勝負師たるもの苦手意識を持つのは良くないと頭では分かっている。が、人間であればどうしても苦手なモノの一つや二つあるもので。
緒方精次の場合、どうしても克服できない苦手なものが三つあった。
一つ目は現本因坊の桑原。理由は人間ではないから。
二つ目は猫。毛がつくから。
そして三つめは倉田厚。周りを巻き込み、手がかかるから。
この内、一つでも憂鬱になるというのに、3つも重なったとなれば一日の運命は決まったも同然だろう。
―ガチャン!!
陶器系の何かが落ちて割れる音に緒方は振り返る。直前振り返りざま、肘に何かぶつかった感触がしたのは、もしかしなくても自分が触れてそれは落下したのだろうか。
床に落ちている湯呑だったのだろう破片に、
「………湯呑?誰だこんなところに湯呑なんか置いてる馬鹿は」
場所は棋院のロビー受付である。真っ先に職員の誰かが休憩中に飲んでいたMY湯呑をそのまま受付に置き忘れたのだろうかと考えた。
確かにぶつかって割ってしまったのは悪いが、元々そんなところに湯呑を放置している方が悪い、というのが緒方の言い分である。
しかし、受付をしていた事務員2人が床で真っ二つに割れた白い湯呑の残骸を見下ろしながら急に顔を青ざめた。
「これってもしかして、桑原先生が愛用してる……」
「本因坊戦の副賞で贈られたやつじゃ……」
関わりたくない嫌な単語が聞こえて、緒方はその場をどう言い逃れるのが最善か思案する途中で、持ち主が部屋の奥から出てくる。
「馬鹿とは儂のことか?」
――ちっ、ジジイの湯呑だったのか、めんどうな
本人が出てきて、本格的に面倒になってきたと顔に出さず内心思う。持ち主も面倒だか、どうやら壊してしまった物の由来も面倒な二重苦。桑原が棋院に入り浸るのは有名だが、まさか愛用の湯呑まで棋院に置いているとは知らなかった。
「申し訳ありません。まさか、こんなところに桑原先生の湯呑が置いてあるとは知らず」
言外に緒方は『こんなところに湯呑なんか置いてる方が悪い』と遠回しに言ったのだが、言った相手は普段から妖怪だの狸だの揶揄される老人である。遠回しな非難が通じる筈もなく、
「(本因坊の)副賞で貰って気に入って使っておった湯呑だが、物はいつか壊れるものよ。永遠に壊れぬものは存在せん。存在せんが『初めて本因坊を取った』時の思い入れのあるものが割れるのは、寂しいものよのぉ~」
職員たちの前でわざと侘しそうな口調で嫌味3倍返しで緒方に返ってくる。
――早々に割った湯呑に見合うものを用意しなければ、このジジイ、俺が割ったことをしつこく寝に持つな
根に持つだけならまだいいが、桑原の性格を考えると何気ない会話の中でぼそっと愛用の湯呑が割れてしまったことを話すだろう。相手は当然、残念だったと慰め、その過程で割った相手が緒方であることをそれとなく吹き込む。
もちろん桑原は緒方に悪気はなかったと庇うだろうが、庇うことで余計に桑原の心象は上がり緒方は下がる。
そこまでを1秒足らずで予測した緒方は
「そんなに(老い先短い老人の)思い入れのあった湯呑とだったとは、『知らなかったとはいえ』失礼しました」
もちろん緒方の顔は笑顔だが、全く笑っていない。
「全く同じ湯呑はご用意できませんが、是非代わりのものをご用意させてください」
これでいいだろう?と申し出れば、顎を撫でもったいぶりながら桑原は『緒方くんがそこまで言うならの』とさっきまでのワザとぶった侘しさを微塵も感じさせない素っ気なさでスタスタと部屋へと戻っていく。
床で割れたままの湯呑には見向きもしない。本当に思い入れがあったのかどうかさえ、緒方には疑わしく思える。
「緒方先生……」
不安げな眼差しを向けてくる職員に、
「すまないがこれを片付けてもらえるだろうか?」
「それは全く構いませんが」
「いや、気にしないでくれ。何があるにしろ、俺がぶつかって湯呑が落ちて割れたのは紛れもない事実だ」
2割程度、割ってしまったものはどうしようもないと投げやり気味に断る。苛立ちはあるが、後は少しでも早く代用品を見つけて桑原に渡してしまえばそれで終わりだ。棋院での用事は終わっているため、後は帰るだけだがその帰りにどこか店に寄って代用品を見繕えばいい。
