リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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16ー3 メダカの相愛

 

 

 

 

 

愛は一説には八種類あると言われている。

 

それがどこまで真実かは定かではない。

が、少なくともアガペーとエロスは確かに別個に存在しているように思える。

 

精神愛、または神の愛とも称されるアガペーは存在に対する愛とも言われる。

だがアガペーは愛国心や信仰や、仕事や趣味やもっといえば忠義だとかにも発揮される。

 

アガペーとはつまるところ、己を捧げる行為だからだ。

 

その対象が例えば国であれ社会であれ宗教であれ個人であれ信念や哲学であれ。

その愛に、対象に対する貴賤はない。

 

そしてそこに見返りはない。

存在してくれている、ただそれだけでいいのだった。

 

己を捧げることが出来る対象に出会えているという幸運。

それが『存在してくれている』という見返り。

そして己を捧げられたという特権。

 

ならそれが一見、見返りを求めない無償の愛のように誤謬されるのは当然だった。

アガペーはそれが発生した時点でもはや最上の見返りを達成しているのだから。

 

どうやら生命は多かれ少なかれ己を捧げられる「何か」を常に探している。

 

国家、宗教、配偶者、共同体、あるいは子供、または仕事、趣味、家族、信念。

その他それがどういうものであれ。

 

己を捧げることができた生命は、幸福である。

 

 

 

 

だがアガペーは、それを捧げられる側が幸福かなどは概念にない。

 

上記のようにそれは芽生えた時点ですでに目的を達成し完結してしまう類のものだからだ。

 

そういう意味で芽生えてからが始まりのエロスとは対極であった。

エロスは相手との相互の報酬の交換が必要になるからだ。

 

だからこそ、アガペーには捧げられる側の視点はない。

 

 

宝物をくれる犬は飼い主が骨を喜ぶかなど考えない。

 

セミを枕元においてくれる猫はそれが飼い主にとっても美味なのかとは考えない。

 

母に野花を贈る幼子は、それが母にとっても価値があるのかなど考えない。

 

 

だがその時、きっと犬は骨と、猫はセミと、子は花と共に己を捧げている。

 

 

神の愛とも言われるアガペーは、存在に対する愛である。

 

一見無償の、混じりけのない、純粋で、清く、無垢で美しい、この上なく独りよがりな、幼心の愛であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なら、幼子とは神のはずである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一応ミサトさんに連絡を入れた。

 

今日は二人で外食で済ます、と。

 

するとミサトさんはちょうど帰り道だった。

じゃあたしは適当に何か買って帰るわ、あまり遅くならない様にね、と返事した。

それから、遅くなる時は一応もう少し早く連絡を入れる様に、とも。

 

ごめんなさい、と返して、ぴ、とケータイの着信を終える。

 

 

彼は空を見上げた。

 

まだ入道雲は現役だった。

満月の手前ぐらいの月はそこまで明るくなかったが、でもやんわりと雲の輪郭を光らせた。

 

控えめで、とてもやさしい光だった。

 

彼は前を歩くアスカのふさふさと動く髪を見た。

ぽつ、ぽつと一定の距離で配置された街灯に照らされる度、撫でやかに光った。

 

相変わらずアスカの髪って綺麗だな、ともはや毎度の感想を抱きつつ。

おずおず、と彼は口を切った。

 

「…どこ行くの?」

 

彼女は振り返らないまま言った。

 

「カード持ってきてるわよねあんた」

「うん、財布に入ってるよ」

「じゃ、先におろすわよ」

 

なんで?と思いつつ。

でもとにかく腹ペコだった。

 

くう、と彼の子犬が鳴った。

 

「とにかくおなか減ったよ…ごはん、先に食べようよ」

 

だからシンジはそう提案したのだった。

一瞬彼女は迷い。

 

「…だめ、服べちゃべちゃで店入るなんて嫌」

「そ…」ぐうおおおおおぉ…

 

…。

 

…くっ!

