かつて五条悟や夏油傑と同じ呪術高専に在籍していた有月憬。

アルカマルで育った彼は、ある事件を経て自らの死を偽装し、裏社会で殺し屋組織「X(スラー)」を率いるようになった。

しかし、渋谷事変によって彼の運命は大きく変わる。

五条悟の封印、そして両面宿儺の出現。

一般人の救助を目的に渋谷へ向かった有月だったが、そこで待ち受けていたのは、あまりにも残酷な結末だった。

家族同然の仲間たちは宿儺によって殺され、生き残った者たちも深い傷を負った。

そして、その極限の精神状態が、有月の生得術式『模倣(コピー)』に思いもよらぬ変化をもたらす。

彼の内側に形成されたのは、仲間たちを奪った怪物――両面宿儺を模した人格だった。

やがて始まる死滅回游。

有月は羂索の計画を阻止するため、各地の結界を渡り歩き、危険な受肉術師たちを次々と殺害していく。

そして、新たに得た得点で結界間の移動を可能にした彼が、次に足を踏み入れた場所。

それが、四人の実力者による均衡が保たれていた仙台結界だった。

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宿儺人格を得た有月憬

 

「…………」

 

 仙台結界。

 

 その境界を、一人の男が越えた。

 

 有月憬。

 

 かつては五条悟、夏油傑と同じ時代を生き、裏社会にその名を知らしめた男である。

 

 そして今は、呪術高専と協力関係にある特級相当の術師でもあった。

 

「……ここが仙台か」

 

 有月は周囲を見渡した。

 

 倒壊した建物。ひび割れた道路。至る所に残された血痕。

 

 死滅回游の舞台となった結界の一つ。

 

 その光景は、これまで訪れたいくつもの結界と大して変わらなかった。

 

「結構、派手にやってるみたいだね」

 

 独り言のように呟く。

 

 死滅回游が始まって以来、有月はいくつもの結界を渡り歩き、泳者たちを殺害してきた。

 

 もっとも、無差別に殺していたわけではない。

 

 彼が主に狙っていたのは、過去の時代から受肉した術師たちだった。

 

 千年前、あるいは四百年前。

 

 生前に羂索と契約を交わし、現代の人間を器として復活した者たち。

 

 もちろん、その全員が悪人というわけではない。現代の人間と共存しようとする者もいるだろうし、自ら望んで受肉したわけではない者もいる。

 

 しかし、その一方で、現代を単なる遊び場と考えている連中も少なくなかった。

 

 殺し合いを楽しむ者。

 

 自身の強さを試すためだけに人を殺す者。

 

 かつて果たせなかった欲望を満たそうとする者。

 

 そうした連中にとって、死滅回游は都合のよい舞台だった。

 

 有月は、そんな泳者たちを排除してきた。

 

 そして、その過程で得た大量の得点を利用し、結界間を瞬間的に移動できるルールを追加したのである。

 

 本来、死滅回游の泳者は結界に入ると、その内部で殺し合いを続けることになる。

 

 しかし、百点を消費して新たなルールを追加すれば、その制約の一部を変更できる。

 

 有月が追加したのは、結界間の移動を認めるルールだった。

 

 これによって、彼は各地の泳者を次々と襲撃できるようになった。

 

 その結果、死滅回游が始まってから現在までに、相当な数の術師が彼の手によって命を落としていた。

 

「さて……」

 

 有月はポケットから手を出した。

 

「ここには、どんなのがいるのかな」

 

 彼の目的は、強者との戦いではない。

 

 それは、彼にとってあくまでも手段に過ぎなかった。

 

 死滅回游を終わらせること。

 

 羂索の計画を阻止すること。

 

 そして、これ以上、自分の大切な人間を失わないこと。

 

 そのために必要であれば、彼は躊躇なく人を殺す。

 

 たとえ、その相手が自分と敵対していなかったとしても。

 

「……ん?」

 

 不意に、有月の足が止まった。

 

 少し離れた場所から、複数の呪力反応を感じた。

 

 いずれも、一般的な術師とは比較にならないほど強い。

 

 中でも、一つ。

 

 異様なほど膨大な呪力を持つ者がいた。

 

「……へえ」

 

 有月は小さく目を細めた。

 

「随分と強いのがいるんだね」

 

 その反応には、覚えがあった。

 

 五条悟とは異なる、底知れない呪力量。

 

 そして、どこか馴染みのある気配。

 

「……乙骨君かな」

 

 有月はそう呟いた。

 

 五条悟が目をかけていた少年。

 

 特級術師、乙骨憂太。

 

 彼が仙台結界へ向かったことは、事前に聞いていた。

 

 どうやら、無事に到着していたらしい。

 

「それなら、あまり邪魔しない方がいいかな」

 

 有月はそう考えた。

 

 乙骨は優秀な術師だ。

 

 わざわざ自分が手助けする必要もないだろう。

 

 それに、彼には彼の仕事がある。

 

 自分は別の泳者を探せばいい。

 

 そう思い、再び歩き始めようとした。

 

 その時だった。

 

「…………」

 

 身体が動かなかった。

 

「……あれ?」

 

 有月は眉をひそめた。

 

 足を動かそうとしても、思うように動かない。

 

 いや。

 

 正確には、身体が自分の意志とは異なる方向へ動こうとしていた。

 

「……またか」

 

 有月は小さく息を吐いた。

 

 そして、ゆっくりと目を閉じる。

 

 彼の意識の奥底。

 

 そこに、もう一つの意識が存在していた。

 

 いや、一つではない。

 

 有月憬という男の内側には、複数の人格が存在している。

 

 それらは、彼の生得術式によって生み出されたものだった。

 

 模倣(コピー)。

 

 乙骨憂太が持つ術式と同じ名称でありながら、その性質は大きく異なる。

 

 乙骨の模倣は、外部に存在するリカを介して術式情報を取り込み、他者の術式を再現する能力である。

 

 対象の肉体の一部をリカが摂取し、そこに含まれる術式情報を解析する。

 

 それに対して、有月の模倣は、対象となる人物そのものを解析する。

 

 言動。

 

 思考。

 

 価値観。

 

 能力。

 

 戦闘における癖。

 

 そして、その人物がどのような存在なのか。

 

 そうした情報を有月自身が理解し、その人物を模した人格を自分の内側に形成する。

 

 形成された人格は、本人が持っていた能力を再現できる。

 

 ただし、その再現度は有月の理解に大きく左右される。

 

