時間が足りないよぉ。
連日連夜日付が変わるまでお仕事ってどういうことなの……。
──もしかしたら始まる前から、すでに終わっているのではないか。
幾度となく想像し、その度に暗澹とした心地になったが、それは現実と、そうかけ離れていない結論に思われた。
彼女は空母であった。工廠にて建造されたが、それがどこの工廠であったのか、空母は知らない。教えてもらえなかったからだ。
ただ、その造られたての
肉眼というものを得て、初めてみたものは、同じくひとのかたちに鋳直された姉の、涙であった。なぜそれを姉と思ったのかは、空母自身にもわからなかった。ただ、目の前の彼女に対する、奇妙なほどの慕わしさが、空母の胸膈を強く締めつけた。
記憶に強く残る艦名を呼んでみれば、はたしてそれは姉だった。仰臥して見上げる空母に、漂白されきったような白い髪を垂らして、姉は身を折るようにして、泣いた。
感情というものを、生み出すのも受け取るのも、まったくの初めてであった空母には、姉の涙の意味がわからなかった。ただ、自分の再びの誕生を、姉は祝福していないのだということ。自分は彼女に歓迎されていないのだということは、うっすらと察することができた。
ひとしきり、静かな嗚咽さえもらして落涙した後、姉は頬を濡らしたまま、取り繕うように微笑んでみせた。
しかしその頃にはもうすでに、得体の知れない疑念と不安が、さながら、かつて空母の上のみに雨をもたらした、あの雲のように、その胸中を覆い尽くしていた。
空母は、姉に手を曳かれ工廠を出た。おぼつかぬ足どりで通り抜ける廊下は、自分たちのような存在も、ただの人間もおらず、ひっそりと静まり返っていた。
誰とすれ違うこともなく、姉は空母を連れてどんどんと、奥へ奥へ進んでいった。やがて、普段は使われていないのか、壁や床のそこかしこに傷んだ箇所のある区画へと入り、その最奥。頑丈そうな鉄扉を前に、姉はようやく歩を止めた。
そうして姉は言ったのだ。
──ここにいなさい。
──絶対に出てきては駄目。
あっけにとられる空母を、強引に鉄扉の中へと押し込んで、姉は足早に去っていった。
ひどく歪んだ、怖気の立つような笑みを、ひとつ残して。
だから。
もしかしたら、今の自分が始まる前から、すでに弁明のしようもなく、なにもかも終わってしまっているのではないか。
どうしてこうなってしまったのか、くり返し、くり返し考えて、そうして得たこの結論は、真実からそう遠くないもののように思えた。
──大好きよ。
ことあるごとに、姉はささやく。
在りし日々に、この身の幸運の、身代わりじみたことをさせてしまった彼女に、今度こそ幸運ではない確かなもので報いたかった。
けれどももう、本当はすべて手遅れで、かつての別離は、今生では決して取り返しのつかないものだったとして。これが、この仕打ちがそのツケだというのなら。
空母には、姉の思う通りにする以外に、もうどうすることもできなかったのだ。
* * *
南国の昼は相応に暑い。
ぐいと頬を拭った腕に、乾いて微塵になった血がついた。
それを払おうと、着物の身頃に、こするように叩きつけてみたものの、細かな血の欠片がさらに飛び散っただけで、まるで効果がない。そもそも、その着物からして、元は苔色であったものが、今はどす黒く染まって乾き、衣ずれの度に血粉を落とすのだから、もうどうしようもない。
全身が鉄錆臭いのも、着物がごわごわするのも、血を浴びて乾いた肌がひりつくのも、もはやいまさらと、竜飛は諦めた。そもそも真昼中から火を焚いて、煙を立ち昇らせるわけにもいかず、かといって、肌についた血を、冷水のみで洗い落とすのは無理がある。
着物はもう、血のしみが落ち切らなくても、着られればいいや、と竜飛はこれも半ば投げやりに匙を放り捨てた。
夜明けの救出戦から、おおよそ半日が経っている。
あの後、茫然と立ち尽くす
彼女はまだ目をさまさない。備蓄してあった、なけなしの高速修復剤は、その損傷を癒すのにかろうじて足りたものの、心身にのしかかる疲労までは、如何ともしがたいものがある。今はただ休ませておくのが吉であろう。
敵の増援を覚悟した割に、海は不気味なほど静かであった。それでも気を緩めるわけにはいかず、竜飛は休む間もなく、こうして海岸から偵察機を放っている。成果は芳しくない──というよりも、敵性艦を発見すらできず、その動向がつかめない。
先ほど発艦させた偵察機が戻ってきたら、今朝に使ったような
冷静な思考のもとでは、目まぐるしく現状の対応策を検討しつつも、竜飛は自らの胸中に居座る重たいものを、どうすることもできずにいた。
彼女が目をさました時、自分はその姉の結末を、どう語って聞かせればいいのだろう。そして、彼女はそれを、どんな気持ちで聞かされるのだろう。それを想像すればするほど、竜飛は胸が苦しくなった。
できるだけ傷が深くならないように、などというのは、あまりに都合の良すぎる願いだ。どんなに柔らかい言葉を選び、どう言い繕ったところで、彼女の姉が沈んでしまった事実は覆らない。
艦娘は戦っている。そしてそこに身を置き続け、それを手段と目的のどちらとするにせよ、ともかく関わり続ける限りは、必ず勝利か敗北、どちらかの結果を問われ続けることになる。竜飛も、
けれども、と竜飛は思うのだ。
