あやかし記談 さとりの語り   作:伊月遊

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山々から吹く風が秋の冷気を殊更に冷たく変え、山裾に吹きそよぐ。

身を刺すような氷風が背中を伝い、眼前の寒村に消えていった。

村の入り口、かろうじて壊れ残っている木の柵が、横なぎの風でがたがたと震える。

 

寺があるのだろうか。遠くから聴こえるくぐもった鐘の音は、既に未の刻(14時)に入ろうとしていた。

与那国は帯から竹水筒を引き抜き、一口煽り、それから深い息をしてやっと人心地付く。

山を降りるまで、思ったより時間が掛かってしまった。早く今夜の宿を見付けねばならぬ。

だがそれよりも先ずは腹ごしらえだ。と、痛みにも似た空腹の感触に、すぐに思い直した。

 

そうして秋空の下を歩き始めた。

日は天より多少の傾きを見せ、時折姿を見せる野良猫は午睡の時を愉しんでいる。

薄く汗ばんだ肌には心地の良い冷風が頬を抜け、村端のすすきをそよがせる。

 

全く、のどかなものだ。しかし奇妙でもあった。

村の中を少し歩き、与那国の心中になにかざわざわとした気持ちが起き始める。

どこにも人の姿が見当たらぬのだ。

端から端まで歩いたとしても10分も掛からぬであろう村ではあるが、しかし多少なりとも人は居るものであろう。

だが声ひとつ聞こえぬ。あるのは山々からそそぐ寒風の音ばかり。

 

やがて村のやや外れに出て人家もなくなってくると、小さな竹藪の中にひっそりと民家が一つ。

与那国は試しにその家の戸越しに声を掛ける。

返事は無い。

戸を開けて中を覗くが、やはり中には誰も居なかった。

軽く中を見渡す。質素ではあるが、特におかしな所も無し、極一般的な民家の土間である。

畳にはうっすらとだけ埃が積もっており、この様子を見る限り、この家は数年も前に宿主を失ったと訳では無さそうだった。

むしろ居なくなったのはここ一週間、いやもっとつい先日の事なのかもしれない。

流行り病か何かで放棄された村なのだろうか。と男は思った。

 

がさりという物音が聞こえた。家の奥、炊事場の方からの様である。

 

「誰か居るのか」

 

問い掛ける。しかし返事は無い。

恐る恐る炊事場へと足を進める。

 

真っ先に目に入ったのは、床の上で揺れる楕円の篭。先程の音はこれが棚上から落ちた音であろう。

炊事場は土間と同じ様に質素な造りであるが、やはりおかしな所は無い。

中を見渡すが、しかし人の姿は無い。

 

いや―――居た。視線をかなり下まで下げなければ気付かなかったのだが、隅の暗がりに何かが居た。

それは男児であった。小さな男の子が膝に顔を押し付ける様にうずくまり、声も立てず静かに震えている。

 

「ああすまない、怖がらせるつもりは無かったのだが……」

 

与那国はなるべく怖がらせないよう、優しく声を掛ける。

しかし子供は未だ顔をも上げようとしない。

無理もない、見ず知らぬ男が家に上がり込んできているのだ。

 

男は、すぐに出て行こう。と一歩足を後ろに伸ばす。しかし、すぐに思い留まった。

何故この村には一人も人間の姿が見当たらぬのであろう。という事を聞こうと思ったのである。

 

「その子に話し掛けても無駄だよ」

 

しかしその問は、背後から唐突に投げ掛けられた女の声によって打ち消された。

慌てて振り返るとそこには、

 

「やあ、また会ったねえ、さとりさん」

 

と、つい先刻見たあの狐の笑顔を浮かべた、瓜実顔の女が立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「祭か」

 

ぬるい白湯を一口すすり、与那国は言った。

 

「そう、祭さ」

 

向かい合わせた女はそう返すと、同じ様に白湯をすする。

 

簡素な造りの家の部屋である。

畳が敷き詰められ、隅の方には最低限生活に必要なだけの家具が並べられている。

この部屋には今居るのは、向かい合わせた男と女と、それから男から身を隠すように女の背中にしがみつき、じいと男を見つめる子供の三人だけである。

女はお松と名乗った。正体は昼間に会ったあの狐の妖であるが、今は何処にでも居る女の姿をしている。

変幻の術など、別に妖の間では珍しい物ではない。

 

与那国はあの後、勝手に家に入った無礼を詫びて、すぐにここを去ると言った。

しかし何故か女が「まあ慌てなさんなよ」と引き止めたのである。

理由を聞くと、女もまた与那国と同じく、久方振りに妖怪と会ったのだという。そして少しばかり話がしたいという事であった。

いきなり上がり込んだ挙げ句に、とも思ったが、正直山を越えてきたばかりの与那国にとっては渡りに舟であった。そのため多少は迷ったのだが、結局了承してしまったのである。

そして少しの話のつもりが予想よりも長い話になってしまい、そうこうしている内に空腹を思い出し、遂には飯まで馳走になってしまったのであった。

全く厚かましいにも程がある、と与那国は心の中で苦く笑う。

 

