IS~インフィニット・ストラトス~ ―I AM…ALL OF ME…― 作:ヱ子駈 ヒウ
六月も半ば。ジメジメとした気候だとしても、湖を中心に作られた、IS学園庭園内かけられたこの橋の上は、ひんやりとした冷風が頬を撫でる人気スポットだ。
しかし空模様は、夜からは強い雨が降るだろうと言っていた天気予報通り、分厚い雲が立ち込め、煌びやかな星々を覆い隠し始めている。
となれば、こんな時に外で風に当たりにくる人間は酔狂と呼ぶ他なく、確かに織斑一夏の胸中は、酔いしれ狂ってしまいそうであった。
首から提げた片翼のネックレスを胸で握りしめ、手摺にもたれ掛かる。
街灯が照らすその井出達は、どこか触れがたい、神秘的な冷たさが宿っていたが、
「キリ……」
唇から続いていくその内側には、この瞬間にも溢れんばかりの愛情の熱が沸き立っていた。
「俺が好きで……アイツを愛していた、か……」
かといって、頭も逆上せ上っているかと問われれば違い、
「ああ、ようやく納得できたよ……全部さ」
目の前に広がっていた複雑な迷路が、一瞬で全て吹き飛んでしまったかのように、思考はどこまでもクリアに澄み渡っていた。
無意識に浮かび上がる笑み。
それは、どうして今までこんな簡単で大切なことに気づけなかったのかという自嘲が多分に含まれており、
「いや、ほんと笑うしかないんですよ――楯無さん」
「あら……?」
振り向いて、こちらに近づいていた人影に、思わず同意を求めてしまう。
完全に不意を打たれた形で声をかけられた楯無は、目を丸くし、
「お姉さん、割と気配を消してたつもりだったんだけれど」
「今日の修行の成果……って奴ですかね。観えた気がしたんです」
見るのではなく、『観る』。
水面に刺したわずかな影を観ていた一夏は、誰かが自分に近づいてきていることを、事前に察知出来ていた。
それが楯無であると分かった訳は――なんとなく、と言葉に出来なかったので黙っておくが。
「ふぅ……あんな程度のアドバイスだけで気を掴まれちゃうだなんて」
一夏の成果を、呆れるでもなく、褒めるでもなく、
「今日はお姉さん、ほんとダメね……」
今はそんな余裕もないと、楯無は一夏の隣に立って、手摺に深いため息を吹きかけた。
「楯無さん……」
「さっきはごめんね、一夏くん……正直、助かったわ」
それを言いに追いかけて来たのだろうかと一瞬脳裏を過るが、どうやら違うようだ。
俺とはまた別の理由で、楯無さんも頭を冷やしに来たのだと。
鈍い一夏ですら察せるほど、今の楯無からは、いつもの飄々とした雰囲気や、只者ではないと語らずとも語り掛けてくるような覇気が、まるで感じられなかった。
「さっきって、キリのことですよね」
「ええ……」
少し、言い淀むような、こんな事を聞くのもどうかと躊躇うような、僅かな間。
変なところで会話が途切れようとも、続きを催促せずに待ってくれる一夏を、横目でもう一度だけ楯無は見やって、
「一夏くんにとってね……織斑先生って、どんなお姉さん?」
もう一つの名の心金を、ほんのわずか、さらけ出した。
「俺にとっての千冬姉、ですか?」
会話の内容がガラッと変わっても、一夏は嫌な顔一つせずに真剣に考えこみ、
「やっぱり非の打ち所がない、理想のお姉さん?」
「いえ、それはまったく」
楯無の問を、バッサリと叩っ斬った。
「洗濯物はいつも脱ぎ散らかしてますし、洗い物はたまにしかしてくれないですし、掃除すると大体なにか壊しますし、何度湯冷めするって言っても風呂上りはパンツとタオルでふら付きますし、愛好してるビールを買い忘れてると自分のせいなのに途端に不機嫌になりますし、理想かどうかって言われると大分違いますね」
「えっ……えっ、ちょっ」
「それに本当に偶になんですけど、学園でもシャツがちょっとシワ寄ってる時がありまして、アレ絶対にクリーニングとか洗濯に出さずに前の日着てた奴をそのまま」
「ストップ! 一夏くんストォォップ!」
知った者は例外なく消されそうな、この世で最も危険な最高機密をマシンガンで語り始めた一夏の口を大慌てで戒め、楯無はまるで肉食獣の巣に放り込まれた時のような切迫さで周囲を見渡し……、
「一夏くんごめんなさいね。質問が悪かったわね、聞き直すわね、お願いだからこれ以上言わないでね」
「あっ、はい」
悪意はないのが分かっていても、心臓に悪すぎる一挙手一投足に、久方ぶりに止まらない冷や汗をぬぐいながら、もう一度仕切りなおす。
「一夏くんは、織斑先生のこと、お姉さんとしてどう思ってる?」
「姉として、ですか」
それこそ、一夏には迷う必要などありはしない。
先ほど散々こき下ろしたが、それでもやはり彼にとって織斑千冬は、
「大切な家族、ですね。ちょっとズボラでも、やっぱりこんなに胸を張って自慢できる姉さんは、千冬姉だけだって思いますよ」
「そう……本当に織斑先生が大好きなのね、一夏くんは」
微笑ましさを宿した柔和な笑みが浮かび……すぐに、沈み込み、
「こんなにも弟さんに好かれて……私とは、大違い」
どこか観念したような様子で、抱えてきた、抱え込むのが辛くなってしまった心情を吐露した。
「やっぱり、私ってお姉さんとして、ちょっとダメなのかも」