そんなものは、わかりきった御託であって、なんの慰めにもなりはしないのだと。そんな事実のみで誰もが納得できるのなら、そもそも自分のようなものは、生まれることすらなかったのだと。
心を持つものが、それを簡単に切ったり貼ったりできるようになっては、いけない。
弓を持つ左手が、胸もとの鎖を撫でた。
「──竜飛さん」
背後からかけられた声には、隠しようのない暗さがちらついていた。振り返れば、
「
「小破以下のかすり傷ですから……。復元して、もう跡形もありません。それに、大したことはできませんでしたし」
「なにを言っている。充分に大したことをしてくれた。御前がいてくれなかったら──」
「いいえ」
強い否定が、あふれ出るようにして竜飛の言葉尻を断ち切った。
くるりと大きな瞳は伏し目がちで、決して竜飛を見ない。その澄んだ輝きはどこかへと失せてしまい、悔恨にまみれて揺れていた。
「いいえ、いいえ。できませんでした……。私は──私、あの時」
抑えようとして抑えきれず、思わずもれてしまったような語り口であった。まろび出るようにして零れたものを、はっと塞ぎ止めるようにして口をつぐむ。
愕然としたように眼を見開き、次いで痛みを堪えるように、まぶたをきつく閉ざし、形の良い唇を噛み締める。首を垂れる桜花の、その痛々しさ。
美しいものの悲哀というものは、どうしてこうも、見るものを竦ませてしまうのか。
竜飛は息をのみ、言葉もなくそれに見入った。なにか途方もなく、貴重なものを目の当たりにしてしまった気持ちであった。艦種艦名、そして生まれ持った、大きな大きな力には、あまりにも不釣り合いな、きれいで内省的なこどもの持つ、その潔癖さ。
「──ごめんなさい、竜飛さん。私、お知らせに来たのでした」
ややあって、顔を上げた
「彼女が、眼をさましたようです」
先程とはまったく別の意味で、竜飛は再び息をのんだ。往生際悪く強ばる背筋を、自分自身の冷静な部分が嘲る。口許に苦笑を刻みつつ、全身の緊張を意図して緩めた。ゆるゆると嘆息する。
「わかった、ありがとう。話を、しなければならないな」
胸元から拾い上げた六角の環へ、祈るように口づけを捧げた。
「いってくるよ」
「はい」
ごく端的にそんな言葉を交わして、竜飛は砂に足跡を刻みつつ、木々の間に分け入った。
南国というと椰子の木の印象が強いが、広葉樹やシダ植物などの植生も豊かだ。特に拠点近くの入り江は、小さな砂地のきわまで、みっしりと樹木がひしめき合うように茂っている。比率を考えれば、むしろ、内陸部から沿岸を目指して歩いたとき、木々の隙間に急に狭い砂浜が現れたような印象をもつだろう。
そのささやかな砂場から踏み入った地面は、木々の根が奔放に伸び、平らなところなど見当たらないほどであった。よほどこういった環境に慣れた者でなければ、足を引っかけて盛大に転びかねない。
縦横に這う樹木の根を、竜飛は二本歯の下駄を履いた足で、淀みなく越えていった。
賞賛すべきはその下半身の安定感であろう。歩行の際の衝撃のほとんどが、足首や膝、股関節、腰などで吸収され、安定装置でも内蔵されているかの如く、上体がまるで揺れないのである。特に頭部はまったくと形容していいほどに動かない。
実際には大した距離ではないが、ただ歩くだけでも神経を使う悪路を、さも舗装された道でも散歩するかのように踏破し、竜飛は森林の只中にひとつだけ佇む、小さな廃墟に近づいた。
竜飛の弓懸を挿した右手が、無意識に自らの襟をたどる。そこだけ露出した小指が細い鎖と、ぶら下がる大小の環を撫でた。
しばし、物憂げにそれをしゃらしゃらと弄んだ後、竜飛はゆっくりと、入り口をくぐった。
緯度の低いこの場所のひなたに慣れた眼には、扉や窓の失せた風通しの良い室内でも、妙に暗く感じる。主役をなくした──最初からなかったのかもしれないが──窓枠から侵入した陽光が、古びた床を明と暗に二分していた。
静かだった。
内外を隔てるものなど、大して意味をなしていないこの拠点にあって、眩い陽光は切り分けられ、木の葉のそよぐ音は不思議に遠く、潮騒の音はなおも遠い。まるでここだけが、隔離された場所にあるかのような感覚さえあった。
その静謐の中に、彼女はいた。
戸板に布類を重ねただけの簡易的な寝床に、膝を抱えてうずくまっていた。
彼女の装束は竜飛のそれとは違い、水と修復剤で洗い流されただけで、いとも簡単に血脂を除かれ、今は窓の外ではためいている。代わりに、むき出しの肌に縫い合わせた大布をかぶり、とりあえずの間に合わせとしていた。
彼女の体躯が、竜飛よりもよほど大きいことは、抱えて曳航した際に身をもって知っていた。しかし、今ここで丸くなった彼女の背の、なんと儚いことであろう。今は解かれた、若木のように艶やかな、緑を含む黒髪でさえ、萎れて枯れ落ちる寸前のように、まるで生気がない。
竜飛は知らず息ひそめた。喉がひりつき、荒くなった動悸にこめかみが脈打つ。
立てた両脚を抱え込み、膝頭に顔を埋めている姿に、ふとした拍子で簡単にくずおれ、そして二度とは戻らないような脆さを感じて、もはや声をかけることすら憚られる気分であった。
完全に硬直した竜飛の前で、彼女が緩やかに顔を上げる。茫洋とした視線が空をただよい、やがて竜飛をとらえた。
竜飛はついに息を止めた。