「この時期、村の連中は昼の間、みぃんな隣村に行って祭の準備をしているのさ。あんたも見たろう?がらんどうになった村の風景を」

「ああ、見た。だが些か無用心では無いか?ああも全員出払っていては、それこそ物盗りの類にやられてしまうではないか」

「あちしもそう思うさぁ」

 

けどね、とお松は一口茶をすすり、それか小さくため息を付く。

 

「それでもお上にゃあ逆らえないもんさ、農民ってやつぁあね」

「うむ」

 

与那国の頷きに、「ま、この村にゃあそもそも、ろくに盗めそうな物なんて無いけどね」とカラカラ笑って答えるお松。

与那国は知っている。人とはこういう物なのだと。自らを律する仕組みを作り、自らその仕組みに入っていく。それが人の生き方である。

我々は妖の身ではあるが、それでも人の里で暮らすならば人の仕組みに従わねばならない。

のではあるが。

 

「お前は」

「ん?」

「お前は行かなくても良いのか?その祭の準備とやらに」

「ああ、あちしは良いのさ。この子の世話と、後はあちし自身も病気って事になってるからね」

 

と、また笑う狐。

たちの悪い冗談だと思った。妖怪は決して身を病むことなど無いというのに。

それに、子。見た所この村で行っている祭の準備というのは、女子供もあまねく召集されているようだ。

なればこその疑問が頭をもたげる。そういう事態であれば、この子だけでも労働力として連れて行かれてしまう物ではないだろうか。

それも無いというのは、やはりこの子は。

 

女の背に隠れたままチラチラとこちらを見る子供を不意に見やると、子供はびくりと肩をすくませて、すぐに女の背にしがみつく。

それをお松は小さく笑って、「人見知りの子でね、気を悪くしないでおくれよ」と与那国に言った。

 

「その子、やはり言葉を」

「生まれつき、耳がね」

「主の子か?」

 

しばしの沈黙の後、頷くお松。

 

「……弥助ってんだけどね。不憫な子さ。あちしがどういう声をしているかなんて事はおろか、自分の名前も知らないだろうさ。当然さね、何一つ聞こえないのだもの」

「夫は、人か」

「そう。と言っても六年も前にくたばっちまったけどね」

 

「全く、ついてないねえ」と、お松は苦い言葉を薄めるよう、口元に湯飲みを運んだ。

 

妖と契る人間は稀に居る。

それは別段おかしい事では無い。自分やこのお松の様に、人の世に溶け込む様に暮らしている妖怪など、どこにでも居るのだ。男と女がいるのであれば、何もおかしな事ではあるまい。

人と妖の子、その姿形は千差万別ではあるのだが、子供という事には人も妖もなんら変わらない。

ただ一つ違うことがあるとすれば、しばしばこの弥助の様な不遇を囲う子が生まれるという事であった。

姿や生活は同せれど、やはり根の部分では違うのであろう。完全に混ざり合う事は無く、どこかしらで無理が生じるのであろう。

 

表情の陰りは一瞬に消えた。

「おっと、お客さんにつまらねえこと言っちまったね」とお松はカラカラ笑い、それから元と同じ様子で与那国に旅の話をせがみ始める。

その後与那国は旅の途中で見聞きした様々な話をし、お松は時に大笑いし、時に真剣な眼で聞き入り、時に議論を重ね。

気が付けば外はすっかりと薄暗い中に落ち始める。

 

「あぁ、面白かった。こんなに楽しかったのはいつぶりだろう」

 

と心から楽しげに笑うお松に、与那国は「そう喜んでくれると話す方も悪い気分じゃない」と頬を掻いた。

 

「しかし随分と長居をしてしまった、すまん」

「何言ってるんだよ、長居させたのはこっちの方さ。すまないねぇ、久しぶりに面白かったもんだから、ついつい長話しちゃったよぅ」

 

と言ってお松は軽く謝って、それから、

 

「ね、もう遅いしさ、良かったらお礼に今晩泊まってっておくれよ。なんにも無いむさ苦しい所だけどさ」

 

と言ってきた。

与那国は流石にそれではそちらに悪い、宿は別に探す、と慌てて断るが、それに対するお松の「この村に他の宿があると思うかい?」という返し言葉に思わず口を詰めさせる。

そして数秒の後には、与那国はばつの悪そうな顔で、お松の申し出に許諾するのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夜半の事である。

予想よりも気が疲れていたのであろう。この日は眠りが浅く、与那国は何度もまどろみと覚世の合間を行き来していた。

三度目の覚醒の折りである。夜もどっぷりと更けた暗がりの中でふと目を覚ますと、外から何やら声が聞こえる。

頭の薄靄が晴れていくにつれて、その声はやがて歌になった。

どこかで聞いたことのある歌。これは、そう、昼間の河原で聞いた、あの子守歌だ。

与那国は床に着いたまま、ゆるりと声のする方を見やる。

薄く開けた目の中に写ったのは、人の姿に狐の顔。

一匹の狐と、その胸で静かな寝息を立てる子狐である。

布団の中に寄り添いながら親狐は子狐を胸に抱き、優しげな声で子守歌を歌っていた。

どこか悲しげに、どこか寂しげに。

 

あの歌は何に対するものなのだろう。胸に抱いたその子には、歌など露にも聞こえぬと言うのに。

与那国は再び目を閉じる。そして、瞼の裏に映った親子を見ながら、そう一人思った。

 


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