その日起きた出来事をハルヒロはよく覚えている。というか、そうそう忘れることが出来ないほどそれらは衝撃的だった。
自分のことは大方忘れまくってるのに、可笑しな話だけど。
ハルヒロが、ハルヒロ達十三人がこの“
オルタナ辺境軍義勇兵団レッドムーン事務所。
白地に赤い三日月を描いた旗を掲げる石造りの建物。その壁に打ち付けられた看板には、ろくに読めない掠れた文字でそう書かれていたらしい。
扉を開けて中に入ると、板張りのフロアにテーブルと椅子が何脚かあって、奥にカウンターが据え付けてある。マナトはバーみたいな内装だって言っていた。一瞬ぴんと来なかったけど、なるほど確かに
そんな一室で、
「ごぁっ……!?」
「立て。お望み通り、どっちが強いかきっちり教えてやる」
ゴス、ゴス、ゴス。文字にすれば丁度そんな音。くぐもっていて、鈍い響き。砂の詰まった袋を棒で叩けば似たような音を出せるだろう。
けれど今、その音を発してるのは人の身体だった。
叩いて、殴っている。丹念に、丁寧に、間断なく丸刈りの男が、容赦なくギャングみたいな男に叩きのめされている。
意味が解らなかった。
いや、理由は今ギャングみたいな男――レンジが口にした通りなのだろう。丸刈りの男がレンジの強さを推し量ろうとした(らしい)。レンジはそれに感付いて、直接教えに掛かった。それだけのこと。
うん。意味が解らなかった。
散々に殴って蹴られ、止めに頭突きを食らわされ、丸刈りの男はその場に膝を着いた。
「名前は」
「ぐ、はぁっ、ば、はあ、ぶ、ロン゛、だ、ぁ……!」
「ロン、だな? 少しやり過ぎたか」
少し?
その瞬間、その場にいた誰もが内心同じように思った筈だ。
丸刈り男、ロンはぼろぼろだ。目蓋は腫れ上がり鼻からは血が滴り唇も裂け割れている。思わず目を背けたくなる有様だった。服の下の方も果たしてどうなっているか。
少し、なんてもんじゃない。怪我のない箇所が
レンジは特に悪びれた様子もなくそんなロンを見下ろした。
「悪いな、ロン。今はどうも加減が利かねぇようだ」
「あぁ?」
「イライラしてる。心底な」
片手でその銀髪を掻き上げる。ロンとはまったく対照的にレンジには疲れた様子なんてこれっぽっちもない。
足取りも確かに、レンジはカウンターの方へ踵を返す。
カウンターの向こうには人が一人立っている。
目の覚めるような真緑色の髪。胸元がばっさりと割れた黒いインナー、ついでに顎も割れている。唇は黒く塗られ頬紅も分厚い。どこからどう見ても、派手な化粧をした“男”がそこに立っている。
彼の名前はブリちゃんことブリトニー。このオルタナ辺境軍義勇兵団レッドムーン事務所の所長でありホスト、らしい。
レンジは、カウンターテーブルに突き刺さったナイフを引き抜いた。ナイフの刃は赤く濡れている。それは血だ。誰あろうレンジ本人の血。ブリちゃんの脅しを文字通り
「ちょっとちょっと、
「借りるだけだ。五分で返す」
そもそもブリちゃんの了承なんて求めてすらいない。
レンジはナイフを持って、ハルヒロ達の方へ振り返った。血塗れのナイフを持ったレンジという絵面はこの上なく物騒だ。ハルヒロだけでなく、何人かは確実にその場を一歩後ずさった。
レンジは歩き出す。その足取りはさっき以上に軽い。
軽く、散歩でもするみたいに、すたすたと。
ハルヒロの横を素通りして、立ち上がれないロンも行き過ぎて、その後ろにいた小さい女の子を手で退かせた。いや、部屋の隅に移動させた?
女の子が退いた先には、一人。背の高い男がいる。黒髪の、くすんだ“色”を放つ男。ハルヒロは首を傾げた。今の今までずっと存在に気付かなかった。あんなやついたっけ?
