かん、という乾いた音。
木切れが散り、横合いにからりと薪が転がる。
背後に積まれた丸太の山から適当に一つ拾い上げ、再び目の前の台座に置く。
しかる後に鉈を振り下ろすと、また、かん、という子気味のいい音と共に、薪が横に転がった。
既に小一時ほどは続けているだろうか。
割った薪を家の脇にある掘っ立て小屋に乱雑に積み上げ、一息。
これで幾分かは足しになっただろうか。
一宿一飯の恩という訳でも無いが、こうも恩の貰いっぱなしで居るとどことなく居心地が悪い。
そのため与那国はまだ夜も明けきらぬ未明、朝も早くに起き出して、こうして薪なぞ割っているのではあるが。
全く、こういった考えでの恩返しなどというものは、恩の掛け売り、恩着せがましいという物である。
しかし特に他の妙案が思いつくでも無し、こうしてただ汗を流す。
自分自身ながら、なんとも間抜けな事だと与那国は低く鼻で笑った。
唐突に目に鈍い痛み。汗が入ったのか、痛みが染みていく。
手の甲で額ごと瞼をぬぐう。
そこで丁度、背後に足音が聞こえた。
思わず首をそちらに向けるが、何も無い。
視線を下に。居た。
確か弥助といったか。目は怖れと驚きが混じった色をし、所在無く泳いでいる。
暫しの逡巡。それから弥助は、おもむろに手に持っていた手ぬぐいをこちらに差し出す。
見ていたのだろうか、俺が薪を割っていた様を。
反射的に与那国は「ありがとう」と言おうとしたが、すぐに思いとどまり、代わりに口端に僅かの微笑みを乗せて軽く頷く。
そしてその小さな手から、手ぬぐいを受け取った。
瞬間的に情報が伝播する。
音は無い。ただ感謝という感情だけがそのまま、弥助の心に送り届けられる。
手と手を細い管が通され、そこに勢い良く水が流れ込む様な感触。
余程の衝撃だったのだろう。弥助はその瞬間高く唸りながら尻餅を付く。
しまった、と与那国は思った。
思わず手が触れ合い油断してしまったせいか、彼と自分が 『通って』 しまった様だ。
与那国はすぐさま弥助に手を伸ばし、体を起こさせる。
その間もずっと大丈夫か、という言葉は彼に通っているようで、彼はぱちくりと瞬きしながら顔を見合わせて居た。
大丈夫だ、怖いことは無い。少しの間彼の手を取って、彼にそう通す。
息を大きく吸い、吐かせる。
それを繰り返し行わせ、徐々に彼を落ち着かせる。
暫しの時が経った頃には、彼はようやく落ち着き始めた。
「どうやったんだい?」
いつから見ていたのだろう。
いつの間にかすぐそこにお松の姿があった。
手には盆、その上には湯飲みと握り飯が二つばかり。
なるほど、弥助が手ぬぐいを持ってきたのは、やはりお松が言ったからか。
などと当然のことを考えながら、同時にしまった、とも思った。
見られた。
「何がだ」
「とぼけなさんなよ。あんた、うちの子に簡単に『深呼吸』させてた様に見えたんだけどねぇ、どうやって教えたんだい?そんな事」
言葉の色に刺は無い。ただし、目はしんと落ち着いている。
与那国は数瞬の後に、これが到底誤魔化しの効かぬ事と判断してため息をついた。
それからお松に右の掌を広げ見せ、続けて口を開く。
「―――通し、という」
「とおし」
「ああ」
与那国は静かに瞳の夜色を細め、自らの掌をじぃと見つめる。
そうして、ゆるりと続ける。
「この手でな、触り、念じる。するとそれらと、己の内に、道が通るのだ」
「……道?」
「物の例えだがな。そこから、想いを互いに伝え合える」
声無く、音無し。
然し、念ずれば心の根は通じ合う。悟り合う事が出来る。
それがこの男、与那国の『通し』である。
今は既に輪郭も薄ぼやけているが、忘却の淵にある一欠片には、己と同じ種の為する業である事が残っていた。
即ち、これが『さとり』なのであると。
秒の沈黙、それが八と続いた後に、ようやっとお松は口を開く。
しかして、それは与那国の思惑を外れた言葉であった。
