ありし日のパチュリーと小悪魔、そのはじめてのけいやくの物語。

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はじめてのけいやく

 彼女は仲魔の中でも特に変わった性格をしていると評判だったし、自分でもそう思っていた。

 魔界のとある区画のとある住居に彼女は一人で住んでいる。悪魔の中でも半人前の者が分類される小悪魔の称号を持つ彼女は独り立ちして魔界時間で二年目だ。そろそろ一人暮らしも板に着いて来たかというところ。

 彼女が住んでいる洋風煉瓦造りの一軒家は玄関を入るといきなり全部屋をぶち抜いて作った書斎になっていた。他には本以外の――彼女にとっては――取るに足りない物を放り込んでおく小さな物置部屋があるのみ。

 彼女は本が大好きなのである。三度の飯より好きなのである。悪魔に食事はいらないが。

 服も本の傍らにあるにはコレしかないだろうという理由で司書風のものにしていたし、親からの小遣いは全て本に化け、由緒ある家柄の悪魔からの求婚を「すみません、私が愛しているのは本なんです」と断った事すらある。

 とにかく、本さえあれば彼女は幸せだった。

 勿論普通の悪魔の感性は彼女と違う。専ら人間を陥れるのを生き甲斐としている。甘い言葉で意思を惑わし、空言を流して対立を煽り、残酷な台詞で心を抉る。

 その言葉の巧みさと言えば悪魔の囁きという言葉がある程だ。息を吸う様に人間の命を吸い、息を吐く様に嘘を吐く種族なのである。

 更に魔力も一級品で、甘言に惑わされずとも結局力で叩き潰され破滅させられる。質が悪い事この上無かった。彼等を縛る事が出来るのは唯一契約だけだ。

 ところが彼女は悪魔の――小悪魔の――クセにあまり嘘を吐かず、しかも嘘が下手だった。

 物心ついた時からひたすら本を読んでばかりいたので、友達と騙し合ったり喧嘩を煽ったり拷問ごっこをしたり、という健全な育ち方をしなかった。種族特有の頭の回転の速さを速読の修得に費やし両親に嘆かれたのは良い思い出である。

 明るく賑やかな両親のおかげで口下手にこそならなかったものの情けない事に嘘下手にはなってしまい、どうせ嘘言ってもすぐに見破られるんだろうなぁ、という諦めから嘘を吐かなくなった。

 甘い言葉も吐かない。そんな言葉を考える暇があったら本を読んでいた方が千倍有意義だと彼女は考える。

 まあそんな彼女でも悪魔の例に漏れずやはり人間の不幸は蜜の味な訳だが、人間の不幸が単なる蜜なら読書はロイヤルゼリー。別に積極的に人間を堕落させようとも絶望させようとも思わなかった。

 そんな訳で彼女は部屋一杯の本に囲まれ、活字中毒以外の病気を患う事も無く、幸せに日がな一日過ごしていたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ところがそんな幸福な日々にも終わりは来てしまう。

 ある日のこと、悪魔の嗜みとして仕方無く部屋の隅に小さく描いておいた召喚陣が強く禍々しく光り出してしまったのだ。

 意味する所はただ一つ。下界の人間による悪魔召喚である。

 彼女は口をぽかんと開き、読んでいた本を手から落としてしまった。

 有り得ない。

 実の所悪魔側の召喚陣は基本的に全悪魔共通で、人間側の注文に応じて選択される形式になっている。

 何の為に、どんな悪魔が必要なのか。概ね二つの条件に沿って召喚陣管理課の悪魔が悪魔を振り分けるのである。

 上級の悪魔にもなれば個別で指名されたり召喚に大量の生け贄を要求したりもできるのだが、彼女はしがない一小悪魔。そもそも個別魔法陣を開設していない(開設できる金も権力も力も無い)し、召喚陣管理課の悪魔にマージンをガッツリとられ召喚時の生け贄は全然手元に入って来ない。雀の涙の生け贄を換金しても本の一冊にもなりはしないだろう。

 それでも召喚先で旨い雇用条件を取り付けられれば十分美味しい思いはできるのだが、残念な事に彼女の口は誤魔化しに向いていない。

 つまるところ今回のコレは召喚先でこき使われるだけのくたびれ儲けな召喚な訳だ。

 が、召喚されてしまった以上は応じなければならない。それが悪魔の掟である。

 彼女は足元の本を拾い上げ、憂鬱なため息を長々と吐きながら埃を払って丁寧に棚に戻した。

「ああやだやだ。下界で召喚が減ってるって話だったのに」

 下界では科学が台頭するにつれて魔法が失われていっていると聞く。読書家の彼女は下界の事情も稀に手に入るニュースペーパーや魔導書のおかげで知っていた。

 安い木の櫛で鮮血の様に美しいと求婚男から褒められた事のある髪を整え、一張羅の司書服を小さなクローゼットから引っ張り出し(司書服以外持っていない)、まあ念の為に下着も少々色っぽいものに代えておく。昔の人間は色欲を満たすために女の小悪魔を喚んだと言うし、そういう召喚かも知れない。

 しかし一体どんな人間が本ばかり読んで悪魔らしい力も技術も全然つけていない最下級小悪魔などを召喚しようと思ったのだろうか? 確かに胸は人並み以上に大きくメリハリのある体付きをしていると自負しているが、もっと美容に気を使っている美しい小悪魔はいくらでもいるだろう。

「……いや、もしかしたら」

 最も弱い悪魔、という条件で喚んだのかも知れない。本格的な強い悪魔を喚ぶ為の予行演習的な。

 そうネガティブに考えた彼女はがっくり肩を落とした。弱いという自覚はあっても、実際に弱いと言われれば多少なりとも落ち込むものである。反論できない分なお悪い。

 鬱々と床にへたりこんでいた彼女だが、ほんの二、三分で思考をポジティブに切り替えた。

 魔界に存在する本の内、自分が手に入れられる類の物は既に読み尽くしてしまっている。近頃は我が脳髄の空腹を満たすには魔界では駄目なのだ、と思う様になっていた。新しい本が読みたいのである。

 下界には下界独特のユニークな本が多いだろう。上手く事が運べば本の一冊や二冊読めるかも知れない。

 そう自分に言い聞かせた彼女はぐっと胸の前で両手を握って覚悟を決め、頭からちょこんと生えた一対の小さな羽と、背中から控え目に生えた成長途中の小振りの羽を緊張に張り詰めさせながら召喚陣に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パチュリー・ノーレッジは一族の中でも天才に属する少女だ。

 少女と言っても実年齢は三十を越えているのだが、見た目的には十二、三の紫髪の少女だ。捨虫と捨食の魔法を修得し、老いなくなったのがその頃だったからである。

 ノーレッジ家は古くから続く錬金術師の家系だ。科学方面に枝分かれした分家からは幾人も世界に知れ渡る著名な科学者を輩出しており、魔法方面でも聞く者が聞けば恥も外聞もかなぐり捨てて弟子入りを志願する様な大魔法使いを数多世に送り出している。

 ……しかしそれも昔の話。

 科学が持て囃され幻想が否定される現代の風潮において魔法方面の錬金術はもはや嘲笑の的だった。十幾つの頃、知り合いの科学者に真面目に賢者の石の話をして爆笑された思い出をパチュリーは忘れない。

