『季節は廻って』
「か、かんぱーい!!」
運ばれたブツを前に、ヤケクソ気味に霊夢が音頭を取った。
打ち鳴らされるグラスの音のかわりに、一斉に割りばしの悲鳴が店内に響く。カウンターに並んだ五人の顔は険しく、さながらヒマラヤ登山にでも赴くような鬼気迫るものがある。
「誰がラーメンにしろっつったんだ」
「ユキよ。久しぶりに食べたいって」
主賓がためいきをつく。
文字通り世界中を飛び回ってきた『紫さん(とユキ)お帰り&お疲れ様会』の会場となったスケキヨ。彼らの前には大盛りのラーメンが具もアブラもヤサイもマシマシで鎮座ましましている。
「霊夢、まずは麺をスープから上げなさい。じゃないともたないわよ」
「上げるってどう…………す、すいませーん、取り皿くださいー」
「馬鹿ね。ヤサイが乗ってるでしょ。それをひっくり返すのよ――こんな風に」
「えっえっ、どうしてそんな器用なことできるワケ?」
「できるできないじゃないの。やるのよ」
あうあうと喘ぎながらヘタクソな天地返しに挑む霊夢の隣で幽香がぺろぺろと一杯目を平らげていく。力が失われるにつれ最近は大分食が細くなったと言うが、ハジメにしてみれば十杯のスケキヨが九杯になったところでさしたる違いはないように思える。
「最強の座はまだまだ揺るがないんだろうな」
マイペースに食べ進みながら、ハジメは店内を見渡す。
閉店間近でほとんど貸切状態の店内をぼんやりと照らす暖色の裸電球。脂ぎったカウンターの奥でひょこひょこ動く店主の頭越しに見える窓の外で、小雨がちらついていた。
「随分余裕ね」
隣で店主の目を盗んでラーメンをスキマにぶち込みながら、紫が呟いた。
「まあ、な」
片手間に早くもヤサイをやっつけたハジメが、麺をちるちるとすすりながら返す。紫が問い質したいことなら分かっている。
「まだ言えてない」
「そう」
「だああっ、何よそれ、やっぱりあんた体の構造おかしいわよっ、一度レントゲンとってもらいなさいよ、レントゲンっ!」
悩み多き年頃の乙女の悲鳴が、二人の間に漂った沈黙を切り裂いた。
「……苦しく、ないんスか」
「んーん」
霊夢と雪之丞の視線の先で幽香がハムスターのようにほっぺをふくらませたまま首を横に振った。三杯目の丼がカウンターに叩き付けられる音が高らかに鳴り響く。
「あっきれた。あいつ、まだまだ妖怪続けるつもりなのね」
「いんや」
ほくそ笑んで、ハジメが席を立った。彼の手で光るケータイが、着信を知らせている。彼の視線の先には銀の指輪の光る幽香の左手がある。
「あいつこないだ包丁で指切って、未だに治ってないんだぜ。フツーに怪我して、フツーに死ぬ。もう、ただの人間と変わらない」
妹から電話来ちまった、と。建付けの悪い引き戸をガラガラ鳴らしていくハジメの後ろ姿を見送ったものは紫だけだった。
◆◆◆
「おう。久しぶりに声聞いたな」
夕方の空から降り注ぐ雨粒が、スケキヨの掲げた看板の電飾に反射している。しばらく通話口からの声に嬉しそうに耳を傾けていたハジメが、わずかに眉根を寄せた。
「それ、カミナリか。こっちは小降りなんだけどな」
向こう側でひときわ大きな雷鳴の後に小さく千晃の悲鳴が聞こえて、ハジメは思わず口の端を吊り上げていた。
「勉強、順調か。あんまり叔母さんたちに迷惑かけんなよ」
そんな些細な切欠から距離を実感する。
『あたしさ、ちょっと家出るよ。あ、これ連絡先。最近オバさんと電話しててさ、娘が一人でも二人でも構わないって。ちょうど志望校近いし、私バイトしながら。うん、そう。ガッコ行きたくなった。出発は、よければ明後日には』
彼女がある日の夕飯時にボロっと言い出した後のことは今でも昨日のことのように思い出せる。味噌汁を鼻から噴き出して悶絶する父と、無言のまま体温計を探しに行った母。唖然とするハジメの前で、ゆっくりと幽香だけが穏やかに微笑む。
『そう。あなたが決めたのなら、そうするべきね』
