄まじい呪力出力を持ち、もう一人は空間を操る術式を使うらしい。
どちらも、相当な実力者だった。
そして、今の有月は、その二人を殺そうとしている。
「……どうすれば」
乙骨は歯を食いしばった。
有月を殺すわけにはいかない。
しかし、このままでは、さらに犠牲者が増える。
何よりも。
あの人格が、いつまで有月の身体を支配するのか分からなかった。
「……リカ」
『なぁに、ゆうた?』
「僕が合図したら、有月さんを押さえて」
『うん!』
乙骨は刀を握り直した。
まずは動きを封じる。
そして、有月自身の意識を取り戻させる。
それしかない。
そう考えた直後だった。
「……っ!」
強烈な呪力の爆発。
石流のグラニテブラストが、至近距離から男の身体を吹き飛ばした。
男は建物の壁を突き破り、内部へと消える。
「……はぁ、はぁ……」
石流が息を整える。
身体の至る所から血が流れていた。
すでに相当な傷を負っている。
それでも、その表情には笑みが浮かんでいた。
「……はっ」
石流は口元の血を拭った。
「どうしたよ。もう終わりか?」
返事はない。
瓦礫の向こうは、静まり返っていた。
「……おいおい」
石流は眉をひそめた。
「そりゃあ、ちょっと早すぎるだろ」
そう呟いた、その時。
「……飽きた」
「……あ?」
瓦礫の中から声がした。
次の瞬間。
石流の背後に、男が現れた。
「――っ!」
石流は反射的に振り返る。
しかし、遅かった。
「捌」
男の掌が、石流の胸元に触れた。
直後、石流の胸を無数の斬撃が駆け抜けた。
「が……っ!」
石流は後ろへ退こうとした。
だが、すでに遅い。
呪力による防御を貫き、肉が裂け、血が噴き出す。
男の掌から逃れた時には、身体を支えることすら難しくなっていた。
「……てめ……え……」
石流の膝が折れる。
これまで、数え切れないほどの術師と戦ってきた。
だが、こんな相手は初めてだった。
自分が全力をぶつけられることを、あれほど望んでいたはずなのに。
目の前の男との戦いには、肝心な何かが欠けている。
この男は、石流龍という人間を見ていない。
抵抗する物を壊し、その反応を楽しんでいるだけだ。
「……クソ、甘すぎたな……」
石流は血の混じった息を吐いた。
人生のデザート。
求め続けた、その最後の一皿。
それがこんなものだというのなら、あまりにも趣味が悪い。
「……もう少し、味わいたかったぜ……」
言葉が途切れる。
石流龍の身体が、音を立てて倒れた。
「…………」
有月の姿をした男は、しばらくその亡骸を眺めていた。
そして、何事もなかったかのように視線を外した。
「……次だ」
その目が、上空を捉える。
「――っ!」
烏鷺の背筋を冷たいものが走った。
逃げる。
そう判断した時には、すでに男が地面を蹴っていた。
一直線に迫る影。
「来ないで!」
烏鷺が空間を掴み、強引に引き延ばす。
男の突進する軌道が曲がった。
しかし、そのまま男は空中の足場を蹴るように体勢を変え、再び迫ってきた。
「……面白い」
その右手が伸びる。
「解」
斬撃が放たれた。
烏鷺は空間を歪めて受け流す。
その隙を突いて、男の側面へ回り込んだ。
「薄氷破!」
砕けた空間の衝撃が、男の胴を直撃する。
鈍い音。
男の身体が大きく吹き飛んだ。
だが、烏鷺は追わなかった。
追撃など、考えられなかった。
それほどまでに、目の前の存在が恐ろしかった。
術式が違う。
呪力も違う。
当然、あの男は宿儺ではない。
それでも、相手を仕留めきれなかった瞬間に訪れる、この不快な予感だけは同じだった。
(……違う。アイツじゃない。分かってる……!)
