「ベル様?」
半覚醒していた意識が、千草の声で徐々に覚醒していく。土と血と怪物の匂いは既になく、身体を動かした熱も引いている。身体には痛みもなくおそらく傷もない。
ベルはゆっくりと寝台の上で身体を起こした。寝台脇で控えていた千草が差し出してくれた水を飲み、部屋の中を見回す。自分が寝ている窓際の寝台と、千草の座る椅子。それ以外には文机と荷物入れしかないというアイシャが使っていた宿だ。
そのアイシャの姿はない。部屋の隅には素材が一纏めにして置かれていた。
「ベル様の戦利品です。アイシャさんが置いていかれました」
素材袋に視線を向けると、千草が説明してくれた。怪物が落とす素材は倒した冒険者、あるいはパーティに所有権が存在するというのがギルドの取り決めであるが、そんなもの知るかと考えるマナーの悪い冒険者は残念なことに多く、更に戦闘が行われたのはリヴィラの郊外だった。
刹那的に生きる冒険者は総じて金に汚いが、リヴィラを拠点にしている冒険者たちはその中でもとびきりである。そんな中で高額な素材を放置する訳にはいかないと、戦闘が終わった時点で遠巻きに眺められていたことを察していたアイシャが、全て回収したという訳だ。
「細かい話は地上に戻ってからに。お話できるのを楽しみにしている、とのことです」
なるほど、と頷いたベルは心中で冷や汗を流した。治療に使ったポーションについても素材を回収した恩にしても、当面は貸しにしておくということか。持ちつ持たれつ。冒険者の間でこういう貸し借りは珍しいことではないが、アイシャ相手に借りを作るのは一人の男としてぼんやりとした期待は持ちつつも、何だか怖い。
地上に戻ったらさっさとご挨拶に行こうと決めたベルは、ブーツを履き、寝台から立ち上がった。地上でのことは地上に戻ってから考える。介助しようとする千草を手で止め、大きく伸びをした。少しダルさはあるが、やはり痛みはない。
「少し運動したいんだけど、手伝ってもらえるかな」
「激しい運動、ということでしたら賛成しかねます」
「ストレッチだよ。習慣なんだ」
「なら、お手伝いします」
マットがあれば良かったのだが、素泊まりのための宿にそのような気の利いた物は常設されていないし、借りようとしたらお金がかかる。床に直接腰を降ろし足を広げるベルの背後に膝をついた千草は、ベルの号令に合わせて背中をゆっくり押し込んだ。
ベルの身体は想像していたよりもかなり深く押し込むことができた。足もかなり開けているしここまで押し込んでも苦悶の声はない。タケミカヅチ・ファミリアでは命が一番身体が柔らかいのだが、彼女でもここまでではない。想像の埒外であったベルの身体に柔らかさに、千草は素直に舌を巻いた。
「いつの間にこんなに柔らかくなったんですか?」
「アマゾネス・ストライクに最初に挑戦してから少しずつかな。最初は痛いばっかりだったけど慣れると楽しいよ」
身体が柔らかくなった所で、と内心ベルも思っていたが実際効果が出てみると考えを改めた。アテナ・ファミリアの団員達が必須にしているのがよく分かる。
それまでよりも大きく歩幅を取れ、今までよりも力強く踏み込める。単純に怪我もし難くなった。腕や足の可動域が少し広がっただけで、今までできなかった動きができるようになった。少し柔らかくなった程度でこれなのだ。アテナ・ファミリアの冒険者のように柔軟な肉体を手に入れたら何処までできるようになるのだろう。そうなるのはまだまだ先の話だろうが、期待は尽きない。
柔軟を一通りこなしで、大体三十分くらい。本格的にやるならもう少しと言った所だが、千草の方からそろそろと言い出してきたのでベルは動きを止めた。
気弱な印象の千草であるが、自分が怪我人という負い目があると逆らう気も起きない。最後に大きく伸びをして、手ぬぐいを受け取り身体を拭く。さて後は大人しくゆっくり――といったところで廊下の奥から足音が二つ近づいてくるのに気づいた。
