刃金と血霞のグリムガル   作:足洗

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第7話 メリイ(2)

 

「同じの」

 

 ひどく粘ついた声だった。喉に水分が足りてない。そういう声。

 おかしいな。さっきからずっと飲んでる筈なのに。嫌というほど飲んでる筈なのに。

 カウンターの向こうでカチャカチャと音がする。空になった酒瓶を取り替えて、新しいのが来た。

 喉、喉が乾く。飲まなきゃ、もっと、もっとたくさん。

 さっそくと、メリイは酒瓶に手を伸ばした。

 しかし、一向に手は瓶のひやりとした感触を掴めない。二度三度、手を閉じたり開いたりして、ようやく酒瓶が誰かに取り上げられていたことに気が付いた。

 顔を上げる。自分がカウンターバーに突っ伏していたことにも今、気が付いた。

 頭上からこちらを呆れ顔が見下ろしている。見覚え、あるかな? ある。なんでここにいるのかな。

 

「おサケ、かえして」

「だぁめ」

「なんでアミタがいるの」

「あららー、知らなかった? アタシね、ここで給仕やってるの」

 

 ここ。

 メリイは周りを見回した。

 柱に掛かったランプと天井から吊り下がった燭台の蝋燭、ぼんやりとした灯りに照らされる酒と料理と義勇兵。いつもの喧騒、いつもの席、いつもの蜂蜜酒(ミード)だけがない。あるのは酒精ばかりが強い知らない味のお酒の瓶。

 ここはいつものシェリーの酒場。

 

「なんでわたしここにいるの」

「よっぱらい」

「いたっ」

 

 額をぺちんと指で弾かれた。

 アミタの手は柔らかかった筈なのに。痛い。痛いな。

 

「んー……」

「むくれないの。今お水持ってきたげる」

「おサケ」

「め」

「にゅー」

 

 今度は両手で頬を挟まれた。唇が突き出して変な声が出る。

 アミタはいつもメリイを子ども扱いする。いや、それは酔ってる時だけだったっけ。

 

「はい、喉乾いてんでしょ。キツイやつばっかり飲むからだよ」

 

 陶製のコップには冷たい水がなみなみと注いであった。言われるまま口を付ける。冷えた水が喉を通って熱っぽい身体に染み入ってくる。美味しいと気持ちいいが同時に味わえるのは贅沢だ。

 頭の中にかかっていた霧が少しだけ薄まった、ような気がする。

 隣の席からアミタがメリイの顔を覗き込んでいた。狐のような吊り目。赤い唇。ウェーブの掛かった黒髪。綺麗と可愛いが同居した顔。

 

「大丈夫?」

「……うん、ありがと」

「いいよ、別に。酔ってるメリイかわいいし」

 

 悪戯っぽく笑われて、メリイはようやく羞恥心を思い出した。

 

「私、いつからここに来てた……?」

「ほんの三十分くらいかなー。お店に入ってきた時からぐでんぐでんでさ、キミを席まで担いでってあげたのはアタシ」

「…………すみません」

「ん、許す」

 

 豊かな胸を張って、アミタはなにやら鷹揚に頷いた。

 なんでもないことのように茶化してくれる彼女は優しい。シェリーの酒場に来るまでの朧げな記憶が徐々に蘇り、酒ではなく羞恥で頬が熱くなる。

 それを誤魔化すように、また水を口に含んだ。

 

「珍しいね。あんたがシェリーで酔い潰れてたことなんて今までなかったのに」

「うん、まあ」

「……なんかあったの」

 

 静かで、気遣わしげな、優しい声音だった。

 そう問いかけてくれることは分かってた。自分がこんなになるまで深酒するのは、ないではないけど、滅多にやらない。付き合いもそう短くないアミタが、何かを察しない筈はなかったのだ。

 だから、シェリーの酒場は避けていたのに。

 

「…………」

「……だよねぇ」

 

 溜息混じりにアミタはそう呟いた。それ以上を尋ねてくる気配もない。

 ひどくありがたい。そして、同じくらいに胸が痛んだ。

 その時。背後から声が掛かった。

 