 科学方面に分かれた分家は華々しい功績を上げ脚光を浴びているのに、本家であるはずのノーレッジ家は分家が憐れむ様に時折寄越す金でなんとか研究を続けている有様。

 落ちぶれた魔法一族。次第に進む所か失われていく魔法技術の伝承。

 その中でパチュリーは飛び抜けて高い魔法の適性を持って生まれ、失われた技術を掘り起こし発展させ、永く続くノーレッジ家の歴史の中でも五指に入る凄まじい早さで種族魔法使いと成るに至った。紛れも無い天才である。

 早くに両親を亡くし、分家からの保護を断った彼女は、全盛期に比べれば見る影も無く小さくなった屋敷に引籠もり、たった一人で研究を進めていた。ノーレッジ家本家にはパチュリー一人しか残っていない。人を雇う金も無く、何をするにも一人である。

 喘息持ちの彼女は喉に負担をかける詠唱が苦手だ。普通に喋るにはさして問題無いのだが、詠唱は普通の発音形態とは異なる。

 魔法行使には詠唱がつきもので――勿論詠唱破棄も存在するが難易度は非常に高い――、実践的研究に詠唱は必須。しかし詠唱は苦手だ、という事でパチュリーは理論派にならざるを得なかった。本から知識を得、本を書いて知識をまとめ、本に魔法を込めて詠唱を補佐する。詠唱は最低限に、効率良く。

 そうして研究生活の大部分を本と共にしていたパチュリーが本に愛着を持ったのは必然と言えよう。

 パチュリーは本が好きである。三度の飯より好きなのである。種族魔法使いに食事はいらないが。

 本の傍らにあるのが自分であるというアイデンティティーを確立させるまでに至ったパチュリーは本の側から片時も離れたくない。

 しかし魔法研究には理論ばかりではなくサンプルも必要になり、それを手に入れるためには本の園の外に出なくてはならない。もやしっ娘であるパチュリーには二重に苦痛だった。

 そこで考えたのが使い魔である。ゴタゴタした面倒臭い事は全部自分の代わりにやらせれば良い。

 悪魔は契約で縛れば人間と違って研究の秘密を誰かに漏らす事は絶対に無いし、人間よりも様々な点で有能である。性格は非常に悪辣だが。

 まあしっかり隙の無い契約を取り付ければ骨までしゃぶられる様な事は無かろう、とパチュリーは悪魔召喚の準備を始めた。本分は錬金術だが、パチュリーは七曜の力を組み合わせて操るオールマイティーな魔法使いだ。悪魔召喚も守備範囲。

 かくして悪魔召喚魔法陣と悪魔契約の本を読み漁ったパチュリーは屋敷の書斎の床に魔法陣を書き、自分の血を代償に悪魔召喚に踏み切った。

 ちなみに雑用係なので悪魔としての実力は重視しない。故に「雑用のために」「本が好きな奴」という召喚条件にした。本好きという条件をつけたのは趣味が合った方扱い易いかなと思っただけである。

 パチュリーはズゴゴゴゴ、と何やら音を立てながら禍々しく発光している目の前の魔法陣を肘掛け椅子に座りながらじっと見つめた。若干わくわくしなくもないが、どちらかと言えば緊張の色合いの方が濃かった。何しろ初めての悪魔契約である。

 さてはて鬼が出るか蛇が出るか。いや悪魔が出るのだけども。

 頬杖をついて埒も無い事をぼんやり考えていたパチュリーは召喚陣がぼわんと古典的な煙を上げたのを見て慌てて背筋を伸ばした。

 悪魔との契約交渉が始まる。

 迂闊な事を言ってしまえば逆にこちらが奴隷にされる事も考えられるのだ。油断はできない。

 身構えるパチュリーの前に現れたのは一人の悪魔だった。頭と背中の羽の大きさと身に纏う魔力から下級の小悪魔だろうと推測できる。

 何故か女の小悪魔によく見られる淫猥な服では無くカッチリした司書服着ているのを見るに、少なくとも本に興味の無い、もしくは本をないがしろにする様な悪魔では無さそうだった。

 キョロキョロと辺りを見回す不安そうな様子からあちらも初めての召喚なのかと一瞬思いかけたが、演技の可能性が高いと考え直す。気弱な性格を装い契約者を油断させる逸話も決して少なくないのだ。

 一通り観察を終えたパチュリーは本で学んだ悪魔契約の作法に則り厳かに名乗りを上げた。

「我が名はパチュリー・ノーレッジ。お前はこの度の召喚に於いて私の贄により――――」

「キャー!」

 台詞の途中で突然大きな悲鳴を上げた小悪魔に驚き、パチュリーはのけ反って椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。

「な、何よ」

 何か作法を間違えたのか、と頭の中で本の内容を高速復唱するパチュリーは自分が抱えている本を小悪魔が震える指で指している事に気が付く。

「そそそそそそ、それはマーリンの魔法契約論! しかも原本!?」

 大興奮する小悪魔にパチュリーは呆気に取られた。ぽかんと口を開け、書斎の棚に並んだ、隅にまとめて積まれた魔導書の類を指差しては大騒ぎする小悪魔を凝視する。

 全くもって悪魔らしくない。

 『顕世における一般悪魔分類』によれば、悪魔は大抵表向きは礼儀正しく、落ち着いている傾向にある。知的な言葉で会話の主導権を握ったり、柔らかな仕草と口調で警戒を解いたりする為である。

 また時折馬鹿を装う悪魔も居る。これは知能が低いと見せかけて油断させ、気を弛ませる為である。

 が、油断を誘って来るタイプの悪魔も会話の中であからさまで無い程度にさり気なく低脳をほのめかす、と『西洋式悪魔召喚事例集・十七世紀~十九世紀』に書いてあったし、今目にしている様に開け広げに「本が大好き!」アピールをしてくる事例をパチュリーは知らない。

 標準的な悪魔と比較すれば間違いなく奇妙キテレツである、と断言できるだろう。何しろ既に悪魔契約は始まっているのだ。

 『悪魔的悪魔交渉術』には悪魔交渉時の注意点が事細かに載っているが、無理矢理要約してしまえば「情報を握れ」という一点に尽きる。

 悪魔との契約交渉は悪魔が現世に現われたその瞬間から始まり、契約内容に双方が同意した瞬間に完了する。契約中は互いに嘘を吐く事が出来ず、また互いに傷つける事も出来ない。契約交渉中は悪魔は魔法陣の中から出られず、魔法使いは魔法陣から一定以上離れられない。

 細かく言えばもっと縛りはあるのだが、端的に纏めればそうなる。つまりギリギリ嘘にならない巧妙な言葉を使って化し合い、少しでも自分に有利な契約条件にしようとする口先の戦いなのだ。

 相手に与える情報は少なく曖昧に。自分が得る情報は多く正確に。契約締結の文言は揚げ足を取られない様一分の隙も無く。

 そんなたった一言が身の破滅を招く様な契約交渉中に呑気に貴重な本を見てはキャーキャー黄色い声を上げて自分の情報を撒き散らしている小悪魔がパチュリーには理解……

 ……理解……

 ……理解できそうなのが恐ろしい。

 自分も顕世でも有名になっている魔界の貴重な本を目の前に何冊もポンと出されたら、我を忘れてあんな反応をしてしまう気がした。

 そう思うと強い親近感が沸いて来るが、慌てていやいや相手は悪魔なのだから、と打ち消す。

「ちょっと。ちょっとあなた! こらこっち見なさい! ……けほ」

 気を取り直しパチュリーなりに大声を張り上げるとやっと小悪魔は我に帰った。

 ぶすっとしているパチュリーを見てわたわた居住まいを正し、ピシッと直立不動の姿勢を取る。今更遅いが。

「えーと、この度は悪魔召喚の御利用誠に有り難うございます。私、悪魔族小悪魔の――――と申します。貴女が私を召喚した契約者のパチュリー・ノーレッジ様ですね。特定の願いを叶える短期雇用でしょうか? それとも一定期間使役をお望みの長期雇用でしょうか?」

