行洋が不思議な空間で、ある人物と遭遇する話。
海外生活が多くなった合間に訪れる、日本で穏やかに過ごせる休日。
そういう日には、行洋は大抵、自宅で棋譜並べをして過ごすことが多くなっていた。
もうすぐ昼食だと妻の明子に呼ばれた行洋は、棋譜の本に栞を挟むと盤面の石はそのままにして、立ち上がる。
明子の後ろに続くようにして廊下を歩くうちに、行洋はふと胸に違和感を覚えた。
――息が苦しい。
立ち止まり、片手で胸を押さえるが、息苦しさに続くようにして、今度は胸に痛みがはしる。
壁に手をついて体を支えようとするも、全身から力が抜け、行洋はその場に崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中、傍らで妻が呼んでいるらしいのが辛うじて分かる。その向こうには慌てて駆けつけたらしい息子の姿も。
行洋はそこで意識を手放した――。
○●イキビト●○
気が付けば行洋は、不思議な空間にいた。
辺り一面、白い霧のようなものに包まれ、はっきりと見通すことができない。
けれど、自分の身体を見下ろせば、しっかりと認識することができた。
そして家の中にいたはずなのに、なぜか丁寧に草履まで履いている。
何故こんなところに、と思案し、ふと直前の出来事を思い出した行洋はポツリと呟く。
「……私は死んだのか?」
そういえば、先ほどまで襲われていた、胸の痛みも苦しさも全くない。
顔の前まで腕を持ちあげ、手を握ったり開いたりしてみるが、感覚はあるようでないような、曖昧なものだった。
――これが死ぬということか。
死んだはずだというのに、行洋の内心は穏やかなままだった。
不思議と恐れはなかった。
数年前にも一度、心筋梗塞で生死の淵を彷徨った所為からかもしれない。
生きている以上、死というものは誰にでも避けられない。
死というものは万物に平等に訪れるものだと、その出来事以来、行洋は自然と受け入れていた。
さて、どうしたものかと行洋が考えていると、ふいに霧が晴れた。
開けた視界に飛び込んできたのは、柔らかな日差しが差し込む野原。
そして、それを横切るように横たわる大河。
これが三途の川というものか、と行洋は一人納得した。
であるならば、渡し舟があるはずだ、と川に沿うようにして河原を歩いていくことにする。
しばらく歩くと桟橋らしきものが見えた、しかし舟の姿はない。
どうしたものか、と行洋が立ち止まり思案していると、
「あいにく、舟は出てしまったところですよ」
声をかけられ振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
色白の整った顔立ちに、真っ直ぐで黒く長い髪。
頭には烏帽子を被り、白い狩衣をまとっている。
この不思議な世界ではじめて出会った人物(?)に対し、行洋は少し警戒心を抱きながらも尋ねた。
「随分と古風な衣装だが、貴方はここの番人なのか?」
「いいえ、違いますよ。名を発してはいけない場所故、名乗ることはできませんが……」
ふわりと口元に笑みを浮かべたその者は傍らを示し、
「ただ待つのもなんですから、一局いかがです?」
気が付けば、その者の傍らには碁盤と碁笥が存在していた。
いつの間に現れたのだろう、と行洋は疑問に思ったが、すぐにこの世界ではなんでもありか、と思い直す。
それに、碁一筋に生きてきた行洋にとって、対局するという魅力は何にも勝るものだった。
――それは現世であっても、死後の世界であっても変わることはない。
碁盤の前に腰を下ろした青年に続くようにして、行洋も碁盤を挟んで対峙する。
「コミは白五目半の互先で構いませんか?」
「……自分で言うのもなんだが、私は強いぞ」
「ええ、知っていますよ」
そう言うと青年は、碁盤の傍らに置いてあった碁笥へと手を伸ばす。