「ごちそうさん、アミタ」

「ああ! ありがと。また来てよね」

「うっひゃ、隣の子誰? アミタの友達!? すげぇ可愛いじゃーん!」

「こぉら、やらしい目で見んな! メリイはアタシんだからね!」

「アミタちゃーん! 愛してるぜー!!」

「あはは、ホントにー? ありがとねー」

 

 食事を済ませたのか義勇兵の一団が店を出て行く。べろべろに酔った一人の戦士は入り口の外でも大声でアミタを呼んでいた。アミタは席を立って両開きの自在扉の方へ向かう。

 そこから半身だけ乗り出し、彼らに何か声を掛けているらしい。アミタは暫くそうして手を振っていた。

 

「ごめんごめん、あいつ酔うとうるっさいんだわ。アタシが見送らないと店の前でずっと名前呼んでるんだよ? アハハハ! アホだねアホ!」

 

 言葉とは裏腹にアミタは屈託なく笑った。

 

「アミタは……すごいね」

「なになに突然」

 

 自分の声が思ったより神妙で気恥ずかしくなる。

 

「接客とか、こうしてちゃんと働いてるところとか、物怖じしないし、愛想いいし……綺麗だし」

 

 ぽつぽつと出てくる言葉はまとまりない。自分がただ思いつくまま口を動かしているのが分かった。

 アミタは手の甲に顎を乗せて、メリイに流し目を送る。

 

「ウェイトレスの仕事は好きで始めたことだし、働いてるのはお互い様じゃん。顔はほら、お化粧頑張ってますからアタシ! ふふ、メリイのがずっと綺麗だよ……あぁもぅ言わせないでよー恥ずかしい!」

 

 このこのー、アミタは言いながらメリイのほっぺを指で弄った。むにむに。

 メリイはただ自嘲的な苦笑いを浮かべる。

 

「……わたしは、違うから」

「何が?」

「わたしは弱くて、他に生き方がないから、義勇兵をやってるだけ」

「……」

 

 アミタの指が頬から離れる。

 温かみが失せたような、なんだか冷えた寂しさ。

 

「弱くて、すぐに諦めるから、だから何も決められない。生き方も変えられない」

 

 何も、救えない。

 神官、治癒役(ヒーラー)、パーティの一員、仲間。そういうのが全部、全部自分には不似合いで分不相応で、遠い。どれこれももう手の届かないもの。

 違う。手を伸ばしてすらいけない(・・・・・・・・・・・・)ものだ。

 一度失って、もう懲り懲り。嫌だ。また同じ思いを味わいたくない。そもそも自分にそんな権利がない。近付いてはいけない。関わり合いになってはいけない。諦める。諦めよう。

 だのに、それでも、結局自分は――――

 

『――厭々と駄々を捏ねたところで何も為すことはできない。諦めとは思考の停止だ。後悔とは行動の停滞だ』

 

 なんで、こんな、ただの言葉に。よく知りもしない赤の他人の言葉に。

 揺れ動く。苛立つ。胸を衝かれる。

 せっかく、この想いに、記憶に蓋をして、ようやく忘れようとしていたのに……!

 停滞した生き方、過去に停止した自分。まるでそれは、鏡を差し向けられたようだ。まざまざと、自身の有様を見せ付けられる。

 自分が惨めで、憎くて、情けなかった。

 

「アミタはすごい。すごくて、羨ましい」

「そんなことない」

「あるよ、だって」

「ないよ」

 

 メリイの声を遮るように、アミタは言った。

 カウンターの向かいにいつの間にか人が立っている。男性の給仕らしかった。彼は陶製ではないグラスを二人の前に滑らせる。細い足の付いた透明の硝子盃、シェリーグラスというらしい。そこに白ワインが注がれた。色味の薄い酒精の水面に朧なランプの灯りが浮いていた。

 アミタが礼を言うと、給仕は何も言わず会釈して離れていった。

 アミタはグラスに口を付ける。ほんの少しだけれど、グラスには口紅の跡が残った。

 不意に、アミタの顔がぱっとこちらを向いた。

 

「ね、メリイ。一緒にここで働かない?」

「え」

 

 思いも寄らない提案だった。メリイはアミタを見詰める。それをアミタの笑顔が見返した。

 