窓際に腰を預けたままじっと動かないその男に、レンジはすたすたと歩み寄って――ナイフを振った。
「あ!?」
知らず声が出ていた。
レンジは歩きながら右手に持ったナイフを左に大きく振り被っていたのだ。その動作があまりにも自然で、誰も反応しなかった。できなかった。
ブリちゃんがやって見せたのと同じ。レンジはこの場にいる十一人の虚を突いた。
ナイフが鈍い光を反射する。ランプの灯り、何より血の赤がその生々しい痛みをハルヒロに連想させた。金属音が耳を
いっそ目を背けていればよかったと、後悔する間もありはしない。
男は、ナイフで斬られ、――斬られて、いない。
「へ」
斬られていない。男はレンジのナイフを
耳を貫いた金属音。その発生源。刃と刃が交差している。
「やっぱり持っていやがったか……!?」
「……」
ハスキーなレンジの声。ハルヒロには何故かそれが弾んでいるように聞こえた。まるで『期待通りだ』とでも言うように。
男が短剣を持っていることをレンジは知っていたのか。知っていたからこそ迷いなくナイフで斬り付けた。
いやそもそもなんでだよ。大前提として、目覚めた時点からハルヒロ達は持ち物らしいものを何一つ持っていなかった筈だ。財布も“けーたい”というやつも。別に確かめ合った訳でもないので、一人だけ隠し持っていたと言うのならそれまでだが。
「随分とスリが得意らしいな。コソ泥野郎」
「
血濡れのナイフを流し見て、男は嗤う。
それに応えるようにレンジはぐい、とナイフを押し込んだ。ナイフと短剣の刃が鳴り響く。ぎゃりぎゃりなんて音がハルヒロの頭の裏を引っ掻いた。
刃が刃を削り合い、食い合っていく。
けれど、男はびくともしない。逆手に持った短剣越しに、ハルヒロは男の笑みを見た。ぞっとするほどにそれは、凶暴。ほんの少しの怯み竦みもありはしない。
「腑抜け面がちったぁマシになってきたな……だが」
「……」
レンジは言いながらナイフを振り切る。ナイフと短剣、金属の滑る音。そうして自分からも一歩跳び退いた。二歩目で、部屋の反対側の隅まで移動してしまった。
「ちょっ」
「のわぁあ!? こっち来んじゃねぇ!?」
レンジは切先を、男は右逆手の短剣を向け合い、睨み合う。近くに居た他のやつは慌てて二人から距離を取った。
空気がチリチリと焦げ付いてるみたいだ。一触即発。対峙する二人の“間”。たった数秒の無言さえ耐え難い。この場に居ることをハルヒロは大いに悔やんだ。事が始まった瞬間逃げ出していればよかったのだ。そんな決断、下す暇もなかったけれど。
時間の止まった空間で最初に動き出したのは、レンジ。
「っ」
今度は一歩で男との間合を詰めてしまった。
短く、細い。気息を吐く音。レンジはナイフを左から右へ振る。けれどそれは先の焼き直し。対する男に届くとは思えない。
ほら、やっぱり空振り。
空振りして、そのまま、レンジが
腰を捻り込むみたいに時計回りに回転して、背中を向けた状態から蹴りを放ったのだ。後ろ回し蹴り。
男は半身になってレンジの蹴り脚をやり過ごした。レンジの脚が物凄い音を立てて壁に突き刺さる。石壁に
避けながら距離を取った男をレンジが追い掛ける。ナイフの先が天井を指す。
ガキン、刃がぶつかる金属音。一度や二度じゃない。何度も、何度も何度も。レンジはナイフで男に猛攻を仕掛ける。
乱暴に、乱雑に、滅多矢鱈に、でも恐ろしい速さで。
もし今、何かの間違いでレンジの前に立ったらハルヒロはミンチになっていただろう。冗談でもなんでもなくそう思う。
そう、そんな破砕機のようなレンジの攻撃。
男はそれを、全部短剣で受け切っている。
火花が散った。床や壁に時折何かが突き刺さる。これは、鉄の破片? 二人の攻防に耐え切れずに欠けた刃が飛んでいる。
レンジの身体が深く沈んだ。引き絞った弓のような挙動。
対する男も腰を据えて、踵を床に付けた。正面から、待ち受ける姿勢。
