IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…―   作:ヱ子駈 ヒウ

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第33話「Human Torch Seeker」

 この日のIS学園は、実に休日に相応しい快晴だった。

 陽はまだ頂点を通り過ぎていないが、規則正しい生活を送る学生達にとっては、まさに活動日和と言わんばかりに、思い思いの時間を過ごしている。

 休日らしく鋭気を養う者。自己鍛錬を続ける者。友人と青春を謳歌しに出掛ける者。愛機のメンテナンスに明け暮れる者。部活動に精をだす者。

 それぞれが、それぞれ。平和で穏やかな時の中で、世界を彩るピースであり続けている。

 

――はぁ…………。

 

 だが、そんな平穏において、桃色の髪を揺らし、表面上は限りなくリラックスして――実際は臨戦態勢をとりながら――心の中で溜め息をつき、歩道を歩く少女が、独り。

 どうにも気分が優れない。

 先程から幾度も自分とすれ違って行く、人、人、人の群れ。それらが、一様に朗らかな笑顔を浮かべ、通り過ぎる自分を一瞥すらしようとしないからだ。

 

――まさか。ここまで無警戒とは。

 

 産まれた土地とは違う水を飲むと体調を崩すことがあるように、少女――IS学園に潜入を試みている不法侵入者――トーチは、まさにこのたわみ切った空気がどうにも耐えがたかったのだ。

 昨晩、第三アリーナから侵入を果たし、セキリュティを『炙って』安全地帯を確保し待機。その後、日が昇り、生徒達が活動を開始したのを見計らってトーチは一般生徒として学園に紛れ込んだのだが……、

 

――不審。泳がされてる……?

 

 仮にもISを多数所有している施設とは思えないほど、誰も彼もが警戒の欠片すら見せず、能天気が服を着て歩いているような有様が、どうにもトーチの平静を掻き乱して行くのだ。

 当然、不法侵入をしている身からすれば、有難いことには違いない。

 この程度のことで表情や態度に出るほど素人ではないし、この身もISも、こういった潜入工作に特化している。

 しかし、それでも、この緩やかに流れていくだけの時間が、彼女が生きてきた時間と等価値であるとはどうしても思えなかったし、認められなかった。

 ここには――火が、ない。

 

――放火。してやろうかな。

 

 目についた、真っ直ぐに伸びる小奇麗な施設の壁に手を当て、愚考する。

 そうすれば――無論、目的からすれば論外なのだが――少しはこの甘ったるく腐った臭いも、故郷に近い、嗅ぎ慣れた空気に変わるだろう。

 

――失笑。何を、いまさら。

 

 トーチは、濁りきった双眸で壁を――瞳の奥に仕舞いこんだ、自らの過去を、見つめる。

 トーチと名乗る前の彼女が生まれた場所は、どこぞの研究機関の失敗作である相棒の出自と比べれば、実に平凡だった。

 この青く美しい地球上に、いくらでも存在する実に平凡な――紛争地帯が、生まれだ。

 限りなく横たわるのは、砂と、瓦礫と、炎。

 生物学上、居たのであろう両親の顔より、それらの方がよほど鮮烈に思い出せる。

 学校と呼べた場所は全て土台を残して消え去ったか、どっちかの軍の拠点になって久しかったため、教育なんて高等なモノは受けた覚えが無い。

 だから、一体どうして、何処のどいつが、何のために、あの紛争を始めたのかだなんてトーチにとっては今も分からないし、同じように興味も無かった。

 ただ、そうしなければ生きていけないから、忍び、盗み、奪う。

小柄なトーチの役目は、主に忍びこむ事と盗み出す事であったが……今にして思えばこの頃から、これらに関してだけは天賦の才と呼べるものがあったのが、自分の幸運と、そして、

 

――運命。私の、なんて、言うのだろうか。

 

 灰と、煙と、焼死体だけを残して、なにも残らず焼け落ちた集落の、唯一の生き残りになれたのも、別の場所へと盗みに入っていたからであったし、仲間達の復讐なんてことを実行に移し、軍人たちがひしめくキャンプに潜入できたのも、この才能があったからこそ。

 自分の集落であった場所で何かをチェックしていた軍人の隙を突き、バギーの裏に張り付き、入り込んだ施設で、トーチはいくつかの真実を知る。

 

 新兵器。テスト。第三世代。成果。上々。

 

 最奥の一室で行われていた、一応は自分達の味方側だと公言していた方の野戦服と、人種すら見慣れない白人で上物のスーツを着た男の会話。

 それを天井から眺めていた当時のトーチでは、節々に聞こえてきた単語しか理解できなかったが……只一つの真実は、次の瞬間、理解できた。

 軍人が嗤う。スーツが嗤う。せせら嗤いながらスーツは軍人に、見たこともないようなケースから金を――それも、途方もない大金を、渡したのだ。

 

――なんだ。コレは。

 

 子供であろうと、コレの価値は分かる。

 コレを奪うために、コレと交換するために、少女は幾つもの修羅場を潜ってきたのだ。

 だが、コレはいつだって、既に持っている人間から奪うモノだった。

 故郷にはコレが絶望的に不足しており、奪った端から蜃気楼のように消えていく。

 あそこには、奪うモノなど何もなかった筈だと――今にして思えば、随分と可愛い事を考えていたなと、トーチも嗤う。

 

 誰であろうとも、どれほど貧しかろうとも、生きている限りは奪えるモノが、たった一つは必ずあることぐらい、知らない訳ではあるまいに。

 

 無学ではあるが聡い少女が、この真実に気付くのに、時間はかからなかった。

 ふざけている。狂っている。腐っている。

 まさか、自分の家は、仲間は、命は……コイツらに誰の合意も得ずに買い叩かれ、そして惨たらしく奪われたというのか――?

 

――あ……ぁ、あああアアアアアァァァ!!!