予定外の用事(それも全く乗り気ではない)が出来てしまったと内心愚痴りながら、駐車場に止めてある愛車に緒方は乗り込んだ。
代用品を買うのに選択肢は2つあった。一つ目は無難なデパート。有名デパートであれば偽ブランドにも厳しく一定の安心感がある。そして贈る相手の年齢と予算を伝えれば、担当の店員が品を見繕ってくれる安全牌と言ったところだろう。
――だが、デパートだと袋でバレるか
深く考え過ぎな気はするが、どうにも桑原相手だと裏や先の先まで考えてしまう。
――見てみるだけ見てみるか
それでいい品が見つかればラッキー。それで特に何も見つからなければ、若干懸念はあれどやはり無難なデパートで代用品を購入しよう。
性格ひねくれた桑原ではあるが、少々難癖つけられても、お詫びとしてちゃんと贈った品物を突き返すことはしない筈である。
「さて、来たもののオレは湯呑とか皿とかさっぱりだが」
近場の骨董屋で検索し、カーナビが案内してくれた店の前に立ち、ショーケースに並べられた皿や壺を眺めたところで知識も興味もない分野に全くピンとくるものはない。
少し見てみるだけ見てみるかと立ち寄ってみたものの、見たところでどうにもならないか?と緒方は心内で思う。
そこに、何かが足に擦りよる感触に下を見下ろすと、
「猫?ずいぶん人に慣れてるな」
真っ白な毛並みの猫が緒方の足に顔を擦り寄せ、長い尻尾を絡ませてくる。
首輪をしているからには誰かが飼っている猫なのだろうが、元来警戒心が強い猫が全く見ず知らずの人間にここまで懐くのは珍しい。緒方自身、決して猫好きというわけではない。寧ろ苦手な部類で自ら近寄ろうと思わず、記憶の中でも猫にこれほど懐かれたことはないのだが、
「どこの猫だ?その前に俺のスーツにすり寄るな、毛がつく」
軽く猫を足で払い、あっちへ行けと追い払う。しかし追い払おうとしてもまた白猫はまた足に絡みつく。
このままでは店に入ることもできないと鬱陶しく思っていたところに、
「緒方先生!!捕まえて!!」
見知った声に突然名前を呼ばれ、つい反射的に緒方は足に絡んでいる猫を抱き上げた。
「ありがと助かったー、動物病院脱走してずっと探しててさ」
はぁはぁと息を切らせて走り寄ってくるのはニット帽に黒縁メガネをかけたヒカルだ。右手には猫を入れていたのだろうペット用の籠を持っている。
そして肝心の猫は両脇に手を差し入れられ、だらりとした情けない格好で暴れることもなく抱きかかえられている。
「お前の猫か」
「そ。虎次郎」
聞いた瞬間、今時聞かない古臭い名前の猫だと思う。それも虎には全く似ていない白い猫だというのに。
そんな緒方の内心に気づくことなく抱きかかえられた猫を受け取り、逃げないうちにと籠の中に入れて鍵をかける。
そして
「緒方先生は何してんの?この店?」
緒方が眺めていたショウウィンドウをヒカルも覗く。当然ながらヒカルもウィンドウに並べられた皿や壺には、描かれた模様が綺麗だなと思う程度で全く興味はない。その骨董店の前でばったり出会い、緒方がこういった類に関心があるのか?と意外に思う。
「用事というほどではないんだが……」
見られて悪いことはないのだが、気まずいところを見られてしまったと緒方は言葉を濁す。
だが、割ってしまった湯呑と何かつり合いの取れた代用品を用意しなければ、桑原に一生根にもたれて末代まで祟られそうだ。
「桑原先生の湯呑を不注意で割ってしまってその代品探しだ」
ヒカルに見られてしまったが、見られたからには尚更いつまでも店前でウダウダしていても致し方ない。見てみるだけだと自分に言い聞かせ、骨董屋の玄関をくぐる。
それをヒカルの後ろから見ていた佐為が、
――ヒカル!私たちも少し見ていきましょうよ!
――えー?茶碗とか皿だぞ?オレ全然分からねぇよ。それに虎次郎だっているのに
面倒くさそうにヒカルは言うのだが、佐為の目は店の中を興味津々で眺め、少しだけ少しだけとヒカルに頼み込んでくる。
――いいじゃないですか、見るだけですから。ね?別にこの後、用事はなかったでしょう?