その様子を眺めながら行洋はふと、この世界でも碁石は持てるのだろうか、という疑問を抱いた。
そんな行洋の様子を気にすることもなく、青年は“じゃらり”と音を立てながら碁笥から白石を握る。
その様子を見た行洋も応じるように、恐る恐る黒石の入った碁笥へと手を伸ばした。
指先に触れる石の感覚は、先ほど手を握った時と同じく、あるようでないような曖昧なものだった。
――全く石を置く感覚のなかったネット碁よりはましか、と行洋は内心呟いた。
ニギリの結果、行洋が先番となった。
「お願いします」
「お願いします」
二人以外何もいない、穏やかな日差しの降り注ぐ河原らしき場所で、時折石を打つ音だけが響く。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
対局は中盤まで進み、盤面全体に複雑な模様を描きはじめている。
しばし長考し、ここでは甘いか、との結論に至った行洋は、ある一点へと黒石を打ち込む。
すると、相手はすかさず、その一手に鋭い切り込みで応じた。
「これは……」
その鋭く、繊細ながらも、力強い打ち回し。
――それは行洋がここ数年、何度も脳裏に思い描きながらも、叶わなかった対局であった。
行洋はその懐かしい打ち筋の持ち主に思い至り、はっと顔を上げる。
「もしや、君は――」
「名を呼んではなりません」
言葉を続けようとした行洋を遮るように、青年は盤面を見つめながら静かに言う。
「これがこの場所での決まりですから」
そう言いながら、対局者である青年は口元にふわりと笑みを浮かべた。
彼は行洋の問いに、答えはしなかったが、否定もしなかった。
それはつまり――いや、それ以上は愚問だろう。
「……そうだったな、すまない」
行洋も盤面に視線を戻し、次なる一手を打ちこんだ。
行洋は対局を続けながら、ポツリポツリと話をする。
それに対し青年は、時折相槌を打つだけで自ら話すということはしなかった。
――但し『“彼”も元気にしているよ』と伝えた時だけは、その瞳が嬉しそうに緩むのが、行洋にも見て取れた。
結局それから間もなく、終局となった。
ヨセまで打ち切ってみたが、“今度も”行洋の半目負けであった。
「君は強いな、また負けてしまったよ」
「いえ、貴方もここ数年でまた強くなられた。次、対峙するときはどうなるか分かりません」
「……さて、この後は検討するか?それとも、もう一局打つか?」
盤面にあった石を片付けるべきかどうか悩んで、行洋がそう尋ねるも、青年は首を横に振った。
「いいえ。もう“時間”のようですから」
「……“時間”?」
ふと行洋が自分の身体を見下ろせば、身体が蛍の如くほのかに光っている。
そして見ている間にも、足先から段々と光の粒子となって、身体が消えはじめた。
「……時間切れ、ということか」
「ええ。貴方が“現世”へ戻る時がきたのです」
青年の言葉に、行洋は驚き目を見開く。
「私は“黄泉の国”へ渡るのではなかったのか?」
「行きたいというのであれば、桟橋で舟を呼べばすぐに来ますよ。……ただし、それは貴方にはまだ早すぎる」
「……もしかして、君が対局を申し込んできたのも、私を“あちら”へ行かせないためか?」
「それも確かにありますが……単に私が貴方と打ちたかっただけですよ」
そういって、青年は悪戯が成功した子供のように笑う。
――その姿に、彼の弟子であろう少年の姿が重なった。
行洋は尋ねる。
「“彼”がここへ来るのを待っているのか?随分と先の話になると思うが」
「待つのは慣れていますから。数十年くらい苦にもなりませんよ」
そういって青年は、くすりと笑みを零す。
気が付けば、行洋の身体を包む光はかなり強くなり、もう胸の辺りまで消え始めている。
行洋は青年に、別れの挨拶を告げることにした。
「この対局の続きは、またいつか……」
