「うあー……」
がんがんと痛む頭に手を当て、私は執務室の天井を仰ぐ。
体が重い。胃の奥からこみ上げてくる感覚はどうしようもなく不愉快だ。
正直お腹も少しすいてはいるのだけれども、食べる気にはとてもじゃないけれどなれなかった、
まあ要するに二日酔いだった。
「飲み過ぎです、提督」
とっくに仕事を始めるべき時間だが、未だにソファに寝転がって唸っている私を見て、妙高は呆れ果てた様子だった。
吐き気にむかつき、倦怠感、頭痛……そういった諸々の症状に襲われた私は最早、呻くことしかできない不気味な置物である。
何とか気張って着替えて執務室までやって来たものの、正直執務は遠慮させていただきたい。鏡を見た時も顔真っ白だったし。
そんな私を見かねてか、妙高は水と薬を差し出してくれる。
「提督……これ以上お説教はしたくありませんが、本当にお酒は程々になさってくださいね」
「ごめん……」
妙高の言葉に、私は力なく応じる。
体を起こして水を受け取るが、飲むのも一苦労だ。というか気持ち悪いのであまり飲みたくない。
けれども二日酔いには何よりも水だというのは経験上知っている。ちなみに二日酔いに効く薬というものが、だいたい吐き気やむかつきを押さえるだけで、このどうしようもなく悪い気分が抑えられるわけではないというのも経験で知っている。
でも飲む。吐き気が少しばかり抑えられるだけでもマシだから。
薬を舌に乗せ、何とか差し出されたコップに注がれた水を飲み干し、再び横になる。
目を閉じると、体中の血液がどろどろとしているような感覚に襲われる。もういっそ血を抜いて水を注いでやりたい。そうしたら楽になるのではないだろうか――本当に楽になるのでダメか。
くだらないわーあたまいたいわー寝ていたいわー。
回らない頭で、今日の予定を思い出そうと記憶に沈み込む。
夜には演習に出ていた、不知火と夕立を加えた第2、第3艦隊が甲浦港に到着する。
既に受け入れや補給の手配は済ませているので、これは問題ない。定時報告でも特に問題は起きていないということなので、明日の昼には全員無事に帰ってくるだろう。
上への報告書を書いたり書類に目を通したり決裁したり――鎮守府では提督の承認が無ければ動かないことは多いから、事務仕事は尽きない。
けれどもヤマトさんのことを除けば、最近は組織として大きな動きをしていない。昨日今日で申請された急ぎの書類が無ければ、少し休んでいても問題ないはず――。
その考えに至った私の口からは、既に言葉が零れていた。
「やっぱり午前は休むわ……」
「それが宜しいかと思います」
妙高が嘆息を漏らすのが聞こえて、私は身体を縮こまらせる。不甲斐ない提督で申し訳ない。
でも、自業自得とはいえこの体調はあまりにも宜しくない。
最近落ち着いているとはいえ、いつ深海棲艦がやってくるかは分からないのだ。いざという時に指揮が取れないのでは困る――なんて考えて、そんな常識的判断はもう少し早い段階ですべきだったわね、と脳の片隅で小さな自分が主張した。
早くも霞がかってきた意識の端で、ばさり、という音を拾う。
力なく瞼を開いた私のぼやけた視界の隅で、人影が毛布らしきものを広げているのが見えた。妙高が仮眠用の毛布を引っ張り出してくれたらしい。
「お休みになるのであればこちらを。あまり体を冷やしてもいけませんので」
そう言いながら妙高は私の体に毛布を掛けてくれた。
妙高の手が私の胸元で毛布を引っ張り、位置を調整してくれる。
「私の方で急ぎの仕事は選別しておきますので、ごゆっくりお休みくださいませ」
傍から気遣う言葉をかけてくる妙高が母のようで。
そのせいだろうか。ついぽろりと弱音を吐いてしまった。
「本当にごめんなさい……提督失格だわ……」
酒を飲み過ぎて仕事に支障が出るなんて、多くの艦娘の命を預かる提督という職務にあるまじき失態だ。
そう思って呟いたのだが、それを聞いた妙高の手が止まった。