「前に言ってた、簪さんの事ですか?」
「ええ、少し前も、ヒメちゃんとまた喧嘩しちゃったらしいのよ、簪ちゃん」
「えっ……キリが簪さんと?」
昔はいつも虐められていたという事は聞いていたが、今の怒りはするが喧嘩は滅多にしない姫燐が、未だにそこまで突っ掛かる簪という少女に、どうしてもいい印象は抱けない一夏であったが、
「あっ、勘違いしないであげてね。簪ちゃんはね、とってもいい子なの」
「そうなんですか?」
「そうなのよぉ。ちょっとだけ引っ込み思案だけれど、愛らしいし、私の十倍ぐらい真面目だし、辛い鍛錬にだって絶対に根を上げないガッツもあるし、好きな先生にはファンレターを欠かさず毎号送るし、握手会にはいっつも三時間前には並ぶし、ブログだって毎週日曜日はちゃんと更新してるのよ?」
「え、あ、それはすごい? です、ね」
後半の方はなにが凄いのかイマイチ分からなかったし、不仲であるはずなのにどうしてそんなにプライベートに詳しいんだろうと疑問も過ったが、簪さんが彼女にそこまで愛情を注がれる存在であるのは間違いないだろうと一夏は頷いておく。
「責められるなら、それは私。私がもっと、しっかりしないといけなかったのに……」
「楯無さん……」
楯無と、簪と、姫燐の関係性。
既に一夏は、健全とは言えなかった彼女たちの過去を、初めて会った時に教えてもらっていた。
「簪ちゃんから逃げて、ヒメちゃんに甘えて……大切にしていたつもりだったのに、そのヒメちゃんにまでとうとう嫌われちゃって……」
一度落ちた石が、歯止めなく転がっていくしかないように、陥った自己嫌悪はどこまでも止まることが無く、
「ほんっと……ダメダメねっ、お姉さん失格だわ、私」
ケラケラと、救いようのない無能を笑い飛ばすように、楯無はおどけてみせた。
そして、次の瞬間には、またいつも通りに背筋を伸ばして、
「……聞いてくれてありがと、一夏くん。吐き出したら……ちょっとスッキリしちゃったわ、もう大丈夫」
お姉さんとして出来損ないであろうとも、どこまでも『楯無』を全うするために、見えざる糸で身体を動かす人形師は、一夏に背中を向けて歩き始めた。
その後ろ姿は、空ろで、悲しく、傷だらけで、それでいながらも立ち止まる選択肢が許されない。彼女に賭された宿命の重さを表しているようで、
「待ってください、楯無さん」
だから、このまま放っておける訳が無かったのだ。
この、織斑一夏という心優しい青年には、特に。
「一夏、くん?」
後ろ手を掴まれて楯無は振り返るが、一夏が触れたいのは、ここではない。
楯無の裏側に潜む、かた姉に、一夏はどうしても言ってやらねばならない言葉があった。
「俺は……理想のお姉さんって何なのか、妹さんとどうやって接すればいいかなんて、さっぱり分かりません」
誰かの姉でもなく、妹も居ない自分には、きっと彼女が納得できる答えなんて用意できない。
しかし、これは、これだけは間違いなく一夏は断言してやることができる。
「でも、キリは、絶対に楯無さんの――姉さんのことを嫌いになんてなっていません」
「えっ……?」
「言わせてください、これだけは、絶対です」
同じく姉を持つ弟として、彼女をずっと見てきた存在として、家族を心から愛する男として、絶対の自信をもって言い切れる。
「で、でも私、ヒメちゃんの言うこと聞いてあげなくて、喧嘩しちゃって……」
「そもそも弟や妹っていうのは、普通こんなもんです。俺だって千冬姉と口喧嘩ぐらいたまにしますし、俺のダチ……兄貴なんですが、そいつに至ってはしょっちゅう妹さんに罵倒されながら蹴り飛ばされてますよ」
「け、蹴り飛ばされてるの!? 妹さんに!?」
「はい、割と日常的に」
簪や姫燐にしょっちゅう蹴り飛ばされる自分を一瞬イメージし――まるで実感が湧かない、想像もつかないような光景が繰り広げられる家庭の存在に、カルチャーショックが止まらない楯無。
「でも、そんな風に喧嘩しても、やっぱり最後には嫌いにならずに仲直りしてるんです」
「それは、どうして?」
「ま、まぁ、口ではうまく説明できないんですけど……そうしなきゃって、みんな自然に思うんですよ」
と、一夏は後ろを振り向いて、
「……なぁ、そうだろ? キリ」
「えっ……?」
着の身着のままなバニースーツのまま、こちらへと小恥ずかしそうな足取りで近づいてきていた赤い髪の少女へと、語りかけた。
「……言うんじゃねぇよ、バー……じゃなくて」
コソコソと近づいていたのがバレてバツが悪そうに、一夏も、楯無も直視しようとはせず――しかし足取りは迷いなく、真っ直ぐに近づいてきて、
「その……二人とも……ごめん、なさい」
ボソッと、そうしなければならないことを、姫燐は口にした。
「俺はもういいよ。ほら、だから楯無さんに」
「わ、分かってるって……」
改めて姫燐は、一夏に背中を押される形で、まだ状況を掴み切れていない楯無の前に立って、
「オレ……その、自分のやってること、重要な事だって思ってたから、それをかた姉に否定されて……つい、ムキになっちゃって……かた姉が心配してくれてるの、分かってたのに」
ぽつり、ぽつりと、冷静さを取り戻した頭で反省し、