 

 喉から血が吹き絞られるほどの、絶叫。

 これが潜入で犯した、初めての失敗。

 ただ忍び込むことが得意なだけの少女が、軍事施設の奥深くで、反抗も、逃走の手段もなく発見される。

 この瞬間、間違いなくトーチと名乗る前の自分が死ぬ事は――避けようもない未来となった。

 

――運命。ああ、だから、これは運命だ。

 

 逃げる、逃げる、逃げる。

 大人たちが通れない、あらゆるルートを駆使して逃走。

 銃弾が頬を掠める。怒声が肌を揺らす。殺意が心を突きぬける。

 もはやどう足掻いても死から逃れられない少女が、無様であろうがなんであろうが逃げまどう。

 しかし、どれだけ腐っていようが、相手は軍人だ。

人を追い詰め殺すことに、少女の何倍もの時間を費やしてきた連中だ。

 慣れぬ標的であろうとも、つぶさに逃走ルートを割りだし、出口を塞ぎ、袋小路へと追い込んでいくのは、造作もないことである。

 そして同様に、すばしっこく逃げ回る鼠の右足首を、拳銃で撃ち抜くことも、また。

 どれほど少女が非凡な才能を持っていたとしても、逃げるための足を損傷すれば、宝の持ち腐れに過ぎない。

 すぐさま撃ち抜いた男の通信機から朗報は基地全体へと広がり、切迫したチェイスは瞬く間に、加虐のみを目的としたハンティングへと様変わりを果たした。

 明らかに緩やかになったが、しかし止まる事だけはない死神の手を振り払うように、少女は一歩進むごとに激痛を発する足首を引きずり、進む。

 満足な医療施設が存在せず、あったとしても利用するための金もない足は、じきに二度と動かなくなるだろう。

 それでも、滅びゆく定めの瞳から、意思の光が潰えることだけはなかった。

 なぜならば、

 

――ちがう。こんな筈じゃない。

 

 宿しているのは、否定。

 

――こんなのは、認めてやらない。

 

 宿しているのは、反骨。

 

――金と引き換えにされるために、私は今日まで生きてきた訳じゃない。

 

 まだ、少女は、死んでいない。

 

――お前らだけには、くれてやらない。

 

 殺される訳にはいかない理由に、このくそったれな世界に産まれた意味に、

 

――私を引き換えにしていい存在ぐらい、私が、私が決めてやる……絶対にッ!

 

 しがみ続ける限り、少女に立ち止まると言う選択肢はありはしなかった。

 烙印のような誓いが身命に刻まれた瞬間……いつの間にか逃げ込んでいた一室に置かれていた、『それ』は、光を放った。

 初めに過った推察は……光っているから、神。

 いや、違う。大人たちが信仰する神は、誰にも救いは与えず、決して姿も見せずに、殺し合うための武器だけを与え続けている。

 次に過ったのは……翼があるから、鳥。

 これも、違う。鳥に人のような手足はない。そして何よりも、金属で出来ていない。

 最後に過ったのは……金属だから、兵器。

 やはり、違う。兵器なら産まれてこの方、何度も何度も見てきたが、あれは決して――人間を体内へと招くように、呼びはしないのだ。

 

――呼んでいる……そう、これは、誰かを呼んでいる。

 

 改めて見てみれば、腕は脚にまで届くぐらい長大という異形であり、鋼の肌には真新しい泥と、煤と、血がこびり付いていた。

 ごく最近、数多の骸を築き上げてきたのは疑いようもなく、まさしく悪鬼の形相と言って、差支えない。

 まさかと、少女が察した可能性。

 ならば、どれほど躊躇おうとも……自分はこの痕に触れなくてはならない。認めなくてはならない。

 これが一体、『何であるのか』を知るために――少女は、肌に触れ、

 

――……ああ、お前は、そうなんだ。

 

 少女は、その瞬間、今度こそ完全なる死を迎えた。

 

――お前、殺したな。

 

 フラッシュバックのように浮かぶ、蹂躙。

 見知った顔が、勝手知ったる集落が、自分を産んだ人間が、全て『こいつ』の腕から吐き出される灼熱に飲まれ、燃え落ちていく。

 

――みんな、燃やしたんだな。

 

 続いて浮かびあがってくるのは、計画。

 こいつは第三世代。対軽歩兵、もしくは対民間を想定して開発されたプロジェクト。

 テストとして他の場所でも、何度も、何度も、何度も、何秒で非武装の人間を沈黙させられるかを計測させられた。

 

――だから、お前は……望むんだな。

 

 そして、最後に浮かびあがったのは願いだ。

 こいつは願っている。

心の底から、縋るように、泣き喚くように、他の誰でも無い私に懇願しているのだ。

 

 

――もっと、もっと……さらに大勢の人間を、殺させろと。

 

 

 下衆だ。愚劣だ。悪魔だ。

 こいつは神以下であり鳥以下であり兵器以下の存在だ。

 疑いようもなく、だからこそ――運命なのだ。

 奇しくもその望みは、少女だったモノがやらなくてはならない事と、奇跡的に合致していたのだから。

 

――……了解。お前は、これから私になる。

 

 瞬間、穢れた装甲から一際強く、眩く、祝福のように放たれた光は、大口を空けた獣のように新たな主を一瞬で飲みこみ、

 

――そして、私はこれから……お前になる。

 

 彼女は、自分が産まれた世界を、誰が作り出したのかは知らない。

 だが、終わらせるのは、彼女達であった。

 

 施設を、機材を、兵器を、人を、金を、燃やす。

 少女を抑えつけていた全てを、超常の機身と化した『二人』が焼きつくす。

 いくつもの命をこの国で奪ってきた銃砲火器が自分達に向けられても、浮かび上がるのは冷笑。防御の必要すらなく、少し炙ってやれば仕手ごと銃は溶け落ちる。

 これはまさに、子供の火遊びであった。

 戯れれば戯れるほど、次から次へと、遊び甲斐がある連中が飛び出してくる。

 軍団、迫撃砲、装甲車、戦車、戦闘機――燃やしていい奴等が、自分から火に釣られる虫のように飛びこんでくる。

 今まで出来なかったのが不思議でならないほど、当然の飛翔と共に、燃やし、溶かし、炙り、焦がし、堕とす。

 気付けば、遊んでいた連中の軍服や装備のデザインが変わっており、それは施設の連中が対敵していた、もう片方の軍隊のモノだと彼女達は察したが、些事は無し。

 同様に、雁首そろえて灰にする。それだけだった。

 

――はっ、アハハ、ハハハハハハハハハッ!

