茹だるような暑さが辺りを支配していた。普段なら快適に整えられている筈の紅魔館の空調は、メイド長が不在という圧倒的危機を迎え、殆ど機能していない。メイド妖精達は噴水周りでぐだりと伸び、ゴブリンどもは庭のあちこちに穴を掘って、少しでも暑さから逃れようとしていた。
門から玄関までへと続く荘厳な石畳の道は、熱を反射し陽炎を作り上げ、庭に生える木々からは、あらゆる蝉の声が響き渡っていた。
「……お姉様。咲夜、まだ帰ってこないの?」
「……まだしばらく帰ってこないわ」
フランドールとレミリアは、バルコニーの日陰の下で、アイスティーを飲みながらぐだっていた。フランが硝子のコップを揺すると、殆ど溶けてしまった小さな氷がぶつかり合い、少しばかり涼やかな音を奏でてくれる。しかし、僅かに得られた清涼も、すぐさまそれを上回る蝉の大合唱にかき消されてしまった。
フランの額から顎まで汗が滴り、丸机の上に何滴目か分からない染みを作り上げた。
そもそも、咲夜に休暇を与えたのが間違いだったのかも知れない。レミリアは伝う汗を苛立たしげに拭いながら思った。空調管理みたいな細かい作業をメイド妖精が出来るはずもなく、なんと一日で壊してしまった。完全に己の気紛れからだったが、驚いた顔をした後、少し嬉しげな声音を発する咲夜を見ていた時は、後悔を覚えるとは予想だにしなかった。
「……咲夜、どこいったの?」
「……知らないわ」
言われてみて初めて気付く、自身の無知さ、無関心さ。知らないことを知れとどこかの誰かが偉そうに言っていたが、なるほどつまりこういうことか。博麗神社か幽霊屋敷か、はたまたどこか人里か。従者の行動範囲すら把握できていないとは。
唇を噛みしめる力もわかず、椅子にもたれて口を半開きにする。蝉の声が鼓膜の中で乱反射してぐわんぐわんと頭を揺らした。自慢の服も汗を吸い込んでじっとりと重く、そろそろ頬を伝う水滴を拭うのも億劫だった。
苛立つほど晴れ渡った空に、一つの軌跡が真っ直ぐと描かれた。
「あー……魔理沙だあ……」
脱力したフランの声に喜色が籠もる。紅魔館上空を旋回した後、建物に突っ込んでいくいつもの侵入方法で、すぐに魔法使いの姿は見えなくなった。
「……魔理沙に会いに行かなくて良いの?」
いつもなら彼女を見かけると文字通り飛んでいくのに、今日は頬を机に押しつけたまま動こうとしない。レミリアが尋ねると、
「お姉様がいるから、今はいい」
フランはにへらと笑っていった言った。そう、と相づちを漏らし、少しばかり体温の上がったレミリアは、暑さに身を任せて長い睫毛を伏せた。
☆
「あっついなーほんとに!」
「さっきから五月蠅いわね。知ってるわよそんな何回も言わなくても」
本から顔を上げたパチュリーの口撃が飛ぶ。暑いと言うことすら禁じられた魔理沙は、いよいよ仕様が無くなって、大理石の床の上に寝転んだ。
「汚いし止めなさいよ」
アリスが紅茶を飲みながら止めるが、そんな言葉を気にする魔理沙ではない。
「五月蠅いぜ。こんな暑い日に熱いもん飲みやがって……見てるこっちまで暑くなる」
ほっぺたを大理石にくっつけて、僅かな癒やしを得た魔理沙は、猫のように身体を伸ばして目を閉じた。
「だいたいなんで空調きいてないんだ。いつもならすごい涼しいじゃないか」
「咲夜がいないからよ」
「あら、そうなの? ついに過酷な労働環境に耐えられなくなったのかしら」
「失礼ね。ただの休暇よ」
「そういや、白玉楼で見かけたぜ」
本をパタンと閉じたパチュリーが、対面に腰掛けるアリスと寝転ぶ魔理沙を交互にねめつけた。
「というか、なんで二人とも私の図書館に来るのよ。ただでさえ暑いのに、余計暑苦しいわ」
「本が読みたくなったからかしら」
「暇だったしな、本でも読むかって」
「別の場所行きなさいよ」
「ここが一番本が多いし」
事も無げにアリスが言った。しかし、優雅に紅茶を嗜む彼女の周りに本は見当たらず、
