家老、と、眼前の老人は言った。
人であらざれど、人の世に永く暮らす与那国には、それがあまり庶民にお目見え叶わざる高位であることが分かっていた。
それが何故にこのような場所へ。
「吉右衛門、と言ったか。貴方は一体―――」
「そいつはあちしの客だよぉ、先生」
と、そこで不機嫌な女の声。
目をやるとそこには、寝崩れたのであろう、着物の裾をはだけさせたお松の姿があった。
顔にいかにもな不機嫌面が浮かべ、お松は。
その彼女の姿を見るや、吉右衛門は、
「花枝様!」
と驚いた顔で叫んだ。
それを聞いて、お松は更に表の情をしかめると、
「何度も言ってるでしょ、吉さん。その名は辞めてって」
と頭を掻いてそう言った。
それから未だ怯え顔の弥助へと近付くと、「大丈夫だよ」と柔らかく目を細め、やおら優しく頭を撫ではじめる。
そうすると、弥助は片手で与那国の袖を掴みつつ、もう片手でお松の着物裾を掴んだ。
「……驚いたかぃ、吉さん」
我が子の頭を撫でながら、優しげな表情でお松は言う。
数瞬の後、それが自分に向けての言葉と分かるや、吉右衛門は 「度肝を抜かれるどころではございませぬ」 と頭を振った。
「弥助様が言葉を発しておられる。言葉を聞いておられる。
儂が前回訪ねたのは僅かに半月前。その間に、よもやこのような奇跡があろうとは……」
とそこまで言ってから、吉右衛門は 「いや」 と言葉を区切り、与那国の方へと向き直すと、
「奇跡などではござらんな。与那国殿、まっこと、有難く思い申す」
と、先ほどと同じように深々と頭を下げた。
「ただの成り行きというだけだ、あまり気にするな」
「いや、何卒どうか、礼をさせてはもらえぬか。主は弥助様、いや、永盛四万石の救い神よ。この礼は必ずや厚く桜忠の家を上げて」
そう興奮してまくし立てる吉右衛門を 「待て、待て」 と手で制す与那国。
「そもそも俺は何も事情を知らぬし、話が見えぬ。そもそもご老体はお松と何の関係があるのだ」
「ぬ、そ、それは」
はっと我に返った吉右衛門は、すぐに慌てて口をつぐんだ。
そうして、昂ぶりからの失言だったのであろう、寄辺を失ったように目を泳がせている。
「関係ないよぉ、先生。ただの古い知り合いってだけさ」
その気まずい間をすぐに払ったのはお松である。
そちらを見やると、再び不機嫌な表情を浮かべた女が居た。
「そうさぁ、あちしも弥助も関係無い、もう何も関係無いのさ。分かったらさっさと帰っておくれよぉ、吉さん」
「ぬ、むう」
そのままお松はずいと一歩前に出て、吉右衛門の目の前に立った。
不意に、与那国の袖がぎゅうと引っ張られる。
目をやると、弥助が怯えに震えながら、更に強く袖を握っていた所だった。
吉右衛門はお松に一瞬気圧された後、「しかし」 と負けじと語調を強める。
その顔にははっきりとした焦燥が浮かんでいた。
「しかし、しかしながら。事はいよいよ火急にございます。最早一時の猶予もならぬのですぞ」
「だから関係ないって言ってるだろう、帰っとくれ」
取り付く島も無いとはこの事か。
つんとすますお松に、対照的に唇をわなめかせる吉右衛門。
そうしてこれ以上話すことは無いと言わんばかりに、お松は弥助の方に戻り、未だ震える頭を撫でると、優しげな顔でこう言うのであった。
「さ、弥助。外は冷えるよぉ。戻って勉強の続きさぁ」
弥助はお松を見上げると、狼狽えながら何度か与那国と吉右衛門の顔を見比べ、それからお松に対して小さく頷き、お松の手を握った。
それから与那国にちらりと目だけやって、
「先生も」
と言うと、すたすたと家の戸まで歩いて行ってしまった。
それを見やるや否や、吉右衛門はいよいよいても立ってもいられぬように大きく声を上げた。
「おっ、お待ちを、花枝様!」
「その名で、呼ぶんじゃないよっ!」
きん、と、辺りに声が響く。
荒げた声と怒りの形相。
その余韻が尽きる僅かな間に、花枝と呼ばれた女性の情は、怒りの色から罰の悪そうな悲しみへと移っていた。
女の眼には、弥助の息を飲んだ怯えた顔があった。
「ごめん」
その弥助の頭を優しく撫でてから、女は子を家の中へと追いやる。
そうして吉右衛門に背中を向けながら、女は静かに言った。
「―――花はとっくに散ったんだ。
あちしはもう花枝じゃない。
松。
ささくれ立った、ただのお松さ」
その声は寂しげで。
それでいて、どこか嘲りの色が混じっていて。
それきり目も合わせず、お松は後ろ手で戸を閉める。
辺りには風の音と、遠巻きな祭りの準備の音と、それから与那国と吉右衛門だけが残された。
暫しの間。
吉右衛門は大きくため息をついた。
「花は散った、か」
最早終わりか。
そう独りごち、自嘲混じに口端を持ち上げると、吉右衛門は与那国に一礼する。
「見苦しい所をお見せして申し訳のうございます。