「カンのことは、オレも悪いのに……ほんと、言い過ぎた。ごめん、かた姉」
今度は、真っ直ぐに楯無を見て、許してほしいと呟いた。
「………………」
その瞳が、楯無の中で過去と重なる。
四年前のお姫様と、さらに昔、本当に昔のまだ――目の前に居てくれた頃の、簪の瞳。
やり直そうと、一緒に居ようと、家族なのだからと、確かな愛が繋いでくれていた、あまりにも尊く、遠い、思い出の瞳。
戻れるのだろうか。戻る資格があるのだろうか。
建前と臆病と逃避の沼に旋毛まで浸かっておきながら、妹たちの前で、厚顔にもまだお姉さんを名乗れる資格があるのだろうか。
答えは――
「楯無さん」
既に、彼が示してくれていたではないか。
――ええ……そうね、そういう事、なのよね。
彼がうまく口に出来なかった解答を、楯無の心は既に悟り始めていた。
きっと、妹たちが求めているのは、完璧なお姉さんじゃないのだと。
臆病でも、ズボラでも、足蹴にされようとも、ただ求められているのは――確かな絆と、愛であり、そこに完璧さを気取る必要など無いのだと。
ならば、こうして迷うことすら過ちであるならば、
「ヒメちゃんっ!」
「わぶっ!?」
楯無は姫燐の体を抱き寄せ――強く、強引に、不格好に抱きしめた。
「ごめんなさい、私こそごめんなさいねぇ! ヒメちゃん、ヒメちゃんヒメちゃん!」
「ぢょ、かた姉痛い痛い痛いっ!」
更識十七代目頭首のガチなハグは粗雑で、割と手加減がなく、もはやプロレス技めいた締め技と化していたが、
「分かった、分かったから! な、お互いこの件はもう水にだだだだだ!」
「ええ、ええ! お姉さんも、もうぜんっぜん気にしてない! ずっと大好きよ、ヒメちゃぁぁん!」
消えることのない絆は、確かに伝わっていると、一夏には見えた。
「一件落着……で、いいのか、これ」
割と本気で痛がっているのに気づいてなさそうな楯無の様子に、これはこれで別の喧嘩に発展しそうな予感は感じているが……まぁきっと、この姉妹ならもう大丈夫だろうと、一夏は微笑ましさを感じながら、やはり逆上した姫燐を宥めることにした。
●〇●
慣れると意外とこの季節、胸元が涼しくていいかもしれない。
などと、自分でも若干アホなことを考えている自覚はありながらも、鈴は未だバニースーツのまま一夏の部屋で、出された緑茶をすすっていた。
ちゃぶ台に頬杖を突き、どうでもいい内容のテレビを見ながら湯飲みをあおる姿は、バニースーツの魅力が完全に消えるほどにリアリティある中年めいていたが、不思議とそれが醜いと思えないのは、凰鈴音の持つ稀有で世俗的な魅力であると言える。
「な、なぁ……鈴」
「なによ」
一方箒は、胡坐をかいている鈴とは逆にきちっと正座を崩さず、緊張したような面持ちでせわしなく目を泳がし、同様に未だ着たままのバニースーツにむっちりと押し込められたままのワガママボディが窮屈で息苦しくて仕方ないといった様子であり、
「い、いつまで、私たちはこの姿で一夏の部屋に居るんだ……?」
控えめに言っても、アレなお店の一室で客待ちをしているようにしか見えなかった。
もう色んな意味で目に毒な衣装の箒とは悲しいほどに対照的に、同じデザインでも部屋着か何か程度しか思えなくなってくる鈴は、不快感を隠そうともせずお茶を一気飲みし、
「知らないわよ。議長に聞きなさい議長に」
「ぎ、議長は一夏と更識会長の後を追って出ていったまま、戻ってこないではないか……!」
今回の作戦を強行した議長こと姫燐は、すでに現場を捨てて別行動したまま音信不通。
残された実行部隊たちは、それぞれの思惑によって命令に背くことも出来ず、この場に立ち往生するしかなかったのだ。
「あー、最悪。一夏の性癖なんて、確かめるまでもなかったじゃないやっぱり」
鈴は、もはや絶望的な戦局を改めて見せつけられ若干投げやりになっており、
「そ、そう、だな。いいいい一夏の奴、姫燐が言った通り、こういう服がすす好きなのだな……」
箒としても、あそこまではいかなくとも、好きな男に今の頑張っている自分を褒めて欲しいという、いじらしい乙女心から、まだ着替えたくないとこの場に留まる選択をしていた。
だが、鈴からしてみれば、その無知故のいじらしさは、同じぐらいに……痛ましい。
「……箒、ちょっといい」
「な、なんだ、急に改まって」
だらけきっていた態度を一転させ、真っ直ぐに自分を見つめてくる鈴。
剣呑な何かを感じ取って、箒は背筋を今まで以上に張り詰める。
「あんたさぁ、今もほんとに一夏のことが好きなの?」
「あ、当たり前だ! 急になんなのだ、いったい」
「じゃあさ、一夏が姫燐の奴とあんなにイチャイチャしてても、どうとも思わないわけ?」
「む……それは……」
どうとも思わないかと尋ねられた本心は、そんな訳がないと叫ぶ。
姫燐が居る場所が、彼の一番近くが、自分だったらどれほど喜ばしく幸福か。
遠く眺めているだけなのが、どれほど悔しく惨めかなどと、言われなくても分かっている。
「正直、不思議でね。少し前は一夏とちょっといい雰囲気になってたら、問答無用で実力行使に出てたじゃない。どうしちゃったのよアンタ?」