 

 いつまでそうしていたのか、いつまでもそうして居たかったのか。

 何もかもを燃やし尽くした果てにあったのは、当然のように、砂と、瓦礫と、墓標のように昇る黒煙。

 それだけが残った。それだけの――誰にも脅かされずに、銃声もなくただ静かで、奪う必要も奪われるモノもない世界。

 

 少女だった存在が、考えうる限りの楽園が、ここにはあった。

 

 だから、もう彼女達の片割れには、動く理由が無かった。

 さらに、もう片方も、動くだけの力が残されていなかった。

 ならば……良し。

 あとは、ここまま、急速に重みを増していく目蓋が閉じるままに、眠らせて欲しい。

 しかし、多くの命を踏みにじってきた代償は、彼女達にそんな安穏な終わりを、許してはくれなかった。

 

――見事な継戦能力と、ステルス能力だ。ここまで発見に手間取るとはな。

 

 閉じかけていた目蓋が開くと、二人ぼっちだった、砂と、瓦礫と、炎の楽園に、その存在は居た。

 鋼鉄の四肢に、鉄の仮面、黒金の翼を持った、人のような何か。

 神か、鳥か、兵器か。やはりまた、片割れは判断が付かなかったが、もう片方の彼女は瞬時にそれが自分と同じモノであることに気付き――恐怖した。

 何もかもを破壊した。粉砕した。蹂躙した。しかし、これは、これだけは無理だ。

 自分より弱い奴を相手にすることしか想定していないこの身では、同類を破壊する事を想定しているコイツだけには絶対に勝てないのだと、本能的な警鐘が心臓を打つ。

 

――三日三晩、暴れまわった割に、まだ怯える元気がある、か。

 

 先制。動物反射的に、今までそうしてきたように、彼女達は左腕を上げる。

 吹き上がる業火は、例え見たこともないような存在ですら、同様に焼き焦がす――

 

――遅い。

 

 はず、だった。

 もはや神速。一つになってから劇的に良くなっていた筈の『目』でも、黒い機影を捉えることは敵わず、懐に潜られみぞうちに何かを叩きつけられる。

 人体の急所であろうとも、戦車の主砲すら弾いてみせた自分達にとって、この程度のダメージなど些細……と、繋がっていた彼女達の意識は、腹に撃ちこまれた何かから全身に奔る稲光に、文字通り焼き切られることになる。

 

――剥離剤(リムーバー)……思ったよりは、使えるようだな。

 

 全身に奔る激痛、痺れ、繋がっていたモノ全てが断裂されていく感覚。

 あれほどまでに一つであった半身は、いとも簡単に片割れを吐き出し、呼びもしなければ動きもしない、ただの鉄塊と化した。

 

――標的の完全沈黙を確認。任務、完了。

 

 うつ伏せになったままの耳で、彼女は冷たく呟く声と、妙に小うるさい、見境なくはしゃぐ子犬のような歓声を聞いた。

 

――お見事です、隊長ッ! 鮮やかなお手並み、このリューン伍長、感服仕りましたッ!

――ほざけ、動きからしてやはりこいつは正規のパイロットではなく、ド素人だ。それに、おれ達は軍属じゃない、階級はもう捨てろ。

――Ja!(了解ッ!)

 

 何かを喋っているが、アレから剥がされると同時に、無意識に理解できていた言葉が急に分からなくなった彼女にとっては、ノイズとさして変わらない。

 

――それよりも、こんなド素人の発見になぜここまで手間取ったのか。分かるか。

――いえ、さっぱり!

――……データはお前にも見せた筈だがな。こいつは民間人を虐殺するためだけの第三世代だ。目視以外で観測できない程の完璧なステルス装置など、どこの会社も開発に成功したとは聞いていない。嫌でも目立つ火炎放射機なんて物を使うコイツの設計思想とも、大きく外れる。

――となると。これは、どこぞが『開発した』のではなく、『生まれた』と考えるべきかとッ!

――そうだ。データと外見の差異といい、こいつは間違いなく、この圧倒的短期間に第2形態まで移行し、ワンオフ・アビリティーまで発現させている。前例は間違いなく無いだろう。

――ではっ!

――ああ、決めた。

 

 会話がようやく終わったのか、鉄仮面がこちらを見下すように、耳元に足をつける。

 どうやらアレは傷を塞ぐ役目も果たしていたのか、右足首からとめどなく自分が流れ落ちていく感覚しか、もはやロクに感知できない。

 怖気と不快感にまみれた余命だったが、それも長くは続かないだろう。なにより、自分を倒した存在が、存命を許さない。

 しかし、彼女は忘れていたのだ。

 常にこの世は、自分の拙い予測など、いとも簡単に越えていく事を。

 次の瞬間、小さな身体を襲ったのは、鋼鉄の腕から振るわれる死ではなく、

 

――予定変更だ。これからお前達の全ては、おれのモノだ。

 

 機鋼を解いた内に秘められていた、柔らかで暖かい、人肌の抱擁であった。

 ここで終わっていれば、少女の人生は静かに、穏やかに、消し炭のようにあっけなく終わっていたのだろう。

 だが、そうはならなかった。

 運命は、彼女をこんな安穏の中で終わらせはしなかった。

 次に目を覚ました瞬間から少女は、新たな名前を与えられ、様々なことを――特に、自らの半身がISと呼ばれる比類なき兵器であることを――知り、任務を与えられ、矮小な盗人だったころとは比較にならないほどの地獄を往くこととなる。

 しかし、この地獄は少女にとって――トーチにとって間違いなく、楽園などよりも遥かに暖かで澄み渡る場所であった。

 

――任務だトーチ、やれるな。

 

 砂嵐が止まない世界に差し込んだ、誰よりも強く、何よりも公平で、そして真っ直ぐに自分を信じてくれる光に、あれほど頑なにしがみ付いていた心を明け渡すのは、時間の問題でしかなかった。

 そんな存在が、私達の全てに価値を見出して、余すことなく使い潰してくれると言ってくれた。

 完璧だ。完璧な存在だ。

 この人に全てを捧げ尽くす以上の幸福が、どこにあるというのだろう。

 自分がこれほどの幸福に包まれる日が来ようとは、トーチは思ってもおらず、

 

――キルスティン……隊長。

 

 だからこそ、奪われた時の絶望に耐えることなど、出来ようはずもなかった。

 いつの間にか、右手を当てていた壁には、無意識に作られていた握り拳の筋道として、爪痕が刻まれている。爪よりも硬い壁を力任せに抉った代償として、剥がれかかった鋭痛が走る。

 

――僥倖。まだ、痛いと思える。

 