規則正しい人間サイズの足音と、歩幅の狭い小人の足音。慣れ親しんだ足音にベルは扉に向き直った。ベルの表情から事情を察した千草はベルから一歩離れた位置に立つ。
部屋の扉がノックされる。その音もどこか懐かしく感じる。
「どうぞ」
返事はなかった。ゆっくりと開いた扉の向こうには、憔悴しきったレフィーヤとリリルカの姿があった。再会できたら何を言おう。これまで色々考えていたはずなのだが、口をついて出た言葉は、考えていたどの言葉よりもシンプルなものだった。
「無事で良かった。また会えて嬉しいよ」
できるだけ明るく、重くなり過ぎないようにと口調に気を付けたつもりだったが、ベルの言葉に我慢の限界が来た二人は、ベルの胸に飛び込み声をあげて泣いた。
「見苦しいところをお見せしました……」
「レフィーヤ様に同じくです」
五分ほどそうしていただろうか。気を取り直した二人はどうにか冒険者の顔に戻った。泣きはらした顔のまま、しかし涙はしっかりと拭って、別れてからの報告を始める。
「あの後私たちは無事に地上まで戻りました。タケミカヅチ・ファミリアの人たちは重傷者も含めて全員無事です」
「よかった……」
「途中『女神の戦車』とすれ違ったんですが……」
「その辺も含めて説明するよ」
二度目のスタンピード、階層主と単独での戦闘、単独での撃破。特に階層主の方はレフィーヤの杖を握る手に力が籠り、これはフルスイングが来るかと身構えたが、彼女はどうにか堪えてくれた。
「いつもは、冒険しないで何か冒険者だと思うところもあるんですが、今日という今日は私が言います」
「時と、場所を、選んで、冒険しなさいっ!!!」
「自分の命を、何だと思ってるんですかっ! 貴方一人ダンジョンにおいて地上に向かった私とリリがどんな気持ちでいたか、少しは考えましたっ!? そうやって、いつも一人で身体を張って、私たちだって、私だって、仲間なのに……」
「ごめん、レフィ」
痛ましいベルの表情と声音で、レフィーヤは冷静さを取り戻した。自分たちが心を痛めたように、ベルだって心を痛めたはずだ。
大きく息を吸って、吐く。魔術師が感情的になってはならない。不安定な後衛など前に立つ者に信用されるはずがない。無理やりいつもの調子を戻したレフィーヤは、やはり無理やり笑みを浮かべて言った。
「……謝らないでください。今のは私が言い過ぎました。私たち皆で決め、私たちは皆生き残りました。なら、これで良かったんです」
「レフィ……」
「でも、次はなるべく、なーるーべーく! 一人では突っ走らないように。私やリリが春姫がいるのだということを、忘れないようにお願いします」
「わかったよ。ありがとう。レフィ」
「パーティの仲間ですから。これくらいは当然です」
「で、良い話でまとまろうとしたところ恐縮なんですがー」
申し訳なさそうな風ではあるが、胡乱な目つきをしたリリルカが小さく手を挙げる。リリルカは全員の視線が集まるのを待ってから、ベルの後ろに直立している千草を見やった。
「千草様が『私は従者です』という顔をして控えてらっしゃる件についてお聞かせ願えますか?」
そんな顔してた? とベルが振り返ると、千草はよくぞ聞いてくれましたと胸を張って答えた。
「今生はベル様に捧げる決意をしました」
言葉にすればそれだけだが、それを聞いたものは言葉以上の衝撃を受けた。瞳には並々ならぬ決意が宿っており、顔には改宗も辞さないと書いてある。一番ダメージが少なかったのはこれを予想していたリリルカであるが、一番驚いていたのは今生を捧げられるはずのベルだった。
「……なんでベル様がそこまで驚いておられるのですか?」
「僕も今初めて聞いたからかな」
「話は私の方でまとめてきますので、ベル様はお気になさらず」