「店長とオーナーはアタシが説得するから。ま、あんたならソッコー採用だよ。こぉんな美人どこのお店もほっとく訳ないしね!」

「いや、でもわたし」

「酔っ払いの相手するのうざいし、セクハラしてくるクソ男もいるけど、そういうのには蹴り入れればいいよ! 店長公認だから! それに、大抵の義勇兵の人って皆いい人だし……中には、その、けっこうカッコいいなーって思えるやつも、いるし、ね?……」

 

 にへら、とあまり見たことのない顔でアミタは笑う。

 アミタの言葉を想像してみた。メリイとアミタが揃いのディアンドルを着て給仕をやる姿。接客なんて自分には向かないだろう。それこそ何かしら失敗する光景しか浮かばない。でも、少しずつ、少しずつでも仕事を覚えて、給仕として身を立てられたら。今とは正反対に、アミタや他の給仕達、お客の義勇兵達、多くの人々と関わりあっていくようになったら。

 そうしたら、何か変わるだろうか。自分は変われるのだろうか。

 

「義勇兵なんて危ない仕事にしがみ付いてることないんだよ。メリイはもっと、楽しく生きなきゃ。今まで苦労してきた分――」

 

 義勇兵を辞めて、命の心配をしないで済む生き方をする。それは、なんて。

 なんて――――烏滸(おこ)がましい生き方だろう。

 

「…………メ……」

「え?」

「そんなの、ダメ」

 

 テーブルの上に置いた両手が震える。握った手の甲に爪を立てていた。皮膚に食い込んで、血が滲む。そんなものこの胸の痛みに比べたら無いも同じだった。

 いや、自分の痛みなんて、何の価値も無い。

 だって、あの大切だった人達はもう、痛みすら感じることができないのだ。

 それを、それなのに。

 

「自分だけが……なれない。なっちゃいけないの、わたしはっ……!」

「メリイ……」

「ムツミのこともミチキのこともオグのことも忘れて、自分だけ安全な場所で、自分だけ幸せになんて……そんなの……そんなの……!」

 

 また、頭に霧が掛かっている。それを自覚している。だのに、込み上げてくる思いを抑えられない。言葉を止められない。ただただ口を吐いて出てくる。

 

「最、低……!」

 

 メリイはこの黒い感情を吐き出した。

 自分が一体何を、誰に(・・)対して口にしたのかも理解しないまま。

 

「…………」

 

 淡い緑がかった白ワイン、その水面が揺れる。メリイの息遣いに、震えに。

 今更になって周囲の喧騒を思い出した。耳には入ってきても、ずっとメリイはそれを認識していなかった。する余裕がなかった。

 メリイとアミタの間に沈黙が生まれたから。

 ずっと霧中を漂っていた頭が現実に引き戻された。そうして思うのは、アミタのこと。

 アミタ。

 アミタに、自分は、何を。

 

「っ!」

 

 メリイははっと顔を上げた。心臓が跳ねる。けれど顔からは血の気が引いていく。

 アミタを見る。彼女もグラスのワインを見下ろしていた。口元には笑みがある。弱々しい、儚い笑み。

 悲しげな、痛みを諦めたような貌。過去を見る目。

 それを知っている。メリイは嫌というほど知っていた。毎朝、毎夜、自分はそれを、鏡で見ている(・・・・・・)のだから。

 

「アミ、タ」

「メリイ、あのね」

 

 アミタが何か言おうとする。

 メリイはその瞬間、席を立っていた。アミタの言葉、何を言おうとしているのか、恐くて恐くて仕方がなかった。

 

「ごめんなさいっ……!」

「あ、メリイ!?」

 

 財布から硬貨を、なんて余裕はなく、結局革袋をカウンターに置き去りにする。

 一目散だった。自在扉を潜って、灯りから夜の闇に駆け込む。背後で自分を呼ぶ声から。情けない、馬鹿な自分を抱えて。

 メリイは、逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめん! ちょい抜ける!」

 

 カウンターの向こうに声を張って駆け出す。返事など聞いている暇はなかった。

 どうして。

 頭の中はそんな疑問だか言葉だかで一杯になる。

 

「あぁもう! バカ!」

 