 標を失い、砂嵐も光も無い暗黒で腐り落ちていく感覚に比べれば、なんと鮮やかで甘美か。

 遠い日のように、また――いや、あれよりも遥かに耐えがたく――私の全ては奪われようとしている。

 幸いと言える事に、あの日の少女と、トーチ・セプリティスは、まるで違う生き物であり、手段があり、全てはまだ完全に手の届かない場所に逝った訳ではない。

 ならば、やることは、一つだけだ。

 

「……奪還。必ず、奪い返す……」

 

 この爽やかな腐臭が漂う場所から、本当にあるべき場所へと、取り戻すのだ。

 例えそれが、かつて唾棄した連中と同類に堕ちる結果を招こうとも、必ず――。

 トーチの瞳は、相変わらず鈍光を宿している。

 しかし、意志の炎だけは、決して尽きることを知らずに、燃え盛り続けていた。

 

 

                     ○●○

 

 

 かといって、彼女が選択した方法は、以前のような無軌道なテロリズムと比べれば、実に穏便で計画的な手段であった。

 指定されたポイントへの『仕込み』を終えた次の行動は、既にトーチの脳髄に反復されている。

 間諜として、基礎中の基礎。即ち――

 

(収集。まずは、情報を)

 

 隊長を取り戻すのは最終目的として、駆け抜ける道筋を定めなくてはならない。

 トーチは自分が、どのような険しい道筋であろうとも完遂できると断言できる自信と自負、そして覚悟を抱いていたが、意を決して進んだ道が、実は即断崖絶壁で下には水玉模様の牙が生えた空腹かつグルメな食人植物が大口を開いていただきますをしていた――では、大間抜け以外の何ものでもない。

 だからこその、遠回り。周囲を見渡し、目的地、周囲、障害、全てを見渡す。

 決して多くはないが、そのための時間も、手段もある。

 そのために『仕込み』を急ピッチで済ませたのだから――改めて、呼吸を整えて、先程からずっとそうしているように、トーチはIS学園の散策を続行した。

 

 陸路から隔絶された孤島に建造された学園とはいえ、根底は人間が通うために作られた学び舎なのだ。今まで何度か潜入したことがある学校と、潜入工作の際の注意点も含めて、差異は多くない。

 外側から侵入する手合いへのセキリュティは流石としか言いようが無かったが、一度侵入さえ出来てしまえば、あとの敵は油断と不意だけだ。

 

 潜入工作……それが、今のトーチが最も得意とする業だ。

 基本は少女であった時からやっていたことの延長線であることも理由だが、それだけで単なるコソ泥とは次元が異なる難易度の工作をやってのけれはしない。

 訓練を積んだ。才能があった。運が味方した。

 無論、どれもトーチは否定しない。純然たる事実と受け止めた上で――なお、自分が世界トップレベルであろう要所への潜入を、こうも易々と成功させているのは、あの日からずっと自分の半身であり続けているISの存在あってこそだと確信している。

 

 第三世代機――ハイロゥ・カゲロウ。

 ワンオフ・アビリティーは、『コラージュ・フラム』。

 

 この機体が放つ炎は、触れたあらゆる電子機器に、誤った情報を『張り付ける』事ができる。

 監視カメラの映像を弄ることもできれば、電子ロックをだまくらかし開帳させ、レーダーすらも炎をISに纏うことで狂わせることができる。あくまで張り付けているだけのため、用事が終われば剥がれて消滅し、痕跡は微塵も残らない。

 ISに直接当てられれば、ハイパーセンサーすらも騙せるのだから、その性能は折り紙つきだ。

 あらゆる事をオートマチックとする事を命題にしてきた現代社会において、この能力はまさに天敵と呼ぶ他になかった。

 他に類を見ず、今後も産まれる事は無いであろう、『潜入工作特化型』のIS。

 人を燃やすだけしか能が無かったISは、発想と、研鑽と、工夫によって、その悪辣さに更なる磨きをかけていた。

 この機体に、潜入出来ない場所などありはしない。

 

(当然。人相手には、意味がないけれど)

 

 しかし、裏返せばこんな反則技が通用するのは、電子機器に対してのみ。

 人間相手には効果がなく、仮に効果があったとしても唐突に人を火で炙るなどという奇行に走れば、潜入工作もクソもない。

 つまり、ここまでは半身の仕事であり、ここからは彼女自身の手腕が問われる場面だ。

 そして、発揮する必要は――向こうから、歩いてやってきた。

 

(対象。発見)

 

 ターゲット。セシリア・オルコット。

 イギリスの代表候補生。ISは、ブルー・ティアーズ。

 交戦経験あり。しかし、こちらはISのバイザーを展開していたため、顔は割れていない。

 状況を更に纏める。

 時間は昼下がり。学園のカフェから一人で出てきた事を鑑みるに、昼食を終え、単独行動中。

 実力はさておき、色んな意味で爆発力には目を見張るものがあるが、顔色が悪く、足取りの覚束なさから万全ではない可能性、大。

 万が一の際、逃走、排除、もしくは人質にするのは容易。

 これらを総合し――仕掛けるなら今と、トーチは判断した。

 呼吸を整え、足を早め、『モード』を切りかえ、接近。

 金色のロールが揺れ、気だるげにこちらを視界に入れるが――遅い。

 何事かと、セシリアが口を開くよりも早く、トーチは彼女の懐へと素早く飛びこみ――

 

 

「わーっ! 本物のセシリア様ですぅー!」

 

 

 頭の悪さフルスロットルな、おもっくそ黄色い声を上げながら、その腰に抱きついた。

 

「はひぃ!?」

 

 物思いに耽っていた所を、唐突に見知らぬ――本当は敵同士であるのだが――女生徒に抱きつかれ、曲がり気味であった背筋に、セシリアは力をピンと込め直す。

 

「えっ、あ、あの……どちらさま、ですの?」

「はわわっ、すみませぇん。わたしったら」

 

 そう言いながら、トーチはハッと我に帰ったように、セシリアから距離を離し、頭をペコリと下げる。

 

「ごめんなさい。わたし、憧れのセシリア様にお会いできたのが嬉しくって、つい」

「あ、憧れのセシリア……様?」

「はい! 名門貴族であり、イギリスの代表候補生! 誰もが羨む最新鋭第三世代のパイロット! わたし、あなた様の熱心なファンなんですぅ」

 

 自分よりも幼く見える少女に瞳をキラキラと光らせながら、露骨さすら滲み出るほどにおだてあげられ、まさに英雄でも見上げるような趣きで上目使い。

 その様を、セシリア・オルコットは鼻で笑う。

この程度のことで、誇り高い淑女を自称するセリシアは、

 