 小悪魔のビジネスライクな口上に最近はこんなのが魔界では流行っているのだろうか、と内心首を傾げながらもパチュリーは言葉の粗を探した。相手の出方が何であれ騙されては敵わない。

 ちなみに世間知らずな小悪魔は悪魔契約を舐め切っており、召喚直前に読んでいたビジネス関係のハウツー本に影響されて適当な事を言っているだけである。頭の中は目の前にある宝の山で一杯だった。

 そうとは知らないパチュリーは懸命に頭を捻り、ありもしない言葉のトラップに警戒しながら話を進める。

「……私は貴女に長期雇用を命じるわ。雇用期間は私の脳と心臓が完全に停止するまで。雇用中、私本人の……直接的かつ明確な命令が無い限り、私個人と私の……財産に危害・被害を加える意図を持つ一切の行動を禁ずる。遂行すべきでありかつ遂行できる私の命令が無い時にはノーレッジ家が所有する図書及び図書館の管理をする事。ここで言う管理は現在の顕界で世間一般の人間が使う意味での『管理』を指すわ。ノーレッジ家管理下にある如何なる本も売却、譲渡、交換、賃貸、焼却、消去、封印など、私が読みたい時に読めない様に処理する事を禁ずる。

 図書館の管理以外では魔法薬の材料の確保、一般的な北欧現代現世の使用人が行う種類の雑用を命じるわ。その際極力目立つ行為は避ける事。命令の遂行中に客観的に見た時自らが命の危険に晒されていると判断できた場合は撤退し、私の下に戻って来る事。

こちらからの対価としては私の存命中のノーレッジ家所蔵の本全ての閲覧権を出すわ。ただし屋外への持ち出しは禁止。

 ……………………………………………………こちらから提案する契約内容は以上よ」

 パチュリーは最大限に言葉を選びながら言い終え、背筋を伸ばし眼力を込め精一杯に威圧感しつつ内心恐る恐る小悪魔の顔色を伺った。さて、あちらからは一体どんな要求が来るのか――――

「はい。それで構いません。これを以て契約交渉の完了とします。よろしいですか?」

「え? …………え? ちょ、ちょっと待って」

 ところが小悪魔があっさり即諾したのでパチュリーは狼狽した。

 なにこれ有り得ない。

 ある程度悪魔側の都合も考えた契約内容だとは言え、こちらの提案を鵜呑みにする悪魔など聞いた事が無い。これではパチュリーに何のリスクも無いダダ甘な契約内容になってしまう。いや好都合なのだけれど。

 自分の契約文言に一分の隙も無かったため付け入る事が出来なかったなどと考えるほどパチュリーは自惚れていない。文言に隙が無ければ隙を作ろうと巧みに甘い言葉を囁くのが悪魔という生物だ。

 故に契約内容に不備があり、パチュリーに著しく不都合な意味に解釈できる文言が入ってしまっている可能性が高い。

 パチュリーは眉をひそめ、悩んだ。が、何回頭の中で慎重にチェックを繰り返しても不審な点は発見できない。

 今成立しかかっている契約はパチュリーから見て最高に近い雇用条件であり、下手に弄っても不利益にしかならない。

 即諾する事で不信感を抱かせ契約内容を変更させようてしている? ……いや、契約内容変更が狙いならばもっと別の、安全で確実性の高いやり方があるはず。口八丁は悪魔の得意技だ。

 パチュリーはソワソワと本の山を見ている小悪魔をじっと観察した。誕生日プレゼントを前に「待て」をされた子供と雰囲気が酷似している。いくら懐疑的な目線で見てもこちらを陥れようとしている気配は読み取れなかった。

 ひょっとして本当に単なる馬鹿なのだろうか?悪魔を侮る危険性を十二分に理解していてなおそう思わずにはいられない。

 本当に馬鹿であるのか、馬鹿を装っているのか。裏の裏か。裏の裏の裏か。

 思考の渦に巻き込まれたパチュリーは理屈を捨て、思い切って契約を結んでしまう事にした。何事も最後の最後に決め手になるのは直感だ。この小悪魔からは悪辣さではなく、自分と同じ本の隣で生きる者の気配を感じていた。

「構わないわ」

「では契約成立です」

 パチュリーが肯定の言葉を発すると小悪魔は即座にそれに応えた。

 契約の締結を認識し、小悪魔を拘束していた魔法陣が光を失い、消失する。これで小悪魔を縛るのは締結された契約のみ。パチュリーは自由の身になった小悪魔の不意打ちに備えて懐に隠した魔法発動媒体に手をかけた。契約文言を正しく解釈すれば小悪魔はパチュリーに攻撃できないはずだが、万一という事がある。

 一方小悪魔はパチュリーの警戒をスルーし、本の山に一直線に飛び込んだ。

「ああっ! 夢にまで見た魔法契約論! こっちは隔離的気象操作陣術!? 無機魔法物使役新説第二版までっ!」

 ああん、と頬を紅潮させ恍惚の表情で本を抱き締め身をくねらせる小悪魔。はぁはぁと桃色の吐息を吐いている小悪魔は全くパチュリーに攻撃しようとする様子は無かった。

「…………」

 ひとまず警戒を解きながらも、パチュリーはこの性格が自分を油断させるための演技では無いかと疑う。しかし例え演技だとしても契約は絶対。朝起きたら首に首輪がかかって奴隷にされていたなんていう事は無いはず……

 ……まあ何にせよ契約は既に成された。今更あれこれ考えても仕方無い。

 パチュリーはその場に座り込んで本を開き、能天気に読み始めた小悪魔をじろっと見る。

 さて、とことんこき使ってやろう。

「小悪魔」

「…………」

 呼んでみたが返事が無い。

 不審に思って横から覗き込み、顔の前で手を振り、頭の羽をくいっと引っ張ってみたが反応無し。完全に自分の世界に入っている。

 イラッと来たパチュリーは小悪魔の尻を全力で蹴飛ばす。

「きゃん!」

 妙に可愛らしい悲鳴を上げて飛び上がった小悪魔にパチュリーは淡々と指示を出した。

「まずは紅茶。キッチンは部屋を出て右の三番目の部屋。ティーポットと一緒に地下の大図書館に持って来なさい。大図書館にはこの部屋の向かいの書斎の魔法陣から行けるから。それが終わったら大図書館の本を全て虫干し。これは魔法を使っても構わないわ。全て終わったら声をかけなさい」

 言うだけ言って踵を返し、部屋を出ようとするパチュリーの背中におずおずと小悪魔が尋ねる。

「えっと……本を読ませてくれるのでは?」

「私の命じた仕事が無く暇な時に、本の管理をしながら、ね。ああそうそう、向こう五十年は仕事で埋まってるから」

 パチュリーが首だけで振り返りしれっと言うと小悪魔の顔が面白いほど見事に絶望に染まった。

「だ、騙された!」

「それを悪魔が言うの? 良いからさっさと紅茶よろしく」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 契約から数日後。パチュリーは小悪魔の性格を早くも把握していた。