「らあっ!!」
「げあ!!」
裂帛。震撼。
空間ごと吹き飛ばすような気合が二つ、爆発した。その爆発は真実時間さえ吹っ飛ばしたらしく、ハルヒロにはその光景がスローモーションのように見えた。
突撃してレンジはナイフを叩き付ける。全身が
男は短剣で斬り付ける。逆手持ちはそのまま。腰の捻りを使って、拳を打ち出すように短剣が奔る。斬る。レンジを――――じゃ、ない。
短剣の軌道。その先にあるのは、レンジの身体じゃない。ナイフ。ナイフの刀身。
「!?」
キン。甲高く室内を木霊する。その音はいっそ涼しげだった。
空中を回転しながら、ランプに照らされて銀色を反射する、ナイフの刀身。
斬ったんだ。短剣で、男はナイフを。
時間が元の早さを取り戻す。切先を失って柄だけになったナイフをレンジは即座に捨てた。
驚いた様子はあった。そこからの復帰が早過ぎる。ハルヒロ達など、その光景の衝撃から未だに帰ってきていない。甚だぼんやりとした心地で、見るともなしに二人を見ている。
レンジは丸腰。けれど躊躇しなかった。突撃の勢いそのままに飛び込む。男の懐へ。
男とて黙って待っている筈がない。短剣を振り切った状態から元の軌道をなぞる。刺突。剣先がレンジを狙う。
レンジは男の手首を取った。短剣を握る手。無理矢理に腕を退け、殴り掛かる。
顔面目掛けて打ち出された拳は、男の掌が受け止めた。
「はっ……!」
「呵呵」
獰猛に笑うレンジ。禍々しく笑う男。
二人は同時に上体を仰け反らせた。まるで示し合わせたかのように二人の挙動が重なる。
反動を付けて。
そこからどうなるのか、ハルヒロには分かった。
勢いは最大に。
分かりたくはなかったけど、分かってしまった。
ぶん、と頭で風を突き破る。そんなイメージ。目を瞑ろうか迷って、耳を塞ごうと手を上げかけた時にはもう遅い。
頭突きだ。それも加減なし。全力で額と額がぶつかり合った。ゴン、とかゴス、なんてもんじゃない。全身が総毛立つ。そんな凄まじい音。ロンに食らわせた頭突きなんて可愛いものだ。脳味噌がどうにかなるレベルだろ。馬鹿なのこいつら。馬鹿だろこいつら。
ぶつけ合った額を離すことなく、二人は互いを押し退け合う。力と力が拮抗して、小刻みに足腰が震えている。
「――――」
レンジが何か言った、ような気がする。極限に接近した男に向けて。
ハルヒロには、というか他の誰にも聞き取ることはできなかったろう。
レンジと男は互いに跳び退った。間合を空け、また構え直す。ダメージなんて無いと言わんばかり。二人の戦意に少しの衰えもありはしなかった。
短剣を構える男に対して、レンジは丸腰だ。まさかこのまま戦うつもりなのか。
レンジは部屋の隅に移動した。視線は決して男から逸らさない。そして、いつの間にやら転がっていた椅子を手に取る。木製の中々に造りのしっかりした椅子。それをひどく軽々しい所作で二度、振り回す。一瞬お粗末にも思えたが、レンジが握ればそれは立派な鈍器だった。
互いに互いを見計らっている。間を、隙を。そんな静止。
次の瞬間、二人は同時に踏み出した。始まりはやはり唐突だった。
そうか。
この二人の動き出しは必ず人間の“虚”を捉える。だから反応できない。タイミングを掴めない。
今度も皆、この両者を見ていることしかできない――――二人の間に影が割り込んだ。
影にしか見えない速さで、ブリちゃんが現れた。
一瞬過ぎて何をしたのか今度こそハルヒロには分からなかった。ただ、射られた矢みたいな勢いの二人が、今はぴたりと動きを止めていた。
ブリちゃんは右手にナイフを、左手に細い剣を持っている。ナイフはレンジの首筋に、最初の時は添える程度だったが、今度はぴたりと触れさせて。少しでも力加減を間違えれば斬れる。そんなぎりぎり。
左手の剣は、黒髪の男の肩に乗せられている。黒い上着越しでも、滑らせれば簡単にすっぱりと斬れてしまうだろう。