烏鷺は自分に言い聞かせる。
しかし、その目は逃れようもなく、千年前の怪物の姿を重ねていた。
「……ほう。随分と器用だな」
男が起き上がる。
折れた肋骨を、反転術式が修復していく。
「だが、逃げてばかりではつまらん」
「……アンタ、何なのよ」
烏鷺は震える息を押し殺して尋ねた。
「その斬撃……その顔……。まさか、宿儺のつもり?」
男は答えなかった。
ただ、ひどく楽しそうに笑った。
それが、烏鷺には何よりも不気味だった。
「違う……」
烏鷺は小さく首を振る。
「アンタは、あの男じゃない」
「……ほう?」
「あの男を真似しているだけの、何かよ」
一瞬、男の笑みが消えた。
次いで、ひどくつまらなそうに目を細める。
「……だから、どうした」
烏鷺の視界から、男の姿が消えた。
「――!」
咄嗟に空間を掴む。
だが、今度は間に合わなかった。
男の手が、腕を捉える。
「捕まえたぞ」
烏鷺は空いた手で反撃しようとした。
しかし、男の掌が先に彼女の身体へ触れた。
「捌」
激痛。
視界が赤く染まる。
「がっ……!」
烏鷺は強引に空間を歪め、男との距離を作った。
しかし、身体には深い傷が刻まれている。
反転術式で治せる状態ではなかった。
失われていく力。
急速に冷たくなる指先。
(……ふざけないで)
千年前。
誰かに名前を与えられることもなく、誰かの命令のために生きてきた。
自分の人生だと思えるものなど、何一つなかった。
だから、もう一度生きる機会を得た時、今度こそ自分のために生きようと決めた。
それなのに。
(……こんなところで……!)
男が指先を向ける。
「もういい」
その言葉を聞いた瞬間、烏鷺は確信した。
こいつは、本物の宿儺ではない。
だが、自分を殺すことに躊躇がないという一点だけは、確かに同じだった。
「解」
「やめろ!」
乙骨が飛び込んだ。
しかし、斬撃の方が早かった。
烏鷺の身体が宙で揺れ、やがて力なく落下する。
乙骨は彼女を抱きとめようとした。
その腕に伝わってきたのは、急速に失われていく体温だった。
「……っ」
乙骨は歯を食いしばった。
まだ名前さえ知らない女だった。
襲われれば、自分を殺そうとしたかもしれない。
それでも。
だからといって、こんなふうに殺されていい理由にはならない。
「……有月さん!」
叫びながら、乙骨は刀を構える。
「聞こえていますか! もうやめてください!」
男は乙骨を見た。
「……まだいたのか」
その声には、わずかな興味が戻っていた。
「お前も、そろそろ本気を見せろ」
不可視の斬撃が迫る。
乙骨は刀に呪力を集中させ、軌道を読みながら受け流した。
刃が軋む。
腕が痺れる。
だが、退くわけにはいかなかった。
「リカ!」
『ゆうた!』
巨腕が男を襲う。
乙骨も同時に踏み込んだ。
挟み込むような攻撃。
男は身を捻ってリカの拳を避け、乙骨の刀を腕で受けた。
血が飛ぶ。
しかし、男は笑った。
「……いいぞ」
反撃の斬撃が乙骨の肩を裂く。
傷は深い。
それでも乙骨は離れなかった。
斬り倒すのではない。
できる限り、身体を押さえる。
この人格をどうにかして止める。
そのために、必死に隙を探していた。
「……甘いな」
男が囁いた。
「相手を殺す気もないまま、俺を止められるとでも――」
そこで、不意に言葉が途切れた。
「…………?」
乙骨が目を見開く。
男の指が、微かに震えていた。
斬撃を放とうとした腕が、途中で止まっている。
「……何だ」
男の眉間に皺が寄った。
「……邪魔をするな」
誰に向かって言った言葉なのか。
少なくとも、乙骨ではなかった。
男は自分の頭を片手で押さえた。
呼吸が乱れる。
顔に浮かんでいた文様が、わずかに薄くなった。
「……有月さん?」
乙骨は慎重に声をかけた。
「……ちっ」
男が舌打ちする。
「まだ、終わっていない……」
次の瞬間。
その身体が大きく揺れた。
乙骨はすぐに飛び込める位置で刀を構えたまま、動かなかった。
しばらくして。
「…………はぁ」
男の口から、長い息が漏れた。
頬の文様が消えていく。
禍々しい呪力が、徐々に静まった。
男は目元を押さえ、疲れたように呟いた。
「……本当に、困ったものだね」
