人里の端に、一軒の家がある。小ぢんまりとしていて、外から見たら板を張り合わせただけの小屋とも見えた。立てつけが悪く、開くのに時間がかかる戸を動かし中に入れば、本当に人が住んでいるのか疑問に思えるほどに物が置かれていない、四畳ほどの広さの部屋が広がっている。あるものと言えば、特に何も並べられていない棚と卓、そして薄汚れた布団のみ。この家の主は、お世辞にもいい生活を送っているとは言えない類の人間であることは明瞭であった。
外はまだ日が昇り始めたばかり。しかしこの家の中に人の気配はない。当然のことではあった。
今彼は、仕事に出ているのだから。
○
人里近くの森に、その男はいた。黒髪黒目、一目見て日本人とわかる容姿である。身長は百七十前後と言ったところか。少年とも青年ともつかぬ顔立ちである。纏う空気は泰然としており、日は昇り始めたが未だ暗い森の中で、一点のみに視線を向け立っていた。その先にいるのは、一匹の中型犬。いや、ただの犬ではない。男を睨むその目は妖しく光っている。妖怪に相違なかった。そんな視線を真っ向から受けている男は、しかし動じることはない。彼の表情はあくまで涼やかに、まるでこんな事は日常だとでも言うようであった。
微かな風が、男の着ている黒い外套を揺らす。そしてそれが合図だとでも言うように、妖怪が動いた。落ち葉が舞う。通った後を見ると、地面に落ちていた枝が跡形もなく粉砕されていた。体の大きさに関わらず、その力は強大であるようだ。
風のような速さと、重機のような力。男のように、見るからに普通の人間では到底勝ち目などないに違いない。だが、男は一向に動かない。妖怪が捕食しようと大口を開け肉薄する。
「ぐるぁ?!」
――しかし、その牙が届くことはなかった。困惑の声を上げた妖怪は、何が起きたのか、男の足元に転がっていた。息も絶え絶えで、苦しげである。口の端からは血が流れ出ていた。男はその状態を確認した後、しゃがみ込み妖怪の体に手を触れた。そして念を送るかのように目を瞑る。
「ぎっ……」
少しして、妖怪が小さく呻いたかと思うと、呼吸は止まり声も聞こえなくなった。
「……はあ。時間がかかるな、このやり方は。近づくことには変わりないんだが……」
言いながら男は立ち上がり、自分の外套に血が付着していないことを確認した。
「まあ、いいか」
そうして二、三言呟くと、人里へ向けて歩き出すのであった。
○
人里に着くころには、程よく明るくなっていた。時間で言うならば午前六時くらいだろうか。人通りと言うのは少ない。動いているのは、開店準備に追われている蕎麦屋や甘味処などの飲食店に、日用品を売っている道具屋、作物の様子を見に行こうとしている農家の人間くらいのものだろう。
人里に戻ってきた男は、少しずつ動き始めている人里とは反対に、今から休むところだ。それらの様子を一瞥して、男は自分の家へ入った。
「ただいま……と言っても誰もいないか」
「いえいえ、私がいますよ。おかえりなさい」
「……はあ」
誰もいないはずの室内には、なぜか我が物顔で部屋の中央に陣取って座っている、男とは知己の鴉天狗がいた。その手にはどこから持ってきたのか湯呑があり、卓の上には急須が置かれている。どちらも男が所有しているものではない。
「どうして、いる」
「さあ、どうしてでしょうかね」
会話にならないと悟ったのか、男は鴉天狗を無視し、布団に潜り込むことに決めた。外套を脱ぎ適当に隅へ放る。鴉天狗の横を通り抜け、その奥にある布団まであと少しと言ったところで、袖を引かれた。
「あややや、ちょっと待ってくださいよ。私暇なんですから」
「なら寝ていろ。わざわざここに来る理由などないだろうが」
「え……まさか、それを私の口から言わせる気ですか?」
鴉天狗は急に弱々しい口調となり、頬を赤らめ上目づかい。普通の男ならば赤面すること請け合いなのだが、彼にはどうにも通用しないらしかった。どこまでも冷たい視線を鴉天狗に向けている。
「あれ、その反応はおかしいかと」
「ふざけた奴にはこれで十分だ」
連れないですねえ、と鴉天狗は呟く。
「まあ、貴方らしいと言えば貴方らしいのですがね。逆に恥ずかしがられたら私が辛いので。主に腹筋が」
「君は恥も外聞も捨てて、気持ちいいくらい笑い転げるだろうな」
男は鴉天狗と話しつつ、寝ることは諦めたようで、卓を挟んで鴉天狗と向き合うように座った。ぎし、と床が鳴いた。
「それで、何の用だ」
「いえいえ、先ほども言いましたが暇なんですよ」
「阿呆。君が来るのは大抵、新聞のネタが尽きた時だ。今回もそうだろう」
ばれましたか、鴉天狗は誤魔化すように苦笑した。そしていつの間にやら湯呑と急須の代わりに、手帳とペンが卓上に出ていた。鴉天狗はにんまりと笑い、男は諦めたように天を仰ぎ見る。
「さあ、妖怪の妖怪退治屋の話、じっくりと聞かせていただきましょうか」
男の視線の先には、苦しげに呻いているような染みがあった。
まるで今の自分の心境のようだ、男は思った。