「はぁい、五分経ったわよ。ここから先は延長料頂こうかしら」
「後にしろ」
「そうもいかないわよ。事務所で暴れられるのも困るけど、人同士の刃傷沙汰はもっと面倒なの」
ブリちゃんの言うことなんて知ったことかと、レンジは黒い男に向けて椅子を振り上げたままだ。ナイフを首に当てられてるのに……違う。レンジはブリちゃんの手首を
それでもレンジが動きを止めているのは、自分の胸元を短剣の先端が指しているからだ。
「そっちのあんたも。
「……」
ブリちゃんの視線がちらと下を向いた。
思わずそれを追いかけて見る。そして、ハルヒロは目を見開いた。
ブリちゃんの腹の辺りにナイフの刃が添えられていた。刃だけが。
おそらくそれは、先程刀身だけになったレンジの、ブリちゃんのナイフだろう。それを何故か黒い男が持っている。器用に指の間に挟み込み、切先をブリちゃんに差し向けているのだ。
いつ、どのタイミングだよ。あの一瞬で。そういえば刀身が床に落ちる音はしなかった。
じゃあ、あいつはナイフを斬った後、落ちてきたそれをキャッチして隠し持ってたってことか。
ハルヒロの背筋に悪寒が走る。ハルヒロは恐怖していた。目の前の光景に、その男に。
それは“三つ巴”というやつだった。けれど、“三竦み”ではなかった。
「これ以上ヤリたいってんなら、今度はアタシも混ぜてもらうわよ。見習い前の素人だなんて思ってあげないからそこんとこヨロシク」
「上等だ」
「……」
レンジは啖呵を、男は笑みを刻んで応えた。
こんなのがまだ続く。ハルヒロは軽い絶望を覚えた。息も吐かせない。心臓は早鐘を打ちまくってる。戦い――殺し合い。
誰もがそんな悪夢を想像した。火蓋が切られる。すぐだ。もうすぐ。次の瞬間にも。
「こらー!! なにをやっていやがりますですかー!?」
そんな張り詰めた空気の室内に、場違いな、なんとも場違いな甲高い声が鳴り響いた。
全員が事務所の入り口に視線を向けた。そこにいる人物は皆知っている。というかさっきまで会っていた。ハルヒロ達が目覚めた塔から兵団事務所までの道案内をしてくれた女。ツインテールでクソ喧しいひよむーさんその人だ。
「まったくもー、なにやら騒がしいので様子を見に戻ってみたらブリちゃん! ウホッイイ男、に挟まれてなにハッスルしてやがりますか!」
「あぁらら……アタシとしたことが。ごめんなさぁい、二人の絡みが情熱的だもんでつい興奮しちゃったわぁん」
「もーダメですよー! これお仕事! お仕事withサラリー! きりきり働かないとお
ブリちゃんはあっさり剣とナイフを鞘に収めた。弛緩した空気が流れる。空気を台無しにすることに掛けてひよむーの右に出る者は多分いないと思う。
レンジも男も、戦う意思はもうないらしい。二人ともすっかり白けていた。
ひよむーはぷくっと頬を膨らませる。
「頼みますよぉ、ブリちゃん」
「はいよ。ちゃぁんと請け負った」
ぷんすこと口で言いながら、ひよむーは今度こそ事務所を後にした。
ブリちゃんはナイフを腰に、剣をカウンターの下に仕舞うと溜息を吐いた。
「まぁったく今回は問題児が二人もいるのね。参っちゃうわ。さ! これで説明は終わりよ、仔猫ちゃん達。見習い章と十シルバー、受け取るなら早くしてちょうだい」
レンジはブリちゃんが言い終わる前に見習い章と革袋を掴んでいた。ロンがそれに続く。傷がまだ痛むのか足取りは重たげだった。アダチ、小さい女の子、恐々とランタ、マナトと続々カウンターから見習い章を取っていき、最後を嫌ってハルヒロもそそくさと向かう。
「おい」
向かおうとして、足が止まった。レンジだ。そのハスキーな、ひどくドスの利いた声が背後で響けばハルヒロでなくとも硬直してしまうだろう。
レンジは黒い男を睨んでいた。真正面から、射抜くように。
「名前を言え。それとも、『腑抜け』の方が気に入ったか」