唐突に動きを止めた妙高が気になり、目を開く。
妙高は、きょとん、とした顔でこちらを見ていた。
驚いたように、あるいは不思議そうに。
ほんの少し見開いた目と視線が合った瞬間、ふふふ、と妙高は可笑しそうに笑った。
「いいえ。提督は、とても素晴らしい提督だと思います」
和子の安らかな眠りを妨げたのは、耳障りな緊急通信の呼び出し音だった。
アラートにも似たその音は非常事態を告げるもので、その音を聞いた瞬間、まだ覚醒しきらない意識を追い抜いて反射で体を起こす。
唐突に呼び出し音は止まるが、相手が通信を諦めたわけでは当然ない。秘書艦席に座っていた妙高が受話器を取ったのだ。
「はい提督執務室。…………はい。少々お待ちください」
電話に出た妙高は起き上がった私の方をちらりと見てそう答えると、電話を保留にした。
厳しいその表情に、何が起きたか察しつつも問いかける。
「何があったの」
「第2・第3艦隊を護衛中の護衛艦の艦載ヘリが攻撃を受けました。深海棲艦です」
少しはマシになっていた気分は最悪に舞い戻った。
ここ暫く平和だったと思っていたけれども、よりにもよって訓練中の艦隊を狙ったかのように現れるなんて最悪だ。
すぐに立ち上がって受話器を受け取る。
気分は最悪だが、二日酔いの症状は多少抜けた。戦闘指揮も問題ないだろう。
受話器に耳を当て、保留を解除する。
「状況は」
『はっ。1143、第2・第3艦隊に随伴中の護衛艦やまぎり所属のSH-60が警戒任務中、航行中の深海棲艦を発見。敵航空機1機と交戦、損傷。現在離脱中。確認できている敵戦力は重巡1、軽巡1、駆逐2、不明2。現在第2・第3艦隊は護衛艦やまぎりに一時収容し訓練兵装から再艤装中です』
不明2か、と頭を悩ませる。
12隻と数の上で勝るとはいえ、その実8名が訓練中の艦娘だ。もし不明2が戦艦を含むのであれば、相手取るには荷が重い。離脱すべきだろう。
護衛艦の足は深海棲艦にも勝る。ひとたび捕捉されれば護衛艦の図体で回避行動を取りながらの離脱は難しいけれど、その前であれば十分可能だ。
航空戦力の問題はあるが、そちらであれば通常兵器でも一定の効果はある。まして練度が低いとはいえ、駆逐艦10隻の対空砲火があれば余程のことが無い限り致命的な損害は受けないだろう。
一方で、不明2がもし駆逐艦であれば実戦を経験させるのには丁度良い相手だ。
どこかで実戦を経験することは避けられない。数に勝る状況下でそれが出来るのであれば望ましい。
――が、大事な艦娘たちで賭けをするつもりはない。
「分かったわ。第2・第3艦隊はやまぎりに乗艦のまま離脱。第1艦隊の出撃準備。警報と輸送ヘリの準備を」
『了解しました』
受話器を置いた直後、耳障りなサイレンが基地中に鳴り響く。
二日酔いの頭に響くが、そんなことも言ってられない。
「妙高も出撃準備。不知火たちと合流して深海棲艦の殲滅に当たって」
「畏まりました。この妙高にお任せください!」
おどけるようにそう言って妙高は執務室を飛び出していき、私もそれを追う形で出る。もちろん向かう先は別だ。
基地の地下にある戦闘指揮所へ向かいながら考えるのは、敵のこと。
離脱を選択したが、見過ごすわけにはいかない。それに相手も恐らくそうだろう。やつらは必ず追ってくる。
最悪のケースで考えれば、戦艦2隻・重巡1・軽巡1・駆逐2。
この場合、訓練中の子達は戦闘に参加させるのは避けたい。妖精さんたちは必死に守ってくれるだろうが、戦艦の一撃はあまりにも恐ろしい。
それならむしろ不知火、夕立、天龍、龍田たちだけで当たらせた方が良いだろう。訓練中の子達を庇いながら戦うより、そちらの方が勝率は高い。
ずっと戦ってきた彼女たちは、戦艦を含む艦隊でも相手取ることができる程度に練度は高いのだ。流石に撃沈は厳しいかもしれないが、撤退に追い込むことは不可能ではないだろう。
とはいえ出来れば第1艦隊が合流し、万全の体勢で臨むのが望ましいのは言うまでもない。