「――ふっ、ふっふっふっふーん。ま、まぁ、いまさら言われるまでもない、当っ然のことですけれど? なかなか見る目をお持ちのようですわね、貴女」

 

 ふわっさぁと後ろ髪を掻き上げて、渾身のドヤ顔を披露してみせた。

 

――ちょっろ。

 

 こういう露骨なのに弱いタイプだとは思っていたが、欺いている側のトーチをして若干の警戒心すら芽生えそうなほどに、すんなりと眼前の存在は警戒心を解いたようであった。

 そんなトーチの複雑な心情などいざしらず、さっきまでの落ち込みっぷりが嘘のようにセシリアは続ける。

 

「そうですとも、そうですとも。なんだか最近、わたくしの高貴高潔潔癖な淑女としてのイメージが損なわれているからなのか、だからあの方にも、他人に移り気してしまうような不埒な輩だと思われてしまうのか思い悩んでおりましたが……。

ええ、そうですともっ! ちゃんとこうして、わたくしの事を『的確に』評価してくださる方も居るのですわ! あの方ならきっと誤解だと分かってくれますとも! なにを憂う必要があったのでしょう!」

 

――……これ。長くなる奴だ……。

 

 この世の春が来たように、ぐるぐるとターンしながら一人人生を謳歌している様子に、ここはマトモに付き合えば延々と時間だけ取られて実りが一切ないお花畑だと判断したトーチは、何とか話題を切り換えようとして、

 

「あ、あのぉ……」

「ふふふっ、どうなさいまして? サインならいくらでも差し上げますわよ?」

「いえ、サインはいいんですけど……」

「どこに書いてさし上げましょうか? そうですわ、よろしければ、その制服の背中にでも」

「だからサインはいいんですけど……」

 

 情報収集する相手を完全に間違えた。

 一切の予断なく、トーチは自分のミスを認める。

 

「あら、そういえばペンが手持ちにありませんでしたわね。チェルシーに今度、良いブランドの物を取りよせさせなくては」

「あ、あのっ! セシリア様の事も私、尊敬しているんですが」

 

 嘘では無く、ある意味、ここまで自分の世界に入り浸れる部分を皮肉交じりではあるが、

 

「もう一人、実はセシリア様と『特に仲睦まじい方』も、わたし」

「まっ! キリさんの事もですのッ!?」

 

 話題逸らしのために適当にカマをかけてみたトーチであったが、思わぬ手応えに、頭痛寸前に弛んでいた意識が覚醒する。

 セシリア・オルコットは、あの戦場に居た。

 ならば必ず、キルスティン隊長についても何か知っている筈だと目論んだ接触だったが、コイツが今『キリさん』と呼んだ人間の事。

 間違いないだろう――確信に変えるため、最後の質問を投げかける。

 

「キリさんって……朴月、姫燐さんの事ですよねぇ?」

「ええ、そうですわ。わたくし、あの方をあだ名で呼ぶ事を、直々にお許し頂いておりますのよ?」

 

 なぜ人をあだ名で呼んで良いだけで、コイツはここまで胸を張れるのかは分からないが、やはりセシリアは朴月姫燐と一定以上の親交があるようであった。

 この任務に就く際に頭に叩きこんだIS学園に在住している人間のリスト。そこには当然、最も警戒すべき専用機持ち達のリストも含まれていたが、トーチが関心を示したのは元よりたった一名だけであった。

 

――朴月姫燐。1―A所属。専用機、シャドウ・ストライダー。

 

 外見やスペックはかなり変化していたが、間違いない。

 あの時のISは、前々から駆っていたキルスティン隊長の専用機『ストライダー』だったのだ。

 最初こそ顔が似ていただけの別人という可能性も捨てきれずには居たが、ここまで一致しているならばパイロットは当然、隊長以外に居らず、そう考えれば代表候補生ですらない一介の学生には、不相応すぎる戦闘力や判断力も納得できる。

 だとすれば、尚更なぜ自分達のことを――

 

(暴訣。そのために、ここに居る)

 

 真実へと繋がる糸。待ち焦がれたそれを、トーチは慎重に手繰っていく。

 

「わたし、実はまだ、朴月さんと直に会話したことがなくて」

「まぁ、そうですの。全世界中の殿方が参考にすべきぐらい素敵な方ですから、快くお話ぐらいしてくださりますわよ?」

「だ、だったら……セシリア様は、朴月さんは今日、どこに居るかご存じですか?」

 

 ちょっと不安げに目を伏せ、人畜無害な小動物オーラを纏い、

 

「今日は――」

 

 内面で、嘘でも付こうなら喉笛噛み切ってやると言わんばかりに牙を剥き、

 

「えーっと、確か――あっ」

 

 トーチは、セシリアの碧眼を真っ直ぐに見据え、

 

「言い出した身で申し訳ないですけれど、今日は学園には居らっしゃりませんわね。キリさん」

「…………そう、ですか」

 

 思わず強張りかけた目蓋を、全力で自制せざるえなかった。

 

「クラスの皆さまと、本日は外にお出かけに行っておりますの」

「帰りは……何時になるか分かりますか?」

「いえ、そこまではわたくしには……寝込んでいる間に、出発してしまっておりましたし……」

「そうですか……なら、仕方ないですよね」

 

 深い失望感が襲いかかるが、予想できていたケースではあると自らを奮い立たせる。

 本来ならば近距離なり遠距離なり、直接接触して確かめるつもりであったが、街に出てしまっているとなればこのプランは白紙にするしかない。追い掛けて街へ繰り出すのはノープランすぎる上、いまIS学園から離れてしまうと『任務』に支障が出てしまう。

 ならば、もう一つの方法に切り替えるしかないと、トーチは改めてセシリアに尋ねた。

 

「でもでも、わたし実はセシリア様にも、まだ聞きたい事がありましてぇ」

「わたくしに?」

「はい! どうしても、先程から気になっていた事なんですけど」

 

「セシリア様は、姫燐さんのことを――どんな方だと思ってらっしゃるんですか?」

 

 トーチの次のプラン――と、言うほどでもない、単純な指針――それは、やはり情報収集であった。

 ただし今度は、居場所ではなく、朴月姫燐という人間についての情報収集だ。

 プロファイリング。対象の人格や行動を統計学的に纏め、幾重ものパターンに照らし合わせて人物像を暴きだす、近代捜査手段の一種。

 現状ではこれぐらいしか出来ない。その簡易的モドキを、トーチは試みるつもりであった。

 

――とはいえ。

 

 なにか、なにか自分は、とても重大な見落としをしていないか……?