 アタシのバカ。

 もっとちゃんと話を聞いてあげるべきだった。なのに、いきなり義勇兵を辞めろなんて言われたらああなっちゃうのは当然だ。

 メリイがどんな思いで今まで過ごしてきたのか、自分には分かった筈だ。分かってあげられた(・・・・・・・・・)筈だ。

 

「ごめんね、メリイ……!」

 

 店の中でいきなり走り出したアミタに多くの者が面食らっていた。呼び止める声も無視して、アミタは自在扉を開け放った。そして。

 黒い壁のようなものにぶつかりかけた。

 

「きゃっ」

「……」

 

 実際に衝突には至らず、寸前でアミタは急停止。

 目の前にあったのは壁ではなく人だった。

 

「ごめん! 急いでるの!」

「アミタ」

 

 構わず横合いを通り過ぎようとした時、頭上から声が降ってくる。先程と同じように無視――できない、低音の声。最近では聞き慣れて、内心では聞くのが少し楽しみになっていた彼の声。

 黒い髪、黒い瞳、黒い装いの黒い人型。ハバキがそこに立っていた。

 それが分かった途端、鼻の奥につんとした痛みが刺す。目蓋の裏が熱を持ち、目尻に溢れてくるのを感じる。

 アミタはハバキの胸板に飛び込んだ。

 

「ハバキぃ!」

 

 がっちりとした体付きは大樹の幹のようにびくともせず、アミタの身体を簡単に受け止める。

 ほんの一刹那分、それだけ安堵を抱き締めて、アミタはハバキから離れた。

 

「お願い! メリイが、アタシの友達が……!」

 

 ハバキは無表情のまま、けれどその静かな目に鈍い光が宿ったように見えた。少し恐いけど、それはとても力強い。

 

「何をすればいい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 酒精に酔った身体はろくろく走り続けることもできない。

 それでも無理を押して足を動かし続けて、気が付くと見知らぬ小路を歩いている。足元もよく見えない。家々の狭間から覗く夜空は細長く、疎らな星と赤い月が区切られ誇張され、どこまで歩いてもそれは頭上に付いて来る。まるで追い回されているような心地だった。

 見下ろされている。星と月に。ずっと、どこへ逃げ込もうと。

 逃げる? 何から逃げるというのだろう。

 アミタから? 自分の口にした言葉から? それとも、仲間を救えなかったという現実から?

 あの、悪夢のような日からずっと、自分は逃げているのだろう。

 クラン『オリオン』にハヤシと一緒に拾われて、立ち直る機会と居場所を与えられたのに、自分はハヤシを置いて逃げ出した。みすみす手放したのだ。

 今の自分が許せない。幸福になろうとする自分が我慢ならない。そういう駄々(・・)を捏ねた。

 “傷”を乗り越えるのは辛い。どうしようもなく。何故ならそれを直視しなければいけないから。

 自罰し続けることの方が楽だった。独りで在り続けること、他人を突き放して、同時に爪弾きにされること、それが贖罪なんだと信じた。

 そんな行為に意味はない。初めから分かっていた癖に。

 

「っ……っ……!」

 

 朦朧とする。視界が濁って、淀んでいく。

 走った所為で余計に酒精が回ったようだ。足取りはよろよろと覚束ない。

 壁に手を付いて、倒れそうになる身体を支える。立っているだけで脳から血液が下降していくような、そうして遂には足から地面に垂れ流れているような。それは錯覚だ。泥酔者らしい幻覚。

 吐き気は不思議とない。きっと汚穢(おあい)は全部腹の底に凝り固まってしまったのだろう。そしていずれ自身の一部になる。お似合いだ。こんな、自分なら。

 その時、メリイの目の前に棒が現れた。それは壁に突き立って、メリイの行く手を阻む。

 

「よう、大丈夫?」

 

 見上げると人の顔。誰だ。今度こそ知らない顔だ。男、印象に薄い、きっと記憶には残らない。そういう面貌。

 目の前に突き立っている棒はその男の腕だった。

 

「すごい酔ってるね。手貸そうか?」

「いらない」

 

 いらない。思考と言動が完全な一致を果たす。

 鬱陶しかった。何もかも。自分に関わろうとするあらゆるものが。

 踵を返して、元来た道に向かおうとした。

 

「おいおいそりゃないんじゃない」

「無理すんなって。ね?」

 