見るだけと言われても、ヒカルの今日の予定に骨董屋は全く入っていないのだが、確かにこの後に用事は入っていない。
それに一人で入るには気後れする店だが今なら緒方がいる。付き添いのふりをして入れないことはないだろう。
――しかたねぇなぁ
――ありがとうございます!ヒカル
軽く頭を掻いてから、店の門をくぐればそこまで広くない店内に緒方の姿をすぐに見つけられた。緒方の隣に立っているのは店の店主だろうか。
失礼な例えだが、一見してガマガエルに似た顔の和服を着た男の店主がいる。店内の棚や机に並べられた皿などに虎次郎が入った籠をぶつけないよう気を付けつつ傍まで行き、
「何探してるの?」
「あ?湯呑だぞ?お前、こういうのに興味があるのか?随分年寄な趣味をしているな」
「ないけどちょっと面白半分見てみるだけ」
「別にそれは構わんが、商品に触って割ったりするなよ?」
「分かってるよ」
と断りつつ、ヒカルが入ってきた時に店主が一見の客が入ってきたと嫌そうな顔を瞬間したのを見逃さない。実際ヒカルに購入意欲はなく佐為に乞われるまま入って見るだけなので間違ってはいないが、一応客相手に心象は決して良いものではない。
そのまま別れて店内に並べられている皿を見ていると、店主は緒方がプロ棋士であることを知っていたようで、上客と踏んだらしくヒカルに聞こえてくるだけでも歯が浮くような世辞やおべっかで持ち上げようとしている。
店主がヒカルのことに気づかなかったのは、帽子を目深に被りメガネをしているのと、先ほど緒方の方もヒカルの名前を言わなかったおかげだろう。店前で偶然出くわしただけのヒカルがこの商売根性著しい店主に捕まらないよう配慮してくれたのかもしれない。
――それなら俺も少し見るだけ見て、佐為が満足したらバレないうちに出ていくか
広い店内ではないのだ。軽く店の中を一周すれば佐為も満足するだろう。見る前から分かっていたことだが、やはりヒカル自身、どんなに美しい模様がえがかれた皿や壺であろうと、あくまで食器の類でしかなく骨董に興味は持てそうにない。
そうして店主がせっせと緒方に皿を売り込んでいる場所から少し離れた位置にヒカルが来たところで、
――これは……
商品を見渡していた佐為の視線が、平置きされていた一つに止まる。
――どうした?佐為?
――この花器、覚えてます。一度だけ京の御所に虎次郎と指導碁に行った時、見たことがあります。
佐為が指さす皿をヒカルも見てみるが、他の皿のように煌びやかな柄が描かれているわけでもなく梅の枝が描かれただけの八角のごく普通の皿にしか見えない。
――かき?別にふつーの皿だと思うけど?
――花器とは花を生けるための皿のことです。一見ごく普通の皿に見えますが、この皿には仕掛けがあるのです。それは……
昔を懐かしむように、皿の仕掛けについて話し始めた佐為に、話が進むにつれてヒカルの目が驚きで見開かれている。
佐為の話が本当だとするなら、確かにすごい皿だ。
「まじで?ホントだったらすごいじゃん!」
「何を独り言言ってるんだ?」
急に背後から声をかけてきた緒方に、あ、とヒカルは振り返る。そして少し緒方の表情が辟易していることに気が付く。
その後ろからは当たり前のように店主がついて来ていて、店主の商品の売り込みや見え透いた持ち上げ、世辞に参っているのだろうと察せられた。皿の類は全く分からないが、適当に一人で店内を見ていたヒカルにも、ぼった価格をさも価値があるように勧めていたのが聞こえていた。
――佐為、これ緒方先生にすすめていい?
――それは構いませんがこの花器をですか?緒方が探していたのは湯呑では?