敵艦が空母2隻ならどうか。
しかしそうであればむしろ与しやすい。訓練中の子たちはやまぎりの護衛として対空戦闘に注力し、不知火達が敵艦に当たればいい。
だが、その可能性は低いだろう。もし空母の航空戦力があればSH-60は離脱することは出来なかったはずだ。
おそらくは航空巡洋艦か戦艦の哨戒機。だから追撃を仕掛けてこなかったとみるべきだ。
いずれにしても、不明艦の確認が急務だ。
不測の事態に備えるために仮定や想像は必要だが、まずは元となる情報が揃ってこそだ。
それに往々にして、想定外の事態というのは起きるものなのだから。
そんなことを考えているうちに、戦闘指揮所に到着する。
意図的に照明を落とされた暗い室内で、戦術システムのディスプレイに照らされながら多くの隊員が慌ただしく動き回っている。
入室して中央の提督用の席に着けば、早速報告が上がってくる。
「提督! SH-60が堕ちました……! やまぎりより南におよそ2kmの地点、乗員4名は脱出。不知火・夕立・龍田が救助に向かった模様」
良くない状況に思わず舌打ちしかけたが、堪える。状況に相応しい行いではない。
損傷がひどく着艦まで至れなかったらしい。だが、着水に近い状況。それを見ていた不知火達が即座に飛び出したということのようだ。
彼らが脱出できたのは間違いなく良いことだ。だが、救助しなければいけないということでもある。
つまり離脱できない。
「会敵予測は」
「やまぎりにまっすぐ向かってくるようであれば、およそ35分後には射程に入るものと推測されます」
「……何事も無ければ間に合う、か……」
不知火は間髪入れず飛び出したようだが、良い判断だった。
通常の救助手順であれば間に合ったかどうか微妙だ。だが、艦娘の速度で乗員を拾いに行くだけであればそれほど時間はかからない。
「近くの哨戒機は?」
「最寄りの哨戒中のP-3は燃料が無い為帰投中です。岩国基地より新たにP-3が10分以内に発進予定ですが、現場空域到着予定は約40分後となります。
ですが空軍がスクランブルを出してくれました。新田原基地よりF15 2機が丁度離陸。約12分後には到着予定です」
「流石の速さね」
思わず笑ってしまう速さだ。
システムで連携されているとはいえ、アラートを鳴らしてから3分程度だ。既に離陸しているのは流石としか言えない。
深海棲艦という敵が出てきてからというもの、世間では陸軍や空軍の存在感は薄い。
どうしても艦娘という深海棲艦と直接戦う存在を擁する海軍の存在感が強いからだ。
それに対して思うところもあるのだろうが、それ以上に我々は同じ思いを共有している。
――子供たちを戦わせることへの、忸怩たる思いだ。
だからこそ彼らは常に活躍できるタイミングを探しているし、協力をいとわない。
みんなにお礼の手紙を書いてもらえばきっと喜んでもらえるだろう――が、それは後の話か。
そんなことを考得ているうちに次の報告が入る。
「敵戦力について新情報です! ヘリの映像解析の結果、不明艦2隻は輸送ワ級と判明!」
「輸送ワ級? 確かなの?」
「はっ! 2隻とも武装しておりますが、輸送ワ級で間違いありません!」
輸送ワ級――深海棲艦の中での輸送艦に相当する艦種だ。
多少の武装はしているが、所詮は輸送艦。いかに訓練中の艦娘たちといえど、カモでしかない。
実戦経験を積むには最適すぎる相手――だが、問題は彼らが"ここにいること自体"だ
「……発見当時のやつらの位置と進路は?」
「高知沖約150kmの地点です。スクリーンに出します」
スクリーンに表示されている日本地図。それが拡大されて四国・九州を含む作戦海域の表示に切り替わり、敵艦隊の表示がされる。
「発見当時の予想進路は、東北東方面。恐らく黒潮に乗って移動していたものと思われます」
「……なるほどね」
それは……困った。
輸送艦がいるという事は、何かしら資材を輸送しているということだ。
だが"どこに?"