 今度は二人、道を塞いでいた。言動とは裏腹に、相手が自分を労わっているような印象をメリイは覚えなかった。

 小馬鹿にするような、弄ぶような……違う。そうだ。か弱い獲物を見付けたような、そういう素振り。

 そうか。

 自分は、こいつらの餌か。

 男の一人が肩を掴んでくる。妙に熱っぽいその掌に悪寒がした。振り払う。けれど、粘着するように手は離れない。

 

「触らないでっ」

「もう遅ぇよ」

 

 ぐい、と身体が後ろへ引っ張られる。背後のもう一人がメリイを引き倒したのだ。

 背中から硬い石畳に倒れ、痛みが全身に走る。一瞬で酔いも吹き飛んだ。

 

「いや……!」

「おっと! っぶねぇな」

 

 右手の錫杖を滅茶苦茶に振り回した。

 けれどすぐに、いとも容易く取り上げられた。

 両腕を押さえつけられ、身体に馬乗りになられ、遂に神官服に手が掛けられる。もはや暴れようと、身体はびくともしない。

 

「早くしろよ」

「慌てんなって」

「次、俺だからな」

 

 頭上から聞こえる男達の下卑た相談事に怒りと絶望が湧き上がる。

 それとも。

 頭の片隅、この期に及んで冷えたままの部分が思う。

 これが、報いなの。

 

「へへっ、すぐに良くなるって――――」

 

 歪みに歪んだ――少なくともメリイにはそう見えた――男の顔が。

 消えた。

 

「?」

「は?」

「あ?」

 

 同時に、身体を圧迫していた体重も消える。

 顔を上げて見ると、男は少し向こうで顔面を押さえて仰向けにのた打ち回っている。

 

「おぐぉんん゛んっ……!?」

 

 名状し難い呻き声が路地に響き、一瞬この場の誰も思考が止まっていた。

 ――その、黒い男を除いて。

 

「あぁ!?」

「誰だコラ!!」

 

 頭上のさらに向こう。両腕を解放されたメリイは起き上がり、背後を見た。

 男二人の背中越し、路地の暗がりに佇む人影。

 その陰影の(くら)さは、ここに蔓延する薄闇などとは比べ物にならない。

 闇に浮かんだ二つの光。鈍く輝く黒い双眸。その光もまた、暗闇に決して溶けない。

 陽炎のように闇を羽織った(・・・・)男が、動いた。

 

「へあ?」

 

 一人、そんな声を残して。

 左側に立っていた男が壁に激突して動かなくなった。

 肘打ちだった。側頭部に深々と突き刺さり、鈍い音と共に人体が吹き飛んだ。

 

「う、うわあああぁぁああああぁぁあ!?!?」

 

 その光景を見て逃げようとした一人。

 その頚が刈り取られた(・・・・・・)。そう見えたほどの勢いで男の頭が右隣の壁に叩きつけられたのだ。

 べりり、そんな異音を幻聴する。壁から剥がれた男の鼻やら唇やらから血が噴出していた。

 黒い男が持っていた頭を手放す。糸の切れた人形でももっとましな扱いを受けるだろう。

 血まみれの男は石畳に崩れ落ちた。

 肘打ち、そして掌底、黒い男はどちらも右手だけを動かしていた。左手には、鞘に納まった刀を携えている。

 

「野郎っ……!」

「!」

 

 振り返る。最初に吹き飛んだ、吹き飛ばされたであろう男。それが立ち上がっていた。二番目に沈んだ男同様かそれ以上に鼻から血を滝の如く滂沱している。

 そして、手には月明かりを反射する銀色。ナイフだ。

 

「なるほど。閉所(ここ)での得物の選択としては悪くない」

 

 黒い男が呟いた。皮肉に満ち満ちた低音。先程メリイが向けられた嘲笑を万倍に濃縮した笑み。

 いや、そもそも質が、世界が違う。この男の笑みは、人が浮かべていいものなのか。

 そんな妄想。幻想。

 ナイフを持った男にそれは理解できなかったらしい。

 

「ぶっ殺す……!」

 

