夢みる竜は鳳翔ける空を仰ぎて海を飛ぶ   作:YeahBy

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主人公より周りの方が描写多いってどういうことなの……。


始動の八節
一節 愛シ文(あしぶみ)


 

 自分は、なんのために生かされたのか。

 彼女はずっと、それを考え続けている。

 

 旧い家の生まれであった。分家筋で、末端もいいところではあったが。

 本家は神職を担っていた家系で、現代でもそれは続いていた。彼女の家の方は、昔は武家として、それなりに栄えたこともあったというが、今となってはもはや見る影もない、斜陽の家だ。

 ただ、歴史だけは確かに長い。そのことだけは、彼女も身をもって理解していた。他でもない、彼女自身が修めた、数々の業によって。

 

 ちょうど物心のついた頃に、彼女の母は身罷った。

 まだ三十路にもならない、若い身空で。最後まで分家当主の嫁という立場に縛られ、故郷の地を踏むことすらなく。

 ある程度ものがわかるようになった頃には、子供の眼で見てわかる母の痕跡など、ほとんど残されてはいなかった。

 たったひとつ、柔らかな声でもって紡がれる、かすかな旋律のみが、記憶に残っていた。子守唄だろうか。

 

 ──妻を亡くした父が、彼女とろくに眼も合わせなくなったことに気づいたのは、いつだったろうか。

 

 母は幼い娘に、大人の事情を聞かせるような人ではなかった。幼い子供にはどうせわかるまいと、大っぴらに噂話をする者たちが多い中で、生々しい話は聞かせないよう、細心の注意を払っていてくれたのではないかと、大人になったいま考える。

 

 だから、父の彼女に対する対応がぞんざいになっても、自分の置かれた立場に、大した疑問を抱かなかった。

 彼女と母との間に通っていた情が、父と母、そして父と自分にもあるのだと、信じて疑ってすらいなかったのだ。

 

 そうではないのだと知ったのは、母の一周忌が終わってすぐに、前ぶれもなく後妻と引き合わされたときだった。

 後妻は、彼女の存在を黙殺した。

 なにも知らされないまま、急に家族として連れて来られただけの女性に、母にするように甘えたいとは思わなかった。それでなくとも、彼女の存在を家庭から徹底的に締め出そうとする様子に、この人と家族になることは絶対にできないのだと、幼心に悟った。

 

 彼女が七つになった頃、異母弟が生まれると、さらに身の置き場がなくなった。

 

 父は後妻と、刀自である大伯母の機嫌をとることに忙しく、後妻はますます彼女を邪魔くさそうに扱った。それでなくとも、乳児のいる家庭というのは、その子供を中心に物事が回るものだ。

 こうなってしまっては、もはや彼女の居場所などないに等しかった。

 

 彼女は、自由な時間のほとんどを、道場にいる祖父のもとで過ごすようになった。祖父は隠居してはいたが壮健で、家に伝わる武術の数々に、ますます磨きをかけていた。

 祖父のもとで、彼女もその手ほどきを受け、尋常でない才覚を示した。齢十になる頃には、あまり熱心でなかったとはいえ、先達であった父を、組み手で叩きふせてしまう程であった。

 

 祖父は、武術にしか興味を持たない人であった。だが、現代社会において、自身のような者は異端であるのだと、自覚している節があった。

 そのため、自身を慕い、それ以上の才覚を持つ孫娘には、異端者の師ではなく、なるべく祖父として恥ずかしくない、できるだけのものを残してやりたいと思っていたのだと。そのようなことを、もっとずっと後の、ようやく大人といえる年齢になった頃に、当の本人より聞かされた。

 

 だから、きっと、あの頃の祖父に悪気はなかったのだろう。孫娘にねだられて、生母の話をしてやろうとしただけなのだ。

 それでも、強いて悪かったことがあるとすれば、祖父自身の話下手と、未だ年端もいかぬ子供である、孫娘の理解力を侮っていたことだろうか。

 ただ、悪気がないということは、悪意に満ちあふれているよりも、よほど始末が悪い場合もある。

 