空虚な瞳であった。怒りも哀しみもない、ともすれば、すでにそれらに疲れ切ってしまったかような──もしくは、なにもかもをどこかに置いてきてしまったかのような、虚無的な表情であった。
そのまましばらく、二隻は見つめ合った。つい先程まで遠く聞こえたはずの、こすれる葉の音や寄せる波の音が、いやに耳についた。
「──みんなは」
そして、どのくらいか後に、すべてが抜け落ちた顔で、唇で、彼女は問うのだ。
「翔鶴姉は、沈んだの」
疑問にすらなりきらない、半ば確認のような問いかけだった。
竜飛は言葉を失った。泣き叫んで糾弾してくれた方が、よほど良かった。
あの突発的な局面で微塵の逡巡もなく妹を庇い、あのような表情で沈んでいった姉を鑑みても、この妹の無感情さは尋常ではなかった。あまりに急な死別に、精神が追いついていないのか。それとも、とうに沸点を超えて、無反応になってしまっているのか。
「──あぁ、そうだ」
もはや緊張に乾ききって、ありもしない唾をひとつ飲み込み、竜飛はかすれた声で応じる。
「助けられなかった。私のせいだ。……すまない」
室内に再び静寂が満ちた。
彼女は虚ろな瞳でぼんやりと竜飛を見つめ、なにも言わず。
竜飛は逸らしてしまいそうになる瞳を必死に押し留め、なにも言えず。
つかの間。彼女が視線を外した。その虚ろな眼で、なにもない、傷んだだけの壁面を見つめる。
そして、ひとこと。
「そっか──そっか」
それきり、彼女はなにも言わず、ただ黙ってまぶたを下ろした。
姉の喪失を哀しむ言葉も、竜飛に対する怒りの言葉も、そして涙も。ついに彼女からは零れてはこなかった。
竜飛も、ただ黙ってそれを見つめ続けた。
かつて
むろん、ここにいるのは、かの艦ではなく、この竜飛だ。それが逃避であると理解しつつ、それでも考えずにいられなかった。
もしここにいるのが、かつて多くを送り出し、失い続けた、あの艦であったのならば。
やがて彼女が眠りの波にさらわれるまで、竜飛はずっと立ちつくし続けた。
矮小な身には、それだけで精一杯だった。
* * *
なにかに意識を引っ張られるようにして、彼女は眼をさました。
横倒しのまま、投げ出した目線の先、劣化した床材には濃い影が落ちている。
時刻は宵の口あたりか。のろのろと片肘をついて、ぽっかりと空いた窓の穴をうかがえば、あれだけ眩しかった陽光はとうに衰え、淡墨に浸したような薄暗がりが、あたりをしんと満たしていた。
そのあまりに寂然とした空気に、彼女は数瞬、自分の居場所を見失った。もがくように手足をうごめかせ、しかしすぐに縮こまる。
仄暗さがじわりじわりと、物理的な圧力を増しながら、彼女を押しつぶそうとしているような気さえした。この体になってから得た肉の機関が、嫌な音を立てて加速していく。
暗闇はいつも、海の底を思い起こさせる。もはやすり切れかかり、それでもなお、しつこくこびりつくあの頃の、ひとり沈む、絶望の記憶だ。
もしくは今生での、あの古びた部屋の、頑丈な鉄扉。足下からひたひたと迫ってくるような暗がりに、溺れそうになりながら、姉の訪れだけを、ただひたすら待ち続けた、孤独の記憶。
それらをまざまざと思い起こし、彼女はおずおずとあたりを見回した。自分以外の何者かの存在が欲しかった。
「──翔、鶴姉……」
ほぼ無意識にもれた呻き声に、彼女は自嘲した。
結局のところ、自分が求めているのは孤独を埋めてくれる他者であって、それは別段、姉でなくとも構わなかったのではないか。
それは人に似たかたちを得てから、ずっと考えていたことだった。
思うに、折に触れてもてはやされてきた、自分の幸運というものの本質とは、降りかかる禍を、周囲の誰かしら、なにかしらに肩代わりさせ、そうして自分だけがそれを避け得る、という性質のものなのではあるまいか。
自分という空母が、ことさら孤独を嫌うこの感情は、実際のところ、生贄のない状態を、ただ不安がっているのにすぎないのではないか。
だから、自分が姉を求めたのは、単純に都合が良かったという、ただそれだけなのではないか。
──大好きよ。
ことあるごとに、自分にそう告げた姉は、本当はその浅ましさを知っていて、だからもう、なにものも犠牲にならないように、自分をあの場所に封じたのではないか。
自分はやはり、ただの疫病神でしかなく、それ以外になどなれなかったのではないか──。
ひどい論理の飛躍で、馬鹿げた被害妄想だった。だが彼女には、それを覆し得る根拠など持ち合わせておらず、唯一それを否定してくれるかもしれなかった存在は、とうに水底へと墜ちてしまったというのだ。
両手で肩を抱いて、可能な限り小さくなる。徐々に深さを増していく宵闇が、彼女の弱った精神にまで、ゆっくりと忍び込んでくるようだった。
それがあまりに堪え難く、恐ろしくて、彼女は肌にかかる布地を跳ね上げて起き上がった。肩を滑る布をたぐりつつ、頼りなくふらつく二本の脚でよろよろと立ち上がり、壁を荒く切り取ったような出入り口を目指す。
「竜飛さん、さすがにお疲れでしょう? お手伝いしますから……」
枠すら残っていない窓に差しかかった時、外から声が聞こえてきた。
彼女は咄嗟にしゃがみ込み、身を隠す。自分自身でも動機のわからない、反射的な行動であった。そうしてしまってから、むしろそのこと自体に後ろめたさを感じ、なおのこと見つかるまいと身を硬くする。