「なー」
寝転ぶ魔理沙も同意した。
言葉を無くしたパチュリーは、本に目を戻した。視界の端に、星が飛ぶ。また本から目を離し、隣の小さな星を見た。
寝転ぶ魔理沙の指から生まれる小さな星達が、薄暗い図書館の中空に浮かび輝いていた。彼女の性格のように勝手気ままに辺りを飛び回り、突然弾ける星があるかと思えば、空に留まったまま燦然と輝く大河となる。その色は赤、青、黄色と種々様々。アリスの瞳にも映る星の数々は、辺りにきらきらと柔らかな光をもたらしていた。
しばらく見ていたパチュリーの口から、ぽつりと言葉が漏れた。
「あなた、星の魔法だけは上手いのよね」
「失礼な。他の魔法も一級品だぜ」
途端に漂っていた星々が消え、代わりに魔理沙の指から炎が現れる。火炎放射のように大きな火柱となり、図書館の高い天井まで届きそうになるが、
「危ないからやめなさい」
アリスの手の平から現れた水龍が、その全てを飲み込んでかき消した。
「どうだ」
寝転んだまま胸を張る魔理沙に、
「お話にならないわ。構成はおおざっぱで魔力の変換も雑の極み。てんで駄目ね」
パチュリーの厳しい評価が下った。
「あんだよもー」
ごろんと俯せになった魔理沙の目に、図書館の真ん中に突っ立った、溶けかかった細い氷の柱が映った。頼りなく傾く姿は、育ち始めたばかりで根のしっかりしていない若木のようだ。
魔理沙は胡乱げに顔を上げ、
「次、誰だっけ?」
「私ね」
アリスが言葉を発するが早いか、今にも倒れそうだった氷柱が、突然樹齢百年程の大木の太さになり、図書館の天井まで届く大きさとなった。辺りに冷気を漂わせ始めるが、しかしこれほどの大きさにしても天然の氷と比べると些かももの足りず、周囲の熱気を奪う程ではない。
「……涼しくならないぜ」
魔理沙が口を尖らせ、
「……涼しくならないわね」
パチュリーが眉間に皺を作り、
「……悪うございました」
アリスが目を眇めた。
このやり取りも、最早三巡目に入ろうとしていた。魔理沙の提案で順番に氷柱を立てせめて少しでも涼を取ろうと始まった試みだが、真夏の暑さには太刀打ち出来なかった。
「うー……」
子犬のように唸る魔理沙に、パチュリーが目をやった。
「なんで魔理沙は星の魔法だけ上手いの?」
「他の魔法も一級品だって言ってるだろ」
またもや手を上げ何らかの魔法を放とうとした魔理沙に、
「それはもういいわ」
にべもなくパチュリーは言った。
「星の魔法はただでさえ扱いの難しい無属性魔法の中でもさらに特異な魔法よ。いいえ、無属性と呼ぶには異質すぎる。星の魔法はそれだけで独立した構築方と変換を有する唯一のイレギュラー。それだけ覚えても他の魔法に応用は利かない。なのに、魔理沙は星の魔法だけ一級品ね。普通、非効率過ぎて誰もやらないわ」
「えー?」
長々とした話を魔理沙は全て聞き流していた。
「要するに、なんで私が星の魔法を使えるか知りたいってことか?」
「まあ、そうね」
「確かに私も興味あるわね」
パチュリーの肯定にアリスが乗っかり、二人揃って地面に転がる普通の魔法使いを視界に収めた。
先程までとは打って変わって二人の目は真剣そのものであり、突然四つの瞳に見つめられた魔理沙は、「な、なんだよ」とたじろいだ。
「別に話してもいいけどさー。長くなるぜ?」
「構わないわ」
「同じく」
アリスの言葉に、パチュリーも頷いた。
口を開きかけた魔理沙は、一度逡巡した後、
「やっぱ止めた。恥ずかしいし……」
瞬間、二人の腕が動いた。寝転がった魔理沙の身体が宙に浮き、うら若き乙女の悲鳴が図書館に響き渡った。
魔理沙の身体はそのまま椅子へと座らされ、身動きが取れないないように足下から伸びてきた蔓が縛り付ける。あっという間に手も足もぐるぐる巻きに固定され、満足に動くのは首から上だけとなった。
「ちょちょっと! 待てよ! 何も縛らなくてもいいだろ!」
