「事の起こりは二十と四年も昔の事よ。桜忠家の持ち城に、とある女性が幼き娘を連れ立ってやってきたのが始まりだった」
吉右衛門は静かに語り出す。
与那国はただ吉右衛門を見据えるばかりである。
「名を桔梗と言ってな、年の頃は二十と幾つか、娘の方は二か三。丁度今の花枝様と弥助様のご年齢と似通っておるの。
かの桔梗と名乗る女が連れた子供こそ、花枝様であった」
そうして壮年は少しだけ目を細める。何か懐かしいを思い出すように。
「間もなく桔梗は遠縁のつてとかで、桜忠家の侍女として働き始めた」
「侍女として、母親が、か」
「大層気の届く、働き者の女性であったよ。今思えばお顔も花枝様によう似ておられたな」
「遠縁のつてとは?」
「それは分からぬ。だがそう聞いておったし、特に気にもせなんだわ」
与那国は思い出していた。前にお松から聞いた、幼き頃の話を。
同族の村より外に出て、人里で暮らし始める話。
妖と桜忠家に何のゆかりがあったのだろうか。
「女性は働いた。花枝様の為であろうそれは、時に身体を壊す程であった。
それでも己を誤魔化すようにして、彼女は働き、働き続けた。身を粉にしてな。
城内での聞こえも良く、ただの侍女でありながら、彼女の評判は当時奉行位であり、清次郎様の目付け役でもあった儂の耳にも届く程であった」
恐らく、彼女は己の居場所を作っていたのであろう。
異郷の地で、異種族の城で、彼女はそれでも懸命に生きていた。幼き我が子の為に。
「そして数年が経ち、桔梗は倒れた。妖といえど無理が祟ったのだろうな。
彼女は間もなく床に伏し、代わりにその娘が城に出ることとなった」
「お松が」
「左様。桔梗は止めたが、彼女自身の願いでな。幼いなりに気に病んでいたのであろう。自分のせいで母が倒れたと。
こうして花枝様は十五の頃に奉公に出た。働き、母の看病に努めた。
働き者の桔梗は城の者にも慕われておってな、城の者共も良く見舞いに行っておったようだ。
しかし、そのかいも無く……それから三年と経たずに、彼女は命を落とした」
「……命を?」
与那国は疑問の声を上げる。
老いず、病まず、永遠にも生きうる妖にとって、三年は短い。恐ろしく短いのだ。
そして、永遠を生きる妖にとって、死の可能性は一つしかありえない。
それすなわち、他の者、あるいは自分の手により傷がつき、殺されるというのみである。
お松の心中たるや、想像を絶するものだっただろう。
同族を捨てた今や、幼き彼女にはたった一人の拠り所なのだ。
そんな彼女の拠り所は、何かの理由で死を与えられた。
ましてやそれが母親である。正気でいられる筈が無い。
「十日十晩、花枝様は泣き続けておったよ。
城の者共も気を使って、そっとしておいた。何と無く後ろめたい気持ちもあったのであろう。
その話は我が主、清次郎様も聞き及んでおった。
そして清次郎様は花枝様が篭って丁度十日の晩に、彼女に見舞いに行ったのよ」
「一介の侍女に対してか」
そう聞くと、吉右衛門は小さく首を左右に振った。
「桔梗は一介の侍女などでは無いのだ。少なくとも、我々にとって。いや、清次郎様にとってはな」
「どういう事だ」
その問いに答えるでも無く、吉右衛門は小さくため息をつき、茶をすする。
与那国も続くように茶を口に運ぶと、既にそれは冷え切っていた。
間を置いて、吉右衛門はおもむろに口を開く。
「あれはそう、丁度今頃の季節。濃い秋の夕暮れが映える日の事でな―――」
遠巻きに犬の声。
それを目で追うと、山向こうに大きな夕陽が重なっていた。
「暮れますな」
言いながらおもむろに、小脇の木箱を開け、懐紙で包んだ打ち石と火種箱を取り出す吉右衛門。
それを手で制し、隣に立つ少年が口を開く。
「要りませんよ吉さん、もうじきに着くんでしょう?」
「しかし清次郎様、足元が危のうございますれば」
と険しい表情をして言われた言葉に、清次郎と呼ばれた少年は「吉さんは過保護ですねえ」とカラカラ笑った。
それを聞いて、吉右衛門はばつの悪い表情を浮かべながら、先ほど取り出した物々をしまい込む。
顔にまだあどけなさの残る、歳の頃十四か五になろうかという少年である。
柔和げな相貌が、今はその笑いによって更に和らいでいる。
「それにしても、彼女に何と申すのですか。清次郎様は」
再び歩きだす清次郎を追いながら吉右衛門が聞くと、清次郎はあっけらかんに、
「分かりません。まあ、着いてから決めますよ」
と答えた。
吉右衛門は歩みは止めずに額を抑えると、小さくため息をつく。
そもそも、こんなこと、見たことも無ければ聞いたことも無い。
洛中の評判はあれども、たかが侍女の一人を相手に次期当主自らが出向くなど前代未聞である。
だがこの御方は自分が善きと信ずる事であれば、行うに何も躊躇わぬ事を、吉右衛門は知っていた。
なので吉右衛門はここまで供をしてきたのだ。
のではあるが、そうは言ってもやはり気は重い。
身分がどうのなどを言う気はさらさら無い。
今から向かうのは、元はといえば我ら自身が招いた不幸であるからだ。
直接的には知らなんだとはいえ、結果的に母親を殺したのは、我々なのだ。