弥助様の礼はまた近い内に……今日はもう帰りまする故」
そうして吉右衛門は俯きながら、おぼつかぬ足取りでとぼとぼと去っていく。
与那国はその背中に、最後まで声を掛けることが出来なかった。
硯に筆を置いてひゅうと息を吐くと、与那国は大きく伸びをした。
格子窓から透き通す明かりが、ちらちらと舞う埃を照らす。
その隙間から、筆を持ったまま弥助が覗き込んでくる。
「やすむ?」
「ああ、少しな」
そう言って与那国は小さく微笑むと、おもむろに立ち上がる。
吉右衛門という壮年が訪ねてきた明くる日の昼であった。
家の中にはお松はおらず、与那国は既に日課となった弥助への勉強を行っていた。
お松はというと、曰く「洗い物だよ」と言って出払っている。
今に至るまで、件の事が話題が出ることは無かった。
しかし与那国はそれを無理に話そうとはしなかった。
あの出来事、のっぴきならぬ剣呑さを感じてはいたが、奇妙な縁はあれど、
所詮流れ者の自分が踏み込むべきではないと思ったからである。
この辺りが潮時だろう、と与那国は考えていた。
弥助はたどたどしいながらも普通に会話が出来るほどには成長しており、
もはや自分が居なくとも言葉は覚えられるであろうところまで来ている。
成り行き程度の恩義の返物としては申し分ないであろう。
そんなことを考えながら、与那国は水を飲むため台所の水瓶へと近づく。
しかし瓶の蓋を開けると、そこには僅かばかりの水しか入っていなかった。
汲み置きが無くなっていたか、と与那国は面倒そうに頭を掻く。
「ちょっと一人でやっていてくれ、井戸に行ってくる」
と弥助に言い、桶をかつぐ与那国。
弥助の素直な頷きを見届けてから与那国は戸を開ける。
ゆるりとした空気が、途端に切り裂かれる気がした。
戸を開け、目に飛び込んだのは、見覚えのある壮年。
吉右衛門である。
一瞬驚き、それから壮年の真剣な目を見やるや、与那国はちらりと弥助の方を見やる。
そして手元の半紙に意識が向いていて壮年の存在に気付いていない事を確認すると、そっと後ろ手で戸を閉めた。
そして身振りだけで 「向こうへ行こう」 と促すと、吉右衛門は無言で頷きそれに従った。
家から少し離れた古井戸のある場所まで二人は歩く。
与那国はやおら持っていた桶を下ろすと、井戸脇の釣瓶を手に取りながら口を開いた。
「すまんな、こんな所まで」
「何を言うか、気を使って頂きこちらこそ有難く思う。弥助様を怯えさせぬ配慮であろう」
そうしてまた昨日のように礼をする吉右衛門を見て、与那国は苦く笑いながら釣瓶を手繰る。
「残念だがお松は居ないぞ、洗い物だそうだ。時か日を改めるんだな」
「洗濯、か……」
軽く言った言葉に、吉右衛門は過剰に顔をしかめる。
「主は、花枝様、いや、主にとってはお松か。彼女が何を洗っているか、知っているか」
「む、ただの汚れ物であろう」
「……」
そうして辛そうに俯く吉右衛門。
洗濯。そういえば、僅か十日ばかり前ではあるが、初めて会った時にも彼女は洗濯をしていた。
元の姿に戻り、日の当たる川の縁で、子守唄を歌いながら。
今日もあそこで洗濯をしているのだろうか、あの時の姿で歌いながら。
吉右衛門は思考を払うように頭を振り、それからすっと与那国の目を見つめる。
その表情は真に入ったものであった。
「今日は花枝様に会いに来たのではない。主に、与那国殿にお願いを申し上げに参ったのだ」
「俺に?」
「うむ」
言うが早いか、唐突の出来事であった。
吉右衛門がいきなりがばりと地面に掌と膝をついたのである。
そうして額を地面にこすり付けるように頭を下げると、
「与那国殿、何卒お願い申す! 桜忠家をお助け頂けぬだろうか!」
と、吉右衛門は大声で叫んだのであった。
あっけに取られた与那国の手から、釣瓶がすり抜け井戸底へと落ちていく。
小気味の良い大きな水音が響くと、ようやく与那国は慌てて彼へと駆け寄り、肩を抱えるように持ち上げた。
「いきなりどうした、俺には全く話が見えんぞ。そんな事をされても迷惑だ」
「ぬ、む、むぅ」
吉右衛門は己がした事を恥じると、「面目次第もござらぬ」 と頭を下げる。
「しかし、最早頼めるのは主しかおらぬのだ。弥助様をお助け頂いた、与那国殿しか」
「だからそれは成り行きで……まあ、それはもう良い。まずは立ってくれ」
そうして素直に立ち上がると、恥の混じった顔で吉右衛門は言う。
「儂は些か、情が昂ると目の前が見えぬようになってしまう気があるらしい。ご無礼致した」
「俺は気にしてないので、別に良い。……それよりだ」
大きくため息を一つ吐き、それから与那国はこう言った。
「まずは色々と教えてもらおう。
救うだの救わぬだの、何を言っているか分からぬが、それよりも分からぬ事が積み重なり過ぎているからな」