そうは言っても気にならないはずはない。あれやこれやと千草に問うベルとリリルカを横目に見ながら、レフィーヤは内心で『またベル様』とため息を吐いた。自分を下手に置くことで適切な距離というものを有耶無耶にする厭らしいテクニックだ。これで千草がベルのパーティに入ると三人目のベル様呼びで、普通にベルと呼んでいる自分がおかしいんじゃないかという気さえしてくる。呼び捨ての方が精神的な距離は近いはずなのに、様組の方が踏み込みは深く鋭いように思う。これが世に言う誘い受けという奴かと、年頃の乙女であるレフィーヤは戦慄を禁じ得ない。
階層主を単独撃破したのであればまたベルのレベルも上がるだろう。それ目当てで足踏みを続けているティオナはこれでレベルが並んだことになる。近く彼女もパーティ入りだ。
そんなティオナはアマゾネスである。あの種族は意中の男に半殺しにされると頭がおかしくなるという種族固有の大問題を抱えている。穏やかに理知的にと頑張った上であまり上手く行っていないティオネを見るに本質は全く変わらないものだと思っていたが、いかにもアマゾネスの娼婦という風であったアイシャは魂と本能でベルの好みを理解したかのように穏やかに理知的に振舞うことに成功している。
ベルの話をまた聞きするに人目のない普段もああであるようなので、個人差が大きいものなのだろう。ティオネが上手くいかなかったからと言って、ティオナも上手く行かないとは限らないのだ。
これでティオナまでベル好みになってしまうとレフィーヤとしては困るのだが、日頃何かとお世話になっている上に、ベルの成長を優先するというリヴェリアの方針でパーティ入りが見送られ続けてきたという事実がある。
そんなティオナが今、ベルが同じレベルに達したことでパーティ入りのチャンスを得た。これまでのことを考えたら、損得抜きに応援してあげたい。
「ではそろそろ地上に戻りましょうか。皆首を長くして待っていますよ」
地上のことは地上に着いてから考える。レフィーヤも、冒険者らしく気持ちを切り替えた。
実際には地上ではなく道中にファミリアの仲間はいるがそれは言わないでおいた。再会はパーティメンバーが先と譲ってくれた先達には、早く恩返しをしないといけない。とりわけすぐ上の十七層で待っているはずのリヴェリアについては一緒にお説教を受けるのが怖いのでできればもう少しここでゆっくりしていきたい所であるが、無駄に時間をかけると怒りのボルテージが上がるだけというのも解っていた。
怒られるようなことをした自分たちが悪いのだ。どういう過程でどういう結果を得たのだとしても、自分たちはパーティの仲間。怒られる時は全員で怒られるのが筋というものだろう。ささくれた心は『黄昏の館』で待ってくれている春姫に癒やしてもらうより他はない。
「ごめん。一つ寄っていきたい場所があるんだ」
「何か買い物ですか?」
止めましょう、と声音と表情でリリルカが力強く主張してくる。決して幸福とは言えない小人生を送ってきた彼女の一番嫌いな言葉が『搾取』であり、二番目に嫌いな言葉が『割増料金』である。よほど差し迫った事情がない限り、リヴィラで買い物するのは完全な無駄と、常日頃から力強く主張している。
そんなリリルカの心中を察したベルは苦笑を浮かべつつ、全員を見回した。
「恩人にね。お使いを頼まれたんだ」
一連のこの騒動はオラリオで『ベル・クラネルの決死行』と呼ばれた。パーティ外の冒険者を助けるためにスタンピードに飛び込みこれを救い、リヴィラまでの行程で二度目のスタンピードに遭遇、これを撃退。更にリヴィラに現れた『黒いゴライアス』を『女神の戦車』アレン・フローメルや『女傑』アイシャ・ベルカの観戦はあったものの単独で撃破と、冒険者の活躍話にはうるさいオラリオの住民たちをして『英傑なり』と認めざるを得ない活躍をやってのけた。
泡を喰ったのはギルドである。ベル・クラネルが遭難という話をギルドが把握したのはベルと別れ地上を目指したレフィーヤ・ウィリディスがダンジョンから出てきた時であるのだが、その時点で事態は収束に向かっていた。