――ダメだったら俺が買う。値段分かんねぇけど。なんか勿体ねぇじゃん。そんなにスゴイ皿なら花活けてやろうぜ
知ってしまったのなら、佐為の言う仕掛けを自分の目でも見てみたい。
「緒方先生、俺これがいいと思う」
机の上に並べられた多種の皿の中から、一つのヒカルは指さす。ただし勧めはしても仕掛けについては話せない。最初に、皿や骨董品に興味がないと言ってたのに、何故皿の仕掛けを知っているのか?と疑われてしまう。
「どれだ?」
「これ」
さらに皿に指を近づると、緒方の目が怪訝に細められる。
「皿?俺は湯呑を探して……まぁいい、これのどこが気に入ったんだ?」
「皿じゃない花器。花を活けたりするやつ。きっと桑原先生も気に入ると思う」
どう?と勧めてくるヒカルに、緒方もふむと思案する。
軽い気持ちで店に入れば、まさか店主がアマの免許持ちで緒方のことを知っており、鴨が来たと言わんばかりに熱心に高額な商品を勧めてくるのに辟易していたところだったのだ。
――店主の説明もなんか嘘っぽいし、ジジイが気に食わなかったら進藤のせいにできるか
価値が分からない高額な食器を店主の推しに負けて買うより、ヒカルの勧める皿にした方がいいかと自己結論に達する。
「店主、これはいくらだ?」
「これでっか?これは5万の安物の皿ですわ。緒方先生ともなるとやはりもっと他の」
緒方がヒカルに勧められた皿の値段を尋ねると、店主が驚いたような顔をして値段を答えながらも、恐らくゼロが1つ2つ多のだろう別の商品を勧めてこようとして、
「これでいい。これをくれ」
「え?」
「5万だな。これでいい。会計してくれ」
店主が取り付く暇を与えず、緒方はさっさと店の奥に見えるレジの方へスタスタと歩いていく。その後ろを店主が慌てて追いかける途中、ヒカルの方をチラと見て『余計なことを』と小さく舌打ちしてたのを見逃さず、小さくヒカルは舌出しして先に店を出た。
緒方の性格を考えれば、一度決めてしまえば会計で店主が何を言おうと他の商品に変えることはない筈だ。
しばらくして店から出てきた緒方の手には、紙袋の中に紐で結ばれた木箱が入っていた。
「待たせたな」
――これでひとまずジジイへの代用品は買えたか
当初の目的の湯呑ではないが、一応は代用品は手に入れられた。桑原に渡すときもそれとなくヒカルと一緒に選んだことを伝えておけば、そこまで悪い方には受け取られないだろう。
「緒方先生、これを桑原先生に渡すとき、一度だけは絶対花を活けるように言ってね」
「それくらいいが、何かあるのか?」
「花器は花を活けてこそ花器。せっかくの花器なんだから花をいけてやらなきゃ可哀想でしょ。俺も見てみたい」
自信めいたヒカルの言い用に『随分とそれらしいことを言う』と内心思いつつ、確かにヒカルの言うとおり、花を活けるための皿なら、ただ棚に飾っておくより実際に花を活けた方が有効活用だろう。
そして選んだ本人に一度くらい花を活けたところを見せてやるくらい桑原も断りはしない筈である。
「進藤、お前これから用事はあるか?」
「ないよ。今日は虎次郎を病院連れて行くだけだったから」
「なら皿選びに付き合ってくれた礼に家まで」
車で送ってやると緒方が言い終える前に、
「あれー?緒方さんと進藤じゃん!?2人して何してんのー?」
これまた見知った声がして、緒方の眉間に皺が寄る。声でも分かるが、その体系に相応しいドタドタとした足音も、まだ自分の名前を呼んだ相手を振り返ってもいないのに、個人を簡単に特定する。
――今日は何の厄日だ?用事で行った棋院ではジジイに絡まれ、店の前で(ヒカル付の)猫に絡まれ、次は倉田だと?
自分の苦手なもの3つが次々揃うなど、今日は呪われているんじゃないか?と緒方は本気で疑う。同じく名前を呼ばれたヒカルが駆け寄ってくる相手に振り向く。
「倉田さん?」
「別に何もしていない。用事が終わったから今から進藤を送ってやるところだ」
だからこれ以上自分たちに絡んでくるんじゃない。放っておけ。とまでは言葉にせずに、ヒカルを連れてさっさと立ち去ろうとするのだが、
「用事終わったんだ?じゃあ2人して暇なんだったらちょっと打とうぜ」
「お前は人の話を」
「近くに俺行きつけの碁会所あってさー」
話を聞け、という緒方に全く構うことなく倉田の方はすでにこれから3人で碁を打つ気満々である。
「でも俺、猫連れてるし」
籠に入っているとはいえ、動物も一緒に碁会所に入れるのかとヒカルが遠慮気味に言うも、
「大丈夫大丈夫、そこの店主大のすごい猫好きで店ん中に猫いるから、別にもう一匹猫増えたってかまわないって!ほらそこの角の店―」
