昨日はどうやって家まで帰ったか覚えていない。ただ気がついたら自分のベッドで寝て、そして起きたことだけは覚えている。
ヴィータは午前中の仕事を終えると、まっすぐ食堂に向かう。だがそこにカイズの姿はない。彼は今日課外授業があり、施設にいないのだから当然だ。
食欲のないヴィータは頼んだコーヒーを持ち、いつもの指定席に座る。
「結局、昨日はメールも電話もでなかったな。……いつもなら会えない日は、必ず電話してくるのに」
いや、その答えはわかりきっている。だがもしかしたら間違えという可能性も少なからずあるはずだ。
だがヴィータはその答えを聞くのが怖かったのだ。もしカイズから、思いもしない真実を聞かされたら。
この胸の痛みに殺されてしまう気がしたから。
「ここ、いいでしょうか?」
「えっ、あんた、シンドウさんか」
「見ての通りですけど。しばらくはこの施設に来ると思うので、顔を合わせる機会は多くなると思いますよ」
「…………」
いま二番目に会いたくなく。それでいて全ての真実を知っている彼女が目の前にいる。
ヴィータは昨日のことを聞き出そうと、口を動かす。だが、口をパクパクとするだけで一向に言葉はでてこなかった。
「どうしたんですかヴィータさん?」
「え、いや。……えっと、カイズの奴なら今日はいないぞ」
「ええ、知ってます。今日の朝彼から聞きましたから」
――――ドクンッ!
どうして、なぜ、彼女が朝にカイズと会っているのか。いや、もしかしたら夜からずっと彼女たちは一緒にいたのではないだろうか。
多くの不安がヴィータの心をぐるぐるとかき乱す。サクヤはそんなヴィータを見ると、クスリと笑みを浮かべた。
「だけどヴィータさんって、本当に噂通りの人なんですね」
「……どんな噂だよ」
「見た目は少女みたいなのに、教導官の中では一目を置かれる存在。デスクワークもしっかりこなし、厳しいながらも生徒の人望は厚い。でもカイズ君にとっては、そんなこと関係なかったみたいですけどね」
「……何が言いたいんだ」
「ヴィータさんはカイズ君の命の恩人なんですってね。だから彼は貴方に憧れた」
「――――ッ!確かに初めは憧れだったかもしれねえさ。だがそんなことも全部ひっくるめてあいつはあたしのことを好きだって言ってくれたんだ。それを他人にとやかく言われる筋合いはねえよ!」
コップを力強く叩きつけると、サクヤを睨みつける。だがサクヤは怯む様子を一切見せずヴィータ見下した。
「他人には関係ないですか。ええ、確かに他人だったら人の恋路をとやかくいう権利はないでしょうね。――――でももしそれが元恋人だったら、貴方はどう答えますか?」
「もと、恋人」
カイズの元恋人。いや、二人の雰囲気を見ていればすぐに考えつくことだ。
自分の前に恋人がいた。そのことに少しばかりショックを覚える。
だがあくまで目の前の女性は『元』恋人なのだ。
なら、『現』恋人のヴィータが遠慮をする必要はないはずだ。
「それで、その元恋人さんがあたしに何かようか。まさか彼氏を奪われたから復讐に来たとか言わないよな」
「そんなつもりはもちろんありませんよ。いくら付き合っていたとはいえ、所詮学生のおままごとみたいな恋愛でしたし。まあ、いきなり『俺は本当に好きな人を見つけたんだ』って振られたときはある程度ショックでしたけどね」
「あいつ、そんなこと言ってたのか」
自分と出会う前からそこまでカイズは思っていてくれた。それがわかると、ヴィータの心の中がほんの少し温かくなる。
だがサクヤの顔はその瞬間に険しいものとなる。それはここからの話が本番だと伝えていた。
「確かにカイズ君にとって学生時代の恋愛はおままごとだったかもしれない。……ですが、彼が学生時代から持っていた夢は本物だったと思います」
「夢?夢ってなんのことだ」
「やはり聞いてませんか。まあそうですよね。貴方の存在があったからこそ、彼は自分の夢を捨ててしまったんですから」
「なっ!」
そんな話聞いたことがない。ヴィータの表情を見て、それが真実だとわかったのだろう。サクヤは呆れたような顔をして、話を続ける。
「知らないようだから教えますけど。カイズ君、貴方のことを思い出す前は、ずっと医者になることを目指してたんですよ」
「い、医者!?何でそんな夢を」
「カイズ君は電車の生き埋め事故のことをずっと忘れていました。でも心のどこかで覚えていたのかもしれないですね。――――苦しんでいる人を助けたい。非力な自分が人を助けるにはどうしたらいいか。その答えが彼にとって医者になることでした」
