ある秋深い日。
由比ヶ浜結衣は意外なものを落としてしまいます。
それだけの、ただそれだけの物語。
ついこの間まで読む方専門でしたが、書き始めると楽しい楽しい。
文章が下手なのはご容赦ください。
では短編「結衣のおとしもの」
どうぞ。
とある晩秋の放課後。
ややもすると夜に転じてしまいそうな雲の翳(かげ)りが過ぎた空は高く、きらきらと浮かぶ飛行船は反射という名の光の粒子を落としている。
「やっはろ~ゆきのーん」
思えばこの時から由比ヶ浜はいつもと違っていた気がする。
「こんにちは、由比ヶ浜さん」
「よう」
オイ、俺には挨拶なしかい。挨拶って意外と大事だぞ。
ほらいつもの『あ、ヒッキーもいたんだ』てのはどうした。つーかそれ挨拶じゃないな、うん。
「あら、由比ヶ浜さんもようやく解ってきた様ね。挨拶や社交辞令も時と場合と相手に依る事が」
思考読まれたか。つーか、どんな角度からでも罵倒できるってある意味すごいな。オールレンジ攻撃かよ。キュベレイMK-Ⅱかよ。強化人間めが。
「う、うん…」
ま、本音をいえば挨拶なんか無くても俺は一向に構わねえがな。出来たらナシの方向で頼む位の勢いだ。だって挨拶ってコミュニケーションの第一歩なんでしょ?
いつもの如く愚考に脳細胞の三割ほど割いていると、由比ヶ浜の様子がいつもと違うような錯覚を起こした。
それはまさしく錯覚だ。何故なら一日として同じ日など有りはしないからだ。同じように思っていても髪は伸びるし、天気だって変わる。こうして愚考しているこの瞬間もすぐに過去に変わる。
人間とは、生物とは、日々刻々と時間を捨て続けながら背水の陣を敷いていくのだ。
過去には退路は無い。
もごもごと口篭りながら俯いていた由比ヶ浜が徐に顔を上げた。
「あ、あのね。」
いつもの席に座った由比ヶ浜が雪ノ下に話しかける。俺は通常どおり読書タイム満喫中。
「今日ね、『ぼ/ボ』が安かったの」
ここからいつもの女子二人の他愛の無い会話が始まる。
「え?」
まず疑問を片付けようか。さあ雪ノ下さん、どうぞ。
「ど、どういう事なのかしら」
当然の疑問だ。危うくさっきスルーしそうになったのは内緒だぞ。
「だ・か・ら…『ぼ/ボ』だよ。仮名文字の」
おやおや由比ヶ浜さん、いくら何でも『ぼ/ボ』が安かったって。いくらあなたがアホの申し子だからって、何でも通ると思ったら大間違いですわよ。
「…由比ヶ浜さん。どうしてまとめて買って置かないのかしら」
いや通ったよ。てかそこかい雪ノ下さん。
まず仮名、いや文字を買うっておかしいだろ。その不条理な前提をおまえは受け入れるのか。
最近由比ヶ浜に甘々だとは思っていたけど、まさかここまでとは。
「もしかしたら『ぼ/ボ』を買ったばかりに他の平仮名を一文字捨てた訳ではないでしょうね」
ほらだからそれ。
何なんだよ。『ぼ』を買うとか一文字捨てるとか。初めて聞く概念過ぎて理解できん。
「おい雪ノ下、いくら由比ヶ浜がアホでもそれは無いだろ。つーかこれ一体何の話」
「実をいうと、捨てた訳じゃないんだけど…」
雪ノ下さん正解っ!って、何なの? もしかして俺だけが知らない概念なの?
てかまだ続くのこの話。内容が電波過ぎるぞ。
「今朝『ぼ/ボ』を買った時だと思うんだけど、うっかり『は/ハ』の次の文字を落としちゃって…」
なにその回りくどい言い方。あ、もしかして文字を落としちゃったから発音できなくて『は』の次とか言ってるのか。
徹底してるな、このコント。
コントじゃ無かったら何?
二人で結託して俺をからかってるの?
それとも文字って、使う度にスーパー、コンビニ、ドラッグストア等で購入するような消耗品だったの?
俺はそれに気づかずに運よく17年間も文字の品切れにならずに生きてこれたとでも?
それってもしかして俺が誰とも話さないことが多かったからなの?
ねえ?