 と、心のどこかが実行を躊躇っていた訳をトーチは、

 

「何度もお話しますけれどキリさんの魅力を一言で語るのは大変困難でして、レッドカーペットより優美な赤い髪はいつだって清潔なシャンプーの香りがしておりますしぱっちりと開かれた琥珀色の瞳は英国王室に献上された宝石よりもなお輝かれていてお肌も瑞々しくてまるでウェッジウッドの陶器のようにお美しく鍛えながらも無駄は一切ないお身体もまた今すぐ彫像を作らせ大英博物館にて大々的な展覧会を開く価値がいえ開くべきですわわたくしがイギリス代表になった暁には必ずや」

 

 引きずられるがままに同伴させられた喫茶店のテーブル席で、嫌というほど噛みしめていた……。

 

――……コイツ。ほんと……コイツ……。

 

 こんなお花畑に肥料を追加してしまうと、もう手がつけられない脱出不能の樹海になることが、分からなかったとは言わせないと、己の迂闊さをトーチは呪った。

人物像を聞いていたはずなのに、気付けばドン引きモノの将来の展望にまで脱線していたマシンガントークは、止まるどころか加速すら続けている有様。

 自分には実は潜入諜報の才が微塵も無かったのではないかと思わずには居られないほど募る、今すぐISを起動し口に指を叩きこんでやりたい衝動との戦闘も、いい加減に限界が近い。

 

「す、すみません、セシリア様……ちょっと、その、これから友人と『予定』がありまして」

「あら、そうですの? まだキリさんの魅力の半分も語っておりませんのに……」

 

 これは拷問に使えると、内心で最大クラスの評価を下しながらも、トーチは演技では無くガチのゲッソリとした表情で席を立つ。

 そもそもの話、コイツに拘る必要はあったのだろうかと余計に頭痛を広めていくが、

 

「あっ! キリさんと言えば、これを外しては語れませんわ!」

 

 もう本当に勘弁してほしいと、トーチは出口へと脱兎する足を止めず、

 

「笑顔」

 

 耳だけを一応傾け、

 

「キリさんはいつも、笑顔がとても素敵なお方ですのよ」

 

 外へのあと一歩を踏み出す――前に、振り返る。

 

「一応」

「はい?」

「一応。感謝、しておく」

「へっ?」

 

 最後の最後に、ようやく有益な事を喋った性質の悪いスピーカー女に捨て台詞だけ残し、感謝以外の渦巻く感情を処理するため、速やかにトーチは喫茶店を後にした。

 

 

                ○●○

 

 

 笑顔。

 作って向けてやったことは数え切れないほどあるが、ふと、誰かに向けられた事は常に何が楽しいのか分からない相棒以外からは、殆ど無いことにトーチは気付いた。

 それは、長年手足として従っていたキルスティン隊長からも、同様である。

 

――笑顔。……隊長が?

 

 常に鉄面皮で、平静を崩さず、冷酷にトドメを叩きこむ。

 残酷でありながらも同時に、只人ならぬ力の行使者として、言い代えようのない美しさすら感じさせる隊長には、まるで似合わない代物だ。

 

――解離。あまりにも、違い過ぎる。

 

 頭痛と戦う話半分だったとはいえ、セシリア・オルコットの話を思い返せば思い返すほど、朴月姫燐はキルスティン隊長とはまるで似ても似つかない人物像で通っているようであった。

 それだけであるならば、自分と同じように人格設定を使い分けているだけ……で、理屈は通るのだが、

 

――異常。感じては、いたけれど。

 

 そもそも、なぜキルスティン隊長が、我々に死んだとまで報告し、IS学園なぞに潜入しなくてはならないのか? ここがトーチにとって――潜入工作のプロとして、最も不可解で仕方のない部分であった。

 

――適任。隊長より、私のほうがずっと。

 

 こう言った任務は、昔からずっと自分に任されてきた。

 自分が得意であったからであり、同時に自身を飾り付けない隊長が不得手な分野であったからだ。

 これを隊長に命令した奴がどういった考えの元に判断したのかは分からないが、そいつはとんでもない愚物であるとしかトーチには言いようが無い。

 しかし、そいつが愚物ではなく、自分の理解を越える思惑を抱いていたとしたら……?

 

――……不足。まだ。

 

 真実を暴きだすには、ピースが足りない。

 この学園に散らばっているモノも、あの組織に隠されているのであろうモノも、まるで足りない。

 この手は、隊長に届かない。

 簡単に行くとは思っていなかったが、それでも焦り憤る頭に詰まっていくガーベッジに歯噛みを堪え切れず、負荷限界を越えた奥歯が、

 

――通信……?

 

 血を吹き出す寸での所で、ISに直接送られてきた通信が、トーチの意識を現実へと引き戻した。

 

――……なんですか。

 

 当然、潜入中の通信など言語道断であるが、IS同士の通信なら心中で返すだけでも出来るため、送ってきた相手へと応答を返すトーチ。

 どうせ言ってくることは分かりきっていたため、心底鬱陶しそうなイントネーションを隠さずに出たのが余計に気に食わなかったのか、ヒステリックな金切り声が脳内へ反響していく。

 

――別に。言われた仕込みはやった。後はどこで潜伏してようと私の判断。

 

 やはり想像通り、こめかみに青筋立てているのが丸分かりの声で返される。

 

――そう。だから別にセシリア・オルコットと接触していても、バレなければ一緒。仕込みが終わればずっと隠れている必要性は、必ずしもない。

 

 それは命令違反だとガミガミ意識を叩かれるが、やはりトーチに反省の色はない。

 お前にとっては『これから』が本番であっても、こちらにとってはキルスティン隊長のこと以外はどうでもいいのだ。

 ついでに組織の任務も果たしてやっているのだから、後はもう好きにすればいい。

 ここから先は何があっても指示通りに動いて貰うと吠える相手へと、最後に、

 

――了解。リーダー。

 