サクヤはスッと目を閉じると、その頃を懐かしむような顔をする。
「カイズ君は年上好きで本当にどうしよもない男の子でした。でもいろんな女の子に声をかけつつも、やっぱり一番に考えていたのは医者になることだった。だからこそそんな懸命な彼に惹かれる女性徒はいっぱいいたし、逆にどう頑張っても彼の夢に自分は勝てないと離れてく女性もたくさんいました。学生時代最後に付き合っていた私も、彼の夢に押されて気がついたら大手製薬会社で働くほどになりましたしね。……でもそんな他人すら動かしてしまうほどの熱意と想いはある日を境に壊れました。ここまで話せばわかりますよね」
「…………あたしのことを思い出したから」
「ええ、そうです。ずっと忘れていた貴方のことをたまたま思い出してしまったために、彼はいとも簡単に自身の夢を捨ててしまったんです。彼は素行は悪かったけど、勤勉で成績もよかった。きっと医療系の学校に進んでいれば、今頃多くの人を救う手助けをしていたと思います。――――だけど貴方のことを思い出してから、カイズ君は自分には向かないとわかっていながら、急に体や魔力を鍛え始めました。そして寝る間も惜しんで、倒れるまで努力し続けて。それでギリギリ補欠で管理局の試験に受かることができたんです」
サクヤはコーヒーを口に運ぶと、先ほどのヴィータのように机に叩きつける。ヴィータはその音と彼女の顔を見ると、ビクリと体が震えてしまった。
「正直私は貴方が憎いです。命の恩人というだけで、貴方はカイズ君のそれまでの全てを奪い去った。それに聞くところによると、いま彼は伸び悩んでいるみたいですね。でもそれはそうですよ。だって彼は元々体を酷使するタイプの人間ではないんですからね!」
「そ、それは…………」
確かにカイズは学科のほうは完璧だ。そして今の話を聞いたからこそ、彼の伸び悩みも納得できる。
カイズにとってミッド式、ベルカ式ということは大きく関係していないのだ。
だって彼は元々戦うべき人間ではないのだから。
「あ、あたし、あたしは…………」
何かを言わなければいけない。そんなはずはないと。あたしが彼の全てを奪ったわけないと、そう叫ばなければいけない。
……いけないはずなのに。
ヴィータは何も言えず、悔しさのあまり拳を握りしめることしかできなかった。そんな彼女を見て、サクヤはふんと鼻を鳴らした。
「まあ私としては教導官の試験なんて落ち続けて、さっさとこっちの世界に戻ってきて欲しいんですけどね。――――あっ、それではそろそろ会議の時間ですので。また機会があったらお会いしましょうね。ヴィータさん」
サクヤはコーヒーカップを机に置くと、席から立ち上がりその場から立ち去る。
ヴィータはその姿を見届けることなく、下唇を噛みしめることしかできなかった。
「あたし、あたしが。……あたしがカイズの全てを奪っちまったっていうのかよ」
たかが命の恩人という理由だけで、彼の将来を奪い去ってしまった。
もしあの時自分と出会わなければ、カイズはもっと自分にあったしっかりとした将来を歩めたかもしれない。
そしてもっと多くのものを救えたかもしれなかったのだ。
「う、ううぅ。うう…………」
ヴィータは感情を抑えつけられなくなると、自然と涙をこぼしてしまう。
一滴、二滴。小さな滴が落ちるのを感じると、もう彼女は涙を止めることができなかった。
――――ブー、ブー、ブー。
その瞬間。マナーモードにしてあるデバイスが震え出す。ヴィータはそれを取り出すと、そこには『カイズ』の名前が表示されていた。
「あ、ああ、ああ……」
彼の声が聞きたい。彼に慰めて欲しい。彼に否定して欲しい。
カイズに対する想いがどんどんとこみ上げる。だがヴィータはその着信を取ることができなかった。
「……あいつ自身が選んだ道なんだ。あたしが負い目を感じる必要なんて本当はないはずなんだ」
だからこそカイズはヴィータの悩みなど笑い飛ばしてくれるだろう。
それこそそんなことを吹き込んだサクヤを本気で怒ってくれるかもしれない。
その通りだ。カイズがそう自然に思ってしまうほど、彼にとって命の恩人であるヴィータという存在は大きなものなってしまったのだから。
「なあ、カイズ。あたしたちは、出会わないほうが。……よかったのかな」
――――ブー、ブー、ブー。
ヴィータはカイズからの着信を取ることができず。
しばらくデバイス振動音がヴィータの空虚な心に鳴り響き続けていくだけだった。