 彼女は祖父を尊敬していた。

 だからこそ、武術の師としては尊敬できても、人として、大人として、家族としてはとても無理だと、思い知ってしまった。

 

 そうして、実際のところ、家族と呼べる存在は生母のみしかおらず、その死と同時に、家庭というものも死んでしまったのだろうと、打ちのめされるような気持ちで、彼女は悟った。

 

 そしてそれは、自分がもういまさら、どうしたところで、取り戻せはしないのだとも。

 

 それを理解することは、ある種()()()の彼女の──彼女の中の、純情が死することを意味した。

 

 それ以来、彼女はずっと考え続けている。

 

 ──いったい、なんのために。

 

 自分は、なんのために生かされたのか。

 自分の出来ることを。自分がすべきことを。

 それを、ずっと、考え続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 再びの浮上は、とにかく苦しかった。

 

「……っげぇ、ほ! げぇほ! がぁっ、ほ! ぅ、げ……っ」

 

 全身を力ませて、力の限り咳き込む。勢いにのって、塩辛い水が吐き戻された。気管は痙攣したように、ぴったりと閉じてしまっており、それを無理矢理こじ開けるようにしてじわじわと息を吸う。

 窒息までごく僅かな猶予を得て、再び体を折って咳き込んだ。

 

「いまっ、さ、らぁっ──が、ふ……、おぁ、っ……もぃ、えふっ! だ、げふぇっ! ……さ、ぁせ、ぇほっ、てぇほっ、えほっ! ──ぇえっほ、ごほっ! かふっ! かっ!」

 

 今更、思い出させてくれやがって──どうにも辛抱できなかったのか、思わずぼやきが混ざって症状が悪化する。その後、優に三倍以上の時間を費やし、最後はほとんどえづくようにして、ようやっと正常な呼吸が適うようになった。

 

「──あー、ど畜生め……。やって、くれやがりましたね、本当に。……んんっ」

 

 水上に座り込んだまま、疲弊しきったような覇気のなさで、口汚く罵る。喉に残った違和感を気にして、咳払いをひとつ。口から肺の底が覗けそうなほど、盛大なため息もひとつ。

 

「えぇ、わかっているわ──わかっていますとも」

 

 右手を覆う弓懸が、胸もとをこすった。

 

「はい。私がちゃんとたすけてあげますからね。大丈夫よ」

 

 小指が、細い鎖を引き上げる。ぶら下がった()()の環のうち、分厚くごつごつとした六角の方を、弓懸ごしに器用につまみ上げた。

 不思議に熱を帯びた無骨な金属に、唇を押し当て。

 

「いいこ──そこにいてくださいね。大好きです。愛していますよ」

 

 大切に大切に、そっとささやいた。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

「電さんさぁ、“送り狼”って知ってるー?」

 

「はわ?」

 

 その問いかけに、電は箸を持ったまま眼を瞬かせた。

 

 昼食時である。大本営の食堂は、“大”とつく場所の設備だけあって、なかなかに広い。所属艦娘や、彼女らを率いる何人もの司令官や提督、さらには施設維持のための人間の職員などが詰めかけてきても、収容できるだけの規模があった。

 

 その片隅で、本日は内勤のみだった電と、たまたま一緒になった睦月が、差し向かいで食事をとっていた。

 

「睦月ちゃん。陽の高いうちから、際どいお話はちょっと……」

 

「にゃっ⁉︎ ち、違いますぅ! そうじゃなくってぇ、こないだ演習した子から聞いたのー!」

 

 鯖の塩焼きをつつきながら聞くところによれば、少し前から任務や遠征中に落伍したり、航行不能に陥りどこかに漂着した艦娘を、鎮守府近海まで送り届けてくれる、艦娘らしき存在がいるらしい。