 表面的にしか知らない相手を、完全に模倣することなどできない。

 

 まして、その人物が理解の及ばない存在であれば、なおさらだった。

 

 そして、もう一つ。

 

 この術式には、極めて厄介な性質があった。

 

 人格の主導権である。

 

 有月自身よりも弱い人格であれば、彼はその人格を抑え込み、能力だけを利用できる。

 

 しかし、相手が自分よりも強い存在だった場合は違う。

 

 形成された人格が、肉体の主導権を奪おうとするのだ。

 

 それは、単に術式の制御を失うという話ではない。

 

 自分の身体を、別の誰かに奪われる。

 

 それも、自分とはまったく異なる価値観を持った存在に。

 

 そして現在。

 

 有月の内側には、彼自身が最も警戒している人格が存在していた。

 

 両面宿儺。

 

 千年前、呪術全盛の時代に君臨した呪いの王。

 

 そして、渋谷事変で彼の仲間を殺害した存在だった。

 

 ハルマ。

 

 宇田。

 

 家族とも呼べる仲間たちを、宿儺はあまりにも容易く奪い去った。

 

 熊埜御も片手を失った。

 

 仲間が倒れていく光景。

 

 自分たちが積み重ねてきたものを、何の感慨もなく踏みにじる怪物。

 

 その時、有月は極度の精神的負荷を受けた。

 

 結果として、彼の術式が宿儺を模倣してしまったのである。

 

 もっとも、それは本物の宿儺とは大きく異なる存在だった。

 

 有月は宿儺のすべてを理解していたわけではない。

 

 むしろ、理解できなかった。

 

 なぜ、あれほど簡単に人を殺せるのか。

 

 なぜ、他人の苦しみに何の関心も示さないのか。

 

 なぜ、自分たちが必死に守ろうとしていたものを、気まぐれに壊せるのか。

 

 有月にとって、宿儺は理解不能な怪物だった。

 

 ゆえに、彼の内側に生まれた宿儺人格は、極端に歪んだものになった。

 

 強者との戦いを楽しみ、弱者を容赦なく殺す。

 

 気に入らないものは壊し、興味を失えば捨てる。

 

 有月が宿儺という存在に抱いた印象。

 

 その一部だけを抽出したような人格だった。

 

 当然ながら、本物の宿儺ほどの力はない。

 

 有月が知らない技術や、理解できていない能力は再現できない。

 

 宿儺が長い年月をかけて培った呪術への理解も、そのまま受け継がれるわけではなかった。

 

 それでも。

 

 その人格は、有月自身を上回る力を持っていた。

 

「…………」

 

 有月の頬に、黒い文様が浮かび上がる。

 

 額から頬へ。

 

 さらに首筋へと、墨で描かれたような模様が広がっていく。

 

 肉体そのものが変化するわけではない。

 

 腕が四本になることもなければ、目が増えることもない。

 

 しかし、その文様だけは、かつて有月が見た宿儺の姿を思わせるものだった。

 

「……ちょっと、待ってくれるかな」

 

 有月は静かに呟いた。

 

「乙骨君は味方だよ。君が戦う相手じゃない」

 

 返事はない。

 

 ただ、身体の奥底から、凄まじい衝動が湧き上がってくる。

 

 強い者がいる。

 

 戦いたい。

 

 殺したい。

 

 その欲求だけが、際限なく膨らんでいく。

 

「……困ったね」

 

 有月は苦笑した。

 

 その直後。

 

 意識が、暗闇へと沈んだ。

 

 

      ◇

 

 

「……!」

 

 仙台結界の一角。

 

 乙骨憂太は、突然現れた呪力反応に足を止めた。

 

「……何だ?」

 

 その気配は、明らかに異質だった。

 

 膨大な呪力。

 

 総量だけであれば、自分よりもやや少ない程度だろう。

 

 しかし、そこに含まれる禍々しさは、単純な呪力量では説明できなかった。

 

 まるで、呪力そのものが悪意を持っているかのような感覚。

 

 肌が粟立つ。

 

「この感じ……」

 

 乙骨は眉をひそめた。

 

「宿儺……?」

 

 思わず、その名が口から漏れた。

 

 だが、すぐに首を横に振る。

 

 宿儺がここにいるはずがない。

 

 虎杖悠仁は別の結界にいる。

 

 それに、宿儺そのものの呪力量とも違う。

 

「……でも」

 

 何かが似ている。

 

 ただ強いだけではない。

 

 人間としての倫理や価値観が、まるで通用しないような感覚。

 

 相手を人間として見ていない。

 

 そんな気配だった。

 

 乙骨は刀の柄を握った。

 

 仙台結界には、複数の強力な泳者が存在する。

 

 すでに確認できているだけでも、通常の一級術師では対処が難しい相手ばかりだった。

 

 その均衡が、今まさに崩れようとしている。

 

 乙骨はそう直感した。

 

 そして。

 

「……っ!」

 

 少し離れた場所で、複数の呪力反応が消失した。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 さらに、四つ目。

 

 どれも、ほとんど間を置かずに消えていく。

 

「……殺してる?」

 

 乙骨は地面を蹴った。

 

 このまま放置するわけにはいかない。

 

 何者かは分からないが、明らかに泳者を襲撃している。

 

 もし一般人まで巻き込まれているのなら、一刻も早く止めなければならない。

 

 乙骨は建物の屋根へ飛び乗り、呪力反応のある方向へ走り始めた。

 

 その頃。

 

 仙台結界の別の場所でも、異変を察知した者がいた。

 

 

      ◇

 

 

「……おいおい」

 

 石流龍は、煙草をくわえたまま空を見上げた。

 

 視線の先。

 

 遠く離れた市街地から、異様な呪力が立ち上っている。

 

「何だよ、ありゃあ……」

 

 石流は四百年前の術師である。

 

 当時から、凄まじい呪力出力を持つ術師として名を知られていた。

 

 しかし、その人生に満足していたわけではなかった。

 

 強敵と戦い、己の力をぶつけ合う。

 

 そうした経験は、決して少なくなかった。

 

 それでも、何かが足りなかった。

 

 腹いっぱい食べたはずなのに、どこか満たされない。

 

 そんな感覚が、常に残っていた。

 

 だからこそ、彼は四百年の時を越えた。

 

 今度こそ、自分を満足させてくれる相手と戦うために。

 

 人生の最後を飾る、最高のデザートを求めて。

 

 そして今。

 

 その望みを叶えられるかもしれない存在が、突然現れた。

 