もっともっといい女になって、お姉ちゃんを寝取りに帰ってくるから。それまでにもっといい男になっておけよと兄に言い残して千晃はあっさりと自宅警備員を辞職した。
そして今、兄と同じく受験戦争の真っただ中にいる。
「にしても最近K市は治安悪いみたいじゃないか。殺人だの事故だの。これじゃあまるで」
いつかみたいにバケモノが暴れまわってるみたいだ。
そう言いかけてハジメは口をつぐむ。紫の尽力で大半の幻想の住人達は現代に居場所を見つけたという。だがそれでも、一部は彼女の手を振り払って放浪を続けているという。
「――――ま、そっちには最強のボディーガードがいるからな。あんま心配はしてないんだけどサ」
そんな『野良幻想』たちが最後っ屁に何かやらかすのではないか、という懸念も解決していない。それでも不穏な想像は、言葉の上だけでも否定しておきたかった。
「あ、過保護? 難しい言葉使うなっつーの」
それからしばらくうんうんと頷いていたハジメが、不意に顔を曇らせた。
「エリカは……エリカは、そうだな。急に歳食ったみたいになっちまって。みんなで日替わりで会いに行ってるんだけど、最近は寝てる方が多くてさ」
本当は今日も彼女に同席してもらうつもりだったのだが。結局外出許可は得られず仕舞いだった。
「でもあいつ起きてる時も寝てる時も、本当に幸せそうなんだ。そうだ、今度おーちゃんもつれて会いに行ってやれよな。きっと喜ぶ。ひょっとしたら飛び起きちまうかも。あ、帰る時はちゃんと事前に言えよ。つーか俺が迎えに行ってやろうか。あ?」
雨の勢いは増していく。季節はもう11月。その上身を切るような寒風の真っただ中に突っ立ったハジメはいつも通りの薄手のジャケットを羽織っただけの格好だ。
それでも彼は身震い一つ起こしていない。
「っからさ、過保護じゃねえっつーの。おら、いいからさっさと要件言えよ。こんな時間に電話なんて、ついにオニイチャンが恋しくなったって認めるのか?」
照れ隠しの小馬鹿笑いも、そう長くは続かなかった。
「………………どうしてそう思うんだ」
無意識にこわばっていた頬を揉みほぐしながら、ハジメは必死に兄らしい陽気さを絞り出そうとする。
「なワケないだろ。こっちには幽香もいるしな。全く。過保護はどっちだってーの。お前の心配事が片付いたところで、もう切るぞ。勉強中だったんだよ。じゃあ、帰る時は連絡な。忘れるなよ。うん。じゃあな。うん。元気で」
殆ど一方通行でしゃべくり倒して電話を切ってから、ハジメは暫く液晶の通話時間に目を落としたままでいた。
「あ」
とうとう画面表示がオフになった後もケータイを握りしめ続けていると、不意に液晶に淡い光が灯った。と思えばそれは雪の結晶で、空を見上げたハジメめがけて初雪が降り注いでくる。
『――――あにき、なんだか無理してると思ってさ』
不意に千晃の言葉がリフレインして、ハジメは下唇を噛みしめる。
「なんで分かったんだ?」
暫くそうしていると夜空をたゆたう雪の粒が星の明りに見えてきて。
「やっぱ、血の繋がりってバカにできないな」
まるで宇宙空間に放り出されたような錯覚を覚え始めると、殊更に自分が地球上で唯一の存在になってしまったことが自覚させられる。
◆◆◆
『いいんだな?』
ジョンは再三にわたってハジメに確認した。
ここが本当のポイント・オブ・ノー・リターンなのだと。
『強く望まれて生まれてくるものが何になるか、分かっているんだろうな?』
「あぁ」
彼の幻影に、半年越しの返事をする。
「分かっていたつもりだったんだがな」
スケキヨの明るさの中に戻る気になれず、ハジメはそのままアーケード街の奥へと引き返していった。夕闇にひっそりたたずむ踏切と学校の前を過ぎて、たどり着いた公園でベンチに腰を下ろす。
「これで、よかったんだよな」
ジョン・マクレーンはもういない。辛辣な疑問を投げかけることすらしてくれない。彼が銀幕の中でそうであったように、ハジメは誰の手も借りず答えを探さなくてはいけない。