 中には大破して轟沈寸前のところに現れ、援護してもらいながら撤退した艦隊もいるのだそうだ。

 

「えーっと、いっつも単艦でぇ、一匹狼が送ってくれるから“送り狼”っていうらしいにゃあ。電さんてば長いから、なんかしらないかにゃーって」

 

「うーん、聞いたことないのです……」

 

「そっかー。艦種もわかんないって噂だから、ちょっと気になったんだけどにゃあ」

 

 残念にゃしぃ──変な語尾で唇を尖らせながら、睦月。やたらと愛嬌のある仕草に、電は味噌汁を口にしながら、椀の陰で薄く笑った。

 

 独特な緩い口調からは想像もつかないが、これで割と礼儀にうるさいこの睦月は、ここ本営ではそれなりに可愛がられている。同じ駆逐艦ながら、艦娘としては最古参である電にも、それなりに筋を通そうという姿勢がうかがえた。

 軍艦としてはむしろ電よりも古いでしょうに、と苦笑のひとつも零れようというものだ。同様に、こちらも丁重に対応したくもなる。敬意の表し方は、なにも言葉遣いだけではないのだという、好例。

 

「およっ、夕張さんにゃしぃ! ゆーばりさーん、こっちー!」

 

 不意に睦月が電の背後に声をかけた。肩越しに見やると、こちらに気づいた夕張が、盆にどんぶりをのせて傍まで来たところだった。そのまま電の隣席に盆を置く。ふわりと出汁と醤油の香りが届いた。

 

「ふたりとも、お昼だったのね」

 

「夕張さん、お疲れさまでーす」

 

「お疲れさまなのです、夕張さん」

 

「ふたりもお疲れさまー」

 

 緑をひとしずく含んだような、灰色の髪を揺らして席に着く。いただきます、と手を合わせて箸をとった。今日の昼食も、いつものように蕎麦であるらしい。

 

「そーいえば、夕張さんは聞いたことありますかにゃあ? “送り狼”って」

 

「んん? 狼?」

 

「えーっとねぇ──」

 

 電にしたのと同じような話を、夕張にも聞かせる睦月。電は、食後の茶に息を吹きかけながら、聞くともなしにぼんやりと湯呑みを揺らしていた。

 

「うーん、心当たりがあるとすれば……」

 

「お、お、なんか知ってます?」

 

 麺を啜りながら話を聞き終えた夕張は、汁に箸先を泳がせつつ、声をひそめる。

 

「ついこの間なんだけど、任務で出てた舞鶴の足柄さんが、撤退するとき艦隊を逃がすために残ったらしいの。その日は引きが悪すぎて、その時点でもう大破してたし、生存は絶望視されてたんだけど、逃がされた艦隊が帰投してからいくらも経たないうちに、なぜか無傷で帰ってきたんですって」

 

「えぇー? どゆことですかぁー?」

 

 思わずといった風情で声を上げる睦月に、しぃっ! と人差し指を立てながら、続ける夕張。

 

「上の指示で、直接会って聞き取りしたんだけど、艦隊が撤退して少し経った頃、正体不明の艦娘が、ドラム缶を載せたボート引っ張りながら、単艦で助太刀に入ってきたんですって。相手は多少は傷ついていたとはいえ、まだピンピンしてた戦艦ル級と軽巡ヘ級よ。でもその艦娘は、その状態で自分にも足柄さんにも、攻撃をかすらせもせず、流れるような手際であっという間に沈めてしまった」

 

「ふえぇ」

 

 状況を想像したのか、睦月が情けない声を上げる。

 

「その後、その艦娘が近寄ってきたから、なにをされるのかと思って身構えてたら、おもむろにドラム缶の上面を開けて引っ張り出した、これまた正体不明のバケツの中身を、頭からひっ被せられたんだとか」

 

 いよいよ声を落とし、まるで怪談話でもしているかのような口調で締めくくる夕張。だがその口もとは、面白そうに歪んでいた。

 