「ん──ありがとう、助かる」
憶えのある声が、ごく短く謝辞を返した。
彼女はそっと顔を傾けて、外をうかがい見た。
薄暮の中に、白い背中が晒されていた。
ひとすじに結い上げていた長い黒髪を解き、両手でさっと払うようにして、その背中に下ろす。
でこぼことゆがんだ小ぶりの鍋で、ドラム缶から湯をすくう竜飛の腕は、なにも身につけていなかった。
腕だけではない。着衣の上からでは想像もつかないほど華奢な肩も、小ぶりな乳房の美しい輪郭の丸みも、しなやかな腰のくびれも、すんなりとした脚も、すべてである。
唯一、首から吊り下げた、大きさの違う小さな二つの環のみを残し、なにもかもを惜しげもなくさらけ出していた。
弱い月光の下に、白く浮かび上がるような、細く、繊細とすらいえるこの裸身のみを見れば、大方のものは竜飛を、真綿に包むようにして守りたがるだろう。
だが、体のそこかしこに刻まれた、大小さまざまな荒々しい傷跡に気がつけば、考えを改めざるを得まい。まるで歴戦の古兵のように、それらが無理なく体になじみ、それでいて、えも言われぬ迫力をかもし出しているのである。
もし竜飛に、その傷跡の所以を訊ねる度胸のある者がいたとしたら、己のどうしようもない勘違いを、即座に改めることになるに違いない。
すなわち、小さく細くとも、竜は竜であるのだと。
見るものが抱くであろう、そんな感慨になどまったく頓着せず、竜飛は無造作に湯をかぶった。頭頂から足先まで、温かな湯が滑り落ちる。乾いて肌にはりついていた血が、水気を含んで徐々にはがれ落ちていくのを感じた。
身にまとわりつくものが、洗い流されていく感触に、竜飛の口から思わず吐息がこぼれる。
「ようやく人心地ついた」
体の前に回した髪を、揉むようにして洗いながら、竜飛がもらす。
「やっぱり、竜飛さんが先に使われた方が良かったのでは……」
「あぁ、すまない、気にしないでほしい。そういう意味ではないんだ」
苦笑しつつ振り返る、竜飛。眼にかかる濡れた前髪をかきあげ、顔の水気を掌で拭い落とす。
「だいたい、今日ずっと
額から頬を、首筋から胸もとを。湯を注ぎ、なぞるような手つきで洗いながら、竜飛はこともなげに言い放った。
それをたっぷり数十秒は凝視した後、
「…………うん?」
前触れもなく近づいてきた、人肌の熱源。まぶたを瞬かせて、まつげの水滴を払いながら、竜飛は背後を振り仰いだ。その手から
竜飛は黙って眼を閉じた。
伝い落ちた湯が、髪を、肩を、背を温める。長くたおやかな
「──竜飛さんは」
「ん……」
いまひとたび、沈黙が落ちた。逡巡する
燃えさしの崩れる乾いた音と、埋み火のぱちりとはぜる音。肩越しに腕が伸びて、湯をすくい上げる水音。
そっと鍋を傾け、髪を丁寧に押し揉みながら、
「竜飛さんは、なんのために戦っているのですか?」
その問いを耳にした瞬間、あぁそれだったのか、と、竜飛はようやく悟った。そして同時に、それを思い悩む
もしも、
そのときこの子は、どんな大義名分を与えられ、どんな期待や責任によって、押しつぶされることになっただろう。
そして、本当なら自分だけのものであるべきそれを、他者が無遠慮に踏みつける、そのむごたらしさに、この子自身は気づけただろうか。
このことについて考えるとき、竜飛はいつも、やり場のない憤りが、胸中に噴き出してくるのを感じるのだ。
海軍の、提督の、人間たちのやり方を、間違いだとは竜飛も思っていない。戦とは大局の勝敗を分けるもので、そのための用兵とはそういうものだ。特にこの戦いは、国同士のそれではなく、停戦も講和も実質的に不可能な、種族としての存亡を賭けたものなのだ。少なくとも、人間側にとっては。
だからこの憤りは、どこにもぶつけようがないものであるし、こういった考えは、所詮は竜飛自身のわがままであると、しっかりと自覚してもいた。
だが、心とはそもそも、
死にたくない、守りたい、あるいは憎い。どんなものであれ、人間たちには理由がある。
ならば人間でない自分が、艦娘たちが、自分だけの理由を持ってはいけないなど、そんなことがあってたまるものか。
だから、竜飛は口を開いた。
「──私にとっての戦いは、いかに多くのものを、
そんな言葉から、竜飛の述懐は始まった。
「……すく、い……?」
おそらく予想していたそれと、あまりにも違いすぎたのだろう。
そのあどけなさに、竜飛は頬を緩めた。そうして心から感謝した。この純粋なこどもに、なにかを語り伝えることができる、この機会に。
「
「わかりません。わかりません、けど……」
「うん」
言葉に迷うように、
「きっと──きっと、戦うためだと思います。だから私は、戦わなくちゃいけないんです。でも、なにか、信念というんでしょうか、そういうものを持たずに、ただ戦うだけでは、怖くて……。いつか、なにか取り返しのつかないことを、仕出かしてしまいそうで」
語尾が慄くように揺れた。
「今朝、あの空母が眼の前で撃たれたとき──私、なにかとてつもなく強い感情が、噴き出してくるのを感じました。それも、空母が撃たれたことそのものじゃなく、沈めたはずの敵艦が、不意打ちのためにこちらを謀っていたことにです」
