あやかし記談 さとりの語り   作:伊月遊

1 / 7
「洗濯狐と聾唖の子供」


花などとうに散ってしまった。

滓かな残香すら今は無く、全てはただただ宵の色に落ちている。

彼はもう動かない。あの人はもう、喉を裂いて逝ってしまった。

宵の混じった茜色。あの朱が私の足下に届いても、私は未だここに居る。

 

「花枝様。もう、良いのです」

 

全ては夢だったのだろう。

淡く、そう、全ては淡く。泡沫の夢。

そんなもの、始めから無かったのだ。

 

「貴女は生きて、生きて下され。せめて、貴女だけは―――」

 

花などとうに散ってしまった。

とす、と乾いた音を立てて、持っていた匕首が畳に落ちる。

何も無い。後のこの両手にはもう、何も無い。

 

「―――せめて、一言だけでも聞かせたかったねぇ。あの子の声」

 

呟く言葉は闇に溶け、そしてすぐに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紅の葉が生い茂る秋の山、鮮色で染まった風景。

山裾から見える景色は、さながら複雑に織られた西陣織の呈を覗かせる。

深く草樹に覆われた山といえども、完全に人の入らぬ領域とは言い難い。

それでもこの付近に人が住み始めてから、百と二十の年が経っていた。

 

始め近隣の村々は山々に流通を閉ざされ、それでも生きるために山を削り、道を拓いた。

三の年には獣道が、五年が経つ頃にはそこが整備されはじめ、十経つ頃には踏み鳴らされた歩きやすい道に。

二十経つ頃には人が山道に店を立て、三十経つ頃には立派な街道となっていた。

 

幾重にも踏み固められてきた道、百と二十の年が作った山道を、男はゆっくりと進んでいた。

齢三十程の細身な男。髷は結わず、長い髪を藤の蔓で後ろに結んでいる。

頭に付けた蓑傘は所々解れ、背中に背負った行李は複雑な色合いとなり、丈夫そうな麻布の道中着はやはり薄汚れていて、

いかにも長く旅をしてきたという風貌である。

傘の隙間に覗くのは、吸い込まれる様な夜色の瞳。今は少々暑そうに細められている。

 

顎に溜まった汗を拭うと、手の甲をざりりと無精髭が擦る。僅かな痛みを余韻に残し、男は足を止めて空を見上げた。

鳶の遠鳴きが頭上に舞い、澄んだ空気は空を一層蒼に染める。細長く伸びたいわし雲は秋の到来を告げていた。

 

これで何度目の秋だろうか、空を見上げながら男は思う。

数えることは忘れたが、少なくとも、今足を進めているこの道よりは、多くのこの空を見ていた事であろう。男は既に三百以上の歳を迎えていた。

 

男は人の形をしていた。しかし男は人ではなかった。

人は彼の種を妖怪と呼んでいる。

妖怪と言っても千差万別、寝屋の子に聞かせる百物語に出るような、頭から人を喰らう様なものは珍しい。殆どは彼のような無害な、それこそ人と区別の付かないようなものも居る。

暑さも感じるし、寒さも感じる、飢えも感じるし、交わり、子も作れる。

 

ただ共通して違うのは、死なない事。

ひたすらに死なず、殆ど老いない事。

男はその為、未だ生き永らえている。

 

妖怪などと悟られず、人に溶け込み、害など与えず、ひっそりと、三百余りの暦を漫然と過ごしている。

旅をしているのは理由など無かった。本当はあったのかもしれないが、既に忘れてしまった。

目的地も無いまま、今日も男は歩き続けていた。所々が擦り切れた旅装に身を包んで。

 

空腹で腹が鳴る、ひもじさに急かされて男は再び足を動かす。

後二里もすれば山は越えられる、そこの麓に小さな村があると聞いた。麓の村ならば山越えの客も良く来る、宿はあるだろう。

懐の三ツ巻(財布)は軽けれど、握り飯程度ならば食えるだろう。恐らく、酒は我慢しなければならないが。

算段を練りながら歩いていると、不意に目に汗が入り、袖で拭う。

 

そこで目を閉じ立ち止まらなければ、それには気付かなかったであろう。

男の目が袖で隠れた瞬間、鳶や風の音とは違う音が耳に届いた。

 

水がじゃぶ、じゃぶ、とかき混ぜられる音、衣服を洗う音に聞こえる。

この辺りには目立つ川など無いというのに。男は不思議な気持ちで辺りを見回す。

人通りが少ない山道、男の目が届く辺りには誰も居なかった。

それでも聞こえる洗濯の音、じゃぶじゃぶという音。

 

ふいに思い出す。以前にどこか、誰かに聞いた事がある。

山の奥で洗濯の音が聞こえたら、それは妖の発した音である、と。

興味があった。男は旅路において、余り妖怪に会った事は無かったからだ。

妖怪は普段自然や人に溶け込み極力目立たない様にする為、出会っても気付かない事が多いのである。

腹は減っては居るのだが、男の興味はそちらに惹かれてしまった。

 