 

なんか彼女が耳を赤く染めてぶるぶる震えていた。

 

どうやら野犬的な何かは彼女の内側にいるようだった。

あるいは彼女が野犬的な何かかもしれなかった。

 

もちろん、とっくに気づいていたのだが。

 

「ごはん、食べようよ」

 

 

中華屋は混んでいた。

ちょうど時間帯だししかたなかった。

 

たまにトウジやケンスケと帰りに寄る店だった。

なにせ中学生なんていつも腹ペコだった。

 

でも学校の帰り道に寄る時間に比べると大人が多かった。

なんとなく気おされそうになるも、彼女は平然と入っていった。

 

「あんた何するの」

「タンメンかな」

 

周りは大人だらけの、二人組の狭い席で向かい合わせで座った。

子供は自分たちだけなので彼はちょっと緊張した。

 

「あたしはチャーシュー麺チャーシュー追加」

「ギョーザは?」

「ニンニク抜きは?」

「え?ないと思う」

 

じゃあダメ。と彼女は言った。

そう?ならまあいいか、と。

 

「唐揚げは?」

「欲しい。半分ずつ」

「じゃチャーハンも半分ずつにする?」

「あたしは一皿食べる」

「じゃ僕ニラレバをハーフで」

「だめ」

「え?なんで?」

「チャーハン大盛りで半分ずつでいいでしょ」

「…そう?じゃそれで」

 

それから大人だらけの中で身を狭くし、何を話すでもなく、目を合わすでもなく。

待ちに待ってやってきたラーメンをいただきます、と、すすって。

 

「「痛っ」」

 

と同時に声を上げてしまった。

 

ふと彼女の一部が充血した唇に目をはせる。

すると彼女と視線がかち合った。

 

やはりぬめる様な、光る様な眼をしていた。

 

でも一瞬で、お互いに視線をうろつかせた。

 

だから目の前の食事に没頭する。

気が付いたら二人とも夢中で食べてた。

もうおなかが減っていてしょうがなかった。

背が腹を貫通してそうだった。

 

唇の痛みも我慢してとにかく胃に入れた。

目の前の相手のことは二の次でとにかく食欲を満たした。

 

アスカはいつも通りの健啖家だった。

あっという間に料理がなくなっていった。

相変わらずそんなんでなんで細いんだろうと思うほどだった。

 

彼がなんだかんだと夕食を作ることが増えたのは彼女の食べっぷりが気持ちいいからだった。

つまり彼女は作り甲斐があるのだった。

 

そうして二人はあっけなく料理を片付けた。

何か人心地着いた、といった感じで店を出てふらふら歩いた。

 

ラーメンなんて食べたのでますます汗でびしょびしょだった。

先に食事を済ませたのはどうやら正解だった。

 

 

コンビニである程度のお金を降ろした。

 

アスカはついでに色々こまごまとしたのを買っていた。

彼もいくつか買うことにした。

 

それから駅間の適当なチェーン店で服を物色した。

少年は持ち前の貧乏性で着替えのためだけに新しく服買うのもったいないなあと思った。

 

でも「あんた金持ってんだから少しは使いなさいよ」とアスカに言われてまあいいかと納得した。

 

なのに『平常心』と書かれたTシャツを買おうと思ったら猛反対された。

すんごい猛反対された。信じらんない、あんたセンスなさすぎ、とまで言われた。

 

そうかなあ、と彼はしょんぼりした。

…かっこよくない、これ?

 

どうやら彼はネーミングセンスに続いて服のセンスも絶望的なようだった。

なんなら音楽のセンスあたりに全振りの可能性すらあった。天は二物を与えず。

 

仕方ないので無地のTシャツにパンツと無難な格好を選んだ。

ついでにブリーフと新しい靴下も選んだ。

 

彼女はシャツにベルト付のショートパンツ、足首と踵にストラップのあるサンダルを選んだ。

サンダルは売ってても女性物の下着は売ってないようだった。

でもコンビニで先に簡易なものを買っていたようだった。

 

不満そうにしていたが近くに下着売り場などないので仕方なかった。

彼は内心買い物に付き合う時間が短くなって安堵した。

 

それから腰に巻くポーチみたいなのと赤いジップパーカーを買っていた。

夜は冷えるからあんたも買いなさい、と言われた。

 

つまり、どうやらまだまだ帰る気はないようだった。

彼は選ぶのがめんどうなので彼女と同じユニセックスの、でも青い色を買った。

 

そうして比較的すぐに買い物を終えた。

 

 

とにかく、すぐにでもシャワーを浴びたかった。

 

もうべちゃべちゃで気持ち悪いなんてもんじゃなかった。

なので駅前のネットカフェに来た。

行ったことはないがシャワーを使えることは知っていたからだ。

 

「は、ガキっぽいの読んでるのね」

 

アスカは予想通り長いシャワーだった。

 

彼はあっけなく浴び終えて手持ち無沙汰で読んでいたドラゴンボールを閉じた。

ちょうどナッパがクンッするところだった。

 

まるでわざと挑発してくるかのような台詞だった。

なのでちょっとだけ抗議しようとして戻ってきたアスカを見た。

 

