枯れ葉を踏む音。
乾いた土の感覚が草履越しに足に伝わり、身体が沈む。
ひゅうひゅうとした冷たき風が柳を撫ぜ、その穂束を揺すっている。
柳穂の向こう、枯れ色の中に、やがて石造りの階段が姿を見せた。
二人はそこを登っていく。
二人とは、与那国と、そして半刻ほど前に久光吉右衛門と名乗った壮年である。
十段も登らぬ内に、朱の煤けた鳥居が姿を見せるや否や、すぐにこじんまりとした境内が目に入った。
その端で、袈裟姿の老婆が一人、ほうきで枯れ葉を集めている。
吉右衛門がその老婆に向かって歩き出すと、老婆は顔を上げるや否や、大層驚いた顔をして、
「これはご家老! 気が付きませんでして!」
と破顔した。
それに吉右衛門は困った顔をして、「あまり大声でそれを言うでない」 と苦く笑う。
「急ですまぬの、住職。一つ、部屋を貸して欲しいのだが」
「は、部屋でございますか」
「うむ」と吉右衛門が小さく頷くと、住職はちらりと与那国の顔を見て、それから破顔し、
「かような小汚い寺で良ければご自由に。少し片付けて参りますれば、暫しそこでお待ちなされよ」
と、二つ返事で本殿の奥へと入っていった。
それを見送りながら、与那国は吉右衛門に「随分と話が早い事だ」と言う。
その言葉に吉右衛門は、「言ったであろう、馴染みだとな」と、小さく笑みを浮かべた。
確かに半刻ほど前、吉右衛門はそう言っていた。この壮年が名乗ったすぐ後の話である。
あの後、与那国はすぐに吉右衛門へと事情を尋ねんとした。
しかし吉右衛門は険しい表情で「ここでは話をし辛い」と言い、そしてこの寺に連れて来られたのである。
曰く、顔馴染みの住職が居る寺があるとの話であった。
弥助も付いて来ようとしてはいたのだが、与那国は話の内容になにか只ならぬ雰囲気を感じ、それを止めた。
そして彼と会った事をお松に言わぬよう口止めし、家に置いてきたのである。
弥助には「祭の準備の様子を見てくる」と言うように伝えてある。
齢十にも満たぬ童ではあるが、あれで伝われば良いのだが。
「弥助様が心配か」
ふとめぐらせていた思考が、ぴたりと当てられたようだ。
顔に出ていたのであろうか、与那国は頬に手を当てて口端を苦く持ち上げる。
「さとりが心中を読まれるとは、形無しだな」
「違うない」
そう言ってにやりと笑う吉右衛門。
「ま、問題あるまい。弥助様は聡明ゆえな」
「何故言い切れる」
「眼、じゃ」
「眼?」
「左様。あれは、先代によう似ておられる。あれは、良き眼じゃ」
そう言って吉右衛門は目を閉じる。まるで瞼の裏に何かを見ているかのように。
いや、おそらく見ているのだろう。その、先代と呼ぶ人物を。
その人物について与那国が尋ねようとした瞬間、本殿の入り口ががらりと音を立てて開く。
音の鳴る方を見やるや、そこには袈裟姿の老婆がにかりと歯を見せて笑っていた。
「遅うなり申し訳ない。ささ、こちらへどうぞ。熱い茶もあります故」
そう言われて己の身体が冷えている事を思い出す。
どのみち、全て尋ねる事。
茶でも馳走になりながら、ゆるりと聞くことにしよう。
与那国は先に歩く吉右衛門の背中を見ながら、そう思った。
「改めて名乗らせて頂こう。わしはこの永盛四万石を治める桜忠家の家老、久光吉右衛門と申す」
吉右衛門は開口一番にそう言った。
通された寺の一室。
ひんやりとした、畳を敷き詰めた部屋である。
元は寝室であろうか。縁台に続く障子戸を除いて、二方が襖に囲まれた小さな部屋だ。
半開きの障子戸から光が漏れ込み、時折差し込む静かな風が頬をくすぐる。
与那国は茶を一口すすり、湯気の中で答える。
「俺はさとりという妖だ。人の世では与那国と名乗っている」