こちらから、聞こえてくるようだ。

 

男の足は自然と音の方向へと向かっていた。

直ぐに道を外れ、森に入り、草鞋で腐葉土を踏みしめていく。

一歩を踏むたび、土と草の匂いが鼻をつく。

空腹など既にどこかにいってしまっている。

徐々に近づく洗濯の水音、それに何かが混ざっているのに気付いた。

 

ねんねんころりや、ころりや、ころり。

 

子守唄。悲しそうに歌う女の声。じゃぶじゃぶという音に混じって聞こえてくる。

近づく二つの音、同じ場所から聞こえる様だ。

こんな山奥で何をしているのだろうか。

男の興味と速度は、交じり合う二つの音と共に増していく。

 

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ころりや、ころり。

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ねんねんころりや、ころりや。

 

進めども進めども、風景は変わらず、しかし音は近づいていく。

五分程歩いた頃であろうか、辺りの木々、その生い茂る密度が、段々と薄くなってくる。

 

急に、森が開けた。秋の日差しが網傘を通して目に届く。

 

目の前には緑にひっそりと隠れる様な渓流があった。

射光が幾万の粒となり、川面が輝きを放っている。秘境というような雰囲気である。

男は足を止めて辺りを見回した。声の、音の主を探す。

 

”彼女”はすぐに見つかった。

視界の隅に写る影。川傍にしゃがみこみ、左腕の中にある洗濯板に鳶色の帯を擦りつけ、ざぶざぶとそれを洗っている。

川面を見つめながら、そこより遠い場所を見ながら、歌う姿。数秒の間、男は”彼女”を見つめていた。

 

一匹の、小さな狐であった。

全身は夕暮の様な橙褐色の毛で覆われ、器用に二本の足で体重を支えて、細長い右手でその赤い布を洗い続けている。

忘れられた小さな渓流に、佇む一匹の狐。

 

唐突に音が止んだ。

 

「珍しいねぇ、ここに誰か来るなんて」

 

手を止め、”彼女”はぴんとした鼻をゆるりとこちらへ向ける。橙の頬毛に川面の光が当たり、毛並みが鈍い光を放っている。

 

「すまぬ、邪魔をしてしまったか」

「良いんだよぅ別に、どうせあちしの洗いもんは終わらねぇんだから。それに、あんたもあちしとおんなじさね。物の怪のたぐいだろあんた」

 

からからと笑いながら言う彼女、男は目を大きく見開き驚いた。自分の見た目はそれこそ人と殆ど変わらないのである。一目で見破られた事など数えるほどしか無い。

 

「分かるか」

「分かるさぁ、匂いでね。あちしの鼻は特別なのさ」

「なるほど、それでか」

 

流石は狐。黒く光る鼻を自慢げに、彼女はひくひくとさせた

 

「俺は『さとり』という。音と、歌声に誘われてここにやって来た」

「さとりさんかい、そうかい。それで名前ぁなんていうんだい、そりゃあ名前じゃないだろうよ」

「人の里では与那国と名乗っているが、実の名は忘れてしまった。あったとは思うのだが、思い出せん」

「そうかい、お互い歳ぁとりたくねぇもんだねぇ、さとりさん」

 

そう言って彼女はまたからからと笑い声を上げる。つられて与那国も小さく笑った。

 

「邪魔をしてすまなかった、ではな」

 

音の主を見つけると、満足感と共に寝ていた空腹が起き上がってきた。再び腹の虫に急かされはじめる与那国。

 

「おや、もう行くのかい、せっかちだねぇ」

「飯を食わせろと腹が急かしておるのでな、午の上刻(13時)までには麓に降りておきたいのだ」

「あらあらそうかい、そんなら仕方ないねぇ」

 

始終からからと笑いながら、狐はその橙色の右手と尻尾を軽く振った。

一礼してその場から離れ、元の道へと足を動かす男。一分ほど歩いた所で、背中の方からまた音と声が聞こえてきた。

 

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ころりや、ころり。

じゃぶ、じゃぶ。じゃぶ、じゃぶ。

ねんねんころりや、ころりや……

 

歩きながら不思議に思う与那国。あの狐は何をしているのだろうかと。

あの時彼女は洗濯をずっと終わらないものと言っていた。あの赤い布、果たして何を洗っているのだろうか。

空腹により徐々に遮られる思考の中、さとりは混ざり合う二つの音を聞いていた。

面向かって話した時に常時楽しそうに笑っていた彼女の歌声は、やはり悲しそうな色を持っていた。

―――あの子守唄は、一体誰に向けられているのだろうか。

その問いは、狐の声が腹の虫の音にかき消される程小さくなる頃には、既に忘れ去られていた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。