 本の虫。インドア派。貧弱(悪魔にしては)。

 ……何やら鏡を見ている様な気がしなくもない。

 別段善良という訳でも無かったが、悪魔特有の悪辣さはほとんど感じられない。本の事しか頭に無いらしく、必死に魔法を駆使して図書の虫干しや目録作製をしながらなんとか読書の時間を作ろうと仕事に勤しんでいる。人畜無害な奴だった。悪魔なのに。

 使う魔法は本に纏わるモノに特化していて、戦闘力はパチュリーと同程度。小悪魔とは言え百年も生きていない魔女と同じというのはどうなのかと思ったが、別に戦闘をさせたくて契約した訳でも無いので許容範囲だった。

 肝心の本の管理の手際は驚くほど良く、パチュリーですら知らない効率の良い管理整頓方法を心得ていた。

 なぜそんなに手際が良いのかと聞いてみると、

「私を誰だと思ってるんですか。魔界の本を読み尽くした悪魔ですよ?」

 と胸を張って答えられた。更に言えば一度読んだ内容は忘れないらしい。

 それを聞いたパチュリーはしめたと思い、上手く小悪魔から魔界の本の知識を引き出せないかと口先で誑かしてみようとしたが、いくら頭の軽い小悪魔でもそこはガードが固く、聞き出すのは早々に断念する。

 魔法使いにとって知識とは何にも換えがたい力である。知識の量が倍になれば、魔法効率と威力は倍では利かない。ノーレッジ家の先祖は魔法の知識を得る為に悪魔と契約をかわしその代償として呪いを受けたと言うし、対価も無く魔界の本の知識を得ようというのは虫の良過ぎる話だ。

 しかし知識を引き出せなくとも小悪魔はなかなか役に立っていた。

 炊事、洗濯、掃除、買い物、来客の対応と、どれも意外とそつなくこなす。少々抜けている所はあるものの一般人の前ではしっかり羽と魔力を隠して人間のフリをしていたし、対外的には見事にノーレッジ家の新しい使用人を演じきっていた。

 魔法薬の材料調達を命じた時に、

「雌の銀狼の犬歯を取って来て頂戴」

「銀狼ですかー……いいですけど、何に使うんですか?」

「賢者の石の材料の材料を作る材料よ」

「ああなんだ、アスフォデルとベアゾール石の反応中にフラスコ内の魔力拡散を防ぐためですか。効率悪いですねー」

「……もっと良い方法があるの?」

「教えませんよ。契約履行以外で魔界の魔法知識を渡すのは掟に反しますから」

 という小悪魔の口の固さを示す一幕もあり、パチュリーは悪魔という種族の側面を考慮しつつも小悪魔に対する過剰な警戒は解いた。

 一週間が経ち、小悪魔がノーレッジ屋敷に慣れ。

 一月が経ち、小悪魔が仕事に慣れ。

 半年が経ち、雑然としていた大図書館に新しい本棚ができ。

 一年が経ち、うずたかく積まれ埃を被っていた本の山が低くなり始め。

 二年が経ち、大図書館の本は全て整然と本棚に納まり埃も綺麗に無くなった。

 埃っぽさが無くなったため持病の喘息もかなり楽になり、パチュリーは快適に研究を進められる様になる。

 言葉には出さないものの良い買い物(契約)をしたものだと非常に機嫌が良いパチュリーは、最低でも五十年は休ませずにパシらせようと思っていた小悪魔に読書休暇をあげる事にした。図書の整理をしながら本を手に取るたびにぷるぷる手を震わせ頁を開くまいと葛藤している泣きそうな小悪魔が鬱陶しかったという理由もある。

 自分も本の側にいながら頁を開くなと言われたら泣いてしまうか無気力状態になるかしてしまいそうで、活字中毒の禁断症状に苦しむ小悪魔の気持ちはそれなりに分かったのだ。

 紅茶を持ってきた小悪魔に明日は休んで良いと告げると、足をすべらせ持っていた盆を取り落とした。盆に乗っていたティーセットが落ちて中身をパチュリーが読んでいる本にぶちまけそうになったが、ふぉおっ! と変な声を上げた小悪魔が本を手で庇い、本の代わりにパチュリーの服がぐっしょぐしょになった。ヘッドスライディングしてはいつくばった体勢のまま小悪魔は驚愕も露にパチュリーに聞き返す。

「ほほほほ本当ですか!? 本当に休暇を!?」

「と思っていたのだけど、小悪魔はもっと働きたいみたいね」

 パチュリーが無表情に水を滴らせるローブの裾を摘むと小悪魔はさっと顔を青褪めさせてDOGEZAした。ジャンルを選ばずなんでも読む雑食な小悪魔は外国の文化も囓っている。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 今すぐ洗いますから!」

「これ一張羅だから他に着る物無いのよ。裸になれと?」

「ええ!? えーとえーと、そ、そうだっ! パチュリー様、この際いっそ風呂に入りましょう! そのモヤシみたいに貧相な身体を人前に出れるくらい綺麗に洗って差し上げますよ! 風呂から上がる頃には失禁したみたいになってるローブも乾いてますから!」

「…………」

 死にたいの? という台詞は言わないでおいた。七曜の魔法使いは慈悲深いのだ。

 捨虫と捨食の魔法を修得しているパチュリーは不老で、代謝がほぼ無いため基本的に風呂には入る必要が無い。週一で自分に浄化魔法をかける程度だった。紅茶で濡れたとは言え浄化と乾燥の魔法をかければすぐに元通りになるのだが、パチュリーはちょっと苛めてやろうと小悪魔を責めて遊んでいた。しかし久し振りに風呂に入るという提案は悪くないように思えた。研究の息抜き、良い気分転換になるだろう。

 パチュリーが仕方無いわね、と頷くと小悪魔は心底ほっとした様子で息を吐いた。そしてさぁ行きましょうすぐ行きましょう、と気変わりで休暇が不意になるのを恐れているのかパチュリーをひょいと抱き抱えて風呂場にダッシュした。

 さて、ノーレッジ家の屋敷の浴室はかなり広い。今は落ちぶれたとは言えどかつての栄華の名残か、大理石の浴室は一般家庭のそれの七、八倍の広さはあった。

 当然脱衣所も相応で、二人一緒に着替える充分なスペースがある。

 種族は違えど同性の気安さでパチュリーはスルスルとためらいなくローブを脱ぎ、下着も脱ぐ。一糸纏わぬ姿になったパチュリーを変に色っぽい仕草で服を脱ぎ下着のみになった小悪魔が腕組みをしてじっと見た。

「パチュリー様着痩せするんですねー。うーん、意外と大きい」

「そんな事どうでも良いでしょう。小悪魔はどうしてそんな際どい下着つけてるの?」

「ああ、契約者を誘惑しようかと思いまして」

「……私に同性愛の趣味は無いわ」

「え? あ、違います違います! 召喚前! 召喚前に召喚主の性別と召喚目的が分からなかった時の話です!」

 わたわた弁解する小悪魔をスルーし、パチュリーは涼しげな顔をして浴室に入って行った。からかわれたと気付いた小悪魔は頬を膨らませ、パチュリーが脱いだローブと自分の司書服を備え付けの全自動洗濯魔法陣の上に置いてから下着を脱いで後に続いた。

 小悪魔が浴室に入るとパチュリーは体を流し終え、湯船に浸かる所だった。のそのそ広い湯船の中を歩いて行ったパチュリーはライオンの口から出る湯の下に陣取り、日向で丸くなった猫の様に気持ち良さそうに目を細める。小悪魔は不覚にもちょっとときめいた。