「あなたが手に持っていた物はなにかしら?」
アリスの手元に上海人形が現れた。その小さな手に握られていたのは、一本の箒。宙に浮く直前まで魔理沙がしたたかに握っていた物だ。
「あんたは何をするか分からないからね」
蔓を操るパチュリーが言う。
「話してもらうまで逃がさないわ」
二人が知識の鬼になっていることに気付いた魔理沙は、全て話すまで離してもらえないと分かり、逃げる術もなく、がっくりと項垂れた。
☆
えーと、何から話そうかな。複雑な家庭の事情って奴でさ。魔法ってのは私が家を出るきっかけなんだ。……湿っぽくなってもらっちゃ困るぜ。口を割らせたんだ、こうなったら全部聞いてもらう。
いや、なに。最初の切っ掛けは香霖からだったんだ。香霖堂のさ、知ってるだろ。
あれは私が子供の頃だった。今日みたいに暑い日で、しかも間の悪いことに私が熱を出して寝込んだときだった。あいつが枕元で、つきっきりで看病してくれていた。霧雨って名前、里で聞いたことないか? な、あるだろ。そうそう里の中心にあるあのでっかい店。里から浮いてるよなー。あいつはそこで働いていた。私はそこの一人娘。番頭だったかな、それともまだ手代だったっけ……いや、一番の古株が手代ってことはないかな……え、どうでもいい? はいはい、魔法ね魔法。
冗談じゃなく三日三晩寝込んで、あの時、里のありとあらゆる薬を飲まされたんじゃないかな。苦くて苦くてもう本当に地獄だった。で、三日目の晩、ようやく少し熱が下がって、歩けるようになった。
星一つないどんよりとした曇り空でさ、肌が重かったな。苦しかったし子供だったしで、上に登れば少しは楽になるんじゃないかって屋根に登った。ふらふらな頭を支えながら屋根で涼んでたら……いや、涼めてないな。結局暑いのは変わらなかった。
とにかく空を見てた。じっと見てたら分厚い雲でも形が変わるのが分かった。ふにゃふにゃーってよりぐねぐねーって感じ。
空を見てたら、私が屋根にかけた梯子から、誰かが登ってきてた。父親だったら最悪、大目玉だからな。母親だったら……泣かれそうだ、やっぱり最悪。でも、どっちでもなかった。
顔を出したのは香霖だった。まだ眼鏡かけてなかったけどな。ひょこっと顔を出して、何してるんだって。空を見てるって答えたら、危ないよって言われた。
え? 本題? 焦るなって。ここからなんだぜ。
あいつは私の隣に腰掛けて、空を指さした。そしたら、ぱーって、指先が輝いて、一つの星みたいな物が現れた。驚いてたら、空に上がって、本当に星になった。一つ、一つ、また現れて上がって星になって、気付いたときには満天の星空だった。
そのおかげで元気が出たからか知らないけど、次の日にはしつこかった熱が下がった。私が魔法に興味を持ったのはそこからだ。まあ、当時は魔法って知らなかったけどな。香霖に教えてくれとねだったんだけど、あいつ頑として教えちゃくれなかったんだぜ。
それで、色々あって霊夢とも知り合って……色々は色々だぜ。良いだろ、本題はまた別だ。家を出て、魅魔様に魔法を教わった。そこで我が儘言って、まず最初に星の魔法を教えてもらったんだ。他の魔法と違って身の入れ方も違った。あと、私には理想があった。香霖が見せてくれた星の魔法と、霊夢と見た流星群。同じ輝きを、自分で作りたかったんだ。
でも、魅魔様に教えてもらっても、あの輝きは最後まで作れなかった。また香霖に会った時、もうあいつは里から離れていた。多分、私のせいかな。
もう一度、星の魔法を教えてくれとねだった。そしたら、溜息を吐きながら教えてくれたんだ。実は、あいつが生み出す魔法には、一族の秘法が編み込まれていた。だから魅魔様に教えてもらってもあの輝きは作れなかったんだ。
はあ? 術式? 教えないぜ。香霖との約束だからな。え、ちょっと、おい! どこに行くんだ! なあ! せめて縄を解いてくれよ!