「……はっ」

 

 石流は笑った。

 

 ただし、その表情には僅かな緊張があった。

 

 これほど強烈な呪力を感じたのは、久しぶりだった。

 

 しかも、その気配は尋常ではない。

 

 まるで、周囲のすべてを敵とみなしているかのようだった。

 

「こいつは、ちょっとスイートが過ぎるんじゃねえか……?」

 

 石流は煙草を指で挟んだ。

 

 そして、遠くで起きている異変に目を凝らす。

 

 再び、呪力反応が消えた。

 

 明らかに戦闘が行われている。

 

 しかも、一方的なものだ。

 

 この結界には、石流以外にも強力な泳者がいる。

 

 烏鷺亨子。

 

 ドルゥヴ・ラクダワラ。

 

 黒沐死。

 

 それぞれが互いを牽制し、均衡を保ってきた。

 

 石流自身も、そうした状況に退屈していたところだった。

 

 だが。

 

「……何だかな」

 

 石流は頭を掻いた。

 

 強敵との戦いは望むところだ。

 

 しかし、あの呪力から感じるものは、それとは少し違う。

 

 戦いを楽しむ者の気配。

 

 それ自体は、自分と同じかもしれない。

 

 だが、その奥にあるものが違った。

 

 相手と力を競うのではなく、ただ壊す。

 

 そういう種類の暴力だった。

 

「……ま、見ねえことには始まらねえか」

 

 石流は煙草を落とし、靴底で踏み消した。

 

 そして、ゆっくりと歩き始めた。

 

 

      ◇

 

 

 一方、烏鷺亨子は、その呪力を感知した瞬間、身体を強張らせていた。

 

「…………」

 

 空を漂っていた彼女は、遠くの市街地へ視線を向けた。

 

 その先から感じる呪力。

 

 強い。

 

 あまりにも強い。

 

 しかし、それ以上に気になることがあった。

 

「……嘘でしょ」

 

 思わず呟く。

 

 烏鷺は千年前の術師である。

 

 藤氏直属の暗殺部隊、日月星進隊。

 

 その隊長として、多くの術師を殺害してきた。

 

 だが、そんな彼女でさえ、決して逆らおうとは思わなかった存在がいる。

 

 両面宿儺。

 

 千年前の呪術全盛期において、数多の術師を退けた怪物。

 

 烏鷺は、その存在を知っていた。

 

 もちろん、宿儺ほどの怪物を、完全に理解していたわけではない。

 

 しかし、あの男がいかに異常な存在だったのかは知っている。

 

 圧倒的な力。

 

 自分以外のすべてを、取るに足らないものとして扱う傲慢さ。

 

 そして、他者を殺すことに一切の躊躇を持たない、あの不気味な在り方。

 

 平安の世において、宿儺の名はそれだけで意味を持っていた。

 

 敵対するということは、死を覚悟するということ。

 

 その程度の認識は、当時の術師であれば誰もが持っていた。

 

「……でも、そんなはず……」

 

 烏鷺は歯を食いしばった。

 

 今感じている呪力は、宿儺のものと完全に一致しているわけではない。

 

 むしろ、明確に異なる部分がある。

 

 呪力量も違う。

 

 呪力の質も、記憶にあるものとは微妙に違う。

 

 それなのに。

 

「……何で」

 

 身体が、勝手に危険を訴えている。

 

 逃げろ。

 

 関わるな。

 

 その先にいるものは、まともな存在ではない。

 

 そんな本能的な警告だった。

 

 烏鷺はしばらく動かなかった。

 

 しかし、やがて表情を険しくした。

 

「……確認するだけよ」

 

 その言葉は、誰かに向けたものではない。

 

 自分自身への言い訳だった。

 

 もし本当に宿儺が現れたのなら、仙台結界の均衡など意味を成さなくなる。

 

 何より、あの怪物が自分を標的にした場合、逃げ切れる保証もない。

 

 少なくとも、何が起きているのかを把握しておく必要があった。

 

 烏鷺は空間を掴む。

 

 そして、その身体を宙へ滑らせるように移動させた。

 

 

      ◇

 

 

「…………」

 

 市街地の大通り。

 

 そこには、一人の男が立っていた。

 

 有月憬。

 

 ただし、その表情は先ほどまでとはまるで違っていた。

 

 頬には黒い文様が浮かび、目元には冷たい光が宿っている。

 

 周囲には、複数の死体が転がっていた。

 

 いずれも、この結界に存在していた泳者たちだ。

 

 過去から受肉した術師もいれば、現代で術式を覚醒させた者もいる。

 

 しかし、その違いは彼にとって何の意味もなかった。

 

 強い者がいれば戦う。

 

 弱い者が邪魔をすれば殺す。

 

 ただ、それだけだった。

 

「…………」

 

 有月の姿をした何かは、足元に倒れている泳者を見下ろした。

 

 男は、まだ生きていた。

 

 片腕を失い、地面に這いつくばっている。

 

「……た、助け……」

 

 必死に声を絞り出す。

 

「頼む……もう、戦わねえから……!」

 

 だが、返答はなかった。

 

 有月は男を見下ろしたまま、僅かに首を傾けた。

 

「……それで?」

 

「え……?」

 

「戦わないのなら、何の用だ」

 

 声は低かった。

 

 怒りも、憎しみもない。

 

 ただ、目の前の男に興味がない。

 

 それだけが伝わってくる。

 

「ひっ……!」

 

 男は後ずさった。

 

 必死に身体を引きずり、距離を取ろうとする。

 

 しかし。

 

「解」

 

 短い言葉とともに、不可視の斬撃が放たれた。

 

 男の身体が切り裂かれる。

 

 断末魔すら上がらなかった。

 

「…………」

 

 有月は、その死体から視線を外した。

 

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 

 遠くから、複数の呪力が近づいてきている。

 

 その中でも、一際強いものがあった。

 

「……ほう」

 

 僅かに口元が動く。

 

「ようやく、まともなのが来たか」

 

 その直後。

 

「待ってください!」

 

 声が響いた。

 

 乙骨憂太だった。

 

 建物の屋根から飛び降り、道路へ着地する。

 

 そして、目の前の光景に息を呑んだ。

 

「……これは」

 

 無数の死体。

 

 至る所に刻まれた切断痕。

 

 その中心に立つ一人の男。

 

「……有月さん?」

 

 乙骨は目を見開いた。

 

 そこにいたのは、間違いなく有月憬だった。

 