 トーチは一ミリも心が籠っていない一声を送り、通信を閉じた。

 言われるまでも無い。出来れば朴月姫燐本人に接触したかったが、それが望めそうにない以上は無理をするつもりはなかった。

 あとは時間まで、ずっと『ここ』に潜伏していればいい。

 やっと一息つけると、心中でついた溜め息は、

 

 

「……そこに誰か居るのか?」

 

 

 一瞬で引っ込み、代わりに驚愕と戦慄がトーチを襲った。

 脊髄を駆け巡る対処法。

 声の質、声色、距離、周囲の状況、確認、認識――候補抜擢。

 暗殺、却下。逃走、不可。無視、不可能。

 以上を総合し――行動、決定。

 

「あ、あはは……バレちゃいました?」

 

 もうこれ以上『行動開始』まで、ここで時間を潰すことはできない。

 どこか観念したように、冴えない少女を演じ、トーチは隠れていた雑木林の草むらから、『彼』の前へと姿を現した。

 

「うおっ、本当に居た」

 

 なんだその自分が一番驚いたと言わんばかりの反応はと、内心で毒づきながらも目を丸くする上半身裸の男へと向き直る。

 

――織斑、一夏。

 

 こいつもまた、あの時の第三アリーナに居て、一度は暗殺しようと目論んだこともある人間だ。

 あの時は後先を考えるつもりが無かったためどうでも良かったが、今は事情が違う。

この学園で出会ってはいけない人間のトップ3に入る、危険人物だ。

 

「あ、俺、織斑一夏って言うんだけど……って知ってるよな。えーっと、君はどうしてこんな雑木林の中に?」

 

 いくらでも身柄を欲しがる人間が居ながらも、単身で人気のない場所に来て、誰とも知れない人間へと無警戒に近付いてくるコイツ自体は、そう言うほどの危険性はない。

 しかし、コイツに迂闊に接触することで広がるであろう、世界すら揺るがす波紋の影響は別だ。

 今、この学園の戦力と事を構えるわけにはいかない以上、万が一にでも騒がれてしまえば――間違いなく、詰む。

 セシリアの時よりも遥かに神経を尖らせつつ、トーチは己を設定した人格へと切り替える。

 

「あはは、実は私、故郷が街より自然が多い所で。ちょっと気持ちがワーってなった時とか、こういう緑に囲まれると落ち着くっていうか」

「ああ、分かる分かる! 俺も学園のいかにも最新設備って雰囲気よりも、こういう自然に囲まれた所の方が好きなんだよ、ったた……」

 

 屈託のない笑顔を途中でしかめながら、一夏は手持ちの鞄の中から、湿布を取りだして打身を負った個所へと張り付けていく。

 

「その打撲、どうしたんですか?」

「あ、いや大したことじゃないんだけど……ちょっと、さっきまで先輩に生身で稽古をつけてて貰っててさ」

 

 トーチが知るよしも無かったが、一夏はこの休日を利用して、先程まで道場で、さっそく楯無に約束していた修業をつけて貰っていたのだ。

 

「稽古……にしては、中々激しかったようですが」

 

 だが、トーチの目をしても稽古後というよりは、実戦後と言った方がしっくり来るほどに打撲跡が多く、率直に言って手加減の兆しが見えなかったが、

 

「あー、うん……かなり、容赦なかったよ」

 

 稽古が始まってから、常に楯無は満面の笑み――まるで報復の時は今と言わんばかりの――を崩さず、大人げなく畳に投げ飛ばされまくった帰結として、ボロボロになった身体へと一夏は苦笑いと共に湿布を張っていく。

 

「でも、これも俺が望んだことだから構わないし、その時に早速助言を貰ったんだけど、『観』を養いなさいって言われてさ」

「カン……? 直感のことですか」

 

 言わんとしていることがイマイチ分からず小首を傾げる少女に、一夏はどう説明すれば分かりやすいかと腕を組んで、

 

「違う違う、観察の観、だな」

「観察力……のことですか」

「ああ、それで合ってると思うぜ」

 

 古来より、武道は『観』の概念を重視する傾向がある。

 常人には見えぬモノが観えている――つまりは、故事にあるような『一を聞いて十を知る』武人になれという理念だ。

 実戦では、一にすら満たない刹那に判断力を試される局面が、幾度も襲いかかる。

しかし、たとえ一瞬であろうと、観えているモノが多ければ多いほど、選択肢はいくらでも足元を照らし始めるものだ。

 打ってくる手が多い人物と、少ない人物。

 相対した時に脅威なのは、とうぜん引き出しの多い前者だ。

 

「だから、俺も早速やってみようって、いつもは人が来ないから筋トレに使ってるココでやってみたんだけれど」

「そ、そうなんですねー、だから私のことも」

「ああ、なんか何時もと、ちょっとだけ違う気がしてさ」

 

 口では気の抜けた返事を返しながらも――トーチの心中は、この学園で行動を開始して以来、最も凍りついていた。

 

――なんだ。それは。

 

 どれほど鬱憤を心中に抱えていようと、心身に刻まれて久しい隠密の技が鈍ることは無い。夜までここで隠れきるつもりで、通信中も一切の油断なく隠れていた――間違いない。それは間違いないと言うのに。

 

――真逆。そんな「やってみよう」で私の潜伏を見破ったというのか。

 

 訂正せざるを得ない。

 この男自身も、充分すぎるほどに危険人物であると。

 

「いやまぁ、女の子が『ちょっと隠れてた』のを見きった所で、何なんだって感じなんだけどな――っと?」

 

 バッグの中から鳴りだしたコールに、一夏は急いで上着を着て、携帯を中から取りだす。

 プライドには激しくカツンと来てはいたが、今すぐこの場から離れなければならないトーチにとっては僥倖。

 今のうちに別の待機ポイントへと退避するため、トーチはじりじりと完全にこっちから注意が逸れた一夏から距離を取り、タイミングを見計らって浮いた足が、

 

「もしも――どうしたんだ、キリ!?」

 

 完全に、地へと縫いつけられた。

 

「おい! 助けてって、今どこに居るんだよ!? 今日、確か皆と出掛けてたよな!? オイ!?」

 

 助けて。キリが。朴月姫燐が。キルスティン隊長が。

 受話器に向けられた織斑一夏が発した情報は、トーチの思考へと着火し、瞬く間に理性を焼き払った。

 

「織斑一夏ッ!!! どういうことだ! 状況はどうなってるッ!?」

「ええっ!? いや、それは俺が聞きた」

「代われッ! 私が把握した方が早い、寄こせッ!」

「いっ、いやいやいや!」

 