家でもそんなに履かないような短さのショーパンに、肩が露出した厚手のシャツに、引っ掛ける様にしてパーカーを羽織って、着替えなんかが入った袋をもっていた。

 

服の事なんかよくわからない少年でもよく似合っていると思えた。

適当に選んだっぽいのに、アスカは何着ても似合うのだな、などと思ってしまった。

 

そして相変わらず、いつも通り、ヘッドセットを髪飾りのようにきっちりつけていた。

彼女がそれを外すのは、それこそ風呂か寝る時だけなのだから。

 

 

二人用のシート席は狭くて、動くたびに互いの体のどこかが当たりそうだった。

 

シャワー上がりのアスカの匂いは個室にあっという間に充満していた。

個室、と言っても板で区切ってるだけで上はがら空きなのだが。

 

それでも充満してくる香りに、彼は彼女を見ていられなくなって視線を反らした。

 

でも、ふと、思い出して彼は言った。

 

「アスカ、その手…」

 

彼女の右拳の皮が少し剥けていた。

シャワーでふやけてしまったのだろう。

 

人差し指と中指の拳はうっすら紫色になっていた。ますます痛そうだった。

どうやってぶつけたらこんなになるんだろう、と彼は思った。

 

買っておいた消毒液を袋から出す。

 

アスカは体育座りになると左手で膝を抱いて、黙って右手を為すがままにさせた。

膝の上に顎を乗せて、なにか気だるいようにシンジの所作を眺めた。

 

その姿は何か、親に怒られた子供がふてくされつつ落ち込んでるような、そんな印象すら抱かせた。

やっぱり普段のアスカらしくない様子に、彼は少し眉を下げた。

 

彼女の手はもちもちして暖かかくて心地よかった。

前々からうっすら気づいてはいたが、どうやらアスカは素で体温が高めのようだった。

 

なんとなくアスカらしいな、と彼は思った。

 

しっかり消毒して、ふき取った。

それからバンドエイドを付けたが、場所が場所だけにあんまりうまくは張れなかった。

 

「…これ、どうしたの」

「別にいいでしょ」

 

やはり気だるげに返した。

彼は何か優しいような言い方で言った。

 

「…骨に異常があったらあれだし、一応病院に…」

「いかない」

「う、うん…」

 

まあでも、確かにそこまで大げさな怪我ではなさそうだった。

じゃあ大丈夫かな、と彼は思った。

 

それからちょっとだけおずおずと彼は言った。

 

「…唇も、消毒する?」

「…舐めてりゃ治るわよ、こんなもん」

 

少し赤く腫れていた。

ピンク色の唇には目立つ赤だった。

 

どうしても学校でのことを思い出して、頬が熱くなって、そこから目を反らした。

 

「…なんで目反らすの」

 

そんな事を低く言われた。

え、と彼は思って彼女を再び見た。

 

体育座りで、両手で膝をかかえる様にして気だるく顔を膝に乗せていた。

なんとなく幼子のような所作だった。

 

濡れたように光ってぬめる眼が、じっと彼を見つめていた。

 

やっぱり、怖いぐらいに綺麗な眼だった。

 

なのに、やはり底がまるで見えなかった。

その瞳の奥で何を考えてるかまったく把握すらできなかった。

彼は今までこんな目を一度も見たことなかった。

 

…なんで、そんなすごい目してるの。

 

じっと見てると何かの引力に引きずり込まれそうだった。

その感覚に、どうしても彼はその眼を見ていられなくなって、視線を下げた。

 

でもその先の、正面の彼女のショーパンの根元がきわどくて。

そんな服装でそんな座り方しないでよ、と内心だけで抗議してしまう。

もはやどこに視線を向けたらいいかわからずふい、と横に反らした。

 

「…どうして、目反らすのよ。」

 

また彼女が気だるく言う。

すると、ぺち、と彼女の素足の指が彼のまだ靴下を履く前だった素足に当たった。

 

彼女は足の指すらも体温が高いように思えた。

 

「どうしてって、その…の…」

 

彼女は足の爪の先を器用に、き、とひっかくように動かした。

 

彼はくすぐったいようにそわそわし。

だから彼は咄嗟に誤魔化すかのように、あるいは話を逸らすかのようにこんなことを言った。

 

「そう言えば、シンクロテストのこと…」

 

彼女はひっかくのをやめて、少し目を細めた。

 

「…ただの目安でしょ?そんなの…だって他はアスカの方が上じゃないか」

 

彼女は何も答えなかった。

 

「そもそも、シンクロ率は高ければいいって単純な話じゃないってリツコさんも言ってたし…」

 