 しかし、様子がおかしい。

 

 顔に浮かぶ文様。

 

 禍々しい呪力。

 

 そして、何よりもその表情。

 

 普段の有月からは、想像もできないものだった。

 

「……有月さん、ですよね?」

 

「…………」

 

 有月は乙骨を眺めた。

 

 そして、僅かに目を細める。

 

「……知り合いか」

 

「え?」

 

「この身体の持ち主の、知り合いかと聞いている」

 

「……!」

 

 乙骨は刀の柄に手をかけた。

 

 その言葉で、ある程度の事情を察した。

 

 有月には、複数の人格が存在している。

 

 そのことは聞いていた。

 

 ただし、これほどまでに人格が変化する姿を見るのは初めてだった。

 

「……あなたは、誰ですか」

 

 乙骨が静かに尋ねる。

 

 有月は答えなかった。

 

 代わりに、乙骨の全身を眺める。

 

「……随分と呪力が多いな」

 

「…………」

 

「悪くない」

 

 その口元が、僅かに吊り上がる。

 

「少しは楽しめそうだ」

 

 次の瞬間。

 

「っ!」

 

 乙骨の頬に、一本の傷が走った。

 

 血が飛び散る。

 

 反射的に首を傾けていなければ、顔面を深く切り裂かれていただろう。

 

 乙骨は後方へ跳んだ。

 

 直後、背後の建物に無数の切断痕が刻まれる。

 

「……なっ」

 

 乙骨は目を見開いた。

 

 見えない斬撃。

 

 しかも、呪力の発生から着弾までが異常に速い。

 

 ただし、まったく察知できないわけではなかった。

 

 攻撃の直前、僅かに呪力が動いている。

 

 それを読み取れば、回避する余地はある。

 

 だが。

 

「……まさか」

 

 乙骨の脳裏に、一つの名前が浮かぶ。

 

 両面宿儺。

 

 そして、その術式。

 

「……宿儺の斬撃?」

 

「…………」

 

 有月は、初めて明確な反応を示した。

 

「……知っているのか」

 

 乙骨は答えなかった。

 

 代わりに、刀を抜く。

 

「……あなた、本当に有月さんの人格なんですか?」

 

「知らん」

 

「…………」

 

「そんなことは、どうでもいい」

 

 有月が一歩踏み出す。

 

「お前が強いのなら、それでいい」

 

 その瞬間。

 

 乙骨の視界から、有月の姿が消えた。

 

「っ!」

 

 反射的に刀を構える。

 

 直後。

 

 金属が軋む音が響いた。

 

 有月の拳が、刀の腹に叩き込まれていた。

 

「ぐっ……!」

 

 凄まじい衝撃。

 

 乙骨の身体が後方へ押し飛ばされる。

 

 地面を削りながら踏みとどまるが、腕が痺れていた。

 

(……重い!)

 

 単純な呪力出力であれば、特別に突出しているわけではない。

 

 少なくとも、乙骨自身が対処できないほどではなかった。

 

 しかし、動きが異様だった。

 

 無駄がない。

 

 それでいて、自分の身体が傷つくことをまったく気にしていない。

 

 攻撃を受ける危険があっても、躊躇なく踏み込んでくる。

 

 まるで、相手を殺すことだけを考えているようだった。

 

「……リカ!」

 

『ゆうたぁ!』

 

 乙骨の背後から、巨大な腕が現れる。

 

 リカの拳が、有月へ振り下ろされた。

 

「……ん?」

 

 有月は僅かに顔を上げた。

 

 そして、迫る拳に片手を向ける。

 

「解」

 

 不可視の斬撃が、リカの腕を切り裂く。

 

『っ!』

 

 リカが声を上げる。

 

 しかし、その拳は止まらなかった。

 

 有月は咄嗟に身を翻す。

 

 拳が地面へ叩き込まれ、道路が大きく陥没した。

 

「……ほう」

 

 有月は、舞い上がる粉塵の中からリカを見た。

 

「面白いものを連れているな」

 

 その表情に、僅かな興味が浮かぶ。

 

 だが、次の瞬間。

 

「……?」

 

 有月の視線が横へ動いた。

 

 別の方向から、強烈な呪力が近づいてきていた。

 

 

      ◇

 

 

「……何だ、こいつ」

 

 石流龍は、少し離れた建物の上から戦闘を眺めていた。

 

 先ほど感じた異様な呪力。

 

 その正体を確認するために来たのだが、想像以上の光景だった。

 

 刀を持った少年。

 

 そして、顔に奇妙な文様を浮かべた男。

 

 両者が、凄まじい速度で攻防を繰り広げている。

 

 特に、文様の男。

 

 あいつは何だ。

 

 呪力の量だけなら、少年の方が多い。

 

 しかし、戦闘における圧力は明らかに男の方が上だった。

 

 もっとも、少年もただ者ではない。

 

 あれだけの呪力量を持ち、さらにあの巨大な式神のような存在まで従えている。

 

「……へえ」

 

 石流の口元に、笑みが浮かんだ。

 

 どちらも、相当な実力者らしい。

 

 自分が求めていたものに、ようやく出会えたのかもしれない。

 

 しかし。

 

「……ん?」

 

 その時、文様の男がこちらを見た。

 

 目が合った。

 

 距離は相当離れている。

 

 それなのに、石流は思わず息を止めた。

 

「…………」

 

 男は、こちらをじっと眺めていた。

 

 そして。

 

「……お前も来い」

 

 そう言った。

 

 声が聞こえたわけではない。

 

 しかし、口の動きだけで十分だった。

 

「……はっ」

 

 石流は笑った。

 

「随分と、挑発してくれるじゃねえか」

 

 その頭部に、呪力が集まり始める。

 

 石流龍の術式。

 

 それは、膨大な呪力をそのまま砲撃として放つ、極めて単純なものだった。

 

 しかし、その出力は歴代の術師の中でも屈指。

 

 余計な工夫を必要としないほど、純粋な破壊力に優れていた。

 

「……だったら」

 

 石流は口角を上げる。

 

「一口、味見させてもらおうじゃねえか」

 

 直後。

 

「グラニテブラスト!」

 

 凄まじい呪力砲が放たれた。

 

 建物の屋上から、一直線に市街地へ。

 

 狙いは、文様の男。

 

 乙骨ではない。

 

 石流はまだ、二人の名前すら知らなかった。

 

 ただ、より危険な方へ向けて放った。

 

「っ!?」

 

 乙骨が振り返る。

 