「……それ、きっと高速修復剤ですよね?」

 

 なぜか無傷で帰ってきたって、さっきおっしゃいましたし──と、つい口を挟んでしまう電。夕張は眉を寄せて唇を突き出した。

 

「もー。せっかく育てた話の落ちを盗らないでよー」

 

「はわ、ごめんなさいです」

 

「ええぇ。つまり“送り狼”は、“飢えた狼”を送るだけじゃなく餌づけして帰したってことにゃしぃ?」

 

 内容だけなら、もはや暴言にしか聞こえない、あんまりといえばあんまりな睦月の言い草に、電と夕張は数瞬、黙り込んできょとんと顔を見合わせた。その後、徐々に湧き上がってきた笑いの衝動を堪えきれず、じわじわと表情を崩し、ついにはそろって肩を震わせはじめる。

 

「だめですっ。ゆ、夕張さぁん。さすがに失礼なのです……っ」

 

「ちょっとぉ。電ちゃんだって、わ、笑ってるじゃないのぉ」

 

 まともな会話が不能になった二隻を前に、なぜか少し誇らしげな表情の睦月。もし、当の足柄がここにいたとして、この睦月を前にしては、怒りすらわいてこなかったに違いない。もしくは怒ったふりをして、嫌というほど愛でたおすかだ。

 屈託がなく、なぜか妙に憎めない彼女だからこそ、許される発言である。

 

「はー、笑わせてもらったわ。まぁ、そういうわけだから、一応その……なに。“送り狼”に関しては、本営も把握してるの。ただし」

 

 ぐい、と睦月に顔を寄せて、一転して真顔の夕張。

 

「本営の方針としては、今のところ、こちら側からの“送り狼”との公的な接触の予定はないわ。それに、この類の噂を無責任に吹聴して回らないように、通達されることになると思うの」

 

「えー。なんでですかぁー」

 

「主に士気の問題よ。悪い噂ではないんでしょうけど、でもね、当てに出来るわけじゃないのよ。相手は単艦のようだし、なんの思惑があって動いてるのかもわからないんだから。それに、いざとなったら助けてもらえるかもしれない、なんて考えながら戦ってたら、命がいくつあっても足りないわ」

 

「あぁー。まぁ、そうですにゃあ」

 

 そう言われて、即座に納得できる程度には、この睦月も経験を積んでいた。眼の前で仲間が沈んだ経験も、睦月自身が沈む寸前まで追い詰められた経験もある。

 

 本営がわざわざこのような対応をとるくらいには、“もしかしたら”の効能というものは、良くも悪くも無視できないものであるのだ。特に、もはや心理状態くらいしか、天秤の重さを左右できるものがない、限界ぎりぎりの状態では。

 

 そもそも彼女自身、“送り狼”にそこまで入れ込んでいたわけではないのだろう。あくまで、余暇を楽しむための話題にすぎないのだ。

 

「ところで、睦月ちゃん。そろそろ帰投予定時刻ですけど、お出迎えに行かないのです?」

 

「およ? そーでしたそーでした。じゃ、睦月は失礼しますぅー」

 

 慌しく食器を盆にまとめて、睦月は席を立った。シフトを組んで、交代で遠征に出ている姉妹艦が、予定ではそろそろ帰ってくるはずなのだ。

 

 いつの間にか蕎麦を完食していた夕張のために、電は急須を傾けた。

 

「はい、ちょっと苦いかもしれません」

 

 時間が経って、やや濃い目に出てしまった茶を、夕張は微笑んで受け取る

 

「ありがと──いつ見ても元気ね、あの子」

 

「なのです。でも、きっとお姉ちゃんだからっていうのも、あると思います」

 

「そうね。そうなのかもね……」

 

 しばし沈黙が降り、二隻はただ茶をすすった。先程と今とでは、明らかに空気が変わったのを、互いに感じていた。

 それがなにによるものなのかも理解していたし、睦月の前ではあえて口にしなかった内容についても、見当はついていた。

 