ベルの担当官であるエイナ・チュールが緊急依頼の発令を要請するも、上から必要なしとの返答を受けて公然と激怒したのは冒険者たちの記憶に残った。粗方言葉を吐き終えて冷静さを取り戻した後にフレイヤ・ファミリアとロキ・ファミリアが連携して既に手を打っていると知った彼女は、翌日体調不良で仕事を休むことになった。
反面、主神同士で連携しているファミリアはその情報の共有が早く、事態をいち早く察知したフレイヤ・ファミリアから、ロキ、アテナ、ヘファイストスにはすぐに情報が降りた。女神フレイヤに店を閉めてでも救援に行くとやりかねないと判断された『豊穣の女主人』亭には、出発前のアレン・フローメルが立ち寄り、くれぐれも勝手なことをするなと念を押していったため、事なきを得た。同店はベル・クラネルが地上に戻ってくるまで客入りが激減し、店主の怒号が飛ぶ事態になったという。
ダンジョンで決死行とされるほどの大冒険を経て地上まで戻ってきたベル・クラネルであったが、彼周辺の事態が収拾されるのはもう少し先のことだった。
彼の周辺で一番行動が早かったのは千草・ヒタチである。彼女は地上に戻ると治療を受けるのもそこそこに『本拠地』で待つ主神タケミカヅチの元を訪れ改宗したい旨を申し入れた。改宗そのものは難しいものではないが、当然受け入れ先の問題もある。特に大手であるロキ・ファミリアは来る者全てを受け入れている訳ではない。
タケミカヅチとしてはできればロキには断ってほしいというのが本心であったが、千草の決意が固いこと、そして今のロキならば受け入れるだろうということは解っていた。こちらも本心として慰留をしつつも『黄昏の館』まで出した使いの返事は、団長フィンを伴ってロキがやってくるという異例のもの。本人の意思が固く、先方も受け入れに前向き。何より此度起こったことを考えると、いくら主神と言えども眷属の意思を無視してまで神意を通すのは忍びない。
かくして申し入れしたその当日に、千草の改宗は成立したのである。
命を始め、特に女性陣はそれを感じていた。まさか昨日の今日でとは思っていなかったが、改宗自体はすんなり受け入れられた。全員参加の送別会は急遽開催され、女子全員で引っ越しの手伝いをした後、その晩は女子だけ三人で並んで眠った。
翌朝。別れは昨日の内に済ませたと、主神と団長のみに見送られる形で千草は『本拠地』の前に立っていた。元々物持ちではなかった千草の荷物は大き目の風呂敷一つにまとめられている。かつてはこれを背に、一緒にオラリオまで来たものだがとタケミカヅチは笑みを浮かべた
「知らぬ仲ではない。お前にはいつでも門戸は開いている。どういう理由でも良いさ。来たくなったら、いつでも来い」
眷属ではなくなった。地上の子供にとっても神にとってもそれは重大な転機であるが、それでも今まで築いた物全てがなくなる訳ではない。タケミカヅチにとって千草はかわいい家族の一人であり、かけがえのない存在だった。
「はい。近い内にまた、ご挨拶に伺います」
小さく、千草は頭を下げた。戻ります帰りますではなく既に伺いますであるのがやはり寂しく感じる。子供の成長は早いものだなと神らしく黄昏ているタケミカヅチを他所に、千草は桜花に向き直った。
幼い頃から何度も見上げてきた大きな身体。彼の近くに立つ度に、彼の顔を見る度に暖かな気持ちになったのをよく覚えている。その気持ちが消えた訳ではない。長い間培ってきた気持ちは今も千草の胸の中にあった。ただそれ以上に、見ないふりをするなど考えられないほどに燃え盛る感情があるだけだった。
言うべきは言い、やるべきはやる。そういう心根の強さを持っているからこそ、彼は自分たちのリーダーだった。その彼が逡巡している。言うべき言葉があるのに、それは口をついて出てこない。苦しいと書いてある顔を見て、千草は桜花も同じ気持ちであったことを悟った。
