あやかし記談 さとりの語り   作:伊月遊

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元々素養もあったのであろうが、これもまた通しの業の為す意味が大きいだろう。

弥助は二日で声を覚え、更に五日で唇を覚え、数えて十を過ぎる頃には、簡易な会話が出来る程となっていた。

といっても言葉の数や有り様は余りにも多い。凄まじき速習といえど、未だ二歳の童程度にしか話せていない。

それでも無と有はあまりにもかけ離れており、それは母であるお松とのやり取りが出来るという事である。

腹が減った。眠い。遊びたい。

何気ない言葉、やり取りにも満たない些事。

たったそれだけでも、お松は本当に、心の底から喜んでいた。

 

与那国はふと思う。己も木の股から産まれてきた訳では無く、親と呼ばれる物が居たのであろうか。

であろうか、というのは、幾ら己の記憶に訪ね聞いたところで、親と子と、そういった光景がついぞ思い出せぬからである。

どこで産まれたか、誰と暮らしたか、どこを歩いたか、何を見たか、何を思ったのか。

幼き頃の記憶が忘却と現の狭間に漂うている。

近頃はとんと過去の事が思いだせぬ。思い出せるのはせいぜいがここ三十年程度の話だ。

こうして旅をするにも、何かの理由があった筈ではあるのだが、やはり与那国には思い出せぬ。

過去も忘れ、為すべき事も忘れ、ただたださ迷う様に旅を続けるだけ。

果たして己とは一体何なのだろう。

 

「あそぶ」

 

小さき声。

それが思慮のまどろみに浸っていた与那国を引き戻した。

視線を向けると、幼き童が一人、書き散らした半紙の中に座り込み、困った顔で与那国の袖を引いていた。

と、すぐに近くに居たお松がやって来て、弥助の頭を軽く叩くと、

 

「こら、駄目だよぅ。あんたまだ勉強が終わってないじゃないのさ」

 

ぺしりという乾いた音とその一言。

返答は言葉ではなく、恨みがましく母を見る弥助の視線であった。

渋々とまた膝元の硯から筆を取り、新品の半紙を手元に手繰り寄せる。

それを見てお松は、先ほど叩いた弥助の頭を、今度は優しく撫でるのであった。

何気のないやり取りに、与那国は思わず、口のなかで小さく笑うのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ねんねん、ころりや。

 

声。高い声。

 

ころりや、ころり。

 

歌である。

 

呼ばれる様に目を開くと、宵の香が鼻をくすぐった。

 

窓から差し込む月色に、それと融け合うような橙褐色の毛。

狐が一人、胸の中に子狐を抱いて、布団の上に座っている。

 

その様子は、人も、狐も、何も変わらぬ。

ただの親と子、それだけである。

 

「子守歌か」

 

ぽつりと言うと、お松は歌を止めてこちらを見るや、

 

「すまない先生、起こしちまったかい」

 

と小さな声で謝った。

この所、お松は自分の事を『先生』と呼んでいる。

気恥ずかしいので止めてくれと言っても、我が子を教えているのだから間違っていない、と頑なにそう呼んで聞かぬのである。

与那国は 「いいや、別に良い」 と身体を起こしながら言う。

 

「やっとこさ眠ったみたいだよ、この子、寝付きが悪いんだから」

 

と、はにかみながら、お松は弥助を布団に寝かせる。

そうしてこちらを向くと、もう一度 「本当にすまないね」 と謝る。

与那国は小さく笑うと、ふと思い出す。

 

「その歌」

「ん?」

「初めて会ったときにも歌っていたな」

「……ああ、そうだねぇ」

 

与那国は僅か十日ばかり前の事を思い出していた。

峠を越えている最中のことだ。

ふと耳を澄ますとどこからかこの歌が聞こえてきて、誘われるようにそちらに向かうと、そこにお松が居たのである。

あの時歌が聞こえていなければ、こうして今ここに居ることも無かったのであろうか。

そう思い、与那国はこの歌に対しても奇妙な縁の様な物を覚えるのであった。

 