「やっぱり、あのひとなのですか」

 

 ぽつん、と、ほとんど独白のように、電が零した。

 

「えぇ。まず、間違いないわ」

 

 静かに湯呑みを置き、夕張は分厚い手帳を取り出した。よれたページをめくり、その部分の走り書きを眼でたどる。

 

「艦隊が撤退後。殿、というより囮になった大破の重巡足柄から見て、十時の方向。眼と鼻の先に、小破の軽巡ヘ級。その斜め後ろ、重なるようにして──二隻だけだけど、梯形陣の形ね、これ──十一時の方向に、これも小破の戦艦ル級」

 

 電が、口にしかけた湯呑みを置いた。眉根が寄っている。背筋にじわりと嫌な汗がにじむのを感じた。

 

「これに対し、およそ三時の方向から、とんでもない勢いで彼女が突撃してきたそうよ。へ級から放たれた砲弾のうち、重巡足柄への、おそらく直撃弾になったであろうもののみ、弾くようにして受け流し、あとは体捌きだけで避けて、へ級と重巡足柄の間に、敵艦に肉薄どころか、ほぼかすめるような距離感で割って入った」

 

 茶で潤っていたはずの電の喉が、ひりついた。脳裏で展開される光景に、めまいを覚え、唇を噛み締める。

 

「そしてそのまま、へ級とすれ違いざまに急激に右回頭。ドラム缶ボートをまるで係船浮標かなにかのように扱い、それを繋いでいた索をへ級の首へ引っかけつつ、それを軸に回転──こう、ぐるんっ、と急角度で旋回して、ほとんど死角からル級にラムアタック……というより、豪快に両足で跳び蹴りをかましたそうよ」

 

「ひっ」

 

 想像した光景における、彼女のあまりの命知らずさに、電は総毛立った。このような所業、彼女以外が実行すれば、自殺にしかなるまい。

 

「それで、ル級は跳び蹴りで、おおむね一時の方向に吹っ飛ばされた。体勢が整わないル級に、九九式の爆撃が波状攻撃的に殺到。雨あられと降り注ぐ爆撃に、さしものル級も轟沈──これ、ル級を爆撃したというよりも、むしろ爆撃が効率良く当たる位置に、ル級を蹴り飛ばしたのかしらね。へ級に庇われないようにも」

 

 紙面を指でなぞりながら、考察する夕張。今でこそ冷静に説明できているが、当の足柄に詳細を聞いたときは、彼女のお転婆っぷりに顔を引きつらせ、逆に心配された。

 

「ル級の轟沈を見届けるそぶりも見せず、即座に索を振り回すようにして、へ級の首に完全に巻きつけ──ぐいっと引っ張って体勢を崩させ、そこでなにかを投げつけたらしいわ。それがなんなのかは、重巡足柄の位置からは確認できなかったそうだけど。でも、それがなにか、私や電ちゃんにならわかるわよね。推測だから、報告書には書けないけれど」

 

「……釘」

 

「そうね。おそらくは」

 

 夕張は小さく嘆息して、茶を口に含んだ。

 今このとき、相手の脳裏には、自分のものとほとんど同じ記憶が再現されているに違いない──二隻は示し合わせたかのように、そう思った。

 

「投げつけられた()()()によって、へ級は眼に見えて動きを鈍らせた。そこに、九九式の爆撃が、こう──ぽこぽこぽこん、と」

 

「ああぁ……」

 

 敵艦ながら、あまりにも無残な敗北っぷりに、さすがに若干の同情を禁じ得ない気分の電である。自分が相手なら、絶対にこのようなわけのわからない沈み方はしたくないものだ、と心底思った。

 

「夕張さん、なんていうか……。電の知っているあのひとより……」

 

「そうねぇ。強くなっているように思えるし、容赦がなくなっているようにも思えるわね」

 

「──なのです……」

 