「ちょっ、倉田さん!?」
「待て倉田!」
ヒカルの腕を取って倉田は行きつけだという碁会所に向かって歩いて行ってしまえば、緒方も渋々着いていくしかなくなる。
「いらっしゃい、倉田プロ」
「やっほ、親父さん」
ビルの2階に入っている碁会所に入るなり、店内の席の方で客たちが打っている対局を見ていた店主が椅子から腰を上げ、親しそうに倉田を出迎える。
「おや、珍しい。今日はお連れさんもですか?」
「そ、進藤と緒方先生。奥で打たせてー」
店主に構うことなく倉田は部屋の奥の席へと行ってしまうのだが、碁会所の店主と店に偶然居合わせた客たちの視線が一斉に後から入ってきたヒカルへと向けられた。
「え!?進藤って……」
「進藤って名人の?」
「ほんとか?」
店主と客たちが口々にヒカルの名前を上げる。決して悪気はないのだ。この倉田の性格は元々だ。けれど、悪気はなくても急に自分が来たことで、今まで対局していたのを邪魔してしまった申し訳ない気持ちになる。
「どうも……、急にすいません……お邪魔します……」
被っていたニット帽子を脱いでヒカルはペコリと頭を下げた。その後ろからやや仏頂面の緒方も少し頭を下げる。
「いやこれは参った!本当に進藤名人と緒方先生がウチの店に来てくださるとは!是非ぜひ打って行ってください」
「本因坊戦頑張ってください!応援してますよ!」
「親父さん!ここ色紙とか置いてないのか!?」
「後で握手してもらってもいいですか!?あ、あと出来たら一緒に写真も!」
さっきまで自分たちが打っていた対局のことはすっかり忘れたように、店内がにわかに湧き上がる。
ヒカルが最年少で囲碁の名人になってニュースで取り上げられるようになってから、こうしてヒカルに気づいた人々に騒がれることが度々あった。応援してくれるファンは有難い。求められれば握手もサインも可能な限り応じるようにしているがどうにも慣れない。
「サインは後後!こっちこっち!早く打とうぜ!」
陣取った奥の席で早く打とうと急かす倉田に、
「あの猫一緒なんですが、大丈夫ですか?」
倉田はああは言ったが、先に一言断っておくべきだろう。
「猫ならほら!ウチで飼ってる猫をいつも連れて来てますから、全然かまいませんよ。名前はなんて言うんですか?」
ほら、と指さす方には囲碁関連の本が並べられた本棚の上に竹かごが置かれ、その中でブチ猫が丸まって眠っている。
「虎次郎です」
「ほーそりゃまたすごい名前の猫ですね。出しても構いませんか?打っていくなら、ずっと狭い籠の中ってのも可哀想だ」
「どうぞ。あの席料は?」
「席料なんていりませんよ!また近く通ることがあったらまた店に来てくださいな」
ニコニコと上機嫌の店主が、ヒカルの了承を得て虎次郎を籠から出してやる。電車などの移動中は仕方ないが、これから1局2局打つ間ずっと籠の中に入れっぱなしにするより、帰る時にまた籠に入れる時まで、少し外に出してやるほうが虎次郎のためにもいいだろう。
ずっと室内で一匹飼いしてきた虎次郎が、他の猫と一緒の部屋で大丈夫か少し不安はあったが、猫だけでなく犬もいる動物病院でも虎次郎は特に毛を逆立てるなど、強い警戒心は見せなかった。
――最悪、喧嘩になりそうだったら籠にまた入れるか
籠から出してやると、窮屈だったのか虎次郎はさっそく背伸びをしている。
「俺はホント大丈夫なんだけど、緒方先生は予定大丈夫だった?」
念のため小声で後ろからついてくる緒方に確認を取る。
「予定はないしもういい。倉田が手がかかるのはいつものことだ。慣れたくなかったがもう慣れた」
ボソと本音が出た緒方に、ヒカルは思わずぷっと吹き出す。倉田の碁の強さはホンモノであり、自分のペースで回りを巻き込んでしまうマイペースな性格が決して悪いものではないことを緒方も知っているのだろう。
「俺一番、誰から打ちます?」
最初に自分と打つのは誰か、緒方に確認をとってきて、まずはヒカルから打てと順番を譲る。自分が打ってもいいが、ここは一般の碁会所で店の客たちも無冠の自分より名人のヒカルが打つのを期待している空気を感じ取っての判断だ。
自分よりヒカルを取られる悔しい気持ちはあれど、そこは大人として周囲の空気を読んで、プロとして観客にサービスしておくべきだろう。
倉田とヒカルが座る席の隣から椅子を寄せて腰掛ける。
「ん?」
途端に膝の上に、トンと飛び乗ってきた物体に緒方は足を組むのを咄嗟に止めた。若干不安定な膝の上で、チラと緒方の顔を見上げて、安定する位置を確かめるとそこに勝手に丸まってしまう白い毛玉の物体。