 さっと体を流した小悪魔も湯船に入る。縁に背をもたせかけ、タオルを頭に乗せて気分良く呪歌を口ずさむ。魔力を帯びさせていないので無害なものだが、それでも普通の人間が長時間聞くと嘔吐する。勿論魔法使いであるパチュリーに影響は無い。

 しばらくするとパチュリーがのそのそと湯船から上がった。無言の催促を受け、小悪魔も上がる。小悪魔は最初石鹸を自分の体に塗りたくって身体でパチュリーを洗おうとしたが、頬を思いっ切り抓られたので止めた。渋々普通にタオルで擦る。手つきが若干怪しかったがそれは無意識のものだ。小悪魔だから仕方無い。

 身体を流し終えた小悪魔は、心なしか頬を紅潮させ目をとろんとさせたパチュリーの頭にどこからともなく取り出したシャンプーハットを被せた。

「痒い所は無いですかー?」

「……もうちょっと上……行き過ぎ……そこ……むきゅぅ……」

 なんだかんだで気持ち良さそうに洗われるパチュリー。洗う側の小悪魔は楽しげだ。

 小悪魔はわしゃわしゃ髪を泡立てつつ無駄に高い観察力で枝毛を見つけては硬化させた爪で器用に切断した。基本的に魔法使いになると髪が伸びなくなるので、パチュリーは魔法使いになった時から髪の手入れをしてこなかったらしい。

 髪の手入れが終わり、泡を流そうという段になって浴室の外からくぐもったベルの音が聞こえてきた。小悪魔とパチュリーは顔を見合わせる。来客だ。

「誰でしょう?」

「さあ? 小悪魔、先に上がって対応しておいて」

「はい」

 パチュリーはいそいそと浴室を出ていく小悪魔を見送り、髪を流してシャンプーハットを取ると、また浴槽のライオンの口の下を陣取った。

 一方小悪魔は魔法陣の上の司書服がまだ脱水中だったため、脱衣所でバスタオルを一枚体に巻き付けるとそのまま廊下に出て玄関へ向かった。これは重要な部分が隠れていればエロくないかな、という単純な考えによるものだ。

 色恋に関する小悪魔の知識は本に由来するものがほぼ全てであるため歯の抜けた櫛の様に欠けており、不幸にも小悪魔が読んだ事のある本の中に「バスタオル一枚で接客してはいけない」と書かれた物は無かった。

 頭と背中の羽をしまっている事を確認し、いつもの調子で玄関の戸を開けた小悪魔は、いつもの様に来客に声をかける。

「はいこんばんはー。どちら様で……ぇえ!?」

 バスタオル一枚で玄関に出た小悪魔を真正面から見た訪問客の男は途端に鼻血を噴いて倒れた。

 風呂上がりの小悪魔の髪はしっとりと妖しく濡れ、適当に巻かれたバスタオルは身体の各部をこれでもかと強調し裸よりもなお悪い。しかも見えそうで見えないチラリズムまで偶発的に作っていた。

 腐っても小悪魔である。本人にその気が無くとも誘惑してしまうのは種族の性だろう。

 突然半裸の美女に遭遇した男は仰天したのだろうが無自覚に悩殺した小悪魔も仰天した。何しろ会った瞬間に「なぜか」いきなり鼻血を噴いて倒れたのである。混乱した小悪魔が叫ぶ言葉は一つだ。

「パチュリー様ぁあああ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 客間で何事かと急いで風呂から上がったパチュリーによって鼻血を止められた紳士服の男と対面している小悪魔は困っていた。とても困っていた。助けを求めて隣に座るパチュリーを見ると、微妙に生乾きのローブの着心地が悪い様で少し眉をひそめながらも本に目を落したまま見向きもしてくれなかった。

 同じく微妙に湿っぽい司書服を着た小悪魔は小さく溜め息を吐き、うろんな目で目の前の男を見る。

「結婚を前提にお付き合いして頂きたい」

 小悪魔はなぜか求婚されていた。

 男はノーレッジ家の分家の一つの次期党首で、一応は未だ本家になっているパチュリーの下に挨拶に来たらしい。そこで図らずも色香全開の小悪魔に鉢合わせ一目惚れ。

 パチュリーに言われて常識外れな事をしてしまったと知り反省した小悪魔だが、恥ずかし格好を見られたという自覚は全く無く、男の告白への反応は鈍い。

 小悪魔は色欲よりも読書欲を優先させるため、告白を断る事は確定している。しかし魔界時代に告白をスパッと断ったらしつこくストーカーされた経験があるため、どうやって断れば良いか悩んでいた。

 今まで読んだ本の記憶の中から似た事例を探し一件該当したが、それは「初対面で裸を見られる→求婚される→快諾する→爛れた日々」というもので、まるで参考にならない。

 悩んだ小悪魔はストレートに行く事にする。

「えーと、申し訳無いのですが私……っ!」

 私の恋人は本なので、と言おうとした小悪魔はテーブルの下でパチュリーに足を踏まれて言葉を途切らせた。本の世界に入っていたと思ったらしっかり聞き耳を立てていたらしい。

 小悪魔のみに通じる念話で指示を受け、大急ぎで言葉を方向転換させる。

「……私は初対面の方と結婚を前提にお付き合いするのは遠慮したいです。でもしばらく付き合ってみて好感が持てたなら結婚も考えるかも知れません」

 男は小悪魔の棒読みの台詞を聞くと大喜びし、本来の目的であるはずのパチュリーへの挨拶もそこそこに散々小悪魔を口説いてデートの約束を取り付けてから意気揚々と帰って行った。

 嵐の様にやってきて去って行った男を見送り、小悪魔は終始我関せずと本を読んでいたパチュリーを振り返る。

 パチュリーはパタンと本を閉じ、手で床を指差した。小悪魔は素直にSEIZAする。

 パチュリーは怒ってこそいなかったが、呆れ返っていた。

「馬鹿じゃないの」

「はい、馬鹿です」

「それでも悪魔?」

「はい、小悪魔ですごめんなさい」

「あれぐらい私に言われなくても自分で考えなさい。惚れたって言われたら骨の髄まで貪り尽くすのが悪魔でしょう?」

「はい、おっしゃる通りです。ひよってました」

 つまり惚れた弱味に付け込んでパチュリーの研究資金を毟り取ろうという作戦である。

 悪辣と言ってはいけない。パチュリーは恋愛は惚れた方が負けという言葉を支持していた。あちらが貢いでくれるなら貰うだけ貰っておけばいいのだ。

 付き合っている内にもしかすれば億が一に天文学的な確率で小悪魔が男に惚れる可能性も無いとは言い切れないはずという希望的観測も見方によってはできる。

 そう、これは真っ当な恋愛なのだ。その過程でちょっとパチュリーの懐が潤うとしても、一応は恋愛だ。

 うふふふ、と不気味に笑うパチュリーを小悪魔はキラキラした尊敬のまなざしで見ていた。友達ゼロで人外の親友が一人いるだけの人付き合いの無い淋しい人なのに悪魔のような凄い交渉術だ、と小悪魔は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小悪魔の日常は急に忙しく慌ただしく楽しいものになった。

 男を誑かすという重要な任務があるため魔法薬の材料調達などの命令は一時中断され、大図書館の現状維持とパチュリーの世話以外の時間は謀略を練ったり身嗜みを整えたり男と出掛けたりに充てられる。

