海に、波が静かにうねっていた。あるいは、現世の海ではないのかもしれなかった。昼とも夜ともつかぬ、薄ぼんやりと明るく霞んだ
そのただなかにあって、潮騒は不思議に間遠だった。波音のみならず、水面も、空も、大気も、色も、香りも、なにもかもが茫洋としていて、なにもかもが、そこにはないようですらあった。
そこに、
まるで泡沫のごとく、今しも消え失せそうに儚いものであった。
まるで赤子のごとく、今しも生き絶えそうに弱いものであった。
まるで氷雪のごとく、今しも融け崩れそうに脆いものであった。
そして、そのすべてであるがごとく、純粋であった。
──まだ。
それは、嘆きだった。
──まだ、まだ。
あまりに儚く、あまりに弱く、あまりに脆い。そのすべての純粋をふるわせて、
──まだ、なにも、できていないのに。
生まれたかった。往きたかった。観たかった。聴きたかった。触れたかった。味わいたかった。感じたかった。
喜びたかった。怒りたかった。哀しみたかった。楽しみたかった。
愛したかった。憎みたかった。
戦いたかった。傷つきたかった。守りたかった。救いたかった。
そう、救いたかった。
救いたい。
救いたいのだ。
──望まれたのに、希んでくれたのに、臨んでいけたはずなのに。
それは、誰のみた夢であったろう。あるいは、なにが抱いた希望であったろう。多くの願いから成り、多くの祈りから生り、そのすべてを織り混ぜて、しかしてその想念は、あまりに一途で、それゆえに無垢そのものだった。
──こんな、いったい、なんのために。
まさしく、妄執である。
怨念ですらあったかもしれない。
世にありとあらゆる、どんな存在にすら、これほど“一つ”のみを念じられはしなかっただろう。
──どうか、わたしを、わたしが。
その、叫び。
儚く、弱く、脆く、純粋であるはずの
──あのひとたちを救って、救わせて、わたしに。
しかし、自らをかきむしり、引き裂かんばかりに放った、声にすらならない慟哭、音にすらならない悲鳴は、それを耳に出来るものもいなく、知るものすらないまま、ただ溶けていくしかない。
溶けていくしかないはずだった。
──誰か、誰か、わたしを、お願い、こたえて、たすけて、誰か。
あまりにも強すぎる妄念は、とてつもない奇跡──もしくは不条理、理不尽の類──を起こすことがある。
では、この彼女にとっては、いずれであったのだろう。
花咲く丘を、遠き岸辺を、静かの海を超えて。
泣き叫ぶ
彼女の胸もとで、細い鎖が無骨な六角の環に絡み、こすれて、しゃらりと音を立てた。
そのささやかな音は、どこか波の響きに似ていた。
* * *
夢を、みていた。
ひどく曖昧な、つかみ所のない夢だった。
ただ、哀しかったことと、嬉しかったことだけは、はっきりと思い出せた。
泣き声と、波の音も。
──ぽっかりと、眼がさめた。
それ以前に、自分が本当に眠っていたのか、彼女には確信が持てなかった。
むしろ、ここがあの雲をつかむような夢の続きで、どこからか自分の意識のみを、前後の脈絡もなにもなく、ざっくりと切り取って、無造作に貼り直したのだと、そう思った方が、しっくりとくるような気さえした。
そんなことを半ば本気で考えてしまうほどには、彼女は朦朧としていて、夢見心地であった──簡潔にいうと、寝ぼけていた。
ただ開いただけだった彼女の眼を、光が白く灼く。
思わずうめき声をもらし、せっかく上げたまぶたを再びきつく下ろしてしまう。そのまま眉間に寄ったしわを、右の掌で押し揉んだ。
ふと、顔に触れた感触に違和感を覚える。よくよく見てみると弓懸を挿してあった。
「は」
疑問とも、感嘆ともつかない声が零れる。
弓懸である。弓を引く際に、弦で指を傷つけないよう、保護するそれに間違いなかった。