だから嫉妬を燃やし、その仄暗い炎が盛るまま、狂悦を伴う刃となって一夏や姫燐を傷つけるのは――
「……違う、と思ったんだ」
「何がよ」
なにが正しくて間違いなのか。その判断を直感的かつ瞬時につけられる人間は確かに存在し、箒も同じく、細かい建前や理屈で正否を問いかけるより先に、既に確かな答えを本能的な感性が用意してあるタイプであった。
「私も……姫燐と共に居るのは好きだからな……一夏をそれで責めるのは、なにか違うと思ったんだ」
こうして口にしてみて――箒は、我ながら驚きすら感じてしまうほどに、少し前は一夏以外のことを何も考えていなかったと自嘲する。
幼少期に一夏と別れ、転校を繰り返し、篠ノ之の名に指差され……他人に怯えるだけの毎日が生み出した、厳めしさと頑なさだけの、張子の虎。
ありのままの篠ノ之箒を見てくれるのは彼しか居ないんだと決めつけた、空虚なコケ脅し。
そんなくだらない思い込みごと、あっさりと自分を創り変えてくれた、可愛らしい魔法使いが居る。
魔法、そう、まるで魔法のように。
友達、クラスメイト、剣道部員。
彼女が開いてくれた道の先は、どこまでも鮮やかで、華やかで、暖かで。
空っぽだった本当の自分なんて、どうでもよくなるほどに満たされていて……。
「む、むろん、一夏のことは今でも好きだ。だが……姫燐は違うだろう?」
「まぁ、そりゃそうなんだけど……レズだし、アイツ」
「そうだな、れず? だ」
まだ慣れない単語であるが、意味は忘れるはずがない。
同性愛者。女性なのに、女性が恋愛対象として好きな人種。
彼女からそれをカミングアウトされた時、箒は驚くよりも先に、友を理解できたと嬉しく思うより先に、何よりも――深い安堵を、覚えていたのだから。
「だったら、なにも問題はない。あの二人が付き合うことは絶対にないんだ。そう思えば、犬のじゃれ合いみたいなもので、なかなか愛らしいものだろう?」
あれも写真に収めておくべきだったなと一人頷いて、
「だから、変わらないさ。これからも私たちは――なにも」
鈴に向かって、そう、箒は言い切った。
「…………そ、アンタがそれでいいなら、私は何にも言わないけどね」
それっきり言い捨てて。
もう興味は失せたと言わんばかりに、鈴はまた湯飲みへと手を伸ばし、テレビに向けてすすり始めた。
(大丈夫……)
……この世には、直感的にモノの区別を付けられる人間がいる。
(変わっていないんだ、私以外は、何も)
箒もそういった分類の人間であり、自分の願いからは、致命的に歪な何かを感じ取っていたが……彼女は、それを黙殺することに、決めた。
鈴と話したことで、若干緊張もほぐれ、何よりも単純に喉が渇いたため、箒も淹れてもらったお茶へと口をつけ、
「む、美味いな」
いい意味で意表を突かれた舌が、自然とコメントを残した。
「これはお前が淹れたのでは無かったな、鈴」
「違うわよ、それ淹れたのは」
「二人とも、ごめんね。やっと出来たよ」
奥から聞こえる、このお茶を振舞ってくれた本人の声と、甘く香ばしい焼き菓子の臭いに、箒と鈴は二人して振り向く。
「はい、スコーン。チョコを溶かすのに、ちょっと時間かかっちゃって」
「ほう、顔文字か」
「なかなか凝ったことするじゃない」
「えへへ、プレーンじゃちょっと味気ないかなって」
シャルが持ってきたスコーンには、スマイルマークがチョコで可愛らしく描かれており、見た目としても味としてもなかなか洒落が効いたアクセントとなっている。
早速、鈴が一つかじってみて、
「……これ、まさかアンタの手作り?」
「うん、そうなんだ。昼にちょっと食べたくなったから作ってみたんだけれど……ごめんね、変な味した?」
形が不揃いであったことや、鈴も慣れ親しんだ一般的な薄力粉やマーガリンの味がしたための推測であったが、
「いやいや、普通に美味しいわよ? ちょっと驚いただけ」
「良かった。一夏たちの分は別にしてあるから、どんどん食べてね」
「む、確かに美味いが、いいのか? なかなか手間がかかっていそうだが」
「実は案外そうでもないんだよ? 予熱が必要だから、オーブンは必要だけどそこは調理室でちょっと貸してもらってね」
「ふむ、ふむ」
と、つらつら淀みなく、スコーンの簡単な作り方を解説し始めるシャルルに、二人とも思わず興味津々と聞き入ってしまい、
「チョコペンだって、小さめのビニール袋があれば必要ないんだ。コツはちょっといるけどね」
「なるほど、なるほど……」
「普通に参考になったわ。普段スイーツは作らないんだけど、そんなに簡単なら今度アタシもやってみようかしら」
「なにか分からないことがあったら、いつでも聞いて。僕も時間があったら手伝うから。あ、お茶のおかわりも持ってくるよ、またグリーンティーでいいよね?」
「へっ? あ、そのぐらい自分でや……行っちゃった」
二人の湯飲みが空であることに気づいたシャルルは、そそくさとまた洗い場へと戻っていった。
ただ私情で部屋に居座っているだけの人間に、この至れり尽くせりっぷり。
どことなく背中がむず痒くなってきたバニーガール達は、互いに小声で緊急円卓会議を開始する。
(ね、ねぇ……アタシ達、シャルルに何かした……?)