 毎日三通は届く男からの恋文に返信し、恋愛小説や恋愛の手引きを読んで恋愛のノウハウを学習する。週に一度か二度男と会い、思わせぶりな仕草と言葉で惹きつけしかし近付けさせず、一層夢中にさせる。男は面白い様に引っ掛かり、小悪魔の気を惹く為にあれやこれやとプレゼント(絶版の本など)を贈り、また小悪魔の頼みは何でも聞いた。

 あくまでも悪魔な小悪魔は従順な召使を手に入れた様で気分が良かった。当然恋愛感情など電子一個分も抱いていない。悪女である。

 涙ぐましく小悪魔に貢ぐ男のお陰でパチュリーの研究は格段に楽になった。外国から魔法薬の材料を取り寄せたり、錬金鍋を新調したり、資金があるとそれだけ研究も捗る。

 パチュリーは資金を気にせず研究に没頭できるようになるため幸せで、小悪魔は空いた時間は読書に使って良いと言われたため幸せで、分家の男も懐は寒くなったが心は熱くやはり幸せ。

 八方丸く納まっていたのだ。

 …………その日までは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある秋の日の夕暮れ。自室で男から贈られて来た流行の服をクローゼットに突っ込んでいた小悪魔は玄関のベルの音に顔を上げた。

 こんな時間にやってくる客に心当たりは無い。夕刊はとっていないし、男は招かれない限り訪ねて来ない(嫌われたくないから)。

 小悪魔は首を傾げながらも羽と魔力をしまい、司書服の襟を正して玄関へ向かった。

「はいこんばんはー。どちら様でしょう?」

「こんばんは。こんな時間に申し訳無い。私は教会の者です、美しいお嬢さん。当主殿はいらっしゃるかな?」

 ドアを開けるとそこに居たのは初老の男だった。

 黒い学生服の様な服を着て、上から白く薄いガウンを羽織り、ストールをかけてマントを身に着けている。白髪混じりの髪は丁寧に整えられ、皺のよった好好爺然とした柔和な顔立ちからは人の良さが現われている。

 そして極め付けはその全身に漂う神々しく忌々しい聖なる気配。

 小悪魔は首から下がった聖印を見て一瞬僅かに痙攣してしまったが、恐怖と嫌悪は何とか表に出さず隠しきり平静を装って対応した。

「いらっしゃいますが、何の御用でしょうか?」

「ふむ。話せば長くなるのですが……上がらせて貰っても?」

 良い訳無い、と思いながらも駄目ですとは言えなかった。何故駄目なのか聞かれたら答えようがないからだ。

 羽も魔力も隠しているので悪魔である事はバレていないはずだが、聖職者の対応は心臓に悪い。丁重に御引き取り願いたいのが本音だった。

 パチュリーから来客は知らされておらず、とするとまさか意味も無く説法をしに来た訳でも無いだろうから何かパチュリーに、ひいてはノーレッジ家に宗教上の用事があって来たに違いなく、追い返してもまた来るだろう。

 時間稼ぎの意味で一度追い払う手もあったが、嘘が下手な小悪魔は咄嗟の言い訳が思い浮かばなかった。

 あまり長い沈黙は怪しまれるだけ。小悪魔は上っ面に笑顔を浮かべ、内心毒づきながら中へ通すしかなかった。

 神父だと名乗った男を客間に通し、取り敢えず紅茶を出した小悪魔は急ぎパチュリーのもとへ向かった。大図書館の一角で本に埋もれて何やら羊皮紙に魔法陣を描いていたパチュリーは、小悪魔の知らせに眉を顰めた。

「神父が?」

「お知り合いですか?」

 半ばそうあって欲しいという小悪魔の問いをパチュリーは否定する。

「そんな訳無いでしょう。魔女と教会はあんまり仲良く無いのよ……とすると」

「……まさか異端審問官?」

 異端審問官。簡単に言えば神の敵をぶち殺す教会の駒である。メインターゲットは悪魔。次点で魔女。

近代になってからは異端審問官も有名無実なものに成り下がり、パチュリーは堂々と魔女であると名乗っても迫害は受けていなかった。あまり良い顔はされないが、攻撃もされない。ノーレッジ家と教会は相互不干渉が暗黙の了解だったはずだ。

 しかし今、ノーレッジ家には悪魔がいる。極力隠してきたつもりだが、勘付かれた可能性は高い。

「始末しますか?」

 小悪魔の問い掛けにパチュリーは首を横に振った。

「まずは用件を聞いて交渉ね。取引で済めばそれに越した事は無いわ。戦闘はあんまりしたくないから」

 パチュリーは詠唱が苦手で、戦闘向きの魔法使いではない。小悪魔も戦闘力は高くない。ぬるま湯に浸かった現代の異端審問官がどの程度の対悪魔技術を保っているか分からなかったが、パチュリー達が教会を敵に回して戦い抜けるかは怪しい。パチュリーは溜め息を吐き、重い腰を上げて客間へ向かった。

 客間では神父が何をするでもなく大人しくソファに腰掛けて待っていた。パチュリーが部屋に入ると立ち上がり、一礼する。礼儀正しい。

 厄介な相手だ、とパチュリーは内心舌打ちをした。買収は無理か。

 パチュリーが対面のソファに座ると、神父は折り目正しい時候の挨拶をしてから本題に入った。

「とある家の次期当主がですな、近頃人が変わった様に……まるで魅惑魔法でもかけられたかの様にこちらに住む使用人に熱を上げていると聞きまして」

「…………」

 やはりその件で来たのか、とパチュリーは心の中でそっと溜め息を吐いた。チャーム疑惑は誤解だが色香で惑わしているのは正しい。

 神父は探る様な目をパチュリーの斜め後ろで空の盆を持って控える小悪魔に向けた。小悪魔は静かに微笑を浮かべているが、内心物凄くテンパっている事は容易に想像がつく。

 ある程度調べがついているのだろうと予測したパチュリーは、恋愛商法まがいの手管は否定せず悪魔であるという一点だけを誤魔化す事にした。小悪魔の戸籍は偽造してあるのでそこからは簡単には証拠を持って来られないはず。

「真っ当な恋愛よ。教会が口を出すものじゃないわ」

「ふむ。世界に愛が増えるのならば私どもとしても喜ばしいのですが、もしそれが偽りの愛であれば……」

 神父はそこで言葉を切った。懐を探り一枚の古びた羊皮紙を出す。パチュリーは一目でそこに書かれた複雑な魔法陣が悪魔殺しの物である事を見破る。これは不味い。

 神父はあくまでも優しげに最早小刻みな震えを隠せていない小悪魔に言った。

「こちらに触れて頂けませんかな? お嬢さん。貴女の信仰が確かであれば害は何もありません」

 幻術。魅了。催眠。精神操作。一瞬で幾通りもの対応策がパチュリーの頭を流れていく。パチュリーはその内の一つ、精神干渉の魔法を唇を動かさずに唱えようとしたが、目敏く気付いた神父がサッと手を上げ、微笑みを向けてきた。