 突如として現れた、巨大な呪力の奔流。

 

「……何だ!?」

 

 反射的に距離を取る。

 

 しかし、有月は動かなかった。

 

 迫る砲撃を見上げる。

 

 そして。

 

「……ほう」

 

 その口元が、僅かに吊り上がった。

 

 片手を前へ突き出す。

 

「解」

 

 不可視の斬撃が放たれた。

 

 呪力砲の表面が切り裂かれ、膨大な呪力が周囲へ飛び散る。

 

 しかし。

 

 斬撃は、砲撃を完全には断ち切れなかった。

 

「……!」

 

 有月の目が僅かに見開かれる。

 

 次の瞬間。

 

 残された呪力が、その身体を飲み込んだ。

 

 轟音。

 

 周囲の建物が粉砕され、道路が抉れる。

 

 衝撃波が辺り一帯を襲った。

 

 乙骨は咄嗟にリカの腕を盾にする。

 

「ぐっ……!」

 

 それでも、数メートル後方へ押し飛ばされた。

 

 やがて、土煙が晴れ始める。

 

「……やったか?」

 

 石流が呟いた。

 

 だが。

 

「…………」

 

 粉塵の向こう。

 

 一人の男が立っていた。

 

 衣服は破れ、片腕には深い傷が刻まれている。

 

 しかし、その傷は徐々に塞がり始めていた。

 

 反転術式。

 

 負傷した肉体を、正のエネルギーによって修復している。

 

「……へえ」

 

 石流の目が細くなる。

 

「今ので生きてんのかよ」

 

 有月は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 そして、石流を見た。

 

「……いい出力だ」

 

 その声には、僅かな愉悦が含まれていた。

 

「お前、名は?」

 

「……石流龍」

 

 石流は答えた。

 

 そして、問い返す。

 

「てめえは?」

 

「…………」

 

 有月は少しだけ考えるような素振りを見せた。

 

 だが、すぐに興味を失った。

 

「……どうでもいい」

 

「……あ?」

 

「名前など、必要ない」

 

 そして、一歩踏み出す。

 

「お前の力を見せろ」

 

 次の瞬間。

 

 有月の姿が消えた。

 

「っ!?」

 

 石流は反射的に腕を上げた。

 

 直後。

 

 凄まじい打撃が、その腕に叩き込まれる。

 

「ぐっ……!」

 

 骨が軋む。

 

 石流の身体が、建物の壁へ押しつけられた。

 

 しかし、そのままやられる石流ではない。

 

「……上等!」

 

 全身の呪力を集中させる。

 

 至近距離からの打撃。

 

 有月の顔面へ、拳が叩き込まれた。

 

「……!」

 

 有月の身体が後方へ吹き飛ぶ。

 

 その隙を逃さず、石流は追撃した。

 

「おらぁ!」

 

 連続する打撃。

 

 膨大な呪力出力によって強化された拳が、次々と有月へ襲いかかる。

 

 有月はそれを捌きながら、石流の動きを観察していた。

 

「…………」

 

 速い。

 

 そして、重い。

 

 純粋な呪力出力では、自分を上回っている。

 

 まともに受け続ければ、いずれ肉体が耐えきれなくなるだろう。

 

 しかし。

 

「……悪くない」

 

 有月は呟いた。

 

 その直後、石流の拳を片手で受け流す。

 

 もう一方の手が、石流の胸元へ伸びた。

 

「……!」

 

 石流は咄嗟に身を引いた。

 

 だが、僅かに遅い。

 

「捌」

 

 不可視の斬撃。

 

 至近距離から、石流の身体を切り裂く。

 

「がっ……!」

 

 鮮血が飛び散った。

 

 石流は後方へ跳ぶ。

 

 胸元には、複数の切り傷が刻まれていた。

 

 しかし、致命傷には至っていない。

 

 膨大な呪力によって強化された肉体が、斬撃の威力をある程度抑え込んでいた。

 

「……何だよ、そりゃ」

 

 石流は傷口を押さえた。

 

 見えない斬撃。

 

 しかも、距離によって威力が変わっているようだった。

 

 先ほど遠距離から放たれた斬撃と、今の斬撃では明らかに性質が違う。

 

 後者は、自分の呪力防御に合わせて威力を調整しているように感じられた。

 

 厄介な術式だった。

 

「……硬いな」

 

 有月が呟く。

 

 その声には、感心したような響きがあった。

 

「まだ死なないのか」

 

「……はっ」

 

 石流は笑った。

 

「当たり前だろ」

 

 頭部に呪力が集まる。

 

「俺を誰だと思ってやがる!」

 

 再び、グラニテブラスト。

 

 至近距離から放たれた砲撃が、有月へ直撃する。

 

 だが、有月はそれを予測していた。

 

 身体を捻り、砲撃の中心から僅かに外れる。

 

 それでも、左肩が吹き飛んだ。

 

「……!」

 

 激痛。

 

 しかし、有月の表情はほとんど変わらない。

 

 失われた肩の一部が、反転術式によって修復され始める。

 

 そして。

 

「……次は、こちらだ」

 

 有月は地面を蹴った。

 

 その速度は、先ほどよりも速かった。

 

 

      ◇

 

 

「……何なのよ、あいつ」

 

 烏鷺亨子は、上空から戦闘を眺めていた。

 

 石流龍。

 

 仙台結界で均衡を保ってきた強力な泳者の一人。

 

 その実力は、烏鷺も把握している。

 

 あの男の呪力出力は、尋常ではない。

 

 単純な破壊力であれば、自分を上回るだろう。

 

 しかし、今はその石流が押されていた。

 

 いや。

 

 押されているという表現では、生温い。

 

「……何なのよ、あれ」

 

 烏鷺は、眼下で繰り広げられている戦闘を見つめた。

 

 石流の拳が、男の顔面を捉える。

 

 凄まじい衝撃が走り、男の身体が吹き飛んだ。

 

 だが、男は笑っていた。

 

 口元から血を流しながら、愉快そうに。

 

 次の瞬間、男の手が振るわれた。

 

 不可視の斬撃。

 

 石流の肩口が裂け、鮮血が舞い上がる。

 

「……っ!」

 

 烏鷺は息を呑んだ。

 

 あの斬撃。

 

 見覚えがある。

 

 いや、正確には、知っている。

 

 千年前。

 

 呪術が最も栄えていた時代。

 

 その頂点に君臨していた、一人の怪物。

 

「……宿儺?」

 