――俺の断りもなく……
ムッとして虎次郎を膝から下すも、すぐにまた懲りずに膝の上に飛び乗ってくる。
白い毛と同色で目立ってはいないが、絶対にズボンに毛がついてしまっただろう。
「その猫、進藤んチの猫でしょ?えらく緒方先生に懐いてますね。緒方先生も猫飼ったりしてるんですか?」
とこれまた悪気のない倉田が虎次郎を膝に乗せた緒方を珍しそうに見やる。
「飼ってない。それに今日初めて見た猫だぞ。元々人懐っこいだけだろ」
「その割には俺のところには全然来なくて、緒方先生しかすり寄ってませんよ」
「知るか。飼い主に聞け」
どうして今日会ったばかりの猫にこんなに懐かれるのか、理由があるなら緒方の方が知りたい。しかし話を振られたヒカルは、顎に手をあて緒方を頭の先から靴の先まで見下ろし、
「……たぶん、緒方先生が白いからじゃないかな?」
「白い?俺のスーツがか?」
「そう」
「自分の毛が白いから、同じ白のスーツの俺に懐いてるということか?」
「そういう意味じゃないんだけど、こいつがすごく懐いてるヤツがいつも白い服着てるから、それでだと思う」
なんだそれは?という反応に困るヒカルの説明に、これ以上、虎次郎を膝の上から下すのを緒方は早々に諦めることにした。膝の上で虎次郎は大人しく丸まっていて、撫でろとひっきりなしに手を舐めてくるわけではない。
どうせまた膝から下しても、この調子ではすぐにまた虎次郎は緒方の膝上に飛び乗ってくる。それを繰り返していては対局の観戦にも集中できない。
――仕方ない。あとでこのスーツはクリーニングに出しておくか
言葉が通じない動物相手である。観戦の邪魔をせず、大人しくさえしてくれればいい。猫は苦手だが嫌いではないのだ。ただ服に毛が付くのが嫌なだけで。
「ま、打とうぜ!ってあれ?」
「石がどっちも白だ」
机の上に置かれた碁笥を倉田とヒカルがそれぞれ引き寄せ、蓋を開いてすぐにどちらの碁笥も白石であることに気づき声を上げた。
すぐ傍で観戦しようとしていた観客もそれにすぐ気が付き、店主が申し訳なさそうに隣席に置いていた黒石と交換しようとする。
「ありゃ、これは失礼しました。すぐに黒石と取り換えて」
「いや、いいよ。このままで打とう」
と、店主が碁笥を取り替えようとしたのを倉田が断り、向かいに座るヒカルは『このまま打つ』の意味が分からずきょとんとする。
「え?」
「まさか一色碁を打つ気か?」
隣に座っていた緒方はすぐに倉田の意図に気が付いたらしい。『一色碁』という言葉が直ぐにでてきたということは、緒方は以前自身で打つか見たことがあるのだろう。
残るは一人だが、ヒカルの反応はまだ困惑している。
「そう。進藤は一色碁って打ったことある?」
「い、一色碁?」
初めて聞く言葉である。
――佐為!お前はある!?
――聞いたことはありますが実際自分で打ったことはありません!確か、白石か黒石、どちらかの石だけで打つ碁だと
声に出さず心の中でヒカルは佐為に確認を取れば、ふるふると顔を横に振る。
しかし、困惑するヒカルを置いて、倉田はさっさと自分の碁笥から石をニギリ盤面に置いてしまう。
「じゃ、俺ニギルな」
「えっ!?あ!」
つい日頃の条件反射で、ヒカルは碁笥から石を二つ置けば、
「じゃあ俺が後番てことは進藤の白石が黒ってことで。よろしくお願いします」
「よ、ろしくお願いします」
説明らしい説明もなく対局が始まってしまった。
盤面に広がっていくのは、一見して白模様のみ。初めて一色碁を打つというヒカルの表情も最初こそ戸惑いが抜けきらなかったが、次第に冷静さを取り戻していく。
「こんな……どっちも白石でよく打てるな」
「進藤名人の方が黒なんだろ?」
「ちょっと黙ってくれ、わかんなくなっちまう!」
傍で見ている観客たちの方は、すぐに白石と黒石の区別が出来なくなり始めた。それぞれに腕を組んだり、首をひねったりと頭を抱えている。
「緒方先生、これどちらが優勢なんですか?」
「黒です」
「黒ってことは、進藤名人が優勢なのか?わしらにゃさっぱりだ」
両腕を組んで白石だけが打たれる盤面をじっと見つめながら、躊躇なく形勢を判断する緒方に、さらに『分からん』と盤面を睨んだところで一度見失ってしまった形勢はもう理解不能である。
「どうやって見てるんだかさっぱりだ」
「形で頭に入れていくんです。石のカタチで」
「石のカタチねぇ…」
緒方の説明に頷きつつも、既に盤面は中盤を終ろうとしていた。白一色で染められた盤面。
