軽蔑すらしていた感情が自分に芽生えてしまった少女の話。
幼い頃は兄が遊びに出かけると迷わずついていった。まだ性に対する意識が未熟な時期、男女が混ざって球技をしても違和感があるほどではない。同年代で同性の友達がいなかったわけでなくとも、お兄ちゃんっ子だった五反田蘭はそれが一番楽しいことなのだと本気で思っていた。
歳を取るにつれて体も心も変わっていく。特に女子は成長が早熟であり、男子から見るとその差が面白くない。蘭が望んだことを相手が受け入れるとは限らない。
――お前は入ってくんな!
強い拒絶の言葉。隠されない幾つもの敵意が蘭に突き刺さった。
このときは兄がキレて殴り合いが始まってしまい、全員で叱られて終わる。
以来、兄は蘭を遊びに連れていくことはなくなった。蘭もついていこうとは思わない。自分のせいで兄が友達だった人を殴っているのを見るのは嫌だった。
必然的に男子との付き合いが減ったため女子との付き合いを増やす必要がある。
しかしそこでも問題があった。男子に混ざっていた蘭は女子の話題についていけなかったのだ。
自分は女の子らしくない。女の子なんだからもっとお淑やかにならないと。
根が真面目である蘭は兄が持っていた漫画を参考資料にして女の子らしさを勉強し始める。そこに描かれていた女の子は男子の望む女子像であって決して女の子らしさとは呼べなかったのだが、蘭はそうなるべきだと思い込んで実行に移した。
服装、髪型、仕草ですらも大衆食堂の娘でなく良家のお嬢様へと変貌。家の外では常に気を張って『良い女の子』であり続けた。
中学は共学の兄とは違う道を行き、女子校へ進学する。
理由はやはり男がいないこと。
トラウマというほどではなかったができることなら関わりを避けたいと考えるようになるのも無理はない。
新天地でも蘭は女の子で在り続ける。それも同じ女子が憧れるほどの女の子を演じ続けていた。嫉妬されることもあったが、それを上回る数に慕われ、そうした周りの女子たちに笑顔を振りまいた。
……私、何をやってるんだろ。
学校から家に帰るとすぐに堅っ苦しい制服を脱ぎ捨てる。朝、必死に整えた髪もわしゃわしゃと崩して乱雑に。
姿見に移った下着姿の自分の顔は嘲笑を浮かべている。目だけは笑えていない。
何のために神経をすり減らしているのだろうか。偽りの自分が友達を増やして何が楽しいのだろうか。
日に日に乖離していく家の自分と他所の自分。それが当たり前になって今更生き方を変えることはできない。
相談相手もいない。学校の友達は蘭のがさつな本性を知らない。親は真面目すぎる学校での姿を知らない。
唯一、両方を知ってくれているのは兄だけ。
しかしその兄はすっかり変わってしまっていた。昔は物怖じせずに周りを引っ張っていくタイプであったのに、中学に進学してからは女子に頭を下げてばかりいる。本当に頼りない。
溜め息と共にベッドに横たわる。気晴らしにスマホを点けると、あることを思い出した。
……そういえばまた告白されたんだった。返事するの面倒だなぁ。
女子校に進学した蘭だったが、むしろ周りは恋愛に興味津々な子の方が多かった。どうやら男と女は永遠に切れない間柄らしい。一度は異物として排斥してきた男子たちが、今度は手の平を翻して女子に近づいていく。
友達に付き合って他校の生徒と会うことは珍しくもない。余所行きの仮面を被っている蘭は男連中には可憐に映っていたことだろう。初対面から告白されることは数知れず。その決まり文句は『一目惚れ』だった。
……バッカみたい。一目見ただけで私の何が分かるって言うのよ。
笑顔の仮面の裏で蘭は軽蔑の眼差しを向ける。その悪意に気付かない男は上辺だけの笑みを向けられて喜んでいる。
返事には気を使った。理想の女の子は男の子をひどく振るような真似はしない。『さっさと目の前から消え失せろ』という本心を『嬉しい。ありがとう。ごめんね』のオブラートで包む。