「はい。私も楽しみにしています」
その言葉を最後に、行洋の視界は白い光で塗りつぶされた。
気が付けば、そこは白い天井の病室で。
隣では妻である明子や息子のアキラが、心配そうに行洋を見守っていた。
行洋は自宅で倒れてから、六時間近く眠り続けていたらしい。
――まるで、誰かと一局打ったような時間だな、と行洋は内心一人苦笑した。
それから数日後、見舞客の来訪も少し落ち着いた、ある午後の日のこと。
ベッドの中から窓の外を眺めていた行洋が、ノックの音に返事をして振り返ると、スーツ姿の一人の少年が入ってくるのが見えた。
「すみません、遅くなりました」
そういってスーツ姿の少年――ヒカルは行洋に謝罪する。
「塔矢から電話で、先生がまた倒れたっていうのは聞いてたんですけど、地方だからすぐに駆けつけられなくて」
「いや、こちらこそ。地方対局が終わったばかりだというのに呼び出してすまないな」
行洋は言葉を続けた。
「再び倒れたことで、妻やアキラをはじめ、皆にまた迷惑をかけてしまった。今度こそ隠居生活に入ってはどうかと、医者にも勧められてしまったよ」
「そんな!塔矢先生と打ちたいと思っている棋士は沢山いるのに……オレもその一人ですけど」
行洋の言葉を即座に否定したヒカルに、行洋も頷く。
「あぁ、私もまだ隠居は早いと思っているよ……もう一度倒れたら考え直すかもしれないが」
「そんな、縁起でもない……」
少し青ざめた顔になったヒカルに、冗談だよ、と行洋は穏やかに微笑んで見せる。
「検査の結果はむしろ良好でね。明後日には退院できるそうだ。医者はもう少し療養した方がいいんじゃないかと、渋い顔をしていたが」
行洋のその言葉から、会ったこともないはずの医者の苦々しげな表情がありありと浮かんだヒカルは、ハハハ、と乾いた笑いを漏らす。
ひとしきり笑った後、表情を戻したヒカルは、ゆっくりと本題を切り出した。
「それで先生……オレに話って、何ですか?」
行洋は先ほどまで眺めていた、窓の方を仰ぐ。
窓の外には青い空と白い雲――そして少し散り始めた桜の花が見えた。
「思い出さないか?君からsaiとの対局を持ちかけられた日もこんな天気だった」
行洋のその言葉に、ヒカルは表情を硬くし、俯く。
そのまま暫く、きつく両手を握りしめていたが――やがて決意を固めたらしく、俯いたまま、喉から声を絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「すみません、先生……。もうアイツとは……佐為とはもう打たせてやれないんです。だって……だって、アイツはもう……」
「……亡くなっている、か?」
「……え?」
「知っているよ。向こうでsaiと一局打ったからね」
目を丸くし、驚きで言葉を失っているらしいヒカルに、行洋は微笑む。
「信じられないという顔をしてるな。……いや、私自身も実は夢だったんじゃないかと思っている部分も確かにあるのだが。しかし、頭の中には、彼と打った一局が今もはっきりと焼き付いているのだよ。……今から彼との一局を並べてみせようか?」
行洋の提案にヒカルは静かに頷くと、見舞客の誰かが持ってきたのだろう、サイドテーブルに置かれていた折り畳み碁盤を持ってきて、行洋の前に広げた。
行洋の手によって、白と黒の精密な模様が徐々に創り上げられていく。
対局が進むにつれ、最初は何の反応もなく、静かに見守っていたヒカルの顔にも、段々と表情が浮かんでいく。
そして、行洋が最後の石を打ち終え、顔を上げた時、ヒカルの瞳から雫がひとつ零れ落ちるのが見えた。
ヒカルは涙を拭いながら、はっきりと言い切る。
「間違いない、これは佐為だ……」
顔を上げたヒカルは、行洋に詰め寄るようにして言葉を続ける。
「ねえ先生、アイツ何か言ってた?どんな様子だった!?」