「どこにでもある歌だけど。この歌ね、おっかあに教わったんだ」

 

静かな声で言うお松。

 

「母親か」

「そう。って言ってもね、もうろくすっぽ顔も覚えちゃあいないけど。覚えているのはこの歌だけさ」

 

お松は自嘲ぎみに口端を持ち上げる。

 

暫しの間。

ふと与那国は、以前にも覚えた疑問を思い出した。

 

「何故歌うのだ」

「何故って?」

「その子は、耳が聴こえぬのだろう」

「……ああ」

 

「そういうこと」と口のなかで小さく呟くお松。

 

二人は無言になり、辺りは子狐の立てる寝息のみに包まれる。

そうして、彼女は再び口を開くと、

 

「むかしむかし、ある所に一匹の狐がおりました」

 

唐突にそれは始まった。

 

与那国の僅かな困惑が伝わったのか、お松は苦く笑い、

 

「どこにでもある歌の、どこにでもある昔話さ。聞いておくれよ」

 

と続ける。

そうしてまた語り出す。

 

「狐は遠く遠くのお山の向こう、とても遠くに住んでいて、そこには沢山の仲間たちがおりました。

狐は長くの間そこに住んでおりました」

 

語る口調はどこか楽しげに、それでいて寂しげに、

 

「ですが、ある時、とある狐が他の仲間たちと喧嘩をしてしまい、仲違いしてしまいました。

それでその狐は自分の子供を連れて、お山の家から出ていったのです」

 

相反する幾つもの感情を含んだ声で、お松は語る。

静かに、優しげに、哀しむように。

 

(これは……お松の過去、か)

 

与那国は心中で一人ごちる。

音は立てず、耳を立てて。

 

「山を降りた母狐は幼い子狐を養うために、遠縁のつてでとあるお家に奉公する事になりました。

母狐は子を育てるために、一生懸命に働きました」

 

その遠い目には何が写っているのか。

与那国はただ静かに話を聞く。

 

「春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になり、冬が終わり、また春がやってきました。暑い日も、寒い日も、母狐は一生懸命働きました。

そうして、いつしか身体を壊してしまいました。

そこで今度は母の代わりに小狐が奉公に出ることになりました。小狐は母を助けたかったのです

それで……」

 

と言葉を止めるお松。暗がりの中で、表情は見えない。

「それで?」 と与那国が続きを促すと、お松は小さく笑みをこぼす。

 

「それで、色々あってこいつが産まれて、この場所に親子二人で住んでいるって訳さ」

 

そう言ってお松は弥助の頭を優しく撫でる。

仄かな月明かりが頬を差す。

ふわりとした光の中で、お松の顔は、小さく、優しげに、微笑んでいた。

 

「先生。この子には、幸せになって欲しいよ」

 

呟くように、お松はそう言う。

 

遠く離れた土地に幼い子どもと二人、いや二匹か、移り住み、女手一つで切り盛りする。

それがどれだけ大変な事か、言われなくてもありありと分かろう物。

親の、そして子の。そのまた子の。

人の縁は続く物。血も意思も、境遇も、脈々と続く物。続けられる物。続けようと思えば、続く。妖もまたそれは同じである。

だが不幸は続かせなくとも良い。それもまた、自らが選べる物だ。機会さえあれば、ではあるが。

 

「歌はその為、か」

「まじないみたいなもんだよ。笑ってもらったって良いさ」

「いいや、悪くない」

 

そう、悪くない。

そう思うことも。そうすることも。

妖が不幸を払わんと思う事も。そして、それを僅かでも手伝えているならば。

 

「悪く無い」

 

与那国は口の中で小さく笑い、もう一度そう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

明くる日の朝である。

与那国が朝、井戸端で顔を洗っていると、遠くの方からごーん、という腹に響く大きな音が聞こえてきた。

なんだろうと思っていると、村の方から大勢の人の声。続いて大きな木材やらを運ぶ人衆たちの姿が現れた。

皆一様に大きな荷物を運んでおり、威勢の良い掛け声と共に作業を続けている。

数的に、この村の衆だけでは無い。おそらく他所の村からも大勢人が集まっているのだろう。

 