 苦笑がもれる。眼の前にいる夕張も、やはり同じような表情で、電を見返していた。

 

「あれから、どんな経験をしたのかしらね」

 

 久々に知ることができた、恩人の近況に、在りし日の姿が、懐かしく、慕わしく、ほろ苦く、思い起こされた。

 アルバムに貼りつけた写真をなでるように、ひとしきり面影を胸中に描いた二隻は、同時に胸の痛くなる記憶をも噛み締める。

 

「夕張さん」

 

「うん」

 

「あのひと、やっぱりもう、帰ってこないのでしょうか……」

 

 夕張の唇が、言葉を発しようと開きかけ、結局また閉じられた。そのまま、なにがしかの感情を堪えるように、震える。自然と息が詰まり、喉元がきゅう、と微かに鳴った。

 

「電──電は、わたしは」

 

 言葉に迷うように、電。

 

「あのひとに、なにをしてさしあげられたでしょうか。ただ、仲間になったつもりで、結局、もうどこにも逃げられないところに、追い込んでしまったのではないかと、そう、思っているのです」

 

「私は」

 

 吐息のような声で、夕張。

 

「あのひとに会いたい。すごく、すごく会いたい。でも、同じくらい──」

 

 言い淀む。自分の心のかたちを、表しかねるように。

 

「──私は、あのひとを閉じ込めたわ。連中の、あのひとに対する仕打ちに、憎しみすら抱きながら。守っているつもりで、それと大差ないことをしてしまった」

 

 もはや感情など振り切れすぎたような、いっそ無表情にすら思える様相で、夕張は呟く。

 

「檻に入れて飼うか、ガラス棚に飾りつけるか、その程度の違いでしかなかったのよ。あのひとの懇願で、海の上に連れて行くまで──あの、満足そうな死に顔を見るまで、自分がなにをしているのか、自覚すらしていなかった」

 

 懺悔にもできない言葉だった。夕張にとって、それは未だ過去にすることができない、そんな記憶であったのだろう。

 

 直視できず、電はまぶたを伏せた。夕張の姿は、電自身の鏡うつしでもあった。

 昇華しきれない罪悪感を、電もまた、ずっと心に住まわせている。

 電も、夕張も、彼女にしでかしてしまったことの、その償いを求めていた。同時に、楽になりたいがために、よりにもよって彼女自身に縋り、赦しを強要しているような──そんな自分たちの勝手さに、嫌気がさしていた。

 

 それきり、二隻は沈黙した。昼食時はとうに過ぎ、まばらになった食堂で、ただふさぎ込む二隻を、声もかけられないまま、出迎えを済ませた睦月が見ていた。

 

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 

 大本営の古参艦が、二隻ほど陸で沈んでいたちょうどその頃、方々で話題の彼女は、案外と元気に海を駆けていた。

 

 索に繋がれたボートが波に跳ね、上に載ったドラム缶が傾いだ。固定用にきつく縛った縄が軋む。馬力のない彼女にとって、この金属の円筒は、動き出してしまえばさほどでもないが、その動き出すまでが、意外と重い。今回のように六つ載せてともなると、出航も停泊も一苦労であった。

 

 実のところ、彼女自身のことだけを考えるのなら、どの物資もさほど量は必要ない。ドラム缶一つか二つで充分だ。

 だが彼女がとりあえずの使命として、自分自身に任じていることを鑑みるに、物資の備蓄は、いくらあっても足りるものではないのである。

 

 特に今回は、つい先日に大破した重巡を、一隻サルベージしたばかりで、主に高速修復剤が心許なかった。この際ついでと、燃料の貯蓄も考え、この気の利かない金属筒を、不恰好なボートに六つも載せて、えっちらおっちらと海上を駆けずり回っていたのである。

 

 いたのである、が──。

 