「あぁ……」
レンジの挑発に、けれど男の反応は緩慢で。
僅かに目を伏せて、逡巡している。それはまるで何かを思い出そうする仕草だ。ハルヒロ達が先程やっていたのと同じ。
「ハバキ……ハバキだ」
黒い男――ハバキは今、自分の名前を思い出したらしい。それってつまり、今の今までずっと、思い出そうとさえしなかったってことか。ハルヒロには地味に衝撃だった。
「ハバキだな。その面、その名前、覚えたぞ」
「そうかい」
「次までにその腑抜けた態度をどうにかして来い」
レンジは言いつつ、座り込んでいるロンに肩を貸していた。かなり意外だ。ロンも驚いてる。アダチと小さい娘、それにレンジに取り入ったサッサも
残された面々は思わず大きな息を吐く。この場の緊張感を司っていた一人がようやく居なくなったからだ。
「はいはい、安心したのは分かるけどさっさと動く!」
「おわっと」
ブリちゃんにせっつかれて、急いで見習い章と革袋を掴み取った。女の子二人と大柄な男(モグゾーだっけ?)もハルヒロに続いた。見習い章は、鉄の小さな板切れを革の枠に嵌めてチェーンを通してある。言ってはなんだけど、えらく
「レンジったら、結局アタシのナイフ駄目にしちゃってるじゃないのよ……酷いと思わない? ハバキ」
ぶつくさとブリちゃんは言った。そして物凄く馴れ馴れしい声音でハバキの名前を呼ぶ。
ハルヒロは気が気でならなかった。またレンジの時のような修羅場が始まるとも限らないのだ。
ハバキを窺う。特に怒った様子はない。ハバキはブリちゃんを見返した。
「十シルバーでナイフは買えねぇのか」
「うん? 買えなくはないけど安物になるわね。あんたがぶった斬ったやつ、一応アタシが目利きした上物よぉ。かなり値切ったけど五十シルバーだったわ。少なくとも、アンタが振り回してた短剣よりはずぅっとお高い……その筈なんだけどねぇ」
ぶった斬られた方が武器としては上質だった。それはなんだか矛盾した話に思える。
ハバキはそれだけ聞くと踵を返した。
「袋の中身は前金だ。その内全額返しに来る」
「は?」
ブリちゃんが頓狂な声を上げる。何か言う間もなく、ハバキは既に事務所の扉を潜っていた。
ばたんと扉は無慈悲に閉じる。見習い章と革袋。カウンターには、ぽつんと一組だけそれらが残された。
「あんらやだわ、アタシお金貰っちゃった! ん~十シルバーね~、何買っちゃおうかしら。なんか美味しいもの食べに行くのもいいわねぇ――って馬鹿! アタシが受け取ってどうすんの! 事務所の予算よこれ!? 横領になっちゃうでしょ!? 御用だわ御用!」
「オォッ! 余ってるんならこの僕ちゃんが全力でユーコー活用しちゃうじぇじぇじぇ! あたっ」
「コラァ! あんたはもうホント隙あらばまったくもう!」
チャラ男キッカワの手を叩き落として、ブリちゃんは眉間を押さえた。
「あぁもぅ、ホンっトに問題児じゃないの。今回強さだけは豊作だと思ったのに……」
「あの……所長」
悩ましげに腰を振るブリちゃんの前に、おずおずとマナトが進み出た。自己紹介の時からはきはきと喋っていたマナトとは思えない控えめな態度だった。それは単にブリちゃんの動きが恐いから、という理由だけではないらしく。
「それ、俺がハバキに届けてもいいでしょうか」
「んー? あんたが?」
「はい。やっぱり、駄目でしょうか……」
ブリちゃんは暫くの間マナトの目をじっと見詰めていた。といっても十秒程度のことだけれど。ブリちゃんに正面から見詰められるというのは、あまり生きた心地がしない。
ブリちゃんは小さく息を吐いた。
「ま、いいでしょ。ちゃんと届けてあげな。ネコババしちゃダメよ?」
「はい、ありがとうございます!」
不安げな顔から一変、マナトは笑顔を浮かべた。
見習い章と革袋を手に、マナトは事務所の扉を開く。なんとなく、ハルヒロはそれを呼び止めた。