緒方もプロになる前、何かの機会に数回打ったことがあったが、普通に白石と黒石で打つだけではない緊張感と慣れない頭の使い方に戸惑った記憶がある。
簡単に石のカタチで頭に入れていくと先ほど言ったが、やはり同色の石というのは見間違いしやすく打ち間違えやすい。
――初めて一色碁を打ってここまで打つか。しかも倉田相手に
自分から言い出したからには倉田はそれなりに一色碁を打ち慣れているのだろう。公式対局と変わらない判断の速さである。
しかし、初めて一色碁を打っていながら形勢はヒカルの黒が優勢だった。
そのまま打ち間違えることなく対局は終局する。
「ふぅ……緊張した……」
対局を終えて胸をなで下ろし最初のヒカルの一言だ。
「うーん、ここは先に受けておくべきだったかなぁ」
「そこは俺も判断迷いました。地合いが微妙だったし、こっちを手厚く膨らんでおくべきかどうか」
口を尖らせ、白石の塊を指さす倉田の指摘に、ヒカルもすぐさま考えを述べていく。しかし、その微妙な地合いの形勢が勝負の流れを作ったと緒方も見ている。
だが、とりあえず対局は終わり、緒方膝の上の虎次郎を下すと椅子から立ち上がった。
「すまん。トイレに」
「手洗いでしたら、受付のほら、あそこです」
「ありがとうございます。お借りします」
店主の指さす方向に目的の戸を見つけ、ひとまず先に用を足しに行く。
検討は始まったばかりだ。トイレから出たらもう終わってしまっているということはないだろう。
――しかし今日は本当に予定外のことばかり起こるな
桑原の湯呑を割ってから、骨董屋の前でヒカルとばったり出くわしたかと思えば、次は倉田に連れられ碁会所で一色碁だ。
どれも偶然の重なりでしかない。だが考え過ぎかもしれないとしても、偶然にしては重なり過ぎている感がある。
手早く用を済ませトイレから出る。と、すぐ真下に白い毛玉を見つけた。『ナァー』という猫の鳴き声。
「お前、そんなところにいたら踏まれるぞ」
トイレの戸の前に座っていた虎次郎に緒方はため息をつきながらも、あちらの人だかり中心で検討している飼い主より、トイレに行った自分を待っててくれたのかと思うと決して悪い気はしない。
すでにクリーニング行は決定している。これ以上スーツに毛がついたところで今さらかと虎次郎を抱きかかえた。
けれど、じっと緒方の方を見ていた虎次郎が、抱きかかえた途端ふいと斜めを向いた。虎次郎の顔を正面から覗き込んでいた緒方が、虎次郎の瞳をつい目で追ってしまったのは無意識のことだった。
「え?」
猫の瞳に小さく映った人だかりの中。その中心に立つ人物。ヒカルの後ろに立ち、高さのある帽子を被り白い衣装を着た人影。
背筋がぞっと冷たく冷え、咄嗟に緒方はばっと振り返る。
「いない……」
虎次郎の瞳越しとはいえ、一瞬確かに見えた白衣装の人影。全速力で走った後かのように心臓がバクバクと大きく脈打っている。
なのに頭から血の気が急に引いていく。
――単なる見間違いか気のせいだ……今日は朝から桑原のジジイに会ったり猫にすり寄られたあげく倉田に捕まったりと不運続きだから精神が疲れてるんだ……
現に店の中には帽子を被った白装束の人物はいない。そんな人物がいたら店に入って真っ先に気が付く。
「おっと」
それまで大人しかった虎次郎が急に暴れて緒方の手からするりと落ちる。そしてどこへ行くかと目で追えば、そのままヒカルのすぐ隣まで行き、少し離れた位置に座り上を見上げた。
チョウが飛んでるわけでも、天井から釣り下がった紐が揺れているわけでもない。何もない宙をじっと見つめて、スリ、と何かに顔を摺り寄せるようにして顔を傾げ、気持ちよさそうに目を細める。
――そういえば、割れた湯呑も白だった
白い湯呑、白い猫、白石での一色碁。
刹那の瞬間見えた、白衣装の人影。
そして自分が着ているのは白のスーツ。
「白………」
ポツリと緒方が呟く。
「緒方先生?どうしたんですか?そんなところに突っ立って。次は緒方先生も一色碁打ってみます?」
人垣から少し離れて棒立ちしてこちらを見ている緒方に倉田が気づき声をかける。ヒカルとの対局検討はまだ続いていたが、公式対局でもない遊びの対局でそこまで深く検討する必要はない。時間だって限られている。
せっかくだから次は緒方がヒカルと一色碁を打ってみては?と促されるも
「いや、俺は遠慮しておく……」
とても打つ気にはなれなかった。
■
「緒方くんがこの花器を?」