「私、あの頃のように、間違いなく合理的でいられる自信が、なくなってしまいました。怖いんです。なにか拠り所がないと、あのときに私を支配した感情が、いつか仲間を撃たせるんじゃないかと、そんな考えが頭から離れないんです……」
「そうか」
南国にあってなお、凍えるように冷えたその指先に、竜飛は自分のそれを優しく絡めた。反射的にか、逃がすまいとするように力がこもる長い指を、親指の腹で宥めるようにくすぐる。
「私はね、とある空母が、ずっと心の奥底に沈めていた願いが、こうして形になった存在だ。復員船となった彼女が、役目を半ばに轟沈されたときに、泡沫のように目醒め、再び生まれるために浮かび上がった」
柔らかく、滑らかに、竜飛は言葉をつないだ。
「どんな艦娘も、願いによって生まれて、そして浮かび上がるんだ。私の場合は“救いたい”という、ただそれだけの、純粋すぎる願いから生まれた」
「──願い……」
「そう。大元となった空母ですら、心にしまい込んだまま忘れてしまっていた、
途方もない話だ。雲をつかむような話でもある。だが竜飛自身にしても、こういう語り口しかできない類の話であった。
「生み出された意図と、抱えていくべき信念が、必ずしも同じものであるとは限らない。ただの道具であったなら、それらが矛盾することもなかったろうが、今の私たちは、私たち自身の心を手に入れた」
親の願いが、そのまま子の願いになるわけではない。元が同じものであったとしても、分かたれてしまえば、それはもう別のものだ。
どんな意図で生み出されたにせよ、実際に生きていくのは──生きていかねばならないのは、生み出された方なのだ。
「それを踏まえて聞いてほしい。私の場合は──ただ、生まれてきた願いに、どうしようもなく共感してしまった。そして、どうしても許せなかったから、戦い続けているんだ」
「許せなかった、とは?」
「あぁ、すまない。上手く言えないのだが。そう、つまり──」
指をつないだまま、腕をくぐって振り返った。張りつめて冷える大きな手を、それよりずっと小さな、自身の両手で包み込む。
「私はね、とても幸せなんだ」
脈絡があるような、ないような、どうにも唐突な告白であった。
どうしてこうも、自分には語彙が足らないのか。竜飛は内心で苦悶した。本当に、もう少し系統立てて説明できないものなのか。
それでも、竜飛は言葉をつなぎ続けた。乱れた文脈でいい。すべてが伝わり切らなくともかまわない。ほんのひとかけらでも、この子になにかを残すことができたなら、それだけで僥倖だ。
「とてもとても幸せで、だから同じくらい誰かを幸せにしたいんだ」
言葉にすればするほど、なにも知らない子供のような、幼い願い。
「私は理不尽を心底、憎んでいる。運命だとか宿命だとか、そんな適当な言葉で、痛みや苦しみ、悲しみを賢しらに誤魔化されると、はらわたが煮えくり返る。納得できない。嫌だったら嫌だ」
重々しい声色と裏腹に、語る内容はまるで、駄々をこねる子供だった。その齟齬に、
「大仰な大義も、大勢からの賞賛も、第三者からの評価も、私には要らない。ただ、不条理に囚われ、絶望に沈むしかない、そんな誰かの手をとりたい。御前の幸せを、命をかけてでも願うものが、少なくともここにひとりいるぞと、知らしめてやりたい」
まさに
「
けれど──と、竜飛は
「けれど、御前は生真面目だから、きっと、生まれてきたからには、ああしなくてはいけない、こうしては駄目だと、そんなことばかり考えてしまうんだろう。でもそんなのは、そのうち出会う提督や司令官の命令で充分だ。任務だけでたくさんだよ」
なめらかな手だ。柔らかい掌から、長くしなやかな指先まで、美しく、そして竜飛よりも大きい。
この手はいずれ、竜飛よりもずっと多くのものを、つかみ取ることができるようになるはずなのだ。他でもない、彼女自身の信念のもとに。
「信念に機械的な合理性なんて要らない。ただ心から尊いと思えるものを信じる。そしてそれを、自分を動かす中心の軸として据える。そういうものであるはずなんだ。──ただ間違えないためだけに計算式を積み上げて、それによって心の在りようまで左右してしまったら、それこそ、こんなふうに生まれ直した意味が、ないじゃあないか」
いずれなにかを握り締める手を、そっと素肌の胸に押し当てる。熱いものにでも触れたように、引き戻されかけるそれを、竜飛は優しく両手で抑えた。
自らの左乳房のやや上方、心臓の真上を、大きな掌に覆わせて、竜飛は静かに諭す。
「だから、できることなら、なんのために生まれたかでなく、なんのためにその命を使いたいかを、考えてほしい。生き方は生きながらでないと、わからないから、間違いと失敗を繰り返しながらでも、自分の心が本当に求める生き方を──このためにだったら、身も心も、命も魂も、燃やし尽くして悔いはない、そう思えるものを、いつか見つけてほしい。他のなにものでもなく、御前には、御前自身になってほしい」
まさに、
少しでも伝わってくれただろうか。この大きなこどもに寄せる、竜飛の慈しみが。互いに息づき、伝わり合う鼓動と体温が。
「すまないな。私が、私自身の片手間に、御前に答えを用意してあげることはできない。だから私には、こんな話しかできない」
「──いいえ……竜飛さん。いいえ」
「けれども
──御前は、どんなひとになりたい?