 思わず、その名が口から漏れた。

 

 両面宿儺。

 

 あの男の術式は、確かに斬撃を主体としていた。

 

 不可視の斬撃を飛ばす『解』。

 

 そして、相手の呪力や強度に応じて斬撃を調整する『捌』。

 

 どちらも、千年前の術師にとっては恐怖の象徴だった。

 

 無論、烏鷺自身がそのすべてを把握しているわけではない。

 

 宿儺と正面から戦い、その能力を詳細に分析できるような術師など、そう多くは存在しなかった。

 

 しかし、それでも。

 

 あの斬撃を見間違えることはない。

 

「……でも、違う」

 

 烏鷺は眉をひそめた。

 

 目の前にいる男は、宿儺ではない。

 

 それだけは断言できる。

 

 呪力量が違う。

 

 呪力の質も、記憶にあるものとは微妙に異なっている。

 

 そして何より。

 

 あの男には、宿儺が持っていた底知れない何かが欠けていた。

 

 千年前、烏鷺は宿儺の存在を知っていた。

 

 藤氏に仕え、暗殺部隊の隊長を務めていた彼女にとって、宿儺は決して無縁の存在ではなかった。

 

 呪術全盛の時代。

 

 数多の術師が己の力を競い、名を上げようとしていた時代においても、宿儺だけは別格だった。

 

 人間の倫理など通用しない。

 

 強者も弱者も、あの男にとっては気分次第で殺して構わない存在でしかない。

 

 そんな怪物。

 

 だが、目の前の男は。

 

「……似ているだけ?」

 

 烏鷺は呟いた。

 

 確かに、あの男は宿儺に似ている。

 

 戦闘を楽しむ姿も。

 

 相手を見下す態度も。

 

 そして、命を奪うことに何の躊躇もないところも。

 

 しかし、それはどこか表面的だった。

 

 まるで、宿儺という存在の一部分だけを切り取って、それを無理やり人間の形に押し込んだかのような。

 

「……気持ち悪い」

 

 烏鷺は小さく吐き捨てた。

 

 その瞬間。

 

「……ん?」

 

 男の顔が上を向いた。

 

「っ!」

 

 烏鷺の身体が強張る。

 

 目が合った。

 

 距離は離れている。

 

 それでも、男は確かに自分を見ていた。

 

「……まだいたのか」

 

 男の口元が吊り上がる。

 

 直後。

 

「解」

 

「――っ!」

 

 烏鷺は咄嗟に空間を掴んだ。

 

 目の前の空間を、布のように引き寄せる。

 

 次の瞬間、不可視の斬撃がその空間へ衝突した。

 

 だが、斬撃は彼女の身体には届かなかった。

 

 歪められた空間に沿って、軌道が逸れたのである。

 

「……ほう?」

 

 男が目を細めた。

 

「面白い術式だな」

 

「……っ、何なのよ、アンタ!」

 

 烏鷺は叫んだ。

 

 しかし、男は答えない。

 

 ただ、愉快そうに笑うだけだった。

 

「……いい」

 

 男は小さく呟いた。

 

「お前も来い」

 

 その瞬間。

 

「……おい」

 

 低い声が割って入った。

 

 石流だった。

 

「てめえ、どこ見てやがる」

 

 その頭部には、すでに膨大な呪力が集まっていた。

 

「まだ、俺のデザートは終わってねえぞ!」

 

 グラニテブラスト。

 

 再び、極大の呪力砲が放たれる。

 

 男は振り返った。

 

 そして。

 

「……ふん」

 

 片手を掲げる。

 

 直後、不可視の斬撃が放たれた。

 

 しかし、先ほどと同じく、砲撃を完全に断ち切ることはできない。

 

 男は僅かに身を捻った。

 

 砲撃が肩を掠め、背後の建物を粉砕する。

 

 周囲に瓦礫が飛び散った。

 

「……いいぞ」

 

 男は笑った。

 

「やはり、お前は面白い」

 

 そして、石流へ向けて地面を蹴った。

 

「……っ!」

 

 石流が身構える。

 

 直後、凄まじい衝撃が走った。

 

 拳と拳が衝突する。

 

 周囲の地面が砕け、衝撃波が広がった。

 

「……はっ!」

 

 石流は笑った。

 

「そう来なくちゃな!」

 

 再び拳を振るう。

 

 男もそれに応じる。

 

 打撃。

 

 斬撃。

 

 砲撃。

 

 互いの攻撃が交錯し、周囲の建物が次々と崩壊していく。

 

 その光景を、乙骨は少し離れた場所から見つめていた。

 

「…………」

 

 状況は、最悪だった。

 

 有月が別の人格に肉体を奪われている。

 

 しかも、その人格は宿儺の術式を使っている。

 

 そこへ、見知らぬ術師が二人。

 

 一人は凄まじい呪力出力を持ち、もう一人は空間を操る術式を使うらしい。

 

 どちらも、相当な実力者だった。

 

 そして、今の有月は、その二人を殺そうとしている。

 

「……どうすれば」

 

 乙骨は歯を食いしばった。

 

 有月を殺すわけにはいかない。

 

 しかし、このままでは、さらに犠牲者が増える。

 

 何よりも。

 

 あの人格が、いつまで有月の身体を支配するのか分からなかった。

 

「……リカ」

 

『なぁに、ゆうた?』

 

「僕が合図したら、有月さんを押さえて」

 

『うん!』

 

 乙骨は刀を握り直した。

 

 まずは動きを封じる。

 

 そして、有月自身の意識を取り戻させる。

 

 それしかない。

 

 そう考えた直後だった。

 

「……っ!」

 

 強烈な呪力の爆発。

 

 石流のグラニテブラストが、至近距離から男の身体を吹き飛ばした。

 

 男は建物の壁を突き破り、内部へと消える。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 石流が息を整える。

 

 身体の至る所から血が流れていた。

 

 すでに相当な傷を負っている。

 

 それでも、その表情には笑みが浮かんでいた。

 

「……はっ」

 

 石流は口元の血を拭った。

 

「どうしたよ。もう終わりか?」

 

 返事はない。

 

 瓦礫の向こうは、静まり返っていた。

 

「……おいおい」

 

 石流は眉をひそめた。

 

「そりゃあ、ちょっと早すぎるだろ」

 

 そう呟いた、その時。

 

「……飽きた」

 

「……あ?」

 

 瓦礫の中から声がした。

 

 次の瞬間。

 

 石流の背後に、男が現れた。

 