(い、いや、別段心当たりはないが……)
どこかの貴族ことフランス代表候補なら気にもかけなかっただろうが、こういった献身に慣れ親しみが皆無である一般ピープルな二人からすれば、彼の言動に何か裏を勘ぐってしまうのは無理らしからぬことであった。
(じゃあアイツ、なんであんなウッキウキでニッコニコなのよ……正直怖いんだけど)
初めは鈴も、シャルルは男卑女尊な世相に負けるような輩であり、率先した奉仕も男である自らを貶めるが故かと考えもしたが、
(……単に、世話好きなだけではないのか?)
(やっぱり……そうなるわよね。アレ、絶対に素よね)
彼の仕草や立ち振る舞いからは、後ろ暗い媚や卑屈さなどが皆無であり、至極単純に好きなことを好きだからやっている人間特有の、満ち満ちた活力のようなものを二人とも感じ取っていた。
無論、それ自体を悪く思うつもりは無いが、どうにも、それは、
(なんていうか……アイツ、本当にデュノア社の一人息子なの? このスコーンも、人にレシピ教えられるぐらい、めちゃくちゃ作り慣れてるみたいだし。お菓子作りが趣味の御曹司?)
シャルル・デュノアという男が掲げている看板からは、どうにも相応しいと思えない言動ばかりであった。
(むぅ……そういう人間も居る……というには、少し、な)
最近はいくばか人を肯定的に捉えるようになってきた箒もさすがに、ここまで大きな略歴と人柄の食い違いには眉をしかめてしまう。
一度疑念が纏わりついてしまったら、些細な機微にすら目についてしまうのが人間の性であり、
(そもそも……男というのは皆、バニーガールを前にすれば正気を失うモノではないのか? だというのに、シャルルはずいぶんと平静を保っているように思うが)
(それ正直かなり曲解してるけど……そこも、ちょっと変よね)
語れるほど経験豊かな訳でもないし、姫燐の言うことを真に受けている訳でもないが、少なくとも自分たちが、俗な言い方だがエロい恰好をしているぐらいの自負は鈴にもあった。
客観的に見ても、自分はともかく箒は、もう神聖な学び舎に居ていいレベルを遥かにぶっちぎっていると言っても過言ではないだろう。
だというのに、男なら大なり小なり色めき立つはずの衣装に、シャルルが明確に反応したのは最初だけであり、
(……まさか、な)
(まさか、ね)
数々の状況証拠が弾き出してしまった『まさか』が、二人の脳裏で同調し、視線が交錯する。
(もしかして……アタシ達、結構ヤバいことに気づいちゃったんじゃないの)
(いや、しかし……だとしたら、なぜこんなことを?)
(そこも含めて……ヤバいってことよ)
社内や世間ならともかく、この世界有数の重要拠点であるIS学園が、なんの身辺調査や身体検査もなく、彼を受け入れるわけがない。
だというのに、シャルルは当然のように男であると扱われ、学園に通っている。
この、第二の男性操縦者が見つかったという一件。相当に根が深いのかもしれないと、鈴の背筋に嫌な汗が伝う。
(とにかく、この件はすぐにでも千冬さんに相談しましょう。あの人なら、絶対に大丈夫だと思うし)
(ああ、そこは同意するが……)
(なによ)
と、箒の眼差しが、揺れる金髪の背を捉え、
(シャルルを……どうする?)
完全に臨戦態勢に入った呼吸を整えながら、鈴に尋ねた。
(このまま、二人して背を向けるか。ISを装備している人間に)
箒の言わんとしていることを理解した鈴は、迂闊だったと自分も頭を本格的に切り替える。
(どう動いても……一番怖いのは、人質を取られることね。寮ならいくらでも居るし、悪いけど、一度装着されたら即座にダウンを取れるような武装は甲龍には無いわ。あったとしてもそんな威力の火器、ここじゃ使えないし)
箒が残る。鈴が残る。二人して出ていく。
どの選択にも、相応のリスクが伴う。
(今は何もせず、姫燐や一夏たちが帰ってくるのを待つ……というのも一手だが?)