「どちらで呼べば宜しいか」
「どちらでも」
「うむ」と頷く吉右衛門。
そして深々と頭を下げると、
「では与那国殿。改めて、弥助に言葉を教えてくれた事、感謝致す。この御恩、誠に返しきれる物ではない」
と重々しく言う。
それを手で制す与那国。
「そう頭を下げなくとも良い。こちらも向こうへ恩を返したまでの事だ」
「一宿一飯というやつか」
「素性も分からぬ俺に、同じ妖の馴染みというだけでな」
既に吉右衛門は『通し』により大枠の事情を知っている。
それ故に吉右衛門は、「そうか」の一言で頷くのみであった。
「ここへは暫く居るつもりかな?」
「あて先も無い旅暮らしなものでな、飽きたらまたどこへでも行くよ」
「左様か。手前味噌だが、この辺りは水が良く、酒が良い。与那国殿はいける口かな」
「ほどほどに」
「そうか、そうか。では近いうちに、馳走に参るぞ。与那国殿には礼の一つもせねばな」
と、吉右衛門は満足げに笑う。
一方の与那国は怪訝な表情を浮かべた。
「分からぬ」
と与那国。
「何がだ?」
「俺は妖ではあるが人の世界に長く暮らしている。ご家老ともあれば大層位が上の人間だという事は俺にも分かる。
何故そんな人間が、旅に暮らす見ず知らずの俺に頭など下げるのだ」
「……それは」
与那国の言葉に、吉右衛門は途端に慌てた顔を見せ、口を噤んだ。
与那国は続ける。
「その様な者が、何故お松の子を敬うのだ」
吉右衛門はいよいよ額に汗を浮かべ、身じろいだ。
恐らくは予め言う覚悟をしてはいたのだろう。だがいざとなって踏ん切りが付かぬものと見える。
それを見て取れたので、与那国は何も急かさず、促さず、ただじっと待つばかりであった。
暫しの間。
「他言、無用ぞ」
数秒の躊躇いの後、吉右衛門は念を押す。
与那国は無言で頷く。その表情に影は一つもない。
吉右衛門は茶を一口、それから大きく息を吐いた。
「―――お松様、いや、花枝様の子は、かつての我が主の子でもあるからだ」
ぱしり、と家鳴りがした。
長き間が続く。
誰も話そうとしない。
無音である。
吉右衛門の額には、じっとりとした汗が浮かんでいる。
「かつての主とは、つまり」
与那国が口を開くと、吉右衛門は無言で頷き、
「桜忠家第十六代目当主、桜忠宗吾の嫡男であり、次期当主であられた桜忠清次郎様である」
そう答えた。
与那国は無意識に茶をすする。
そして己の喉がひどく乾いていた事に気付く。
「加えて言うならば、清次郎様は死ぬまで花枝様以外の妻を娶らなかった。また、弥助以外は子も為しておらぬ」
「それは」
つまり、弥助は本来であれば桜忠家を継ぐ次期当主という事になる。
それが何の因果でこの様な。
「今の当主は」
「形の上では先代が務めておる。しかし、既に病に伏せられており、あと幾らも持つか分からぬ」
「そんな境遇の者が、何故あのようなあばら家に住まわせているのだ。城なりどことなりと住まわせれば良いだろう」
「わしとてあのような場所に住まわせたくは無い。しかし駄目なのだ。花枝様が頑としてあそこを動こうとせぬ」
そう言って、悔しげに首を振る吉右衛門。
「生活に不自由の無いよう十分な援助はしている。しかしその金も生きる最低限にしか使われておらぬのだ」
「何故、その様な」
「……責めておるのであろう。己を」
「責めている?」
ため息を一つ。
音は無い。ただ静かなままである。
「花枝様は、未だあの事件の事を、己のせいだと悔いておるのだ」
「事件?」
「―――かつての我が主、清次郎様がお亡くなりになった事件よ」
強い語調で、壮年は言う。
強く握りしめられた手は、微かに震えていた。