絢瀬絵里と東條希は同じ大学に進学し、共に大学生活を送っていた。
それから時は過ぎ、時は翌年の3月。
絢瀬絵里は東條希にある告白をする……。
「えりち、本当に行っちゃうの?」
季節は春。出会いの季節。
そして──別れの季節。
希と絵里はかつて共に過ごした音ノ木坂学院の校門の前にいた。
「うん。そう、決めたから」
沈んでゆく夕日を見つめながら絵里はそう答えた。
「どうしてっ……」
「どうしてって、言ったでしょ。私はもう一度だけ頑張ってみようって。あと一度だけチャレンジしてみようって思えたから」
流れる雲がときおり夕日を遮って、茜色に染まる。
「それは、おばあちゃんがそう言ったから?」
実は絵里の祖母は半年ほど前に他界していた。そのことは希も勿論分かっている。悲しみに暮れていた絵里を支えていたのは他でもない希だったからだ。
そして彼女は知っていた。絵里の祖母が残した言葉を。
「もう一度、バレエをやって欲しい」
それ以来、絵里は一人で考え込むことが多くなった。
大学の講義中も明らかに集中できていなかったし、たびたび講義を休むこともあった。
あの真面目な絵里が、だ。
その度に希は絵里を問い詰めようとしていたのだが、結局絵里は今日まで本心をさらけだすことはなかった。
「ねぇ、どうして? どうして今さらロシアに戻ろうとするん? ウチと一緒に大学生活を送るだけじゃ不満?」
その問いがただのわがままであることは希も分かっていた。
しかし、自分の気持ちに嘘がつけなかったのだ。それだけ絵里がかけがえのない存在だったから。
目の前にいる絵里の姿が霞んでいく。
「希、聞いて欲しいことがあるの」
絵里は何かを決心したような表情で希の瞳を見つめた。
流れていた雲はどこかへ消え、夕日が二人を茜色に染める。
「私がロシアに戻ってバレエをやろうと思ったのは、別におばあさまの言葉だけが原因じゃないわ」
「それって……どういうこと?」
「私がこうしてもう一度頑張ろうと思えたのはね。希、あなたのおかげでもあるの」
「ウチのおかげ……?」
希には絵里の言っていることの意味が全く理解できなかった。
確かに絵里が辛かった時期を支えたのは自分だ。しかし、それがきっかけでロシアに戻ろうと思うのだろうか?
「それはどういうことなん?」
絵里は少し考えてから口を開いた。
「私は日本に来て、音ノ木坂学院に通い始めて、あなたと友達になって、生徒会長になって、気付けば3年生になって……」
少し口をつぐんでから続ける。
「そして、そのまま卒業して、大学に行って……」
「そんな普通の生活を送るのだと思っていた。バレエとは、ダンスとはもう関わらないで暮らしていくと思っていたの……」
「でも、違った。私はあの日μ'sと出会った。」
「最初は毛嫌いしていたけれど……気付けば私もメンバーの一員になっていて……」
「不思議ね。μ'sのみんなと夢を追いかけている内に私はどんどん変わっていった。弱いところを人に見せるようになった。みんなと一緒に高め合うことの素晴らしさを知った。そして、夢を追い続けることの大切さに気がついたの」
「えりち……」
ふいに強い風が吹き、桜の花びらが舞う。
絵里の瞳に映る夕日は涙で滲んでいた。
「私がμ'sに入って、こんな風に思えたのは。希、あなたのおかげなの。あなたがいてくれたから私はμ'sの一員になり、ここまで来れたんだから……」
「それは違う!」
絵里の言葉を半ば遮るようにして叫んだ。
「別にウチなんかがいなくてもえりちならきっとうまくやれてた! ウチはえりちがμ'sに入るのをちょっと手伝っただけ! 本当にそれだけだから……」
希はそれ以降、言葉をつなげることができなくなってしまった。
足下のアスファルトにはいくつもの染みができている。その数はただただ増えていくばかりだった。
「希……」
その時、希は自分を包む温もりを感じた。驚きに目を見開くとそこには自分を抱きしめている絵里の姿があった。
「そんなこと言わないで! 私にとって希はかけがえのない大切な存在なんだから!」
絵里は自分の瞳から涙が次々とこぼれ落ちていくのがわかった。
しかし、それを止める術などあるはずもない。
「もちろん、私は私にたくさんのことを教えてくれたμ'sが大好きで、μ'sのみんなが大好き。
でもね、その中でも希は特別なの!」
「えりち……」
希の涙はいつの間にか止まり、絵里の紡ぎだす言葉に耳をかたむけていた。
「全然友達のできなかった私と仲良くなってくれて、生徒会でも一緒に仕事をするようになって、μ'sに入ってからもあなたは私のすぐそばにいてくれた……。ずっとそばにいてくれた!」
「だからそんなこと言わないで……。私にとってあなたはかけがえのない存在で、一番大事な友達なの」
「そんなあなたのおかげで私は今、ひとつの決心をすることができた。私は本当に感謝しているわ。
これは私がこれから成長していくのに必要なことなの。だからお願い、希。私をロシアに行かせて。あなたにいってらっしゃいって言ってもらえれば、私はもっと頑張れる気がするから……」
穏やかな風が辺りをつつんでいた。
夕日に照らされて茜色に染まった桜の花びらが軽やかに宙を舞っている。
「そっか……。えりちはウチのこと、そんな風に思ってたんやね……」
希は絵里の腰の辺りに腕を回した。
やがて、ふたりの体温がひとつになっていく。
「全く、えりちはずるいなぁ。そんなこと言われたら応援するしかないやんか……」
「希……!」
「でも、ひとつだけ約束してくれへんか?」
「なにを?」
しばらくの間、静寂がおとずれる。
お互いの体温が熱い。ふたりの異なる鼓動がまるでひとつの心であるかのように動き始める。
やがて、希は口を開いた。
「いつか……いつか必ず戻ってきて。
それだけでウチは十分だから……」
「うん……わかったよ。いつか必ず、希のところに戻るから。だから……待ってて」
「うん。その言葉が聞けただけでウチは十分や……」
再び辺りは静寂に包まれる。
彼女たちにそれ以上の言葉は必要なかった。
なぜなら互いに気持ちはひとつだったから。
本当はとうに互いの気持ちに気づいていたはずだったのだ。
それが一時的に見えなくなってしまっていただけ。
こうやっていれば、すぐに気がついてあげられたのに……。
やがてふたりの距離はゼロになる。
少しの風の音と、微かに漏れ出るくぐもった声だけがそこにあった。
「ねえ、えりち」
「なぁに、希」
ふたりは空を見上げていた。
半分以上沈みかけた夕日に照らされながらひらひらと桜の花びらが舞い落ちている。
「桜、きれいやなぁ」
「そうね」
この時間がずっと続けばいい。
そう思っていたが夕日は止まることなく沈んでいく。
「華麗に咲いた桜はいつか散る。でも、次の春には再び華麗に咲く。
ウチらの桜も、きっといつかはまた咲けるときが来るんよね……?」
希は少し上目遣いで絵里を見つめる。
まるで何かをねだる子供のように。
まるで何かを期待しているかのように。
「そうね、きっと……。いいえ、必ず咲かせましょう。私たちの桜を」
ふたりは帰路につき、やがて日は沈む。
しかし、日の昇らない朝はない。
彼女たちの桜も、いつかは満開に咲き誇ることだろう。