☆
「やあ、いらっしゃ……なんだ、魔理沙か」
「そうだぜ、悪いか」
魔理沙が香霖堂の扉を開けると、店主である森近霖之助は、いつも通り店の奥で椅子に座って本を読んでいた。顔を上げるだけで、椅子から立ち上がろうともしない。
「客の出迎えがなってないぜ」
「全く」
魔理沙の言葉に鼻を鳴らし、霖之助は本を閉じた。
「今日は何をご所望かな」
「アリスとパチュリーが来なかったか?」
「いいや、今日は君以外来てないよ。いつも通りの閑古鳥だ」
ガタゴトと音を立てながら、魔理沙は売り物の椅子を霖之助の隣まで運んだ。
「用はそれだけかい?」
「そうだぜ」
「じゃあ、客でも盗人でもないわけだ」
また下を向いて自分の世界に没頭しようとした霖之助の手元から本を奪うと、魔理沙は悪戯っぽく笑った。
「嘘つきは嫌いだぜ」
「何の話だか」
そっぽを向く霖之助と、笑って睨んだまま動かない魔理沙。双方の無言は数秒で魔理沙の勝ちに終わった。
「僕の一族の秘法について聞かれたよ。それと、僕の種族についてね。答えなかったから、かなり怒ってね。あの様子だと当分うちに来てくれないな」
「それだけか?」
「これだけ」
「大嫌いだ」
魔理沙の笑みが深くなる。降参だ、と霖之助が両手を挙げた。
「どうしてもって言ってきかないから、目の前でやって見せた。もう、本当に、これだけ」
「ほら、やっぱりだ」
魔理沙の頬がぷくりと膨れた。
「見せただけだ。教えてない。なんで君が怒る」
「……別に」
むくれてしまった魔理沙に対し、霖之助は何か言葉をかけようとしたが、結局『何か』が分からず断念した。魔理沙が膝元に抱えた本を未練がましく見つめるも、手を伸ばそうとはせず、頬杖をついて店先を眺めるに止めた。
先程とは打って変わって空模様は怪しく、今にも降り出しかねない程黒い雲が天を覆っている。窓から差し込んでいた光は遮られ、店内も薄暗い。濁りきった雲の隙間の切れ切れから、本来の青さを伺うことは出来るものの、すぐに見えなくなってしまった。時々、思い出しかのように、遠くで雷が唸り声を上げている。いっそ土砂降りに降ってしまえば少しは涼しくなるかもしれない。
そんな事を考えていた。
「星、作って」
突然、魔理沙が口を開いて、そう言った。
「……今かい?」
「今」
突然の言葉に戸惑いを見せたものの、魔理沙の機嫌が直るなら、と霖之助は小声で詠唱を唱えた。
一つだけ、暗くなっていた店内に小さな明かりが点る。中空に漂う星は、図書館で魔理沙が作った物と殆ど変わらぬ輝きを持っていた。
「やっぱり香霖の星のが綺麗だな」
「そうかな。もうそれほど変わらないと思うが」
「ちゃんと光が店の隅まで届いてる」
魔理沙が指さした先にあったのは、店の片隅に照らし出された小さな達磨だった。倒れたままの赤い身体が光を反射し、眩しいのか数度瞬きした。……付喪神化しかかっている。
「困ったな……早い内に売らないと……」
首を傾げる霖之助の手元に、先程まで持っていた本が置かれた。
「お邪魔したぜー」
顔を上げると、箒を手に取った魔理沙が、店の扉を開けようとしているところだった。
「次はお客さんとして頼むよ」
「イヤだぜ。私はいつでも普通の魔法使いだ」
振り返った魔理沙が払った箒の穂先が、漂っていた星を引っぱたいた。慌てて頭を下げた霖之助の頭上を通過し、背後の壁に当たって跳ね返る。
「死ぬまで借りるからな」
すぐ近くから聞こえた声に霖之助が頭を上げると、魔理沙は跳ね返った星を指で挟み、彼の眼前で左右に振っていた。
困ったような笑い顔を見せながら、霖之助が頭を掻いた。
「すぐに消えるけどいいのかい?」
「いーや、消えないね。意地でも消さない」
クスクスと笑う魔理沙は、いつか彼女がまだお嬢様と呼ばれていた頃そっくりの、無邪気な笑い方だった。普段なら絶対にしないどこか品のある笑い方は、目元と鼻筋も合わせて親友達に瓜二つだ。
「またのご来店を。親父さん……いや、せめてお袋さんには手紙を書いてあげなよ」
「書いてるぜ。あいつ以外にはちゃんと書いてる。……思い出した時にだけど」
「じゃあ、今思い出したわけだ」
魔理沙は面倒くさそうな顔を隠そうともしなかった。むしろこれ見よがしに見せつけてきた。
珍しく僅かに声を上げて笑う霖之助に満足したのか、魔理沙は踵を返して扉に手をかけた。
「またなー」
「また」
扉が閉まり、辺りに静寂が落ちる。霖之助は再び読書に戻り、激しい雨音に気付いて本を閉じた。店奥から大きめのタオルを引っ張って来るのと同時に、軒先の方からバタバタと慌てる音と、小さな悪態が聞こえてくる。
「またきたぜ」
「はい、いらっしゃい」
全身から雨水を滴らせているというのに、何故か魔理沙は満面の笑みだった。釣られて霖之助も一笑を漏らし、山高帽を脱いだ彼女にタオルをかけた。