 ナイフを低く構えた男が駆け出す。

 黒い男もまた歩き出す。

 距離なんてないようなものだ。ほんの三歩程度。大股に歩けば縮まるだろう。

 交差する。ナイフが黒い男の腹に。

 掠りもしないまま行過ぎる。

 ナイフを握った手を腕ごと掴み、引き寄せ、無造作に足を払う。

 それだけで事は済んだ。男は仰向けに地面へと叩きつけられた。

 

「ぐえっ!?」

 

 潰れた蛙に近しい呻き。取り落とされたナイフが石畳を滑っていく。

 そして、黒い男が抜刀した。

 刃が瞬く。赤い閃光を描いて、切先が地を――地面に投げ出された男の掌を貫いた。

 メリイは息を呑んだ。耳には唾液の嚥下だけが響く。刺突に音は伴わず、驚くほどすんなりと刃は通った。

 

「ぎゃぁあああああああああ!?!?!?」

 

 間もなく、絶叫が狭い路地を満たした。

 

「どうした。ぶっ殺すんじゃなかったのか」

「ひっぎいだいぃぃっ!? いがぁあああ……!!」

「そうか。痛いか」

 

 いっそ優しげに囁いて、黒い男は手首を捻った。

 自然、それは握られた刀もまた捻られ、刃先が掌を盛大に抉った。

 もはや音声ですらない。言語化不可能な金切り声が男の喉から垂れ流される。

 

「お前達がまた同じことをすれば、俺が現れる」

「はっ、ぎっ、がが、ぁ、ぅげっっ……!?!?」

「その度に、今日と同じだけの痛みをくれてやる」

 

 無造作に刀を引き抜くと、彼は切先を男の鼻先へと向けた。逆手で、狙い澄ますように、決して外さないという意志を以て。

 歪む。その貌。その眼。影さえも。

 それは悪魔か、悪鬼の姿か。

 少なくとも確実に、それを見上げる男にとってその光景は、悪夢以外のなにものでもない。

 黒い人型が、刃を衝き下ろした。

 

「ぎ――」

 

 悲鳴さえ途絶え、辺りに静寂が戻る。

 刀は、男の頬を掠めて地面を刺していた。

 男は口から泡を吹き、白目を剥いて気絶している。

 

「……」

 

 舌打ちを一つ。黒い男は血振るいを済ませ、刀を鞘に納めた。

 凶相は鳴りを潜めて、無表情がメリイを見下ろした。

 

「っ」

 

 メリイは身構えた。

 窮地を救われたのに、どうして、目の前の男を“救い手”などと微塵も思えない。

 恐い。纏う黒が、男の眼光が、その貌が。

 これは先程とは違う。暴行に対する恐怖と、この恐怖の純度は桁違いだ。

 純正の死。死の恐怖。男が齎したのはそんなもの。

 黒い男は、こちらに手を伸ばしてくる。その手は暴行男の頭を潰した手。メリイなど紙屑のようにぼろぼろにできる圧倒的な力を秘めた手掌。

 

「やっ、いや、いや……」

 

 その手が自分の手首を掴む。握り潰される。本気でそう思った。

 もう片方の手で地面をまさぐる。無意識の行動だった。そしてそこに偶然が重なって、メリイは己の錫杖を探り当てた。

 

「いや!!」

 

 相手を見てなどいなかった。視線を合わせるのすら恐かった。固く目を瞑る。現実から、目の前の化物から。

 錫杖から伝わる感触だけが厳然と。

 鈍く、重い、それが骨を叩いた感触だとすぐに思い至る。モンスターを相手取り、杖術で打ち据えることなどメリイには日常茶飯事だったから。

 でも、今目の前にいるのは。

 

「ぁ……」

 

 恐る恐る目を開き、視線を持ち上げた。

 錫杖の先端、飾り輪が男の額を捉えていた。装飾は所々に鋭利で、時にはモンスターの肉を裂くこともよくある。

 額は裂け、髪の下から赤が流れ落ちてくる。暗闇の中でも黒々とした、血の紅。

 

「満足したか」

「っ……!」

 

 言うや無理矢理に手を引っ張られ、立たされる。強い力だった。

 けれど、メリイにはもう逆らうことができなかった。その気力も、権利も自分にはない。

 

「女が一人で出歩く場所でも、時間でもないな」

「……」

(ねぐら)は何処だ」

「…………北区……花園通り……」

 