そうなれば、状況は一気に優勢になるが、
(悪いけど、却下。もし更識会長まで帰ってきた場合が不味いわ)
(なぜ会長が戻ってくると不味いのだ)
(……そっか、アンタは普通に知る訳ないわよね。あの人が『更識』だってこと)
鈴は、楯無が公にしていない三つ目の顔こと『更識』の長である事を、第三アリーナ襲撃事件の際、彼女から直々に事情聴取を受けたことが切っ掛けで知っていたのだ。
その際に、更識について簡単な説明を受けはしたが――鈴が抱いた率直な感想は、胡散臭いの一言であった。
今回は特にそうだ。日本政府直属だか対暗部用暗部だか何だか知らないが、結局シャルルの入学を許している所から、この一件にだって、どんなふうに、どれだけ絡んでいるのか分かりやしない。
そんな直感めいた不信感を、どう箒に伝えたものかと思案するが、
(……詳しいことは後で教えてくれ。ようは、信用ならないんだな)
(へぇ……話が早いじゃない)
(余計な問答は不要だろう。お前も、どうせ同じことを考えているだろうからな)
(一応聞いとくわ、どんな?)
鈴の問いかけに、箒は牙を剥く狩人の笑みを浮かべ、
(千冬さんに相談する前に、はぐらかされないよう決定的な証拠が欲しい……だろう?)
鈴も、以心伝心と、まったく同じ笑みで返した。
先手を取って首元のISを奪い、拘束し、服を剥ぎ取って、写真に収める。
もし万が一、これが自分たちの勘違いであったならば、誠心誠意を込めて謝罪しよう。
しかし、勘違いで無かったならば………、
(タイミングは、任せるわ)
(承知した)
自然に、音を立てないように、いつでも飛び出せる姿勢を二人は取る。
これから先、自らに降り掛かる受難のことなど知る由もないシャルは、ただ、日本の六月は虫が多いなぁとか呑気に思いながら、付けっぱなしのテレビに耳を傾けていた……。
●〇●
「楯無さん……実は俺、キリのことが好きなんです」
「あ、うん。それがどうかしたの?」
「……ライクじゃなくて、ラブな意味で」
「ええ、知ってるけど」
本人としては、今度はこちらから相談したいことがあるんですと勿体付けてからの、衝撃のカミングアウトのつもりだったのだが。
今更そんなこと君以外は知ってたよ? みたいな反応をされ、自業自得だがちょっと傷ついた心を隠しながらも、一夏は楯無に改めて相談を持ち掛けていた。
着替えともう一つの理由で、自分の部屋にいったん戻っていったキリが、念のためまだ帰ってこないのを確認しながら、
「その……だから俺、もっとキリのことが知りたいんです。今までより、ずっと」
好きな子のことを誰よりも知りたいと思うのは、実に健全な恋愛感情であり、主旨を理解した楯無は愛用の『純愛』とまた文字が変わっている謎扇子をバサッと開き、
「いいわねぇ、青春よねぇ、甘酸っぱいわねぇ……」
と、微笑ましさと喜ばしさを頬一杯に滲ませ、口元を仰いだ。
「よろしい! 英断よ一夏くん、ヒメちゃんのことでお姉さんが知らない事なんて何もないわ! 生年月日から趣味趣向、スリーサイズに将来の夢まで、なんだって教えてあ・げ・る♪」
「あ、あんまりキリが怒らないレベルでお願いします」
この人のことだから、文字通りなんだって知っていてもおかしくないため、一応レベルの釘だけ刺しておいて、
「あの、とりあえず……『ボナンザ』って何ですか」
さっきから気になってしょうがない単語の意味を、真っ先に尋ねることにした。
「キリ、楯無さんを振り払った後『暑っ苦しいからボナンザでも抱いてろよ、もう!』って、さっき自分の部屋に取りに戻った奴なんですけど……」
「ボナンザはボナンザよ、ボナンザであり、それ以上でもそれ以下でもボナンザはないわ」
「えー……と、つまり……どういうことですか」
と、ボケなのかマジなのかよく分からない真顔のボナンザ解説に、脂汗が止まらない一夏の様子を、心底愉快そうに楯無は眺めながら、
「ふふっ、ワンちゃんのぬいぐるみよ。ほら、この写真にも写っているでしょう?」
指の間から手品のように、昔の写真を取り出した。
写真は以前見せてもらった物と同じ、和風の屋敷を背景に、ピンクと白のフリフリドレスを纏った少女が、寸胴体系な犬のぬいぐるみを抱きながらはにかんでおり、
「あ、コイツがボナンザだったんですね」
「ええ、そう。私が昔、プレゼントしたの、九月一三日のお誕生日おめでとうって」
と、楯無は写真を眺め、
「まだ……大切にしてくれてたのね」
あふれ出る愛おしさを込めて、遠い思い出の頭を、指で優しく撫でた。
「ところで、ボナンザってどういう意」
「昔っから、可愛いものが大好きだったのよヒメちゃんったら。いっつもボナンザをぎゅっとして手放さなくて」
「あ、はい」
結局、なぜ犬のぬいぐるみがボナンザなのかは流されてしまったが、シャルに一目惚れしていた今といい、趣味趣向は昔と変わっていないんだなと一夏も納得する。
「やっぱり、昔から可愛いのが好きだったんですねアイツ。前途は多難、か」
「あら、どうして?」
「俺、どう見ても可愛いなんてタイプとは違うじゃないですか」
「ふふっ、そんなこと気にしちゃうの? いじらしいわねぇ」