受付で湯呑を割ってしまったことを再度詫びて、骨董屋で購入した花器を桑原に手渡す。目に見えないものは信じない主義の緒方だが、何か因縁か呪いでもかけられたのでは?と思えるような一日の産物だ。出来るだけ早く手渡してしまうに限る。
手合い日が重なる日を見逃さず、緒方は棋院に花器が入った袋を持参し、桑原の対局検討が終わるまで別部屋で待っていた。
手渡した紙袋から花器を取り出した桑原は、一通り皿を表裏見回し、視線だけ上向かせ緒方に問う。
「選んだのは進藤です。正直自分はこういう類は全く疎いので価値の方は自信ないのですが」
「進藤が?」
「偶然出くわして、暇だからと店に一緒に入ったんです」
「ふむ。進藤は何か言っておったか?」
嫌味の一つもなく、ヒカルの名前を出した途端、素直に緒方の差し出した花器を受け取った桑原を意外に思いつつ、
「何かって、…そういえば『花器は花を活けてこそ花器』とかそんなこと言ってたかな。せっかくの花器だから一度くらいは花を活けてやってくれとか」
「花をのぅ」
意味深に桑原が呟くのを見て、緒方の眉間にさらに皺が寄る。車のカーナビが案内した骨董屋であり、ヒカルは動物病院から脱走した虎次郎を探して偶然店の前で出会ったのだ。
あまり深く考えると、そのあとの白い人影まで思い出してしまうのであまり思い返したくない記憶だが、桑原が何をそんなに気にしているのか分からない。
けれども、花器を近くの机に置き、座っていた畳からスクと立ち上がると床の間に飾ってあった花瓶をおもむろに此方へ持ってくる。
「桑原先生なにを!?」
「黙って見とれ」
緒方の静止を無視して桑原は花瓶から花を抜いて、中の水をゆっくりと花器の中へ注ぐ。そしてまだ注がれたばかりの水が揺れる中、ゆっくりと花器の底に浮かび上がる紅色の花模様に、緒方は驚愕の表情を浮かべ、反対に桑原はニヤリと口角を斜めに吊り上げる。
「これは!」
「見事じゃ。緒方くん、進藤に助けられたな。下手なものを持ってきたなら目の前で割ってやるところじゃった」
一見してごく普通の花器と思ったが、選んだのがヒカルであるということに桑原のシックスセンスが反応したというべきだろうか。さらには『花器は花を活けてこそ花器』その一言が無ければ、桑原も花器の仕掛けに気づくことは出来なかった。
恐らくこの花器を売っていたという骨董屋の店主も、一度も水を入れることなく仕掛けに気づかなかったのだろう。
「………早合点ですね。水を入れたら花模様が浮かび上がるくらいで。これくらい現代の技術なら可能ではないんですか?価値あるものとは限りませんよ?」
驚きがまだ完全に冷めやらない状態で緒方が判断には早いと断りを入れる。
自分で贈ったものではあるが、贈ったものだからこそ予想外の展開に一言二言言いたくなるものである。熱い湯を入れると絵柄が変わる湯呑なら珍しくない。ならば水でも反応する皿が開発されていてもおかしくはないのだ。
しかし、桑原は判断するには早いと止める緒方を鼻で笑い、
「減らず口を。だが鑑定に出してもいいが、それはやめておこうか」
「何故?やはり自信がありませんか?」
「せっかくの興が醒める。では緒方くんが古美術に知識のある者にでも尋ねるといい。水を入れると花文様が浮き出る花器を知っているかと。もちろん花器の所在は黙ったままでだ。聞いた結果は当然儂にも教えてくれ」
「いいでしょう。調べてみましょう。価値が無いと分かっても返品したり割ったりしないとお約束してくださいね」
そこまで言われたなら、調べてやらずにいられようか。売り言葉に買い言葉の反応速度で緒方は鑑定を決意する。鑑定士に見せる気はなかったが、念のためにと携帯で写真も撮った。
骨董屋で緒方が支払った5万の価値があれば十分。2,3千円の価値だったとしても、それはそれで桑原の鼻をへし折れたと思えば悪い気はしない。街のどこにでもあるような骨董屋で平置きされていた花器である。いきなりゼロが何個も増えるような価値などあるわけがない。
そう高を括って知人伝いに紹介された鑑定士に花器の仕掛けを尋ね、反対にどこかで見たのかと緒方がしつこく追及されるハメになるのが1週間後のことだった。
桑原は花器を自宅に持って帰ることはしなかった。
代りに棋院の幽玄の間で、花を活けるようにした。
花を活け、水を張った水底に浮かび上がる花模様。
幽玄の間で対局が行われるたびに花が活けられるその美しい花器の噂は、ゆっくりと広がっていくのである。
うまく差し込めるタイミングがなかったのと、内容の雰囲気が他とかみ合わなかったので番外として。
斜陽の中で虎次郎を出して白猫にしたのはこれを書きたかった為でした……。