「? どうかした?」
「や、一人で、大丈夫かなって」
なんとも空々しい言い訳だった。正直ハバキのことを心配する気持ちがあった訳じゃないし、かといってマナトを心配して出た言葉かと聞かれると純粋さに欠ける気がする。実際は、ここに取り残されるのが不安だっただけだ。この中で一番主体性みたいなものがあるのはマナト一人だけだろうから。
マナトは首を振った。控えめな拒絶に、少し落ち込む。
「ありがとう。でも大丈夫。これを届けるだけだから」
「そっか……」
「それじゃあ、また後で」
ゆっくりと閉まる扉をハルヒロは見ていた。
その後キッカワが早々に出て行って、ブリちゃんに追い出されるまで、ハルヒロ他四人は事務所でただ呆然と突っ立っているしかなかった。
石畳を歩く度、硬質な音色が辺りに響く。
人の姿は見受けられない。今の時刻を己は知らない。少なくとも夜半はとうに過ぎた頃合だろう。空気の湿り、ひやりと肌を滑る風、人の気配の乗らぬ澄んだ大気。大通りから路地に一本入り込めば、実に寂れた暗がりが己を待ち受けていた。
それでも、遠く賑わいはここまで聞こえてくる。酒精に酔った乱痴気、店先で声を張る商売人、脂と香辛料と吐瀉物の臭気。実に
歩く。暗く、霞のように蔓延する薄闇を。
一歩踏み出す度、疑念が頭蓋の内に満ちる。一歩踏み出す度、手繰った記憶が薄れて消える。一歩踏み出す度、一つの問いが木霊を返す。
「己は誰だ」
歩みが止まる。
石造りの家の一つ、硝子窓の嵌った灰色の壁。室内に灯りはない。人の気配も覚えない。室内の明度を外界のそれが上回り、硝子は鏡面化し相対した物体の像を映し出す。そこには
「……お前は、誰だ」
ガキが問いを投げ掛けてくる。黒髪、少々癖がある。上背がある割に一見細身に思えた。しかし先程の身体稼動を鑑みるに、筋肉の付き方はそう悪くない。
顔立ちは然程特徴があるとも、ないとも言えない。眉は太く、鼻筋は通っている。年齢を推し量るに十代、多く見積もっても二十歳を越えない。
ガキ。
己はこれをガキだと感じる。だがそこに若々しさや活力などという言葉はなく、何れも奈落の底に落としてきてしまったかのようだ。
硝子に映った目は、それ以上に硝子細工めいていた。純度が低く、粗末な、硝子玉のような目。光のない、死んだ目。これは死人の目だ。
「何故、生きている」
疑念。疑念。疑念。
猜疑に歪んだ暗い瞳が己の生存を承服しない。今ここに立ち、息を吸い、鼓動を刻む者は何だ。これは何だ。
厳然として今尚生きている自身を疑う。ならば、己は死んだのか。本当は、目覚める以前に生命を終え、相応しい末路を辿った。そこは地獄だろうか、虚無であろうか。少なくとも浄土を踏めるなどとは微塵も考えない辺り、中々業が深いらしい。
ともかく、相応の死を迎え、なんとも理解し難い現象により再び己はこの地に生を受けたのだと。まったく見知らぬ赤の他人として。そのように仮定すればこの烈しい疑念の火も満足して消えるだろうか。
そのような虫の良い期待は往々にして裏切られることを知っている。経験則というより、勘働きの次元で。
何故、などと。まるで理由を問うているかのような体裁だ。
違う。まるで違う。
生きていることを疑っているのではない。己は。
己が生きている事実が許せないのだ。
それは何、故に。疑問があるとすればその一点に尽きる。今更、何故生かされている。
駄々を捏ねるガキのように浮かぶ言葉、何故だ、何故、何故だ、何故己は。思考は一箇所で堂々巡りを繰り返し、それはもはや停滞と相違ない。
「……なるほど」
これでは、あのレンジとかいう男の言葉もまったく肯ける。
互いの腕を捕り頭突きをぶつけ合い、一瞬膂力さえ拮抗したあの時。
『ああ、お前は強いらしい。あのオカマ野郎よりも――俺よりも。だが、その目、その腐った目は何だ……!?』