与那国はこう続くと思っていた。薄気味悪いこの業を排斥せんと、今すぐここから立ち去るべし、と。
当然である。誰も彼もが、己の内なぞ覗かれとうは無いのだから。
例えそれが人であろうが、妖であろうが、関係の無い事。
だからこそ深慮を払っていた。
払うつもりであった。この業は極力使うまいと。
だが、それは外れた。
「―――名前」
俯き、地に目を伏せ、低い声で。
それからお松は、顔を上げる。
瞳は僅かに潤み、しかし無表情。
「名前、聞いておくれ。その子に、自分の」
言葉は途切れ途切れで。
まるでそれは、必死に感情を抑えている様。
瞬間的に意図が分かった。それは、業を使わずとも、ありありと分かる。
与那国は無言のまま、静かに片膝を突き、弥助の小さな右手を握る。
そして、念じた。
じぃと、こちらを見つめる瞳。
弥助と、お松の、似た、真剣な瞳。
暫しの間。
それから与那国は、立ち上がり、おもむろに口を開いた。
「やすけ」
「え」
「やすけ、だ。自分の名前は、弥助だ、と」
その瞬間、お松は声を上げて泣き出した。
手に持つ盆など取り落としそうになる程に。
口の内に、良かった、良かった、と繰り返しながら。
お松は不安だったのであろう。己が子が、己の名前すら知らないのではないかと。
その身を包む暗闇に、己の名すら知らずに震えて居るのでは無いかと。
与那国は小さな笑みを浮かべ、とん、と弥助の背を押した。
こちらを不安げに振り向く弥助、その震える手を取って、小さく頷く与那国。
それを見て、伝わって、弥助も合わせる様に頷いて、お松の方へ振り返る。
そして口を開く。
―――呻きの様な、しかし明白に意思を持った。
弥助のそれは、言葉であった。
ありがとう。
そう言っていた。
「居てくれてありがとう。育ててくれてありがとう。そういった、母への感謝。強い感情を感じたのだ。俺はそれを表す言葉を、弥助に教えた」
「そう、かぁ」
それを聞いて、お松はいよいよ感極まった様に泣きじゃくる。
釣られ、弥助も声を上げて、大きく泣き出す。
近けれど遠き距離。いや、近きからこそ、殊更に遠き距離。
己が存在を疎ましく思われているという猜疑の意。恐れ、畏れ、怖れ合い、血の縁などは役に立たぬ。
与那国が伝えたのはほんの二、三言である。
たかがそれですら、彼らには十分であった。
弥助が生まれて五年。彼がこの世に生を受けてから、お松が初めて耳にした、弥助の意思であった。
奇妙な縁とでも言うのだろうか。
それは巡り合わせの偶然に過ぎぬ話。
しかしお松にとっては、それは大きな意思を持った何かによる、天命の様にも感じたのだろう。お松はこの事を仏様のおはからいだと言った。
それを聞き、我々のように人ならざる者に御仏の便宜が有るのかと与那国は心中で小さく笑うが、それも仕方の無き事。
自身とて、この奇異に幾ばくかの驚きを感じてるのだから。
「分かった」
そうだけ言い、頷く与那国。
それを見て、お松は心の底から感謝を伝えるのであった。
お松はあの後、一つの申し出を行う。
それはただ一つ、弥助に言葉を教えて欲しいという事だ。
読む。唇を聞く。そして、話すという事。
他に誰に頼めようか、このような事を。
相手は生まれ付きの業を負う、聾の子である。
生まれつき何も聞こえぬただの童に、文字はともかくとして、話す事が出来る様にするという事は通常不可能に近い。
後天的にその災を得てしまう者には問題も無いというが、先天的ならば絶望的である。
何故なら彼らは、人の声など聞いたことも無ければ、己の声すら分からぬのだから。
だが、それらを関係無くする者が居る。
声なぞ要らぬ、音を伝えうる者。
それがさとりというものであった。
幾度とも、額を床に擦りつけるかの如く、深く礼を言うお松。
その言葉に与那国は 「なに、正直、こちらも都合が良い」 と一言。
えっ?と言葉を返すと、彼は一言、口端を持ち上げて、
「こちらも恩の返し方を探していた所だ」
と言うのであった。