問いかける竜飛の肩に、屈み込んだ
そのまま、震える大きな背を、傷だらけの手で撫で続けた。
矮小な手では、やはりそれが精一杯だった。
* * *
意識が吸い寄せられそうなほどの、深い夜の帳にあって、彼方に浮かぶ小さな月だけが、ひとつきり、煌々と輝いていた。
薄紗のような月明かりは、地上へとその裾を垂れるより早く、押し寄せるような宵闇に浚われて、ひどく慎ましやかだ。これを夜歩きの伴とするには、いささか荷が勝ちすぎる配役であろう。
あえかな月光と、波の音のみに満たされた入り江で、耳を澄ますように黙然と立つ人影を、彼女は木々の作る暗がりに、身を隠すようにして盗み見ていた。
黒い襦袢のみを身につけ、気配もなく波打ち際に佇む姿は、暗闇に溶け込むようであった。暗夜に惑う彼女の眼では、その細かな造作はわからない。かろうじて、
ふと、人影がその場で向きを変えた。月に向かって右に体を開き、左足を半歩だけ前へ出す。右足も同様に、半歩だけ後ろへと退いた。影の輪郭が変わり、矢筒を背負っていたことがわかった。
弓に、矢が番えられる。弓を支える左腕は不動のまま、左膝を基点に斜めに立てられた弓も、その豊かな成りを、微塵もぶれさせない。
「──そんなところから見えるのか?」
不意に、手元で交差する弓と矢に視線を落としたまま、振り返りもせずに声が放たれた。彼女が肩を弾ませる。驚愕と動揺に鼓動がはね上がり、胸を内側から叩いた。
「……わざわざ隠れなくとも、誰も御前さんを怒ったりはしない。見やすい所においで」
身にまとう硬質な雰囲気からは、想像もつかないような穏やかな声で、人影は誘った。あまりにも優しい声だった。強要するような響きなど皆無である。にも関わらず、拒もうという気持ちが溶けてなくなってしまうような、なにかがあった。
月色の薄紗が落ちる砂に、彼女の頼りない足取りが刻まれた。人影は、波に足先をなぶられつつ、彼女を待っているようだった。
手を伸ばすのに三歩は遠い場所で、彼女はしばし逡巡し、人影の背後にそっと回り込んだ。今の彼女には、人影と眼を合わせる勇気が持てなかった。
彼女の様子を眺めていた人影が、軽く嘆息する。悪意を持ってのものでないことはわかるが、そこに込められた意味まではわからず、彼女は戸惑った。
そうこうしているうちに、弓懸の内に二つ目の矢を握る馬手が、下がる袖を払いつつ、弦に添えられた。面が上げられる。弛みない視線が、矢よりも早く放たれて、孤月を射抜いた。
左右の手が水をすくうように、すう、と静かに持ち上げられた。弓を握る左手が、真っ直ぐに掲げられたそれを、柔らかに押し出す。成りがやんわりとしなり、額の上で不動を保つ馬手を支点に、成りと弦がゆっくりと分かたれていった。そのまま緩やかに弓を降ろす動作に合わせて、じわじわと弦が張りつめていく。
やがて呼吸ひとつ静止した後、両の手がさらに距離を開いた。番えられたの矢が、頬のすぐ傍、唇まで降りてくる。
黒い襦袢の背に、力が満ちるのがわかった。
背を半分も隠してしまう、この矢筒が邪魔だ──彼女は唐突にそう思った。
弓を引くこの背を、もっとはっきりと見てみたかった。できることなら、なにも身につけていない素肌に手をあて、その下できしみをあげる筋肉の緊張から、耳をあててその奥の呼吸のひとつまで、つぶさに確かめてみたかった。
陶然と見守る彼女の前で、矢が放たれた。
弦が鳴る。
弓懸に包まれた馬手は、空を弾くように逆に振り開かれ、弓はその軸を微動だにさせないままに、外側に返った。
知らず、吐息がもれる。
そこに至るまでの動作のすべてが昇華されきった、揺るぎない、愚直なまでに一途な射形だった。
彼方へ飛んでいく矢が、これほど惜しいとは思わなかった。あの矢がいまだ留まっていれば、彼女はこの背を、ずっと眺めていられたのだ。
弓の訓練などさせてもらえていない。姉の射ですら、ここまでの航海で初めて見た。そんなずぶの素人である彼女をして、そう思わせるほどに、その姿は鮮烈で、無雑な美しさがあった。
「……御前さんも射てみるか?」
大の字のまま悠然と残心した後、不意に人影──竜飛は彼女に提案した。肩越しに彼女を流し見る眼と、視線が合う。
「い、射たことないし……。そんな綺麗にできない……」
直視できずに足下を見つめ、へどもどと口ごもる不甲斐なさに、彼女は頬を熱くした。