腐っている。その表現は実に的を射ている。血流の停止した身体組織が程なく壊死していくこととまったく同様に。思考を止め、生きるという当然の行為すら怠った人間が腐らぬ訳がない。
目覚めてから数時間経つ。己は未だ、生きる意志というものを持たなかった。
『イライラさせるんじゃねぇ……!』
「無理もない」
腹を立てない方がどうかしていた。生死の係った局面で、一人半端者が紛れ込んでいたのだ。目障りを通り越してそれはもはや害悪だ。
それにしても、レンジの観察眼には舌を巻く他ない。最初にロン、次にアダチ、最後に小さな子供。あの男はあの場における最良の人選を理解していた。
しかし、もっとも驚くべきはその人間の性向を読み取った上で行った“パフォーマンス”の方だろう。あれで他の十人の反応を確かめた。鉄火場に相対した時その人間は使えるのか、使えないのかを。そうして
果たして己とのあの“喧嘩”も、どこまで本気なのか。
「……そうか」
喧嘩。
あの男は、己との喧嘩を望んでいたのか。道連れの選別は“パフォーマンス”で済んでいる。己の性向を読んだというならロンのような勧誘方法は執るまい。だというのに、さらに武器を持ち出してまでこちらを攻撃したのは、こちらとスタイルを合わせる為か。
塔の衛兵から剣をスリ盗った瞬間をレンジは見ていたのだろう。でなければわざわざ武器を隠し持った人間を選び、襲い掛かるような輩とも考えられない。
「なんとも、物好きな男だ……」
ここまでの想像が全て的外れの妄想である可能性は否めない。だが、レンジという人間の性質を推し量るに。
――あの男は、選んだ喧嘩相手が真剣でないことに苛立っていたのだ。
「……」
その結論は少なからず己を辟易とさせた。なるほど、レンジ。お前も十分にガキだ。
そして、それを愉しげに笑う己もまたガキだ。
ガキに、戻っちまった。
不意に足を止める。背後からの足音。徐々に近付いてくる。
「ハバキ!」
振り返る前に声が掛かった。声色には聞き覚えがある。
マナト。確かそう名乗っていた。
マナトは息を切らせてこちらに駆け寄ってくる。目の前まで辿り着くと、暫し膝に手を付いて荒い呼吸を繰り返した。
「はっ、はぁ、ごめ、ん、ちょっと、まっ、て、はぁっ」
「……ああ」
程なく息を整え、マナトがこちらに向き直る。ポケットから何かを取り出した。一瞬
見習い章と十シルバーの入った革袋だった。
「これ、届けに来たんだ」
「わざわざ追い掛けてか」
「ははは、うん、そう。わざわざ、だね」
照れ臭そうにマナトは自分の頭を掻いた。
「よく己の居所が分かったな」
「路地に入るところが見えたからね。そうじゃなきゃ追い付けなかったと思う」
「誰も頼んじゃいない」
「そう、だね……でも、これが無きゃここで生きていくのは難しいよ」
神妙にマナトは言った。特に反論もない。身の証も立たない己らが稼ぎを得て、延いては生きて行く為に、これらは必要だ。
それを放置してどこぞへ消えた己はさぞ愚かに思えただろう。
ブリトニーがマナトを使ってこれを届けさせたのか。可能性はある。しかし、あの男は他者に選択を迫ったとしても強制はしない。そんな印象を受けたが。
マナトが自分の意思でこれを届けに来た、ということか。
「あのさ、ハバキ」
その目的は、自ずと理解できる。
「その、よかったらなんだけど、俺達と………………いや、なんでもない」
不自然な沈黙を挟み、ようやくマナトはそう締め括った。苦笑の浮かんだその顔を
なけなしの善意と哀れみ。そして、一抹の打算。
己の戦闘能力に利用価値を見出した。だからこそ、徒党に組み入れようとするその判断に誤りはない。
あるとすればそれは。
「ごめん。それだけだから」
マナトは見習い章を差し出した。こちらがそれを受け取ると、一つ満足げに頷いてみせる。
「また」
弱々しい笑みを残して、マナトは元来た道を戻って行った。己もそれに背を向けて、暗がりの奥へとまた歩を進める。