お姉さん的には、そういうとこすっごく可愛いと思うけれど。と、フォローされても、やはり目下最大のライバルの前では霞んでしまうように一夏は思い、
「いえ、流石に俺よりシャルの奴のほうが、ずっと可愛いとは思いますから……」
「シャルル君? ……ああ、それなら大丈夫よぉ」
と、楯無は問題ないと一夏を慰め、
「まぁ、ちょっとした事情があるんだけれど、シャルル君なら大丈夫。自信を持ちなさいな」
「え……ちょっとした、事情って……」
シャルが抱える、ちょっとした事情には、一夏も強烈な心当たりがあった。
改めて思えば、鈍感な自分でも気付けてしまったことが、この人にはバレていないと思い上がるなど、到底できるわけがない。
「……その、楯無さん。シャルのこと、なんですけれど」
「一夏くん」
一声。
それは、確かに自分を気遣った、優しさに満ちた声であったが、
「一夏くんは、気にしなくていい事よ。大丈夫だから、ね?」
君はこれ以上踏み込まなくていいと、明確な一線を引いてくれているのだと、一夏は悟った。
「……分かり、ました」
「そう怖い顔しないで、悪いようにはしないから。約束するわ」
そこまで約束された以上、もっと多面的に事態を観測しているであろうこの人に、ただの一学生に過ぎない自分の口から意見することなど、何もないのだろうと押し黙るが、
「その……だから、余計に前途が多難なんですが」
「あら、どうして?」
「だって……俺、キリと互いに夢を叶えるために協力し合うって約束してるんですけど……」
「あらあらあら、ロマンチックじゃない♪ お姉さんに任せてくれれば、今すぐにでも呼び出しから告白、その後の夫婦生活までプロデュースしてみせるけど」
とはいえ、今はそのロマンチックが、何よりもの障害であり、
「あ、いえ……そこまでは。多分、俺が告白してもうまくいかないでしょうし」
「ううん? そんなの、やってみなくちゃ分からないじゃない」
「ははは……だって、そりゃ」
思わずため息と共に零してしまう。
「キリって同性愛者じゃないですか……男の自分じゃ、性転換でもしないとどうにも」
と、半笑いで同意を求めた楯無の表情は、
「……………………どういう、こと、いちか、くん」
そんなことは、そんなことだけは絶対に有り得てはならないと、茫然自失に凍り付いていた。
「ヒメちゃんが……同性って、うそ、嘘よっ……だって、ヒメちゃんはだって!?」
「え、まさか……知らなかったんですか、楯無さん?」
朴月姫燐は同性愛者である。
彼女とある程度親しい人間ならば知っているだろうと思っていた前提を、まさか互いを家族と呼び合う楯無が知らなかったとは夢にも思わず、一夏も狼狽が隠せなかったが、
「ありえない、ありえないわ……! だって、約束したもの! お別れする前に私とっ!」
一夏の両腕に縋りつき、いつ如何なる時でも優雅で気丈な彼女とは思えぬほどに、楯無は取り乱す。
それはまるで、信じていたものに裏切られた、哀れで無力な、一介の女のようで、
「お、落ち着いて、落ち着いてください楯無さ」
「約束、したのよ……ヒメちゃんが、私に……」
約束を。
四年前、別れの日に、確かに二人は約束を交わしたはずだったのだ。
「次に会うときは、絶対に素敵な『王子様』を見つけてくるねって、確かにっ!!!」
「王子、様……だって?」
王子様――つまりは、男。
同性愛者である姫燐が、交わすわけがない約束。
楯無が知るヒメちゃんと、今ここに居る朴月姫燐との、決定的な差異。
それはなぜなのか、それは何を意味しているのか、それは何を壊し崩してしまったのか。
単なる趣向と性癖の変化で済ませてはいけない訳が――すぐ、そこにまで、やってきていた。
――ピリリリリリッ、ピリリリリッーー
聞き慣れない、無機質な携帯端末の着信音。
ハッと我に返った楯無が、抜く手も見せずに端末を取り出し、一夏から背を向け、
「虚、どうしたの」
聞き返すでもなく、質問するでもなく、報告を受け取るような冷淡さでとった電話が、
「虚……? 何が、虚……虚ッ!?」
一方的に、打ち切られる。
胸騒ぎ――なんて、能天気な言葉では、言い表せないほどの悪寒が、一夏の心臓を凍てつかせていく。
「今の、虚さん……ですよね。一体、なにが」
「……虚には今日、学園外での任務を命じていたわ。そこで何かが――っ!?」
再び、楯無の掌で音を鳴らす通信端末。
しかし、着信音が先ほどとは違い、虚ではないことを確信しながらも楯無は通話を操作し、
「私よ」
と、彼女が電話を始めてから――五秒。
「分かったわ、追って」
通話を切り、再び一夏へと向き直った時には、妹との関係性に悩む、ありふれたお姉さんの姿は消え失せており、
「一夏くん。これから更識の名において、あなたに白式の全武装展開、およびこの付近一帯での戦闘行為を許可するわ。全霊を尽くして、自衛に徹しなさい」
代わりに一夏へと命令したのは、私を捨て、全ての害を断つと誓った、切り刻むような冷然を纏う――故国の楯。
「待って……待ってください! 虚さんは」
「布仏虚は『もう居ないもの』と判断する。聞きなさい、一夏くん」
長年連れ添ったであろう友すら、眉一つ動かさずに切り捨てる判断を下し、『更識』は畳んだ扇子で一夏を指し、