この清浄な夜と、ひたむきな弓の前にあって、自分だけが、そこに紛れ込んだ異物のような気持ちになる。
「最初から、なんでもできる者などいないよ。気が乗らないなら、無理はしなくていい。してみたくなったなら、私が教えよう」
淡々とした竜飛の声は、それでもどこか温和だった。その温和さに甘えて、彼女はおずおずと口を開く。
「あの」
「ん」
短く返す竜飛が、するりと姿勢を改めた。踏み出した足に、ぱしゃりと波が絡む。
自分の話に、折り目正しく耳を傾けようとする仕草だった。それに救われ、彼女は萎みかけた語勢を、なんとか膨らませる。
「なんで、こんな遅くに、矢を?」
言葉をつっかえさせつつ、なんとも不恰好な問いかけに、竜飛は軽く首を傾けた。解かれたままの長い髪が、さらりと夜風に吹かれる。彼女のすっかり乾いた装束も、その袖をささやかになびかせた。
「矢と、弓弦の音には、良くないものを祓う力があるとされているんだ」
「は、はい」
竜飛は、そこで解説を止めてしまった。続きがないことを訝しんだ彼女が眼を上げると、涼やかな瞳がこちらを見ていた。
月に向けて放たれた、矢のような眼であった。
「……もう、辛くはないのか」
妙に熱心に感じる視線に気後れしていると、竜飛はその眼つきに似合わぬ柔らかな声で、そっと彼女を労った。
じわりと、なにかが彼女の胸裏を灼いた。
なにかとんでもなく重要な機会が、いまここで訪れているような気がした。直感はそう告げているのに、具体的なものがまるで浮かばないまま、彼女は焦燥に圧されて、やみくもに口火を切った。
「竜飛さんは──」
「うん?」
竜飛の柳眉が、片方だけ上がった。
「あ、ご、ごめんなさい。あの……」
その反応に、彼女は自らの礼を失した態度を省みて慌てふためく。もっとも実際には、そもそも礼儀を求められてすらおらず、及び腰な彼女の勘違いであるのだが。
「……あぁ、すまない。竜飛でいいんだ」
すっかり狼狽しきった彼女に、竜飛は苦笑しつつ緩く首を振った。目線で促され、やはりもごもごと、俯いて先をつなぐ。
「竜飛さんには、姉妹艦って、いますか?」
「いないな」
少しの躊躇もない、断定である。冷たく冴えた白刃すら想起させる、容赦のないそれに、彼女はよりいっそう萎縮した。
密かに背筋を震わせる彼女の眼前で、しかし竜飛は、その凛とした眼もとをふわりと溶かした。
「けれど、きっと、同じくらい愛おしいものがいる」
眼にも耳にも信じ難い有様であった。
月を射落しそうな射で彼女を魅せた竜飛が、本当に心から愛おしいものを前にしたように、甘さをはらんだ声でささやいたのだ。あの清廉な勇壮さからは、まるで想像もつかない光景であった。
彼女は唾を飲み込んだ。
竜飛とどんな話をすればいいのか、たった今わかった。
「もし、もしも……」
「うん」
だが、それを訊ねて本当に良いのか、彼女は懊悩した。もしかすると自分は、いままさに、はまり込んだら抜け出せない深淵に、片足を踏み出そうとしているのではないか。
自問する間に、膝が笑う。奥歯がぶつかり合う音がした。
不意に、砂を踏む乾いた音がした。肩を引きつらせ、弾かれたように上げかけた視線の先で、見覚えのない傷痕だらけの手が、彼女の慄く指先をさらった。
熱い手だった。
「冷たいな」
自分とは、まったく逆の感想を述べる竜飛の微笑に、彼女の肩から不思議と力が抜ける。この手が、あの射をなしたのか。えもいわれぬ感慨に、彼女の恐れが洗い流された。
熱く、小さく、かたい。しっかりとした手だった。ありとあらゆる箇所が、細かな傷痕によって飾られていた。
「……もしも、なんですけど」
「うん」
その手の温度に励まされて、彼女は先へと進むことにした。
「もしも竜飛さんが、大好きな誰かを閉じ込めることになったとしたら──それって、どんなときですか」
──大好きよ。
何度も何度も紡がれたあの言葉を、彼女は思い起こしていた。
この先、姉の心の内を解き明かしたとして、それが彼女にとって優しいものである保証など、ない。だがそれでも、彼女はどうしても知りたかった。
「ん……」
事情を知らない竜飛には、きっと突拍子もない問いかけであったろう。しかしこの小さな手の主は、問い返すことすらせず、律儀に言葉を選んでいるようだった。
「──……傷ついてほしくないとき、かな」
「傷ついて──」
「なりふりかまっていられない。なにがあっても守りきりたい。けれど、それには自分があまりに無力で、尋常な手段ではとても守りきれない……」