苦笑を浮かべ、小さく息を吐く。桜花は十分に苦しい決断をしたのだ。団を去る時くらいは一つ二つ、自分がその重荷を背負うべきなのだ。
「私も皆も何度も言ったけど、桜花の判断は間違ってなかった。私は貴方を恨んでないし、心の底から尊敬してる」
「でも、私はあのダンジョンで今生を賭けるものを見つけたの。だから、そっちに行きます」
「今までありがとう。さよなら。またすぐに顔を合わせると思うけど……元気でね」
迷いなく小柄な身体に力強い足取りで去っていく千草の姿が見えなくなるまで、桜花は立ち尽くしていた。自分の内面がどうであろうと世界は回っていく。いつもの日常を過ごすオラリオの住民たちの声をどこか遠くに聞きながら心ここにあらずという桜花の肩に、タケミカヅチはそっと手を置いた。
「お前は私心なく邪心なく、仲間を守るために苦しい決断をした。主神として、俺はお前の決断を誇りに思う」
仲間たちは皆そう言ってくれた。置いていかれた千草でさえそう言った。誰に聞かれたとしても何を言われたとしても、自分の判断は間違っていないと自信を持って言える。あの時の自分たちには、あれが最善だったのだと。
誰も死ななかった。自分の判断に望外の幸運が重なった結果として――生き残った千草は今生を捧げると言って、ロキ・ファミリアに向かった。共に主神と仰いだタケミカヅチの元を去り、ベル・クラネルの元に向かった。その事実が、ただ桜花には悔しかった。
「お前は間違っていない。ただ……巡り合わせが悪かっただけの話だ」
「その悔しさと流した涙の分だけお前は成長したぞ。もっともっと、強く大きくなれ桜花」
はい、と涙を拭い顔を上げる。千草は決断をし、自分はそれを見送った。いつまでもくよくよしてはいられない。気持ちを奮い立たせた桜花の顔に、タケミカヅチは大きく頷いた。
「こういう時は、無心に身体を動かすのが良いだろう。道場に行くぞ。今日は少しばかり、気を入れていく」
「はい。ご指導、よろしくお願いします!」
ベルが戻ってきた日の晩には『豊穣の女主人』亭はロキ・ファミリアの貸し切りになっていた。ベル・クラネル帰還兼レベル5昇格おめでとう宴会は、飲み放題食べ放題ということもあってか注文もひっきりなしだった。
冒険者というのはとにかくよく飲み食いをする。それが支払いは気にせず好きなだけと言われればこうもなるだろう。リューを始めとした従業員たちは給仕に忙しく、ベルに言葉をかける暇もあればこそ、ミアの指示で店内を駆けまわっていた。
そんな中、リューだけこっそり誘うにはどうしたらと頭を悩ませたが、どうにか要件だけを伝え、場所はメモをポケットに忍ばせた。リューは何やらボケっとしてたが、真面目な彼女のことだからメモをなくすということもないはずだ。
二次会三次会に行くガレスたちに後ろ髪を引かれたが、レフィーヤに引きずられるようにして『黄昏の館』に早めに帰る。自分の部屋でぐっすりと眠り翌早朝。リヴェリアの強権で完全オフとされたその日に、平服に着替えたベルは荷物を持ち、一人で『黄昏の館』を抜けだした。
待ち合わせの広場に行くと、平服をきたリューが既に待っていた。落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、指で髪をくるくるする様は普段きりっとしているリューがかわいく見えて面白い。声をかける前から温かい気持ちになったベルは、喜色を込めて声をかけた。
「リューさん」
呼びかけると、笑みを浮かべてリューは振り向き――ベルの手に拵袋があるのを見て動きを止めた。一瞬で再起動し、小さく咳払い。それでも笑みは浮かべていたが、振り返った直後に比べるとそれは聊かぎこちないものだった。
「お仕事の前にすみません」
「お呼びとあれば……まぁ、そういう用事ではなかったようですけれど」
「朝からごめんなさい。この埋め合わせは近い内にしますから」
「楽しみにしていますよ。それでどういったご用件でしょうか」