「――っ!」

 

 石流は反射的に振り返る。

 

 しかし、遅かった。

 

「捌」

 

 男の掌が、石流の胸元に触れた。

 

 直後、石流の胸を無数の斬撃が駆け抜けた。

 

「が……っ!」

 

 石流は後ろへ退こうとした。

 

 だが、すでに遅い。

 

 呪力による防御を貫き、肉が裂け、血が噴き出す。

 

 男の掌から逃れた時には、身体を支えることすら難しくなっていた。

 

「……てめ……え……」

 

 石流の膝が折れる。

 

 これまで、数え切れないほどの術師と戦ってきた。

 

 だが、こんな相手は初めてだった。

 

 自分が全力をぶつけられることを、あれほど望んでいたはずなのに。

 

 目の前の男との戦いには、肝心な何かが欠けている。

 

 この男は、石流龍という人間を見ていない。

 

 抵抗する物を壊し、その反応を楽しんでいるだけだ。

 

「……クソ、甘すぎたな……」

 

 石流は血の混じった息を吐いた。

 

 人生のデザート。

 

 求め続けた、その最後の一皿。

 

 それがこんなものだというのなら、あまりにも趣味が悪い。

 

「……もう少し、味わいたかったぜ……」

 

 言葉が途切れる。

 

 石流龍の身体が、音を立てて倒れた。

 

「…………」

 

 有月の姿をした男は、しばらくその亡骸を眺めていた。

 

 そして、何事もなかったかのように視線を外した。

 

「……次だ」

 

 その目が、上空を捉える。

 

「――っ!」

 

 烏鷺の背筋を冷たいものが走った。

 

 逃げる。

 

 そう判断した時には、すでに男が地面を蹴っていた。

 

 一直線に迫る影。

 

「来ないで!」

 

 烏鷺が空間を掴み、強引に引き延ばす。

 

 男の突進する軌道が曲がった。

 

 しかし、そのまま男は空中の足場を蹴るように体勢を変え、再び迫ってきた。

 

「……面白い」

 

 その右手が伸びる。

 

「解」

 

 斬撃が放たれた。

 

 烏鷺は空間を歪めて受け流す。

 

 その隙を突いて、男の側面へ回り込んだ。

 

「薄氷破!」

 

 砕けた空間の衝撃が、男の胴を直撃する。

 

 鈍い音。

 

 男の身体が大きく吹き飛んだ。

 

 だが、烏鷺は追わなかった。

 

 追撃など、考えられなかった。

 

 それほどまでに、目の前の存在が恐ろしかった。

 

 術式が違う。

 

 呪力も違う。

 

 当然、あの男は宿儺ではない。

 

 それでも、相手を仕留めきれなかった瞬間に訪れる、この不快な予感だけは同じだった。

 

(……違う。アイツじゃない。分かってる……!)

 

 烏鷺は自分に言い聞かせる。

 

 しかし、その目は逃れようもなく、千年前の怪物の姿を重ねていた。

 

「……ほう。随分と器用だな」

 

 男が起き上がる。

 

 折れた肋骨を、反転術式が修復していく。

 

「だが、逃げてばかりではつまらん」

 

「……アンタ、何なのよ」

 

 烏鷺は震える息を押し殺して尋ねた。

 

「その斬撃……その顔……。まさか、宿儺のつもり?」

 

 男は答えなかった。

 

 ただ、ひどく楽しそうに笑った。

 

 それが、烏鷺には何よりも不気味だった。

 

「違う……」

 

 烏鷺は小さく首を振る。

 

「アンタは、あの男じゃない」

 

「……ほう?」

 

「あの男を真似しているだけの、何かよ」

 

 一瞬、男の笑みが消えた。

 

 次いで、ひどくつまらなそうに目を細める。

 

「……だから、どうした」

 

 烏鷺の視界から、男の姿が消えた。

 

「――!」

 

 咄嗟に空間を掴む。

 

 だが、今度は間に合わなかった。

 

 男の手が、腕を捉える。

 

「捕まえたぞ」

 

 烏鷺は空いた手で反撃しようとした。

 

 しかし、男の掌が先に彼女の身体へ触れた。

 

「捌」

 

 激痛。

 

 視界が赤く染まる。

 

「がっ……!」

 

 烏鷺は強引に空間を歪め、男との距離を作った。

 

 しかし、身体には深い傷が刻まれている。

 

 反転術式で治せる状態ではなかった。

 

 失われていく力。

 

 急速に冷たくなる指先。

 

(……ふざけないで)

 

 千年前。

 

 誰かに名前を与えられることもなく、誰かの命令のために生きてきた。

 

 自分の人生だと思えるものなど、何一つなかった。

 

 だから、もう一度生きる機会を得た時、今度こそ自分のために生きようと決めた。

 

 それなのに。

 

(……こんなところで……!)

 

 男が指先を向ける。

 

「もういい」

 

 その言葉を聞いた瞬間、烏鷺は確信した。

 

 こいつは、本物の宿儺ではない。

 

 だが、自分を殺すことに躊躇がないという一点だけは、確かに同じだった。

 

「解」

 

「やめろ!」

 

 乙骨が飛び込んだ。

 

 しかし、斬撃の方が早かった。

 

 烏鷺の身体が宙で揺れ、やがて力なく落下する。

 

 乙骨は彼女を抱きとめようとした。

 

 その腕に伝わってきたのは、急速に失われていく体温だった。

 

「……っ」

 

 乙骨は歯を食いしばった。

 

 まだ名前さえ知らない女だった。

 

 襲われれば、自分を殺そうとしたかもしれない。

 

 それでも。

 

 だからといって、こんなふうに殺されていい理由にはならない。

 

「……有月さん!」

 

 叫びながら、乙骨は刀を構える。

 

「聞こえていますか! もうやめてください!」

 

 男は乙骨を見た。

 

「……まだいたのか」

 

 その声には、わずかな興味が戻っていた。

 

「お前も、そろそろ本気を見せろ」

 

 不可視の斬撃が迫る。

 

 乙骨は刀に呪力を集中させ、軌道を読みながら受け流した。

 

 刃が軋む。

 

 腕が痺れる。

 

 だが、退くわけにはいかなかった。

 

「リカ!」

 

『ゆうた!』

 

 巨腕が男を襲う。

 

 乙骨も同時に踏み込んだ。

 

 挟み込むような攻撃。

 

 男は身を捻ってリカの拳を避け、乙骨の刀を腕で受けた。

 