海図の上、東に視線を滑らせた先にあるのは――
「伊豆諸島……奪還に動いているの……?」
日本が取り戻した拠点の一つ。そこだった。
深海棲艦は海からやってくると一般的に言われている。
それは間違いのないことだが、では普段どこにいるのかといえば、人間と同じく海に面した基地なのだ。
海から来た深海棲艦が何故陸に基地を作り拠点とするのか、本当のところどこから来ているのか。
それは未だに分からないが、基地がないところからは深海棲艦は来ない。
実際、伊豆諸島を奪還してからは太平洋方面の深海棲艦の活動はかなり衰えた。
当然現在は我々の基地がある。とはいっても大規模なものではない。
現在の海運関係は大陸方面、日本海側がメインだ。
深海棲艦に侵された海の中で日本の領海として維持するには、伊豆諸島はあまりにも太平洋方面に突出しすぎている。
だが、敵の拠点として利用されると困る。微妙な立地なのだ。
そしてその方面に輸送艦を派遣する理由があるとすれば、恐らく攻勢の準備。
伊豆諸島付近に艦隊が集結している可能性が高い。
となると、輸送艦はここで仕留めてしまいたいのが本音ではあるが――
「――不確定要素が多すぎるか」
あまり良い予感がしない。
敵艦隊は新人が実戦経験を積むのに理想的な目標だが、合流する敵艦隊が近い可能性もある。
空軍が上空に到着して周辺偵察を済ませてからの判断をすべきだろう。
「ちなみに他の敵艦は?」
「現時点ではレーダー等では確認できておりません」
「深海棲艦相手じゃそれも当てにならないわね……」
深海棲艦は現代兵器がほとんど通用しない。それはレーダーも同様だ。
そもそも対象として小さすぎる。また、ジャミングがかかったようなレーダー反応が起き、明確に絞れないのだ。
それゆえに出現自体は確認できる場合もあるが、戦力の把握は難しい。
結局、深海棲艦相手では目視で判断するしかないのだ。
ヘリの乗員を救出する頃にはF-15が上空に到達する。
そこで確認してもらい、周辺海域に他の敵艦隊がいなければ新人のデビュー戦。
敵艦隊がいれば戦力次第だ。妙高たちが合流して潰せそうなら潰す。
ダメそうなら逃げの一手だろう。
予定だけ共有して救出作業を待つ。
幸いというべきか、ヘリの乗員は負傷しているものの全員意識があったそうだ。
艦長より収容作業の進捗報告の無線が入る中、通信越しに不知火の声が聞こえた。
『収容は今完了しました。あとは艦娘の収容を――』
『やまぎり! 魚雷発射音がしました! 4時方向近い!』
『――警報! 緊急出力取り舵20!』
艦長の判断は早かった。だが通信を切る余裕はなかったようで、艦橋の指示が通信に乗り続けた。
『警報発令警報発令本艦は緊急回避行動を取る乗員は体を固定せよ繰り返す本艦は緊急回行動を取る乗員は体を固定せよ』
『機関最大緊急出力』
『取り舵20』
『方位095に雷跡4本艦に接近!! 距離約700!』
『進路を275に合わせ!』
『CIWS起動魚雷に照準』
明確で、声は大きいが冷静な声だった。
だが、
「近すぎる……!」
誰かが呟いた通りだった。
そもそも深海棲艦の魚雷は小さすぎて発見がしづらい。そのくせ威力は通常の船を撃沈し得る。
恐らくは数十秒。艦娘であればあるいは回避可能かもしれないが、護衛艦の図体でこの距離の回避は――
『アルファ3距離100避け切れません!』
『総員衝撃に備え!』
轟音。
呻くような声と様々な軋みが聞こえ、そして通信が切れた。
突然の静けさ。誰もが意識をやまぎりに向けていたのだ。
だが、戦闘指揮所が動きを止めるわけにはいかない。
「やまぎりの状況を確認。不知火の回線つなげるかしら?」
「は! 直ちに」
狼狽えてはならない。
F-15はまもなく上空に到達する。もう見えていてもいい頃だ。第1艦隊も離陸した。
出来ることをするのだ。
「不知火、通信繋がりました!」
席にある受話器の一つを取ると、いつもの冷静な声が聞こえてきた。
『不知火です』
「状況は」
『やまぎりは艦尾に被雷しました。明らかに速力が落ちているのでスクリューがやられたかと。龍田・夕立・私は離脱し無事です。天龍と新人は……こちらも無事ではあるようです』
「敵潜水艦は探知できたかしら?」
『一度探知できましたが、爆発音で見失いました。おおよその位置は分かります。おそらく1隻』
「分かったわ。爆雷装備は?」
『数は少ないですが夕立と私が。新人も2名』
「龍田に渡して夕立と向かわせて。天龍と新人もやまぎりから降ろして完了次第報告を」
『了解しました』
その言葉を聞いて受話器を置く。
潜水艦1隻。本来であれば物の数では無いが、タイミングが悪かった。
このタイミングの悪さは、嫌な感じだ。
顔には出さないが、背中に汗がにじむのを感じた。
「やまぎり、通信復帰しました」
「空軍のF15が現場空域に到着しました。上空警戒に入ります。映像来ます」
スクリーンに、海に浮かぶ小さな船が表示された。何かに引火したのか、小さく黒煙を上げている。
通信復帰したやまぎりからの状況報告によると、魚雷は直撃ではなく至近で爆発。だが右舷船尾に穴が開き浸水。右舷の推力を喪失。
片舷で航行は可能だが速力は8ノットが限界。
敵艦がまだ潜む状況下において、かなり厳しい状況だ。
最悪の状況に想像が及び、胃が痛くなってくる。
そして得てしてこういう想像は当たるのだ。
数分後、もう1機のF15から報告があった。
東に艦影12、内2隻は空母と思われ、艦載機が現在発艦中。
「————最悪だわ」
次は何年後かな……。