四掛と呼ばれる、親指から薬指までを包む形のもので、これは強弓を引くのに向いていたはずだ。色は黒。巻き止める紐も同じく黒い。この形に一般的な、堅帽子に控えつきである。
ほとんど茫然としたまま、緩慢に逆の手へと視線を移すと、こちらには、和弓を握り締める、籠手。
小具足と呼ばれるものの一つで、武将などが、甲冑では守りきれない、腕や脛の部分に身につけた防具だ。
黒い布地が胸部から肩先を通り、手の甲までを覆って、中指と親指に輪を通して固定している。腕の外側には金属製の鎧が瓦のように段を作っていた。左腕のみを保護し、右は弓懸だけである。
視線を落とせば、右足と左足、それぞれの親指と人差し指の間から、黒い紐状のものが二股に分かれて甲を這い、足の両脇まで抜けている。鼻緒だ。自分はおそらく下駄をはいている。
と、そこまで観察して、彼女はさらに深々と眉を寄せた。たった今、脳裏を駆け巡った一連の情報の出所が、わからなかったためである。にもかかわらず、ごく当たり前のように、さらさらと知識が流れ落ちてきた。
わからない。否、思い出せない、それとも、忘れているのか。
ありとあらゆることの、あまりの不明瞭さに不安を覚え、必死になって脳裏をかき回し、記憶を掘り起こそうとしていると、大丈夫だ、と、胸内で何者かがささやいた気がした。
──そう、なにも心配などいらない、必要なものは、もうそろっているし、知ってもいる。あとは思うさま動くだけでいい。このからだは、こころを裏切らない。感じたままに望むことを成せば、ただしくそれは成る。
その通りだ、と彼女は思った。なんの根拠もなく、ただ確信した。この一連の思考を余人が読み解けば、おかしな妄想の類ととられても、彼女自身ですら反論できなかっただろう。
だが、このときのそれは、決して妄想ではなかった。
彼女は右足を持ち上げ、下駄の歯で足下を蹴った。煤色をした行灯袴の裾がはねる。ばしゃり、としぶきが上がって、水面が波立った。水面である。彼女は水面に下駄の二本歯を埋めて、二本の脚で直立していたのだ。
これは本当に水面なのか。地面にうっすらと水を張っただけではないのか。
どうでも良いといえば、どうでも良い、そんな好奇心に任せて、籠手をまとった左手で、携えていた和弓を、おそるおそる足下に突き刺してみた。思ったより勢い良く、そして深く沈み込んでしまい、慌てて引っこ抜く。水がはねて足先が濡れた。
はたと現状を思い出し、呑気な自分にあきれつつ、彼女は周囲を見回した。眼につく限りにはなにもないし、自分以外になにもいない。あたり一面に水が広がり、空には雲もほとんどない。
とにかく、現在位置を知りたい。そう望んだ瞬間、意識せずとも躰が動いた。籠手に包まれた左腕が弓を掲げ、弓懸を挿した右手が、苔色をした着物の袖を翻し、肩越しに矢羽を手挟んだ。
流れるような動作で矢を番える。
打ち起こし。
すう、と筆で線でもひくようにさり気なく、当の彼女すら驚くほどごく自然に、成りと弦とが分かたれた。
引き分け。
背筋に力が充ちる。強く、しかし過分に力まず、必要なだけの力でもってして、弦が引かれ、弓がしなった。
会。そして伸合い。
緊張が頂点に達し、番えられた矢はただそのときを待つ。
そして。
離れ。
「──発艦!」
無意識に、そう告げていた。そのことに、特に疑問は感じなかった。眼の先、弓返りした鳥打の遥か向こうで、放たれた矢が激しく発光し、破裂音にも似た音をたてて、いくつかの、小さな翼を持つ塊に分離した。
航空機だ──確かめるでもなく、ごく当たり前にその光景をのみこんで、彼女は再び矢を番える。あれだけでは足りない、疑問を差し挟む余地すらなくそう判断して、弓を引いた。
──偵察機をもう一隊と、その後に念のため直掩機を出そう。
彼女の躰は、遅滞なくそれにこたえた。
艦載機の着艦と発艦を定期的に繰り返しつつ、彼女はゆるゆると北上した。
ときおり偵察機より、正体不明の水上生物を発見した報告を受けては、迂回する航路をとった。