「神に誓って善良な者に害のあるものでは無いと宣言致しましょう。この通り」

 神父は自分の手を羊皮紙の上に置いた。当然何も起こらない。

 神父は変わらない微笑みでどうぞ、と小悪魔に促す。

 パチュリーがちらりと後ろを振り向くと小悪魔は顔を真っ青にさせていた。動揺からか僅かに魔力が漏れている。

 パチュリーは頭を抱えた。この程度の揺さぶりでボロを出すとは情けない。

 隠しもせず深々と息を吐いたパチュリーは、抱えていた本を開いて立ち上がった。

 宣告も無しに短い詠唱をし、神父に小岩ほどもある火球を飛ばす。しかし機敏に反応し聖印を握り締めた神父の前に光の膜が現われ吹き散らされた。

「……残念です。悪魔はもとより悪魔と契約を行った魔法使いも裁かねばなりません」

 神父は哀しそうに呟いて立ち上がった。胸の前で十字を切り、袖から短いワンドを取り出す。

 パチュリーは舌打ちした。痩せても枯れても異端審問官、一筋縄ではいかないらしい。威力の低い短詠唱魔法では倒せない。

 戦闘体勢に入り、にわかに客間に張り詰めた空気が満ちる。小悪魔が羽と魔力を出してパチュリーを庇う様に前に出た。しかしその足は小刻みに震えている。

「下がっていなさい、相性が悪いわ。弱点を攻めるのは基本よ」

「私も戦います!」

 意を決した小悪魔の台詞にパチュリーは呆気に取られた。神父は眉を少し上げ、興味深そうに小悪魔を見ている。

 とことん悪魔らしくない悪魔だった。普通の悪魔ならあわよくば契約者が死なないかな、と遠巻きに自分の安全を確保しつつ高見の見物を決め込むと言うのに。

 まあそこが小悪魔の美点であり未熟な点でもあるのだが。

「……顕世に染まり過ぎ。いつからそんな良い悪魔になったの? 三度は言わないわ、下がっていなさい」

 パチュリーは手を振って小悪魔を下がらせた。そして何もせず待っていた神父に向き直る。

「永遠の離別の覚悟は済みましたかな?」

「ええ。逝くのは貴方だけど」

 パチュリーの魔導書が七色に光を放った。瞬時に足元に詠唱補助の魔法陣が展開され、同時に呪文を紡ぐ。

「地に閉ざされし、内臓にたぎる火よ、人の罪を問え!」

「揺らぎ無き光よ、魔力の咆哮から我を守りたまえ!」

 パチュリーの正面から渦を巻いて襲いかかったドラゴンのごとき真紅の業火は神父の前に現われた半透明の壁にぶつかり、相殺して消滅する。余波と残り火で客間の家具が派手に吹き飛び火がついた。

 熱波をものともせず今度は神父がワンドをパチュリーに向け朗々と詠唱する。

「汚れ無き天空の光よ、血にまみれし不浄を照らし出せ!」

「無念の響き、嘆きの風を凍らせて、忘却の真実を語れ!」

 矢の様に放たれた純白の剣をパチュリーは巨大な氷塊で迎え撃つ。またもや二つの魔法はぶつかりあい消滅したが、今度はパチュリーが僅かに押された。砕け散った氷の礫に打たれ顔をしかめて数歩後退する。部屋についた火は氷の礫により消えた。

 パチュリーに戦闘理論はあっても戦闘経験は無い。それは魔法が廃れ仕事が減った異端審問官にも言える事だったが、実戦を意識した訓練を積んだ分の差は少しずつパチュリーを押していた。

 数度の魔法の応酬を経たパチュリーは頬を浅く切り、右腕をしたたかに打ち麻痺させた。状況はよろしくない。神父も数度土塊に打ち据えられていたが、なんらかの防御魔法を使っているらしく目立ったダメージは見られない。

 時刻は既に夕方から夜になり、半壊した部屋の天井からは月が覗いている。パチュリーの精霊魔法は夜の方が多少威力は上がるものの、恐らく対悪魔用に準備を整えて来たのだろう神父を打ち負かすほどではない。

 神父の魔法を殺し切れず壁に叩き付けられたパチュリーはさてどうするか、と考えながら痛む体を起こそうとした。

「パチュリー様」

 横から声がかかり、背中にかかる暖かい感触にパチュリーはうろんな目を向ける。涙目の小悪魔がパチュリーを抱き起こしていた。

「まだいたの?」

 神父の追撃魔法を防御しながらパチュリーは首を傾げた。小悪魔はいても盾にすらならない。パチュリーの精霊魔法だからまだ対抗できているのであり、貧弱な小悪魔が聖魔法に立ち向かうなど愚の骨頂。パチュリーが死ねば契約は解除され自由になるのだからとっくに逃げているものだと思っていた。

「私も戦えます」

「どうやって?」

 また神父の攻撃を防御しながらパチュリーは尋ねた。小悪魔はいつになく真剣な顔で答える。

「血で」

 パチュリーはその言葉でハッと気付いた。魔法使いの血液は悪魔召喚にも使われる立派な魔法触媒だ。特に悪魔は血との親和性が高く高い力を発揮できる。

 しかし一方で、契約者の血で強化された悪魔は一時的に契約の拘束力が弛んでしまう。古来より下準備も無しに血を渡し八つ裂きにされた魔法使いは多かった。

 パチュリーはじっと小悪魔の瞳を見つめた。小悪魔もじっとパチュリーの瞳を見つめる。

 小悪魔は妙な悪魔だった。無自覚な皮肉をもらし、しかし嘘が下手で、腰が低く、時々抜けていて。

 悪い悪魔ではない。そう思えた。

 悪魔を信用するという行為は魔法使いにとって最も避けるべきものの一つであり、その先には大概死よりも惨い結末が待っている。

 それでもパチュリーは小悪魔を信じてみようと思えた。どうせこのままではじわじわ殺されるだけなのだし、自分と同じ本を愛す者になら騙され裏切られたとしてもまだ諦めはつく。しかし裏切られないという確信はあった。小悪魔は馬鹿だから、ここでパチュリーを裏切るという選択肢を思い付いていないだろうし。