滔々と、水がこぼれるように、おそらく思いつく限りを竜飛は語ってくれた。そのどれもが、生まれてすぐにあの場所に押し込められた、なにも知らない彼女には、考えてもみないことだった。
「…………私からも、言わなくてはいけないことがあるんだ」
新たな観点に戸惑う彼女に、竜飛はふとそう切り出した。
「御前さんの姉の、いまわの際──いいや、
思いもかけぬ話題だった。それと同時に、自分がいかに、そのことについて思考を放棄していたのか、彼女は自覚した。
彼女とつながる熱い手が、微かに強ばる。
「あのとき私たちは、敵戦艦の
慚愧に満ちた声であった。そのときの顛末を、心の底から悔いている者の言葉であった。
それがあまりに痛切で、思わず、小さな手を両の掌で包み込む。竜飛は一瞬だけ情けなく眉を下げた後、彼女の柔らかい手を、自らも両手で包んだ。
互いに諸手を取り合い、懺悔は続く。
「御前さんの姉は、真っ先に御前さんの安否を訊ねてきた。そうして、守れたことを知ると」
一拍、言い淀む。
「幸せそうな、顔をしていたんだよ」
ぽつり、ぽつり、と。
「妹を守れたことを、心から喜んでいるように見えた」
奇しくも、かつて目醒めた彼女に降り注いだそれと似て、雨粒のように、しかしあの頃と違い、どうしようもなく手遅れなその一幕を、竜飛は紡ぐ。
「……そんなわけはないのに」
乾いたままの語勢に、怒りが滲んだ。愛おしむように、哀しむように。そのすべてに困憊したように。
彼女はそれを、茫然と見つめていた。求め続けた、形のない答えが、今こそ、竜飛の言葉の中に見つかった気がした。
「そんなひどいことが、許されていいはずがないのに」
袖振り合うのにも満たないような、ほんの数分の邂逅に、竜飛が心を痛めている。
つまりは心を痛めるほどのものを、あの姉は示して沈んでいったのだ。他ならぬ、
それはつまり。
「あんな顔をして妹の盾になるような姉を、私は奪ってしまった」
つまり、自分は、誰の眼から見ても、愛されていたのではないか。
たったひとり、自分だけが、それに気づいていなかっただけなのではないか。
そして、自分があまりにも臆病すぎたばかりに、それを姉に問う機会は、永遠に失われてしまったのだ。
「あぁ……──」
驟雨の最初のひと粒のように、雫が眼窩からこぼれ落ちた。
「そっか──そっか」
ぽつり、ぽつり、と。それはまさしく雨粒であった。
彼女の揺れる呼気に、水気が混じる。小さなかたい手を、幼子のように、ぎゅうと握り締めて、彼女はしゃくり上げた。
「ご、めんね。ごめんねぇ、翔鶴姉……」
話をすればよかった。どれだけ煙に巻かれても、振り払われても。何度でも何度でも、縋りついてでも話をすればよかった。
今こうして、出逢って一日の相手と、手を重ね合って、同じものを想って哀しめるのなら、姉とだって、いくらでもできたはずなのだ。
それができないというのなら、なんのためにこの
なにも終わってなどいなかった。終わらせてしまったのは、自分自身だったのだ。
「すまない──すまない、私のせいだ」
苦渋に苛まれる声が、彼女の嗚咽に鈍る耳朶に届いた。彼女は激しくかぶりを打ち振るう。胸をかきむしりたいほどに哀しくて、苦しくて、愛しくて、声が出なかった。
「憎んでくれ。私を許そうとするな。御前さんが幸せになるためになら、なんでもしてくれ」
息もできなくなりそうなほど、重い悔恨の言葉であった。それ故に、誰にも寄り添い難いものであった。
それが、彼女でなかったのなら。
「はな、話を──」
「ん……」
「話を、聞かせてください。翔鶴姉を看取って、哀しむひとが、どんなひとなのか、知りたいの」
「あぁ──あぁ、いくらでも」
その後、空が白むまで、二隻はまんじりともせずに、砂浜に座っていた。夜が夢を見るまでに、何万の言葉が飛び交ったのか、月ですら憶えてはいない。
やがて、薄明が取り払われた波打ち際で、竜飛はふと口にした。
「言い忘れていた──古典には化鳥を射止める逸話がある。死者の肉体や魂が、弔われる前に悪いものにさらわれないように、弓を携えて番をする習わしもあったそうだ」
「──あ……」
「射てみないか、瑞鶴」
答えは、決まっていた。
払暁を迎えた空を、四条の矢が射抜いた。
裏テーマ:手をつなぐ
追記
見直したら最後がメモ帳からコピペされてなかった。失礼。