「……有月さん?」
「うん。乙骨君」
有月は顔を上げた。
「ごめんね。迷惑をかけちゃったみたいだ」
その声は、乙骨の知る有月憬のものだった。
乙骨は安堵しかけた。
しかし、足元に倒れた烏鷺と、遠くの石流を見て、その言葉を飲み込んだ。
「……あの二人が」
「……うん」
有月は小さく頷いた。
「見えていたよ。全部じゃないけど、何をしたのかは分かる」
乙骨は黙ったまま、有月を見つめた。
「……あなたは、あの人格を止められないんですか」
「完全にはね」
有月は右手を見下ろした。
「普段は大丈夫なんだけど、強い相手を見つけると、どうしても出てきたがるみたいで」
「……危険すぎます」
「そうだね」
有月は否定しなかった。
「でも、僕の術式で生まれたものだから。簡単に切り離すこともできないんだ」
「…………」
「乙骨君が無事でよかったよ」
有月は静かに言った。
「もし君まで殺されていたら、取り返しがつかなかった」
「……あの人たちも、死にました」
乙骨の声は低かった。
「僕は、あの二人がどんな人なのか、まだ知りません。戦うことになったかもしれないし、敵だったかもしれない。でも……」
乙骨は、言葉を探した。
「少なくとも、話す機会さえなかった」
有月はしばらく答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……そうだね」
自分が結界を渡り歩き、危険な泳者たちを殺しているのは事実だ。
そこには、有月なりの目的と判断がある。
けれど、今回起きたことは、それとは別だった。
誰を殺すのか。
なぜ殺すのか。
そんな判断すら、自分の手を離れていた。
「……僕の失敗だよ」
有月はそう言った。
乙骨は返事をしなかった。
倒れた石流の方からは、もう呪力を感じない。
烏鷺も、同じだった。
仙台結界で均衡を保っていた二人の術師が、乙骨と戦うことすらなく命を落とした。
それは死滅回游における、決して小さくない変化だった。
「……有月さん」
「何かな」
「次に同じことが起きたら、僕は止めます」
乙骨は刀を下ろさずに言った。
「相手があなたでも」
有月は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。
そして、小さく笑った。
「……うん。それでいいと思う」
その答えに、嘘はなかった。
有月はゆっくりと空を見上げた。
渋谷で仲間を失ったあの日から、彼の中には消えないものが残っている。
怒り。
悲しみ。
そして、どうしても理解できない怪物の姿。
その怪物は今も、自分の内側で笑っている。
――もう一度、戦わせろ。
そんな声が聞こえたような気がした。
「……お断りだよ」
有月は小さく呟いた。
「え?」
「ううん。何でもない」
そして、乙骨に向き直る。
「ここでのことは、僕からも皆に伝えておくよ。乙骨君も、気をつけてね」
「……はい」
乙骨は短く答えた。
有月が追加したルールを利用すれば、別の結界へ移動することができる。
この場にとどまる理由は、もうなかった。
「それじゃあ」
有月はそう告げた。
そして、結界間の移動を行う。
その姿が、ふっと消えた。
「…………」
残された乙骨は、長い間動けなかった。
崩壊した街並み。
何人もの泳者の亡骸。
そして、最後まで名前も知らなかった二人の術師。
有月憬は、味方である。
少なくとも、本人はそう考えている。
彼が何を失い、何を取り戻そうとしているのかも、乙骨はある程度知っている。
それでも。
先ほど目の前にいたものを、ただの味方だと考えることはできなかった。
「……宿儺」
乙骨は小さく呟いた。
あれは、本物ではなかった。
宿儺という怪物を、誰かの恐怖がなぞったもの。
それでも、あれほどの惨劇を生むには十分だった。
もし、あれが本物だったなら。
乙骨は、そこから先を考えるのをやめた。
そして、刀を鞘に戻した。
仙台結界には、まだ別の強力な泳者が残っている。
彼には、果たさなければならない役目があった。
乙骨憂太は、再び歩き始めた。
背後に残された惨劇を、決して忘れないまま。
この話の前後はグラニテブラストで消し飛びました