「ほら、これ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 つい先程のことである。

 馴染みの燃料採取地点のすぐ近く、具体的には、小さな島を挟んだ逆側のあたりから、砲撃音を確認した。

 ボートを置いて急行してみれば、島の浅瀬にほど近い場所で、燃料切れの艦娘が、大量の敵性艦に群がられているのを発見。

 とりあえず敵性艦を片付けた後、艦娘に直掩機をつけてボートを取りに戻り、積んだばかりの燃料を差し出すはめになった。

 

「それで、なぜこんな中途半端なところで?」

 

「あ。えぇ、と……です、ね」

 

 なぜか妙に歯切れ悪く、艦娘は話し始めた。

 

「気づいたら、海の真ん中に立ってたんです」

 

「そうか、よくあるな」

 

「現在位置がわからなくて。だからとりあえず……」

 

「──待て」

 

 嫌な予感がして、彼女は指先でこめかみを押し揉んだ。

 

「まさか、無策なまま、適当に航路を……」

 

 どうか肯定しないでくれと思う内心のまま、語尾を濁して推察を披露すると、艦娘は誤魔化すように曖昧に笑った。

 

「つまり、見通しが立たないまま、いたずらに燃料を浪費した挙句、腹が空いて動けなくなった、と」

 

「え、えっと。えへへ」

 

「どこの迷子のおチビちゃんだ……」

 

「おチっ……⁉︎ 小さくないですぅ!」

 

「図体のことを言ってるんじゃあないぞ……。ところで──」

 

 小動物じみた可愛らしさで、艦娘は一丁前に憤慨してみせる。そうしながらもりもりと、可愛くない量の燃料を瞬く間に補給していく姿に、彼女は微かに頬をひくつかせた。

 

「御前さん、よく食べるな」

 

「ご、ごめんなさいっ」

 

 思わずもれ出た、ごく正直な感想に、艦娘が縮こまった。小動物を彷彿とさせる仕草といい、妙な腰の低さといい、この手合いはどうも邪険にできない、と彼女は苦笑する。

 

「いいさ。たんとお食べ」

 

 ひどく穏やかな気持ちで促すと、艦娘が釈然としない面持ちで眉をハの字にする。

 

「そんな子供みたいに──」

 

「お黙り腹ペコおチビ」

 

 む、と黙り込み、艦娘は拗ねたように補給速度を上げた。さして時間もかからずに、三つ目のドラム缶にとりかかり、半ほどまでそれを減らすと、満足したように顔を上げる。

 

「ご馳走さまでした。本当に助かりました」

 

「それは良かった」

 

 それで、と彼女は再び話の口火を切る。

 

「おチビはこれからどうするのかね?」

 

「おチビ──いえ、あの。日本近海まで行きたいと思うのですが……」

 

 反射的に文句を言いかけたが、無駄と悟ったのか、本題を進めることにしたようだ。立ち往生した理由が理由であるからか、自信なさげに、両の指先を弄ぶ。

 

「それでいいと思うが……。正直、心配だな」

 

「ありがとうございます。でも私だって、これでも──」

 

「わかっている。だがそうではなくて、このあたりは最近やたらと敵性艦が多いんだ。しかもよくエリートやフラグシップ──通常よりも強力な個体だな──が混ざっている」

 

 率直に現状を伝えると、さすがに不安になったのか、声色がさらに情けなくなった。

 

「……そんなにですか……?」

 

「あぁ。とにかく数ばかり多いんだ……。近々また大侵攻があるのかもしれない。御前がどんな艦娘であっても、単艦で日本近海を目指すのはお勧めできない。数で押されれば、どんな艦でもいずれ力尽きてしまう。御前は生まれたてで、まだ慣れていないし、その砲だと音でうじゃうじゃ集まってきそうで恐いな」

 

「うぅ……」

 

 先程、実際に群がられたときのことを思い起こしたのか、艦娘は眉を寄せてうめいた。顔が可愛らしいと、どんな表情をしてみせても絵になるものだ、と場違いな感想を抱きつつ、意見を述べる。

 