興味を引かれないわけではなかったが、単独で、どことも知れない海を往かねばならないこの状況で、意思疎通が可能かもわからない、胡乱な生き物と接触する気には、とてもなれなかった。
陽が傾き始めた頃、偵察機に近場の島か、せめて隠れられそうな岩場を探させ、翌日の行動方針について考えを巡らせていると、西側を捜索していた偵察機より入電があった。
[我 艦影 発見 セリ]
[不明艦 一 水上生物 三 交戦中]
判断に迷う内容であった。
不明艦、というのだから、少なくとも乗船しているのは意思疎通が可能な人間であるはずだった。
現在位置がいまいち判然としない今の状況で、この海域に関する情報が得られる。その可能性は、魅力的なものである。
反面、不明艦と接触するということは、正体不明の水上生物とも接触──むしろ、不明艦を支援ないしは救助する必要から、高確率で交戦することになると考えられた。
相手の戦力がわからない上、僚艦のないこちらと、三体もいるあちら。さらに、もう間もなく陽が落ちてしまうこの時間に、自ら危険に飛び込んでいくなど、狂気の沙汰である。
気の毒ではあるが、見捨てるほかないか──そう冷静に断じつつも、鳩尾のあたりが、どうしようもなく締めつけられるような、なんとも居た堪れない気持ちになった。
ひたひたと、湧水のように、とある疑問が胸裏を浸しはじめる。
──これでいいのか。
言葉にするなら、そんなかたちであった。
──本当に、これでいいのか。
それを払うようにかぶりを振り、彼女は堅い弓懸で、しくしくと痛む胸もとをなでた。一本だけ露出した小指が、さらりとした苔色の着物の衿もとに触れる。と、その小指の先に、なにか細いものが引っかかった。
「あ……」
鈍色をした、細い鎖であった。首にかけてあるそれは、今の今まで衿もとにしまわれていたようだった。
彼女は小指に巻き取るようにしてそれをたぐり、そこにぶら下がっているらしいものを、着物の合わせ目から引っ張り出した。
それは、六角をした分厚い環であった。
「あぁ──」
──まだ、なにも、できていないのに。
──あのひとたちを救って、救わせて、わたしに。
──救って。
唐突に、腹の底が、かっと熱くなった。大声で怒鳴り散らしたいような、倒れ伏して泣き叫びたいような、わけのわからない感情が、彼女の中で暴れ狂った。
それは、衝動、と呼ばれているものだった。
──誰か、誰か、わたしを、お願い、こたえて、たすけて、誰か。
──どうか、わたしを、わたしが。
気づけば、彼女は思い切り良く水面を蹴っていた。波飛沫をまき散らしながら、一目散に西を目指す。
同時に、発艦済みの全航空機を向かわせた。
陽が落ち切る直前、あちこち破損した船舶を目視し、端的に打電した。
「“我に航空戦力あり、貴艦に味方せり”」
弓を引く。
ありったけの艦載機を発艦し、彼女は再び猛然と水上を駆けた。
『救援に感謝申し上げます。私は松岡、松岡辰之進といいます。海軍の──なんというか、まあ。一応のところは、少尉です。もう違うかもしれませんが』
『ご無事でなによりでした。その、わたしは、どう名乗るべきか──そうだな。とりあえず、竜飛、と名乗っておこうか。わたしは、そう』
『ひとのかたちをした、軍艦──空母だ』
彼女たちは出逢い、そんな妙に腰の引けた挨拶を交わすことになる。
そして、これこそが──やがて膨大な歴史の波に飲まれ、どこに沈んだのかすら定かでなくなる、この出逢いこそが、長い戦いの記録、その序文であったことを、いまこの瞬間に大海原に漂う、いかなる者に予想し得ただろう。
いずれにせよこの世界の一隅で、とある人と、とある奇妙な軍艦とは、人知れずして出逢い、そして人知れず訣れていくことになった。
この顛末について詳らかにするには、まだもうしばしの時が必要となる。