「いいわ。やりなさい」

「おまかせ下さい」

 小悪魔は赤い舌でこんな時でも妖艶にペロリとパチュリーの頬の傷を舐め上げた。

 血を口の中で転がし目を閉じる小悪魔。変化は急激にして一瞬だった。

 頭の羽は丸まって赤黒い角になり、小振りの背中の羽は身体を包み込みなお余る巨大な漆黒の翼となる。爆発的に増えた禍々しい魔力が小悪魔を中心に吹き荒れた。

 今、小悪魔は悪魔となった。

 悪魔は地面を抉り床を砕く強烈な踏み込みで神父へ接敵した。鋭く伸びた爪での薙払いは神父の腕を浅く切り裂く。

 驚愕に目を見開いた神父はしかし慌てず、聖印を握り締めた。それを見たパチュリーは壁にもたれかかったまま支援魔法を飛ばす。

「ひるがえりて来たれ、幾重にもその身を刻め!」

 魔法による強化を受けた悪魔は聖印から迸った浄化の光の鎖を飛びすさって回避した。

 悪魔はワンドを聖剣に変化させた神父と激しく切り結ぶ。驚異的な身体能力で必殺の爪を振るう悪魔と、洗練された剣捌きでそれを受け流す神父。

 強い。あれほど頼りなかった小悪魔が天敵を相手に互角に戦っている。

 パチュリーの視線の先で月光に照らされ踊る悪魔の真紅の髪は、この世のものとは思えないほどたまらなく美しく見えた。

 しかしぼうっと見てもいられない。今がチャンスなのだ。息を整えたパチュリーはタイミングを見計らい魔法を飛ばす。

「命ささえる大地よ、我を庇護したまえ。止めおけ!」

 地面から伸びた土の手が神父の足をがっしりと拘束した。

 それに合わせて強烈な一撃を放った悪魔はガードされた事に舌打ちし、数歩素早く後退して詠唱する。

「命に飢えた死神達よ、汝らにその者の身を委ねん!」

 闇より暗い漆黒の大鎌が虚空から神父の真後ろに現われた。即死魔法である。

 ぴたりと首に刃を当てられた神父は冷や汗を流し、息を飲んだ。

「せ、静寂に消えた無尽の言葉の骸達、闇を返す光となれ!」

 おどろおどろしいオーラの鎌が引かれる寸前、つっかえながらも神父は呪文を唱えた。大鎌は間一髪で跳ね返され、虚空に戻って消える。

 はぁはぁと荒い息を吐く神父に忌々しげに悪魔が飛び掛かるが、これも剣で防御した。

「風に潜む古の力秘めたる精霊達よ、魔に汚れし空を払え」

 呪文を唱え、足の拘束をボロボロに崩し解除した神父は再び悪魔と刃を交える。

 今ので仕留められなかったのは痛い。乱れ飛ぶ剣閃を観察するパチュリーは目を細めた。

 小悪魔の血の強化もいつまでもは続かない。神父の力も無限では無いだろうが、どちらが押しているとも言えない現状で時間は味方ではない。

 パチュリーは大魔法で早々に決着をつけてしまう事にした。大量に魔力を消費し狙いもつけにくい魔法であるが、念話を送って引かせれば巻込む事も無いだろう。

(合図を出したら下がりなさい)

(了解しました)

 パチュリーは展開している補助魔法陣の数を倍に増やした。それに気付いた神父が攻撃しようとして来るが、悪魔がそれを邪魔して足止めをする。

 パチュリーは全神経を集中し、詠唱した。

「滅びゆく肉体に暗黒神の名を刻め、始原の炎よみがえ――――ぅ、げほっ!」

「パチュリー様っ!?」

 よりにもよってこんな時に!

 パチュリーは喘息持ちの我が身を呪う。詠唱は中断され、魔力は霧散霧消。

 絶好のチャンスはふいになってしまった。

 パチュリーを慮り意識を逸した悪魔が剣撃をまともに受けて吹き飛ばされた。数回地面をバウンドしてパチュリーの横に転がってきた悪魔はフッと力を失い小悪魔に戻る。時間切れだった。

「小悪魔?」

「……………」

 声をかけたが返事は無い。気絶していた。

 パチュリーは唇を噛んだ。もう少しの所だったのに、一瞬で劣勢。魔力は尽き小悪魔は意識が無く、補助魔法陣は消え七色の眩しい光を放っていた魔導書は蝋燭ほどの弱々しい光を灯すのみ。

 パチュリーは生き汚い方では無い。しかし潔く死を受け入れる事も無い。

 瓦礫を踏み、ザッ、ザッ、と一歩一歩歩いてくる神父を睨みながらも冷静に逆転の策を考え続ける。可能性がある内はそれに懸ける。

 身体を売れば命は助かるだろうか。いや異端審問官相手にそれは不可能だ。逃亡……も無理。引き籠もりなパチュリーは魔法無しで百メートルも走れない。交渉は始めから決裂している。

 神父がパチュリーの目の前でぴたりと足を止めた。

 断罪者の顔を見上げたパチュリーは、優しげな表情でもその目が全く笑っていない事に気付く。虫けらを見る様な、道端の糞を見る様な、そんな冷たい目だった。

 何をしても無駄だと悟ったパチュリーは絶望する。

 神父はパチュリーを見下し、勝ち誇って言った。

「いくら足掻こうと貴殿らはここで神の身許へ召される運命なのですよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ならばその運命、私が変えてみせよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突如涼やかな声と共に飛来した紅い槍が神父とパチュリーの間の床を深々と抉って突き刺さった。

 神父とパチュリーは驚愕して文字通りの横槍が飛んできた方を振り向く。そこにいたのは年端もいかない一人の少女だった。

 紅い月を背後に背負い、青みがかった癖の無い銀髪は夜風にさらりと流れる。仕立ての良いドレススカートから覗く足は白く美しく、貴族令嬢の様な気品ある整った顔立ちと相俟って息を飲む様な美しさを醸し出していた。

 そして特筆すべきは背に生えた黒い羽。大きさは小悪魔のものと大差無かったが、存在感がまるで違う。

 彼女の名はレミリア・スカーレット。魔力甚大な夜の王、吸血鬼である。そしてパチュリーの親友でもあった。

 レミリアは優雅な足取りでパチュリーに歩み寄る。王たるものの堂々たる姿と溢れ出るカリスマに打たれ、神父ができるのは目で追う事だけだった。

 たかが異端審問官一人で勝てる相手では到底ない。神父はレミリアが目の前を通り過ぎてからようやく絞り出す様にかすれた声を発した。

「なぜ吸血鬼が――――」

「黙って下がっていろ、下郎。それとも死にたいか?」

 言い掛けた神父をレミリアは凍える様な冷たい目で睨んだ。ひ、と息を漏らした神父は口をぱくぱくと動かし喋れなくなる。

 レミリアが言葉と共に叩きつけた魔力は神父を畏縮させ、更にその圧力に耐え切れなかった聖印とワンドにヒビを入れた。

 神父は絶句し、動かなく――――いや、動けなくなる。

 神父に目もくれないレミリアはパチュリーの手を取り助け起こした。ローブの埃を払うパチュリーに親しげに声をかける。

「派手にやられたわね、パチェ」

「そうね、危なかったわ。有り難う。ところでどうして私が襲われてるのが分かったの?」

「おや、私の能力を忘れて無い?」

 レミリアは肩を竦めその仕草も絵になる。

 レミリアの能力は「運命を操る程度の能力」。全ての運命が自由自在とまではいかないが、運命を視てその流れを変えるぐらいはできる。

 なるほど、と納得したパチュリーに微笑み、レミリアは気絶している小悪魔に目を移し呟く。

「良い使い魔を持ったわね」

「……否定はしないわ」

「うーん、私もそろそろ従者を増やすべきかしら? まともなのが門番一人なのは問題よね」

「レミィぐらいの力があればよりどりみどりでしょう」

「手頃なのがいないのよ……さて」

 言葉を切ったレミリアは神父に向き直った。

 パチュリーに向けていたものとは違う、どこまでも冷徹な絶対者の目を向ける。神父は自分より背丈が低い少女であるにも関わらず見下ろされている錯覚に陥った。がくがくと抑え様も無く足が震え、体の自由が利かない。

 異端審問官としてのなけなしの矜持で辛うじて意識を保っている状態だ。

 レミリアはそんな神父を鼻で嗤い、手に真紅の槍を出現させて静かに言った。

「私の親友を殺しかけたその罪、万死に値する。死ぬがよい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一夜にして崩れ去ったノーレッジ家はしばらく街の話題の中心となったが、二月も経つと噂も自然に消えた。

 やがて瓦礫が撤去された土地はノーレッジ家の分家のものになったが、地下にあるはずの大図書館の痕跡が無くなっている事に首を傾げていた。

 屋敷に異変が起きた日の夕方に玄関をノックする神父の姿が目撃されていたが、教会は関与を否定している。ノーレッジ家倒壊の数日後に自宅で惨殺された教会の幹部と何か関係があるのではと囁かれたが、真相は闇の中である。

 なお、事件の数日後に某所にある吸血鬼の館に住人が増えたらしいという噂が立ったが、こちらも真偽のほどは数十年後に館が忽然と姿を消す最後の日になっても分からなかった。

 




 昔にじファンに投稿していた作品の転載。一年ほど前に投稿待機にしたまま投稿していなかった事に気付いて今更投稿(´・ω・)


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