この繰り返された茶番には慣れてきた。泣いて蹲る男、怒って食い下がる男、笑って去る男。どんな反応が返ってきても蘭の心は冷めたまま。
くだらない。恋愛なんてくだらない。一目惚れなんてありえない。
所詮は性欲を美化する幻想だ。五反田蘭が欲しいわけじゃなくて、皆が欲しがる女を所有したいだけ。この女尊男卑のご時世、強い女性を恋人とするのは男の武器にもなりえる。
男は卑しい存在である。
表向きは男にも優しい才女を演じながら、本心はすっかり女尊男卑の思考に呑まれた。
傷つけられたくないと思っていた蘭の胸の内には周囲に対する棘がびっしり。
その棘を隠すために自らの心で覆う。当然、心には棘が突き刺さっていた。
「……散歩しよ」
イライラが募った蘭は家用のラフな私服に着替えて外出する。別に飾っていない蘭を誰かに目撃されても構わない。あまりにも別人だから本人だと思われないだろうと軽く考えていたのもあるし、ストーカー染みた奴にバレてもそれはそれでこの生活に終止符が打てるかもしれないと微かに希望を抱く。
……今の生活を終わらせたい?
それでどうするという先が全くない。自分の願いが分からないまま、今を終わらせるような勇気は持ってない。
何よりも気力が湧かなかった。
陰鬱なまま目的もなく夕暮れ時の近所を歩く。その足取りは重く、それどころかフラフラと危なっかしい。
肉体的な疲労でなく精神的な疲労が積み重なりすぎた。
自分の心だけでなく体の状態まで見えなくなっていた蘭は自分の足に足をひっかけて転びそうになる。
しかし蘭の体は倒れる途中で止まった。
「大丈夫か?」
ふわりと仄かな汗の香りが蘭を包む。鍛えられている力強い腕は男のもの。
男だ。それも同い年くらいの。
蘭は反射的に力を込めてジャージ姿のランニング男から離れる。
「……ありがとうございます」
鋭い目を向けようとしてしまったところで、いつもの癖で表面を取り繕った。もはや誰の為とも分からなくなった演技で笑みを向ける。
こうすると普通の男は気を良くする。借りを作ってしまってもこれでチャラになる。今回もそれで終わると思っていた。
なのに――目の前の男は呆れた様子で溜息を吐いた。
「疲れてるなら休め。今日はもう、すぐに帰って寝るんだぞ」
男は蘭の頭をわしゃわしゃと雑に頭を撫でる。女ではなく子供を慰める手つき。その手は張りつめていた蘭の心を解きほぐし、仮面を引きはがした。
「私……疲れてたんだ……」
何事もなかったかのようにランニングに戻っていった男の背中を見つめて呟く。
自分でもおかしいとは思っていてもついには自力で気付くことはなかった蘭の疲労。限界に来ていた精神を男は一発で見抜いた。
今まで誰も彼もを騙しとおしてきた蘭の演技が通じない。このような経験は初めてである。
「あの人なら教えてくれるかな……?」
自分の知らない自分を教えてくれた存在は男だった。彼は近づいてくる男たちと違っていて、蘭に近づこうという野心が一切見られない。女ではなく、ありのままの五反田蘭を見てくれた。そんな気がしてしまった時点でもう手遅れだった。
帰り道は足取りが軽かった。もし次があるのならもっとちゃんとした自分を見てもらいたい。それだけでなく、女として認めてもらいたい。
確実に蘭の意識に変化が訪れている。憂鬱だった学校での演技も自然にこなすようになった。目的の無かった今までとは違う。『あの人に見てもらって恥ずかしくない女の子』になりたいという目標ができた。それだけで疲れなんて吹き飛んだのだ。
後日、兄が連れてきた親友の前にすっぴんのまま姿を現して絶叫する蘭の姿があった。
企画に乗り遅れた真の遅刻組。
更に言えば、とりあえずやってみたけど1時間じゃ無理だった(AM0:00~AM1:30)