「リューさんは、ダンジョンズ・ゴーストって知ってますか?」
「ダンジョン内で冒険者が窮地に陥った時、ダンジョン内で命を落としたその知人が現れて助けてくれる。そんな与太話だったと記憶しています」
「それに会いました」
ほうとリューは僅かに身を乗り出す。与太話と斬り捨てたが目撃情報そのものは昔から存在している。全ての目撃情報が真であるという可能性は低いだろうが、現象そのものは否定するものではない、というのがリューの考えである。
理由はリュー自身がそれを見たことがないこと。亡くなった者たちも含めてリューの知人の冒険者に見た者がいないことだった。ベルが見たのが本物であれば、第一号となる。期待していた色気のある話ではなかったことに若干の苛立ちを覚えていた所だったが、ベルから聞く話となるとそれを埋め合わせて余りあるものだった。だが――。
「それはダンジョンで亡くなった親しい人が現れるというものであったと思います。そういう知人がいるのですか?」
「いません。縁者がとなるとちょっと自信はないんですけど、少なくともオラリオに来てから知人がダンジョンで亡くなったということはありません」
「では、貴方の知人の親しい人ということなのかもしれませんね。他人がどうしてそこまでするのか見当はつきませんけど」
「長くて綺麗な黒髪をした、赤い着物を着た女の人でした。その人は僕たちの前に現れると僕の小太刀を使って、魔物の群れを一人でやっつけてくれました」
リューの動きがピタリと止まった。彼女の記憶の中には、その条件に合致する人間が一人だけいる。まさか、と思うリューの前でベルは拵袋を掲げた。
中から出てきたのは一本の刀だった。記憶の中の彼女が使っていた、彼女の墓標となった刀である。リヴィラの近くにある、リューだけが知る仲間の墓場にあるはずのそれが、今、ベルの手の中にあった。
「助けてやった恩に加え、とある場所にあるこの刀をくれてやるから、お前に剣を教えたエルフに伝言を頼むと」
「その女は、何と?」
「『青二才にしてはよくやった』」
小さく、リューは息を漏らし静かに笑みを浮かべた。泣く、というのも違う気がする。旧友のらしい気遣いに対するなら、こちらもらしい振る舞いをするのが筋というものだ。自分たちの間に涙など似合わない。ほとんど意見が合うことなどなかった間柄ではあるが、この件に関してだけは意見の一致を見ると確信があった。
「お知り合いですか?」
「はい。大切な……仲間でした。そうですか、輝夜は、貴方を助けに現れたんですね……」
「僕ではなく、リューさんの縁というのが気にはなりますが」
「それだけ輝夜が、私とベルを深い仲だと判断した、ということでしょう」
直接言うでなく、いつか伝言を託せる人間が現れるまで待っていたとなれば、如何にも輝夜らしいと思う。
「今更刃物は馴染みません。中々の業物です。これはベルか、ベルの仲間のために役立ててください。輝夜も武器も、それが本望でしょう」
「ありがたく、頂戴します」
刀を拵袋に仕舞ったベルと、視線が交錯する。
半歩、静かに踏み込む。物事には仕掛けるべき『時』というものがある。何をするにしても雰囲気作りというのは大事だ。人間関係を進めるにあたって肝要なのは、実際の行動をするまでに何をどれだけ積み重ねること、というのは理解しているつもりのリューだったが、同時に自分がそういう機微に壊滅的に疎いというのも察していた。
それでも冒険者として培ってきた感性が告げていた。今ならいけると感性が身体を突き動かそうとしている。ベルの瞳を見つめたまま、また半歩踏み込む。
「リューさん?」
「そのままで」
ベルは、こちらを見たまま動かない。逃げられたら追う手段がないではないが、この後の出勤を見合わせるくらい立ち直れない精神状態になるだろう。最初のハードルはクリアした。後はイレギュラーさえなければ、このまま踏み込める。