 突然、先程までの緩い雰囲気とは一転した鬼気迫る勢いでしがみ付かれ、携帯を奪われそうになり、当惑するしかない一夏。

 しかし――こちらも『これだけは』誰にも譲ってやる訳にはいかないと何かが触れた瞬間、『それ』は覚悟となって、身体の芯まで貫くように力を与えていった。

 

「ッ――安心しろッ! キリは俺が護るッ!」

「なッ……!?」

 

 それは、護ると誓った協力者へと。

 そして、もう一人の見知らぬ少女へと宣誓する言霊だった。

 私が気迫で負けた――トーチが、自ら無意識に一夏から手を放していた事実に気付くのは、もう少し後の事になる。

 

「だから、今……駅前のカラオケのトイレだな! 分かっ――えっ?」

 

 迷わず白式を展開しようとしていた一夏の張り詰めた肩から、ふっ、と力が抜けた。

 まるで、押し込んだ邸宅の住人に、のほほんとお茶と茶菓子を差し出されてしまった時のように拍子が抜け、

 

「あっ、のほほんさんに箒? えっ、心配いらないって……は? 罰ゲーム?」

 

 なんとなく、「あー、また無謀な賭けに負けたんだな……」と、状況を察し始めた一夏は、

 

「……アッハイ。じゃ、店にあまり迷惑かけないようにな……」

 

 亡骸に向けるように片手で合掌し、そのまま通話を切った。

 本人には言い辛いが、カッコつけて不必要にリスクを背負う癖は治して欲しいなーとか、今度おいしい物つくって愚痴きいてあげようかなーとか、オカンめいた思考が過る一夏であるが、

 

「……結局。どう、なった……?」

「え、ああ、心配はいらないと思うぞ。いつもの悪ふざけ? みたいなもんだし」

 

 口ではそう言ったが正直、今まで聞いた中で二番目に声が震えていたし、最後まで聞こえていた「お前ら全員剥きコラ作って一夏に押し付けてやるからなぁぁぁ!!!」とか斬新な脅し文句に自分も巻き込まれているっぽいのが、いくばか気になったが、多分大丈夫だろう、多分。

 と、この部分は沈黙は金だと黙っていると、眼前の少女は深々と安堵のため息をつき、とりあえずは落ち着いたようであった。

 なら、今が丁度いいだろうと一夏はジャージの乱れを整えながら、

 

「で、君は、誰……っていうか、キリの知り合い? 初対面だよな俺達?」

「………………」

 

 当然の疑問を口にした。

 本当は初対面ではないどころか、殺されかけたことすらある間柄なのだが、あの時はずっと顔を隠すISを展開していたのと、声も――先程、取り乱した時以外は――判別し辛いように作っていたため、気付けないのも無理ではない。

 あそこまで意味深に喰いかかってしまった以上、はい初対面で貴方と私は乾いた街角で運命的にすれ違った事すらありません。では通用しないだろう。

 しかし、

 

「何故」

「えっ?」

「護る……? 朴月、姫燐を……お前が……?」

 

 そんな必然的コミュニケーションの道筋すら未だに見えていない程、今のトーチは混乱の極みにあった。

 質問に質問で返される形ではあるが、何故――と問われてしまえば、一夏は答えない訳にはいかない。

 今まさに、自分が全てを削って磨き続けている知識、身体、能力――その全ての『理由』を口ごもっているようでは、彼女を含めた何もかもを無意味に貶めるように思えるからだ。

 

「ああ、それが俺の夢なんだ。護ってやりたいんだよ、アイツを」

「……何故。だ?」

 

 だが、少女は納得しかねるといった様子で、より一層、一夏を強く睨みつけるばかりであった。

 

「あ、あれ?」

 

 自分としては、この上なく簡潔に伝えたつもりだったのだが、どうにも伝わっていないような反応に小首を傾げるしかなく、

 

「何故。と、私は聞いている……」

「だ、だから俺はキリを護るのが夢」

「朴月姫燐を護る理由じゃない! 私は、なぜ朴月姫燐を護りたいと思ったかを聞いているんだ……!」

 

 何故、姫燐をこんなにも護りたいのか。

 決して避けて通ることは許さないと言わんばかりに、また、この宿題が一夏の前に立ちふさがった。

 

「な、なんで俺が、キリを護りたいって思ったかって……」

 

 自覚したのは、あの日、襲撃者達がやってきた屋上。

 今でも鮮明に思い出せる、ボロボロになりながらも強がるキリを、涙を流すキリを、壊れそうなキリを、これ以上、誰にも傷つけさせず、誰よりも護り抜きたいと抱き締めた夕暮れの景色。

 そこに理由があったとするならば、自分をずっと護ってくれていた千冬姉のように、護りたいと夢見ていた『誰か』が『キリ』に置き換わってしまったから――

 

――いや……違う、それは、絶対に違うよな。

 

 こんな小難しいことなんて、あの時は考えていなかった。

 胸を焦がし、揺らし、震えさせるこの覚悟を突き動かしている理由は、きっとこんな小賢しい理屈ではなく――もっと簡単な、シンプルな事なんじゃないかと思えて仕方が無い。

 正解が指をすり抜けていく感覚がしていても、何かは口にしなければという葛藤から、ポツポツと声が絞り出されていく。

 

「俺は……キリの笑顔を護りたくて……キリに泣いてほしく無くて……ずっとずっと、傍に居てやりたいって思って……」

「了解。分かった、もう理解できた、いい加減にしろ」

 

 だが、彼の人となりを知らないトーチからしてみれば、そんな唐変木の苦悩など、分かりきった解答をひたすら遠回しに喋っているようにしか映らず、じれったさを隠そうともせずに、

 

 

「お前。ようは朴月姫燐の事が好きなんだな。一人の女として」

 

 

 ド直球に、結論を叩きつけた。

 

「…………………………えっ? 俺が……キリを、好き?」

 

 好き。俺が、キリを、友ではなく、協力者でもなく、一人の……女性、として。

 

 今日はこんなにも快晴であったが、夜からは天気が崩れると予報されている。

 風雲急を告げる風の中。

 大事な、大切な、大変な答えが、とうとう男の胸中で、確かな形を作ろうとしていた。




 ISABの今回のイベント、皆がみんなの身体つきについて意識するとか最高かよ……ポイント抑え過ぎだろ……。

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