祭か、と与那国は思った。

そういえば十日ほど前にお松がそんな事を言っていた。

これだけの人数で、これだけの日数を掛けて、さぞや大きな祭なのだろう。

 

そんな風に与那国が思考に浸っていると、すぐ近くに足音。

振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。

 

年の頃は四十の半ばといった所か。身なりの良い、如何にも宮仕えといった風体の壮年である。

鬢の端に白き物が混じりども、身体の方はがっしりとしている。

腰の大小は飾りではないだろう。

 

「何者か」

 

低い声。

明らかに警戒しているのが分かる、そんな声である。

 

「俺は与那国という。とあるきっかけでここの者に一時の宿を借りている。お前はお松の知り合いか」

「その名を呼ぶでない、素浪人風情が。野良犬の様に転がり込みおって」

 

今度は吐き捨てるように言う壮年。

 

「失せよ、下郎が。ここに御わす方は貴様の様な犬が会える様なものでは無いと心得よ」

 

そう言って壮年は刀の柄に手を掛ける。

与那国は身構える。

目の前の老人が、自分が逃げなければ本気で切る気である事が伝わってきたからである。

やはりこの老人、只者ではない。と与那国は思った。

 

風が凪いだ。

 

「わるい、ちがう」

 

と、声。

幼き声である。

声の方を見やると、いつから居たのか、丁度与那国の後ろの方に弥助の姿があった。

 

「―――弥助、様?」

 

その姿を見るや否や、老人は心底驚いたという表情で唇を震わせ始める。

 

「よなくに、わるい、ちがう」

「弥助、様……。言葉を……お言葉をっ……!おお……おお……っ!」

 

そうして老人は最早こちらに意識は無く、もつれる足を引きずる様に弥助のそばまで駆け寄り、

膝を付き、弥助を見つめる。

その老人から身を隠すように、与那国の背に隠れてぎゅうと袖を掴む弥助。

 

「何故……何故、この様な……」

 

すぐに老人の目からしとどに涙が溢れる。

まるで仏の奇跡を見たかの如き、そんな表情で。

その老人に、与那国はおもむろに手を差し出す。

 

「手を」

 

一瞬の逡巡。その後に、老人は訳も分からず与那国の手を取った。

 

瞬間的に意識の奔流が老人を包み込む。

与那国と老人が細い管で繋がり、そこに大量の水が流れ込む感覚。

『通し』である。

 

「これは」

「口で言うよりも早いと思ってな」

 

そして、秒の後には、老人には全ての事が伝わっていた。

手を離す。

老人の目は未だ涙で赤く腫れれど、それを覆うように白黒とさせている。与えられた事実を飲み込むのに苦労をしているのだろう。

与那国は未だ背中に隠れている弥助の頭を撫でると、弥助はほっとした表情で与那国の袖を離した。

 

数十秒の沈黙が続き、

 

「―――与那国、殿と仰ったか」

 

老人は静かに口を開く。

 

「数々の無礼、誠に申し訳ない」

 

そして、深々と頭を下げ、目を拭ってから立ち上がった。

 

「まさか、ぬしも妖とは」

「ぬしも、とは、まさかご老体も?」

「儂は人間ぞ。しかし、そなたの後ろに居る方がそうでないのは分かっておる」

 

つまり、彼は弥助とお松が妖怪であると知っている。

そして、その他の事も。

 

「色々と聞きたいことがあるが、まずは一つ」

「なんだ」

「ご老体、あなたは何者か」

 

与那国に問われ、老人は目を閉じ、逡巡する。

そして数秒の間の後に、与那国の目を見て、重々しくこう答えた。

 

「名乗り遅れ申した。儂は桜忠家家老、久光吉右衛門と申す」

 

 

 


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