一歩踏み込む。ここからは、『疾風』の射程内。リューは半ば勝利を確信した。最後の一歩を踏み込もうとした、その時――。
「ラブロマンスは売り切れなのにゃーっ!!」
「リュー・リオンは閉店です! ご利用ありがとうございましたっ!!」
ベルの背後の草むらから飛び出してきたシルとアーニャが、渾身の力を込めて体当たりしてきたのである。歴戦の冒険者であるところのリューだったが、ベルしか見えていなかった視界不良の中では、直撃を避けることはできなかった。
足を刈るどころか自分たちごと吹っ飛ぶ勢いであったが、いかに二対一とは言え片方は非冒険者であり、片方は同レベルとは言え力で劣る猫娘である。ベルと共に厳しい戦いを潜り抜けた自分に敵うものではない。
重心を落としリューは二人を迎え撃つ。顔を真っ赤にして押し続ける二人であるが、金髪美女のエルフはびくともしない。ふふふそんなものですかと余裕の笑みだ。ステイタスの差は如何ともし難いものだ。とりあえず怪我をさせないようにその辺の草むらに放り投げる。良い所を邪魔され若干の苛立ちを覚えていたリューは力を込めて二人を抱え――。
「脇が甘えのにゃ」
「恋は盲目ってやつ?」
更に二人が加勢したことで形成がはっきりと変わった。二人の攻勢を物ともしないのがステイタスの差に寄るものであれば、これから始まる反撃もステイタスの差に寄るものである。ここまで多勢に無勢の色が濃くなると、いかに『疾風』リュー・リオンでも分が悪い。
だがここで諦める訳にはいかない。ただでさえ昨日、目隠れ東風美少女が一人追加されたばかり。今を逃したら次がいつになるか解らない。窮地の中で一段ステップアップしたリューは、好きな人の前で矜持を捨てることを覚えた。
「ベル! 助けてください!」
まさかのドストレートな救援要請に『豊穣の女主人』亭の同僚たちは目を剥いた。あの矜持ばかりが高いへそ曲がりの金髪エルフが、好きな男の子に助けを求めた! むしろ脅威度が上がったと認識した四人は、これまで以上に力を籠める。
ここでベルがリューに加勢したら負け犬も良い所だ。事態が動く前にリューを回収して離脱する。乙女たちの心は今一つになっていた。
リューの救援要請が本心であれば、シルたちの行動もまた全力だった。様々な感情のぶつかったバトルであるが、ベルの目にはそれは友人たちのじゃれあいに見えた。にっこり笑みを浮かべて手を振るベルに、裏切られた! とリューの身体から力が抜ける。
これを好機とみたシルたちはリューを捕縛すると、そのまま勢いよくフェードアウトしていった。またお店で! と売り込みも忘れない。彼女たちはデキる女給さんなのだった。
どの道そろそろ『豊穣の女主人』亭の始業時間のはずである。長居させても悪いし、皆がここにいたということはリューさんを迎えに来たのだろうと一人で納得したベルは、用事も済んだと 『黄昏の館』に向けて踵を返した。
歩きながら大きく伸びをする。これからまたいつもの日常が始まる。パーティでダンジョンに行き、鍛錬をし、椅子を並べて勉強をする。
そんな日常を想像しながら歩いていたベルは『黄昏の館』の前で足を止めた。一人、アマゾネスが立っている。ダンジョン行きのいつもの恰好。露出した褐色の肌からは、陽炎が立ち上っているように見えた。
存在感が異常なまでに濃い。
今のティオナは明らかに、ベルが見てきた中で一番絶好調の状態にある。
ベルを目にとめたティオナが、ゆっくりと歩いてくる。近づいてくる度に、存在感が増してくる。殺気というのではない。自分に向けられた感情が可視化されたような、決して不快ではない息苦しさがティオナの歩みと共に増してくる。
やがて、息がかかるくらいの距離でティオナは止まった。ゆっくりと、口の端を上げて、アマゾネスらしく、獰猛に笑う。
「このままだと襲っちゃいそうだから、私から言うね?」
「一週間後、夕暮れ時、『黄昏の館』の鍛錬場」
「殺すつもりでかかってきてね? 勝ったら、私の全部、ベルにあげる!」