「どうやったら仮名を落とすのかしら。馬鹿々々しい反面、すごく難易度が高いことだと思うのだけれど」
あ、それは思うんだ普通に。よかった~俺だけ認識がズレてる訳じゃなかったんだ。
まあ訂正すると、難易度が高いどころか文字を落とすこと自体無理というか、不可能なんですけどね。
「だから、仕方ないから落とした文字の変わりに買ったばっかの『ぼ/ボ』を入れてみたんだ~」
俺の理解の範疇を大幅に超える理不尽で不条理な話は、しばらくこの調子で進んでいった。
ふとあることに気がつく。
『ヒ』が『ボ』に変わってるってことは…
「そういえば由比ヶ浜、今日は一回も俺の名前を呼んでないよな。ちょっと呼んでみ?」
仮名文字の『ひ/ヒ』を落としたという由比ヶ浜に、敢えて聞いてみる。
「ん~」
雪ノ下はというと既に我関せずで読書を再開している。なんだこのシュールな状況。
考え込んでいた由比ヶ浜は、一瞬顔を紅潮させたかと思うと深く息を吸い込んだ。
「…『 』ッキー。」
お、『ヒ』を飛ばして器用に発音しやがったぞこいつ。おもしれえ。
「なんだって?聞こえないぞ。」
由比ヶ浜は顔を赤くして口篭る。
「…『ボ』ッキー。」
もう一回聞いてみようかな。いいかな諸君。
「だ・か・ら…『ボ』ッキーっ!!」
言いやがった。こいつ言いやがった。あ、録音しとけばよかったっ。
「…はあ。いくら由比ヶ浜さんがビッチだとしても、真昼間から下ネタはどうかと思うわ」
こういうとき雪ノ下って意外といいパス出すんだよな~感心感心。
「ち、違うし。あたしビッチじゃないしっ!」
そうかこいつ『ビ』は言えるのか。濁点は文字に備え付けなんだな。
「む~っ、だから違うのに~『ボ』ッキーのばかっ!」
なんか楽しくなってきた。この際この現象の原因云々は置いとこう。
今はこの状況を楽しむのみだ。
ということで、もうひとつ由比ヶ浜にリクエスト。
「ちょっと、馬の鳴きマネしてみ。全力でだぞ」
きっと雪ノ下の笑いのツボだろうと思ってのリクエストをすでに脳内変換しちゃったのか、もう雪ノ下の肩が揺れている。
「…ボ、ボボ――ンッ」
俺は腹が痛くなるくらい爆笑し、雪ノ下も堪えきれなくなって開いた本に顔を埋めている。
「も~、ひどいよ、ゆきのんも『ボ』ッキーもっ」
やめて、もうやめて。腹筋が壊れちゃう。
「ゆ、雪ノ下…もうダメだ。紅茶、紅茶を入れてくれ、大至急」
「ぷっ、わ、わかったわ今すぐ…くっくっくっ…」
雪ノ下が入れてくれた紅茶を啜ると、少し落ち着いてきた。
「そういえばさ、『ボ』ッキー」
雪ノ下さん。面白いのはいいけど、あんまりこの言葉を単独で聞いて笑わないほうがいいぞ。いろいろと捗っちゃうぞ、俺。
「あんまり俺を呼ぶな。下品に聞こえるから」
雪ノ下さん。もう笑うの隠さないのな。机をバンバン叩いてらっしゃるけど大丈夫なのん?
ほらほらお友達の由比ヶ浜さんが睨んでますってば。
「むう。じゃ、じゃあ…はち、ま…ん、って呼ぶね」
その瞬間、雪ノ下の笑い声がぴたりと止まる。
「由比ヶ浜、いきなり名前呼び捨ては焦るぞ。彼女かよ」
由比ヶ浜の耳がこれでもかという程に赤くなる。
「え、えへへ…彼女…」
つーかちょい待て。こんな恥ずかしい状況だから由比ヶ浜の赤面はわかる。
だが、だが何故。
何故雪ノ下まで赤面してるんだよ。そんなに今夜の俺の営みを捗らせたいのか。
「はちまん、あたしのことも結衣って呼んでねっ」
「何でだよ。俺はおまえみたいに文字欠落なんていう訳わからん状況には陥ってねぇぞ」
「いいの、あれだけあたしのこと笑った罰なんだから。わかった!?」
「…はあ、仕方ないな。じゃあ…結衣」
「えへへ、なぁに、はちまん?」
ふと長机の対角線上から熱と湿気を伴った視線を感じた。
咳払いをひとつ、徐に雪ノ下が未だ紅潮させた顔面に笑みを浮かべながら俺を見る。
「そうね。あなたはあれだけ由比ヶ浜さんを笑ったのだから罰を受けるのは当然だわ」
あれ? こいつ急に物分りがよくなったな。
「ところでごめんなさい。実は私、たった今平仮名の『き/キ』を無くしてしまって」
「は?」
こいつ…まさか。
「だから私も、その。名前を呼び捨てしてもいいかしら、はちまん?」
「当然私のことも雪乃と呼んでもらうわ」
結局その日俺たちは終始赤面しながら『はちまん』『結衣』『雪乃』と呼び合った。
全員が赤面する部活なんて、まちがっている。
それから雪ノ下、『き/キ』が言えないってキャラ設定するなら徹底しろ。
言わなかったけど、おまえ1回普通に『雪乃』って自分の名前言ってたからな。
その時の顔が必死過ぎて可愛かったから許すけど。
お読みくださりありがとうございます。
短編は、思いついたアイデアの中で連載中の作品にそぐわないエピソードを書いています。
ただの自己満足ですが、お読みいただけたらうれしいです。