打算など、あって当然なのだ。この期に及んでそれを厭うことこそ間違っている。
純正の善意でなければ満足できないか。打算と善意、その葛藤に価値はない。この世界において、それはお前の命を危ぶむ。
マナト、お前はそれを理解しているか。
「……」
一歩踏み出す度、記憶は薄れていく。一歩踏み出す度、その欠落さえ忘れ去る。
だというのに、なんだ。
消えない。
この。
苛立ちは。
「…………ガキが」
弱々しい笑み。哀れみの滲む言葉。
自分の不安も恐怖も飲み込んで、他人を慮ることができる。それは強さか。いいや、一種の弱さだ。自己を支える精神的支柱に他人を利用しなければならない。
だが。
「要らねぇ無理しやがって……!」
それは、軽々にできることでもない。
目覚めてから数時間。そのたかだか数時間であのガキは何を決意したのか。何をその細い背中に負おうとしているのか。
理解なぞ、望むべくもない。そんな暇を与えてくれる環境ではない。
いずれ限界が来る。その時に支払う対価は一つきり。人一人がたった一つ抱えるもの。
「……」
気配。それは行き過ぎた細い小路、その暗闇の向こうから。
微かな息遣いと臭い、そういった些少な情報を拾い集めるまでもなく、そいつらは無遠慮に足音を掻き鳴らしながらこちらに接近してくる。
歩みを止め、それを待ち受けることにした。
足音は増え、二人が四人、四人が八人、九人目が現れ、増加は止んだ。程なく、仄かな星明りと月の赤光の下にそれらは出揃う。
雑多な皮鎧、粗末な板金鎧を身に付けた者共。武器は剣が主であり、変り種に
薄笑いを浮かべた一人が抜き身を片手に近寄ってくる。
「よぅ、見たとこ見習い義勇兵だな?」
「そうなるな」
「そうかそうか。じゃあ十シルバー置いて消えろ」
「何故だ」
間髪入れず問い返す。
対する男は一瞬面食らったような顔をした。まさか意図が伝わらないなどとは考えもしなかったのだろう。
そして次の瞬間には、後ろの八人で大いに笑声を上げた。
「新入りは察しが悪くていけねぇ。ま、あれだ、授業料とでも思えや」
「呵っ、授業料と来たか……」
「あ?」
ひくり、と喉が震えた。肩が上がる。
まるで腸から
「……てめぇ、何を笑ってやがる!?」
「可笑しいから笑っている」
こちらの嘲笑をようやく正しく理解したらしい。
男は剣を振り上げる。怒声も上げず、無言で斬り懸かってきたのは大変素晴らしい判断だ。
真正面から無策で、という点が全てを台無しにしているが。
間合が接する、その直前でこちらから前進する。間を外すもっとも単純な手法の一つだが、こいつには大いに有効であった。
反応する素振りもない。首に右掌を叩き込んだ。
「ぐぇあ!?」
潰れた蛙に近しい呻き。もう少し聞かせてもらう。
男の身体を持ち上げ、手近な壁に叩き付けた。
「うぶぉえ!?」
今度の声は名状し難い。聞くに堪えないという意味で先程と同等であるが。
ばたばたと男は暴れる。首を締め上げられていながらその気力は大したものだ。
偶然にも、バタついた足がこちらの腹を蹴る。レンジの蹴りを見た後の所為だろう。その弱々しさはいっそ憐れを誘う。
余り痛がってやれないのが実に残念だ。
「……」
「っ!? ばげ、も゛の゛……!?」
頚動脈に相当する部分を強く締める。すると、すぐに男は静かになった。
「呵呵」
込み上げてくる笑声、口の端が吊り上るのを自覚する。酷い笑みだ。
だが許して欲しい。笑いたくもなる。
「屑が」
この苛立ちを沈めるのに丁度良い。ああ、実に都合が良い。なんと素晴らしいタイミングで現れてくれたことか。
腰から短剣を抜いた。鈍の刃は肉を斬らず、削ぐだろう。
「少し、痛い思いをしてもらう」
それが、この“
記憶は無く、ただ疑念と苛立ちだけを抱えながら、
アニメ版で早くレンジの暴れっぷりが見たいっす。