「だが、大侵攻があるということは、こちらに艦隊が来るということだ。もしかしたら複数鎮守府の連合艦隊かもしれない。私はほとんど毎日、この近海に偵察機を出しているから、どこか近くでドンパチやっていれば、必ず気づく。御前はそれに便乗するのが、最も安全で確実だと思う」

 

「そう……ですね。でも、そうすると、それまでどうやって生き延びれば……」

 

「なんなら、私と来るかね? おチビ」

 

 気づけばなんの躊躇もなく、するりと提案していた。

 

「私はこのあたりこのことなら、だいたい知っている。燃料が手に入る場所も、敵輸送船の固定航路もだ。幸い私自身は燃費がいいから、御前が好きなだけ食べたところで、さして困らない」

 

「え、で、でも……」

 

 突然の誘いに戸惑ったのか、艦娘は大きな瞳を瞬かせつつ、彼女を見つめた。彼女自身も、らしくないとは思っていた。世話焼きは今更だが、あまりに踏み込みすぎではないかと。

 しかし、この可愛らしい迷子の子供を、こんなややこしい時期に単艦で放り出すなど、彼女にはとても許せるものではなかった。

 

「あ、あの……」

 

 ただ案じる思いのまま、なんのてらいもなくその瞳を見つめ返していると、艦娘は照れたのかほんのりと頬を染めて、視線を伏せた。ほんの少し、残念だ、と思ってしまった。

 

「本当に、ご迷惑ではありませんか……?」

 

「どこがかね? そもそも、誘っているのは私なのだがね」

 

 ここまできて、やたらと皮肉げな返し方をしてしまう自分自身に、彼女は苦笑した。自分というのは、どうしてこうも、真っ直ぐに優しくなれないのか。まったくもって、七面倒なやつだ、と内心で自らを罵る。

 その苦笑をどう捉えたのか、艦娘は一瞬ぽかんとした顔をした。

 ややあって。

 

「ありがとう、ございます。それでは、あの……。よ、よろしくお願いします」

 

「あぁ、こちらこそよろしく頼むよ」

 

 もう、行こうか──そう声をかけ、接舷したボートに、空になったドラム缶を積み直し始めると、艦娘が慌てたように、中身の残った三つ目を持ち上げた。わざわざ重い方を選んで手伝おうとしてくれたのだろう。そのまま、もう一つの空のものも手早く積んでくれた。優しい子である。後で愛でよう。

 思考がすっかり保護者のそれになっていることに気づかず、彼女は固定用の縄をかけ直す。

 

「あ、あの!」

 

「ん、なにかね?」

 

「お名前、もしかして鳳翔さんですか?」

 

 艦娘の勘違いに、数瞬だけ顎を落とした後、彼女は眉を下げて笑った。

 

「いいや、残念ながら違うよ」

 

「で、では……」

 

「竜飛だ」

 

 彼女は艦娘に向き直った。煤色の行灯袴が揺れる。

 無骨きわまりない、黒籠手に覆われた左腕と、使い込まれた弓懸を挿した右腕を、ぐいと組んで、仁王立ちする。潮風に吹かれ、後ろで一筋にまとめた黒髪が、苔色の着物の肩にさらりとかかった。

 

「私は、竜飛という──憶えていてくれ」

 

 女性弓士というよりも、若武者を彷彿とさせるような、精悍な表情。威風堂々とした態度で、それでも不思議に優しく、柔らかく、彼女はそう名乗った。

 方や不恰好なボートの上に揺られて仁王立ち、方や小島の浅瀬に足を浸して身を縮ませ、あまりにも様にならないありさまで、それでも、これもまた、いつかのような宿命じみたものを予感させる、そんな出逢いであった。

 

「はい! わ、私は──」

 

「知っている。おチビだ」

 

「ち、違っ! もう‼︎」

 

 拗ねむくれる艦娘を引き連れ、機嫌よくのびやかに笑いながら、竜飛はボートを曳いて、出航した。

 

 

 

 


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