 血が飛ぶ。

 

 しかし、男は笑った。

 

「……いいぞ」

 

 反撃の斬撃が乙骨の肩を裂く。

 

 傷は深い。

 

 それでも乙骨は離れなかった。

 

 斬り倒すのではない。

 

 できる限り、身体を押さえる。

 

 この人格をどうにかして止める。

 

 そのために、必死に隙を探していた。

 

「……甘いな」

 

 男が囁いた。

 

「相手を殺す気もないまま、俺を止められるとでも――」

 

 そこで、不意に言葉が途切れた。

 

「…………?」

 

 乙骨が目を見開く。

 

 男の指が、微かに震えていた。

 

 斬撃を放とうとした腕が、途中で止まっている。

 

「……何だ」

 

 男の眉間に皺が寄った。

 

「……邪魔をするな」

 

 誰に向かって言った言葉なのか。

 

 少なくとも、乙骨ではなかった。

 

 男は自分の頭を片手で押さえた。

 

 呼吸が乱れる。

 

 顔に浮かんでいた文様が、わずかに薄くなった。

 

「……有月さん?」

 

 乙骨は慎重に声をかけた。

 

「……ちっ」

 

 男が舌打ちする。

 

「まだ、終わっていない……」

 

 次の瞬間。

 

 その身体が大きく揺れた。

 

 乙骨はすぐに飛び込める位置で刀を構えたまま、動かなかった。

 

 しばらくして。

 

「…………はぁ」

 

 男の口から、長い息が漏れた。

 

 頬の文様が消えていく。

 

 禍々しい呪力が、徐々に静まった。

 

 男は目元を押さえ、疲れたように呟いた。

 

「……本当に、困ったものだね」

 

「……有月さん?」

 

「うん。乙骨君」

 

 有月は顔を上げた。

 

「ごめんね。迷惑をかけちゃったみたいだ」

 

 その声は、乙骨の知る有月憬のものだった。

 

 乙骨は安堵しかけた。

 

 しかし、足元に倒れた烏鷺と、遠くの石流を見て、その言葉を飲み込んだ。

 

「……あの二人が」

 

「……うん」

 

 有月は小さく頷いた。

 

「見えていたよ。全部じゃないけど、何をしたのかは分かる」

 

 乙骨は黙ったまま、有月を見つめた。

 

「……あなたは、あの人格を止められないんですか」

 

「完全にはね」

 

 有月は右手を見下ろした。

 

「普段は大丈夫なんだけど、強い相手を見つけると、どうしても出てきたがるみたいで」

 

「……危険すぎます」

 

「そうだね」

 

 有月は否定しなかった。

 

「でも、僕の術式で生まれたものだから。簡単に切り離すこともできないんだ」

 

「…………」

 

「乙骨君が無事でよかったよ」

 

 有月は静かに言った。

 

「もし君まで殺されていたら、取り返しがつかなかった」

 

「……あの人たちも、死にました」

 

 乙骨の声は低かった。

 

「僕は、あの二人がどんな人なのか、まだ知りません。戦うことになったかもしれないし、敵だったかもしれない。でも……」

 

 乙骨は、言葉を探した。

 

「少なくとも、話す機会さえなかった」

 

 有月はしばらく答えなかった。

 

 やがて、静かに口を開く。

 

「……そうだね」

 

 自分が結界を渡り歩き、危険な泳者たちを殺しているのは事実だ。

 

 そこには、有月なりの目的と判断がある。

 

 けれど、今回起きたことは、それとは別だった。

 

 誰を殺すのか。

 

 なぜ殺すのか。

 

 そんな判断すら、自分の手を離れていた。

 

「……僕の失敗だよ」

 

 有月はそう言った。

 

 乙骨は返事をしなかった。

 

 倒れた石流の方からは、もう呪力を感じない。

 

 烏鷺も、同じだった。

 

 仙台結界で均衡を保っていた二人の術師が、乙骨と戦うことすらなく命を落とした。

 

 それは死滅回游における、決して小さくない変化だった。

 

「……有月さん」

 

「何かな」

 

「次に同じことが起きたら、僕は止めます」

 

 乙骨は刀を下ろさずに言った。

 

「相手があなたでも」

 

 有月は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

 

 そして、小さく笑った。

 

「……うん。それでいいと思う」

 

 その答えに、嘘はなかった。

 

 有月はゆっくりと空を見上げた。

 

 渋谷で仲間を失ったあの日から、彼の中には消えないものが残っている。

 

 怒り。

 

 悲しみ。

 

 そして、どうしても理解できない怪物の姿。

 

 その怪物は今も、自分の内側で笑っている。

 

 ――もう一度、戦わせろ。

 

 そんな声が聞こえたような気がした。

 

「……お断りだよ」

 

 有月は小さく呟いた。

 

「え?」

 

「ううん。何でもない」

 

 そして、乙骨に向き直る。

 

「ここでのことは、僕からも皆に伝えておくよ。乙骨君も、気をつけてね」

 

「……はい」

 

 乙骨は短く答えた。

 

 有月が追加したルールを利用すれば、別の結界へ移動することができる。

 

 この場にとどまる理由は、もうなかった。

 

「それじゃあ」

 

 有月はそう告げた。

 

 そして、結界間の移動を行う。

 

 その姿が、ふっと消えた。

 

「…………」

 

 残された乙骨は、長い間動けなかった。

 

 崩壊した街並み。

 

 何人もの泳者の亡骸。

 

 そして、最後まで名前も知らなかった二人の術師。

 

 有月憬は、味方である。

 

 少なくとも、本人はそう考えている。

 

 彼が何を失い、何を取り戻そうとしているのかも、乙骨はある程度知っている。

 

 それでも。

 

 先ほど目の前にいたものを、ただの味方だと考えることはできなかった。

 

「……宿儺」

 

 乙骨は小さく呟いた。

 

 あれは、本物ではなかった。

 

 宿儺という怪物を、誰かの恐怖がなぞったもの。

 

 それでも、あれほどの惨劇を生むには十分だった。

 

 もし、あれが本物だったなら。

 

 乙骨は、そこから先を考えるのをやめた。

 

 そして、刀を鞘に戻した。

 

 仙台結界には、まだ別の強力な泳者が残っている。

 

 彼には、果たさなければならない役目があった。

 

 乙骨憂太は、再び歩き始めた。

 

 背後に残された惨劇を、決して忘れないまま。

 

 




この話の前後はグラニテブラストで消し飛びました

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