「あなたがこれから取る行動の全責任は、更識が負うわ。だから、私がこれから『もう安全だ』と言うまで――手段を選ばないで」
手段を選ぶな。
今まで数多く受けてきた楯無の助言の中でも、それは最も異常でありながら――現状が異常であるならば、俗識を破り捨てた狂気こそが正常であるのだと、心のどこかが有無を言わさず納得させられる。
どこに力を入れればいいのか分からない一夏の掌を、雨粒が叩く。
やがて降るだろうと予報されていた雨。
雨は月明りを覆い、臭いを洗い流し、些細な物音を打ち消す。
天は、意図せずに造り始めていた。
闇が喚き、蠢き、暗躍するのに最適な、悲劇の舞台を――……。
●●●
《番組の途中ですが、フランスで大きな爆発事件がありましたので、緊急のニュースをお伝えします》
シャルが振り向いたのは、耳を傾けていた番組が、唐突に無機質なニュースに切り替わった音であった。
白熱灯が照らす、少しは慣れてきた一夏と自分の部屋。
次に、目に入ったのは、箒と鈴の姿だった。
先ほどまで、二人でお喋りをしながらお茶を飲んでいた二人は、今、
「…………」
「…………」
床に、倒れている。
こちらに向かおうとしていたような様子で倒れたまま――空ろに目を見開き、半開きになった口から涎を垂らし、軽い痙攣を繰り返している。
まるで、観客席にいる自分たちは、静粛にするのがマナーだと言わんばかりに静まり返った二人を他所に、ニュースは続く。
《先ほど、フランスのISに関連したフレームやパーツ、武装の製造、販売などを手掛けている大企業、デュノア社の本社ビルが爆破され、現在も炎上しており消火活動が難航しているとの――》
フランス。デュノア社。爆破。
ただ淡々と読み上げられる、不可解な――頭が、処理することを拒否する文字の羅列達。
さて、ここまでが冒頭のあらすじであると、キャスターは大きめに息を吸い込み、現地から配信されているLIVE映像が映し出される。
《爆発した場所――最上階、社長室――推測されており――》
なんで。そんな、どうして。
いったい、どうして、こんなことになっているの。
どうして、私の居場所が燃えているの。
砕けているの。
崩れ落ちているの。
《――社長である――アルベール・デュノア氏の安否はーー現在不明となっており――》
「父……さん……」
テレビが父の名を読み上げたのが釣り針だったように、引きずり上げられたシャルの思考も動き出し、
「……父さん……父さん、父さんッ!!!」
救いの神へと飛びつくように、シャルは持ち込んだ自分の手荷物から通信機を引っ張り出す。
社へと直接繋がる、緊急時にのみ使うように言い渡された通信端末。
震える指で何度もボタンを押し間違えながらも、ようやく繋いだ回線は――意味を成さないノイズしか、シャルの耳に届けない。
「お、落ち着くんだ私……まだ、分からない。父さんの安否は、まだ」
「死にましたよ、Mr.アルベールは」
代わりに、正確に、正鵠に、残酷に。
聞きなれない声が、通信機を落としたシャルへと宣告する。
「社長室ごとISで吹き飛ばしたんで、Mr.アルベールは間違いなく死にました。彼は大変な傑物でありましたが、所詮は無力な男。あっさりバラバラのグチャグチャになったと、組織の者が確認済みです」
「あ、ぁ、あ……」
知っている。シャルは彼女を知っている。
ふわりとした淡い紫の長髪、赤い淵の眼鏡、そして蠱惑的な華の香水。
しかし、口調と、奥に覗く目つきは、
「ああ、可哀そうなシャルロットちゃん。貴女はこれで、また、天涯孤独になってしまいました」
家畜を見下す、愉悦と本性を隠そうともせず。
組み合わっていく現実は、一夏やセシリアに正体が露見した時など比べ物にならない警鐘を鳴らしているというのに、
「でも、辛いのはここまで。貴女はもう、何もする必要はありません」
身体は、ピクリとも、動かない。
「まぁ、以前仕込ませてもらった神経毒のせいで、何もできないが正解なんですが」
以前、彼女と出会った時に痛みを感じた場所と同じ、指が発している鈍痛以外は、もはや自意識すら曖昧なまま、
「ほら、これも、これからの貴女には不要な物」
待機形態で首に吊るしていた、ラファール・リヴァイブ・カスタムⅡを下げる紐が――シャルル・デュノアを繋ぎ止めていた首輪が、その意味を失ったようにあっさりと引きちぎられ、床に捨てられる。
「ああっ、この時を待ち望んでいました。莫大な遺産で肥え太り、お金でパンパンに膨れ上がった、哀れな哀れなメス豚ちゃん」
疑問など、もう浮かばない。
「とっても無様で、とっても滑稽で、とーってもーー美味しそう」
どれほど酷いことを言われても、どれだけ酷い現実が起こっているのだとしても、確かに辛いなどと思えないまま、内臓をゴッソリと引っこ抜かれたような倒錯のまま、
「正直あんまりにも傑作すぎて、もう少し堪能したいところなのですが、時間も余りないもので――《ファウトレース・ワスピアー》」
破壊者の機甲が展開される光と、その光をぶち破って表れた大量の蟲の羽音だけを残して――今度こそ全てを失った抜け殻の意識は、ここで途絶えた。
シャルロット編、佳境突入です。