 尋ねられるまま答えていた。何も考えていない。もう、頭を働かせるのも億劫だった。

 

「行くぞ」

 

 男が背を向けて歩き出そうとしている。それをメリイはぼんやりとただ見詰めていた。

 

「……」

 

 一向に動き出さないメリイを、男はどう思ったろうか。

 振り返り、暫しの間メリイを見据える。静かな眼差し。大の男三人を無惨に打ち据え、叩き付け、刺し貫いた時とは全然違う。相変わらず恐ろしくはあった。ただ、どうでもよくなっていたのかもしれない。

 そして、男はメリイの手を取った。

 抵抗もしない。手を引かれ、メリイはその後を付いて歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 細く、柔く、脆い。

 掴んだ少女の腕はひどく華奢で、精緻な硝子細工でも握り込んでいる心地だ。

 

「……」

「……」

 

 互いに言葉はない。

 そんな余裕もこの娘にはないだろう。

 夜半を過ぎ、日付はとうに跨いでいる。それでも街に溢れる喧騒は微塵も衰えを知らぬ。

 酒精の香、老若男女区別ない声、朧なランプの灯りが其処彼処を照らす。

 それら全てを無視して進む。

 道を早足に行き去る者にも、今尚乱痴気に興じる彼ら彼女らは無関心だ。

 

「アミタに礼を言っておけ」

「…………」

 

 返答を期待した訳ではない。事実少女は無言を貫いた。

 しかし、こちらの言葉は正しく伝わったのだろう。

 程なく背中に響くのは、童女のような啜り泣きだった。

 

「……」

 

 声を殺して少女は泣く。いっそ大声で泣き喚けば気分も晴れように。

 この娘は、それを己自身に許せる人間ではないのだ。

 アミタから聞かされたメリイという少女の情報は僅かであり、断片的だ。この娘を慮って言葉を濁したのは想像に難くない。

 ただ、それでも、分かったことがあるとすれば。

 娘は多くを失った。それらは決して埋まらぬ穴となった。

 

『どうしてあなたは諦めなかったの。諦めずに、いられたの……?』

 

 以前の問いを思い出す。

 娘の容貌は正極の意味で一般的ではない。記憶も不確かな脳髄とはいえ、一度目にすればそうそう忘れはしない。

 あの問いに込められた感情を理解するには、己はまず読心術などという異能に目覚める必要があるだろう。

 解りはしない。軽々に解ろうなどと思い悩むことこそ烏滸がましさの極致だ。

 あるいは、その厚顔無恥を恐れないなら。

 

 ――後悔しているのか

 

 あの瞳に宿った暗がりの源泉は、“それ”なのだろう。

 “それ”が今尚、少女自身を自ら苛んでいる。

 

「……」

 

 花園通りを少し行けば、ずらりと宿屋が建ち並ぶ宿場通りに変わる。裏通りの様相も表とほぼ変わらない。

 裏通りへ入る路地、娘の宿はすぐそこにあった。

 入り口の扉を開け、娘を押し込んだ。やはり何ほどの抵抗もない。

 呆然と佇んだまま視線は中空を漂っている。

 目尻に湛えた涙が一筋、頬を流れ落ちていった。

 それを指で拭い取る。意識したことではなかった。気付いたところでもう遅い。メリイはこちらに自失した瞳を向けた。

 

「あの日、あの神殿で、お前は一人救った。命を、救った――」

「……」

「――呵、慰めにもならねぇか…………そうだろうな」

 

 それは気の迷いに近い。

 己は何を口走っているのか。

 救った。だからどうした。慰めには程遠く、贖いになど断じて代わらない。

 自分の言葉一つでこの娘の何かを救ってやれるなどと、まさか夢想したのではあるまい。その蒙昧は救い難い。救い難く、恥を知らない。

 

「さっさと寝ろ」

 

 娘に背を向け歩き出す。

 新たな苛立ちの種、腹の底でその芽吹き感じる。

 額を汚す血を払う。

 指に残る涙の熱が血潮の熱と溶け合い、混ざり、憤怒という炉に薪を()べた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




グリムガルの魔法の呪文ってあれ元ネタというか、元の言語なんなんですかね。造語?
不勉強なもんで外国語わからんです……。
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