「俺は」
もはや寒さも空腹もさしたる問題ではなくなっていた。
今ならこれまで相手してきた怪異が束になってかかってきてもハミガキの片手間に玉乗りしながらやっつけることが出来るくらいの力がたかだか172cmに渦巻いている。
それが、万人の望みとして誕生した最強の幻想――ツルミハジメだった。
もはや歳をとることもなく、傷つくこともなく、飢えることすらなく。一体自分の終わりがどこにあるのかさえ分からない。そもそも終わりなんてものがあるのかさえも。
「ようやく、あの頃のお前の気持ちが分かった気がするよ」
そこから人を好きになった幽香は、きっと人らしい長さの時間を生きて、人として死んでいく。それはなんと素晴らしい事だろう。しかしハジメはその時間のスケールにペースを合わせることができない。
「…………そろそろ戻らなきゃ、な」
答えの出ない堂々巡りに嫌気がさして腰を上げる。
「お前」
そして、言葉を失った。
「ハジメ」
彼が一番愛して、そして今一番会いたくない相手が、白い息を切らせてそこに立っていた。
◆◆◆
「少し、暑くなっちゃって」
そう呟く幽香が無理をしていることは明白だった。ジャケットをそっと肩にかけてやって、とうとうシャツ一枚になったハジメは居心地悪く幽香の手を握る。
「二度目ね」
「あ?」
「冬。こうして二人で迎えるの」
「あぁ」
間の抜けた返事に我が事ながら苛立ちが沸いてきた。
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「なんか俺、最近ダサいかなって」
「なにそれ」
そうしてひり出した言葉もやっぱりダサかったりするわけで。もうこの場にいることすら耐えられないハジメの隣で、幽香は実に楽しそうに笑う。
「知ってるわよ」
そこから不意打ちに幽香が漏らした言葉が脳みそに到達するまで、かなりの時間を要した。
「え」
「あなたの悩みを見逃すような女に見えて?」
なんのことやら、とはぐらかすことはできなかった。
すべてお見通し――今までのことを考えれば、それは当然だった。長い長い沈黙の時間。ハジメは幽香の顔をどうしても見つめることができなかった。
「…………本当、どうしようもないヘタレのまんまだったな」
怖かったのだ。
そんなことは絶対にないと思いつつ、落胆する幽香の顔を想像するだけで勇気が萎えていったのだ。
「いいじゃないの」
そんなハジメを、幽香は抱き寄せる。
「あなたがどんなにへたれでも、どんなにダサくても、どんな存在であったとしても。私にとってはどうでもいいことなのよ」
花のような幽香の、あまりに飾らない言葉に目頭が熱くなるのを感じた。
「あなたがかつてそうしたように、今度は私があなたを追いかける。どんな奇跡だって、起こしてみせる」
「な、ぜ。どうして、そこまで」
その答えは知っている。
知っていて、潤んだ赤い瞳に問わなければいけなかった。
「あなたを幸せにするっていう約束は、まだ終わっていないからよ」
今まで抱え続けた孤独の長さがそうさせるのか、ほとんど遠吠えのように嗚咽するハジメの頭に、幽香が顔をうずめる。
「兄妹そろってなきむしね。へたれ。泣き虫へたれ。ばーか」
「うるせえよ。お前だって人の頭にハナたらすんじゃねえ」
とことん優しく降りしきる初雪の中、とことん優しい幽香にあやされ、やっぱりこいつには敵わないと子供のように泣きじゃくりながらハジメは思う。
「寄り添うわ。いつまでも。大好きなあなたに」
お前を殺すという約束と、あなたを幸せにする約束から始まった物語は。
結局のところ二人の約束は宙ぶらりんで、未だかなわず途中のまんまで、それが結局叶うことになったのかどうかも語られないわけで。
――――それでもやはり最後はめでたし、めでたし。と、二人の幸せを願って花を添えることにしたい。
『風見幽香の殺し方』 おしまい