それは上に立つ我々の責が最も重い。
そしてそれより何よりも、彼女の母親を、清次郎はよく知っていた。
何故かといえば、それは―――。
「あそこ、ですかね」
その声に吉右衛門の思考は断ち切られる。
ふと顔を上げると、小さな竹藪の中に民家が一つ。
いつの間にか家に着いていたようだ。
「はい、ここが件の侍女の家にございます」
「そうですか」
そう言って、臆さず進む清次郎。
慌てて後を追う吉右衛門。
そうして大戸の前に立つと、なにやら微かに声が聴こえた。
それは静かな、すすり泣きであった。
悲壮の感を内に殺すような、静かな、静かな泣き声である。
十日と聞いていたが、一体、どれほどの思いがあったのであろう。
それは余人には到底計り知れないものである。
その感に思わず胸の締め付けられ、息を飲む吉右衛門。
清次郎の顔にも影が見える。
しかしそれでも、清次郎はおもむろに口を開いた。
「もし」
戸越しに一言。
それで声は止んだ。
「もし」
更に一言。
すると戸の奥から、
「誰」
と、蚊の鳴くような声で、女が答える。
それはまるで人形のような、無機質な声。
思わずもう一度息を飲む吉右衛門。
「清次郎と申します。もし、良ければ少し、中でお話してもよろしいですか」
間を置いて。
「帰って」
と、返ってくる。
「あちしはここで、朽ちて、」
「死ぬのよ。」
「もう、何も、何もかも。どうでも良いんだ」
続けて、静かな静かな透明な声で、戸越しの女はそう言った。
途端に、吉右衛門は身震いする。
彼女の声には信は無く、芯も無く、真だけが詰まっている。
己への信も、世への信も、最早何一つ残っていない。
さながら生きながら死んでいる、幽世の呻き、そんな声である。
「清次郎様、無理です」
吉右衛門はそう言って左右に首を振る。
彼女はもう、死んでいる。奇跡的に、かろうじて生きているに過ぎないのだ。
これになんと声を掛ければ良いというのか。
何を救えるというのか。
我々に。
しかし、清次郎はそれでも、吉右衛門に向かって微笑んだ。
そうして再び戸に向かって、こう声をかけたのである。
「貴女の母、桔梗さんを、僕はよく知っています」
戸の向こうが、微かに揺れる。
清次郎にもそれは伝わってきていた。
一泊置いて、彼は口を開く。
「桔梗さんは、僕の母でもあったからです」
ひゅぅ、と、吉右衛門の喉が困惑に鳴る。
それは、と慌てて声を出さんとする壮年を手のひらで制し、清次郎は続けた。
「あなたの母は、僕の乳母でした。
僕の本当の母は、僕を産んでから、若くして亡くなりました。
僕は貴女の母の乳で生きてきました。
僕は、貴女の母に、桔梗さんに、生かしてもらいました」
ぽつりぽつりと語る声。
それの全てが事実である事を、清次郎の母の最後を看取った吉右衛門は知っていた。
そしてそれは、永盛の秘する所でもあるのであった。
清次郎の語りにあった通りである。
今より昔、清次郎が母を失ったのは、まだ産まれたばかり、乳飲み子の時分であった。
丁度そのころ間が悪く、城内には目立って乳の出る女は居なかったのである。
そう、桔梗という侍女一人を除いて。
城下の村から取り立てる事も出来たが、信頼の置ける人間が良いとのこともあり、城内で評判が良い彼女に白羽の矢が立った。
そうして母の代理はすぐに立った。そして、桔梗もそれを承諾した。
ただし、桔梗は我々に一つだけ約束を取り付けた。
それは己の存在を秘する事。
大名の乳母ともなれば、それ相応の権力が付き纏うことが必定。
それを彼女は嫌ったのである。
何故かは分からぬが、彼女はそれを嫌っていた。
城内の人間にはよく接するが、決して城の外に目立つ真似はしなかったのだ。
そうして彼女は莫大な富を受け取る事も出来たが、それすらも目立つからと断り、僅かばかりの恩賞で、清次郎へと乳を与え続けた。
間もなくして清次郎の乳離れがあってからも、彼女は引き続き世話役を買って出た。
何か思う所があったのであろう。彼女は代理とはいえ、まさしく母であったのだ。
奇妙であったが、つまりは、清次郎とこの女性は、互いに腹も違えば父さえ違うが、同じ乳を飲み生きている、一種他人とも言えぬ兄妹のような存在なのである。
戸の奥は無言であるがしかし、空気の震える音と、息を吐く音は、ありありと聞こえた。
そしてそれから大きく十と幾つかの間を開けて、戸の奥から声が聞こえたのである。
「あなた、誰」
それは無機質な声だが、小さな震えが混ざっていた。
清次郎は、真摯な表情で、真摯な声で、こう答える。
「僕は清次郎。永盛四万石の次期当主、桜忠清次郎と申します」
それから辺りはしんと静まった。
ただ三者の息遣いだけが、辺りを満たしていた。
吉右衛門は自分の背中にじっとりとした汗が浮かんでいるのを感じる。
秋だというのに、妙に息が熱く、呼吸がしにくかった。
目眩を覚える程の、実際にはそれから恐らく十と数秒の後に、
戸の奥から声が返ってきた。
「―――お好きに。戸なら空いてるから、さ」
その声は、先程までの、まるで感情の色を失った物では無く、
泣き声の混じり合った、若い女性の声であった。