ヒカルのどんなことでも知りたい、と言わんばかりの様子に、行洋は顎に手を当て、記憶を手繰り寄せるようにしながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私もあまり話した訳ではないが……そうだな、彼はとても楽しそうに碁を打っていたよ。それに、進藤くんのことを話したら、嬉しそうにしていたな」
「他には?」
「あとは……そうだな。君が来るまでゆっくり待っている、とも言っていたよ」
「……そっか」
そう言ってヒカルは、まだ涙の跡が残る顔でぎこちなく笑う。
「アイツ、オレの前から何も言わずにいなくなったから、心配してたんです」
ヒカルは改めて、目の前の盤面を見下ろす。
――以前二人が対局した、ネット碁の対局にも負けず劣らずの素晴らしい一局を。
ヒカルの脳裏に、行洋と向かい合い、楽しげに碁石を盤面に打ち込む“彼”の姿が浮かび――そこに自分の入り込む余地がないことに、ヒカルは少しばかり嫉妬心を覚える。
「……にしても、ったくズリーよな。アイツ、オレの夢に出てきた時は何にも言わなかったくせに、先生とは話をした上に、ちゃっかり打ってまでいるし」
そのヒカルのむくれっぷりに、行洋も思わず声を立てて笑う。
そして、ひと笑いした後、行洋は再び口を開いた。
「だが、saiのお陰で私はこの世界に戻ってこられたのだと思うよ。きっと彼が時間稼ぎをしてくれたのだろうね。次会った時には礼をいわなければ」
“あちらの世界”にいた時の行洋は気付きもしなかったが、今なら分かる。
彼は行洋のことを知っていた。
――けれども、一度もその名を呼ぶことはなかった。
あの世にいる者は、名を呼んではならないという。
名は魂を縛るものであり、一度でも呼んでしまうと、呼ばれた者はその世界の住人になってしまうからだと。
彼は知っていたのだろう。
現世で愛しいものたちが、行洋の名を呼び続けていたことを。
それに――
「……結局、saiにはまた負けてしまったしな。これはきっと彼からの課題なのだろう。次会う時は、より神の一手に近い対局ができるような棋士になっていて欲しいとのね」
行洋がそう締めくくった言葉に、ヒカルは溜め息を漏らす。
「はぁ~。本当にどこまで碁一筋なんだよ、アイツ」
口調は呆れていたが、その表情はどこか晴れ晴れとしていて、ヒカルにsaiのことを伝えて正解だったと、行洋は確信する。
さて、と前置きをし、行洋は話題を切り替えた。
「話もあらかた終わったことだ。……進藤くん、時間が許すなら、これから私と一局どうかな?」
「え!?塔矢先生と?」
「saiを追いかけ、追い越すのが君の目標なのではないかな?ならば、まず私に勝てなければ、話にならないと思うが」
行洋のその言葉に、ヒカルは苦笑いを浮かべた。
「……お手柔らかにお願いシマス」
ヒカルとの対局をする為に、碁盤に並べた碁石を二つの碁笥に分けて戻しながら、行洋はふと、ある事を思い出す。
「そういえば……」
「なんですか?」
「saiの本名を聞きそびれたよ。場所が場所故、名乗れないとはぐらかされてしまってね。進藤くん、代わりに教えてもらえるだろうか?」
ヒカルは頷き、口を開く。
「いいですよ。アイツの名前は――」
タイトルは複数の意味を持たせてます。
「生き人」、「逝き人」、そして異世界への「行き人」
(偶然ですが、塔矢行洋にも「行」の字が入っていましたね)
そして、偶然といえばもう一つ。
この話のあらすじを思いついた後、表現を膨らまそうと調べていた時に知ったことです。
三途の川にある河原は「
親より先に来てしまった子供が、石を積んで親が来るのを待つ場所なのだとか。
……三途の河原で(碁)石を打って待つ佐為。
「賽」と「佐為」、同じ音を持つ言葉同士の不思議な繋がりを感じました。