エヴァは痛みも共有するのだからそれも当たり前と言えば当たり前だった。

もっとも、他にも高すぎても行けない理由はあるのだが、当然彼らはそんな事情は知らない。

 

「…なら、そんなの…」

 

しん、とした。

 

何か気だるいような気配がした。

 

彼女が何も反応しないので、彼はおずおず彼女を見た。

彼女は彼から目を反らして、やはりひどく気だるいように黙っていた。

 

「…出ましょ」

 

それからあっけなくネットカフェを出た。

 

 

荷物や汚れた服を駅前のコインロッカーに入れて。

 

 

そうして、ようやく、シンジは何か一息ついた気分になったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

・Ⅲ 『メダカの相愛』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は改めて街を眺めた。

 

 

やっぱり第三新東京市は都市の発展具合に比べると明らかに人が少ない印象があった。

 

駅前は広く、大きく、ひどく整頓されていて近代的だった。

人で混雑していても何も不思議ではないように思えた。

 

なのにやっぱり、今だってぽつりぽつりと人とすれ違う程度なのだった。

街から人が居なくなるには早すぎる時間帯のはずだった。

 

不思議な街だな、とシンジは改めて思った。

第三新東京って不思議な街だな。

 

こんなに巨大で発展しているのに、いつも一人っきりの様な気分になるのだった。

 

「…どこ行くの、アスカ」

 

返事はなかった。

ただどうも、ついて来てと言った割には当てもなくふらついてるだけの様な印象はあった。

 

電灯はまるで夜を否定するように大げさなほど頻繁に設置されていた。

通る度に彼と彼女の影をくるん、と半周させた。

 

ひどく明るかった。

それが夜でわずかに暗くなる彼女の髪を思い出させるかのように鮮烈に輝かせた。

 

たまに道行く人が彼女を振り返っていた。

アスカはずいぶん目立つようだった。

むき出しの太ももが街灯を反射してびっくりするぐらいしなやかに光った。

 

「どこ行きたい?」

 

と、彼女はそんな事を言った。

彼はそれに思わず目をぱちくりさせた。

 

なので、こう返した。

 

「…アスカは?」

 

すると、彼女はふん、と鼻を鳴らした。

 

 

ただ緋色の残滓を追うように歩いた。

 

 

夜の都心は彼は初めてだった。

 

ネオンのきらびやかさも彼にはあまり縁がなかった。

夜には慣れていたが、彼が居た処は比較的田舎だったから。

だから夜のビルの合間を縫うように歩くのはひどく新鮮だった。

 

そうしてみると、人工物も十分に美しい姿を垣間見せてくれるようだった。

 

夜を背景に蛍のようなビル群の窓の明かりが美しかった。

これが必要な時には武器になるのが信じられなかった。

 

エヴァで見る街はいつもミニチュアのようだった。

だからつい、自分もミニチュアになってミニチュアの街を探索してるような気持になった。

 

でも、やはり整頓されすぎているように思えた。

自然を眺める時の様な意外性が無かった。

 

全てが秩序だっていて、計算されつくして、管理されつくしていた。

自然物のように混沌と、だからこそ常に初めての姿を見せてくれる斬新さとは無縁のようだった。

 

それでも、色々な店やビルの建造を眺めるのは楽しかった。

 

そしてやはり、夜の散歩は子供たちに秘密の何かをしているような気持にさせた。

 

 

でもさっきからずっと、何もしゃべらなかった。

 

ふさふさと動く緋色を眺めながら思う。

アスカは、こんな気だるげな空気を纏う少女だったろうか。

 

知り合ったころに比べると彼女はどんどん変わっていったように思えた。

既知になったと思ったとたん、またすぐに未知になる。

シンジにとってはそんな事の繰り返しだった。

 

…アスカは、これからもどんどん変わって行っちゃうのかな。

 

彼は何となく、目を伏せた。

それから、あ、と彼は突然思いだしたように言った。

 

「ねえ、市内旅行…」

 

彼女は相変わらず後姿で返事もしなかった。

 

「アスカがいないと何も決まらないってみんな困ってるよ」

「ハッ」

 

彼女は振り向きもせず鼻で笑いながら言った。

影だけがくるん、と振り向くかのように半周した。

 

「ならあんたらだけで行きゃいいでしょ」

「…アスカは、いかないの?」

「なんであいつらと一緒に旅行なんぞいかなきゃなんないのよ」

 

その言い方にシンジは少し眉を下げた。

 

「だってアスカも行くって…」

「気が変わった」

「…トウジもケンスケも僕らのためにわざわざ修学旅行やめてくれたんだよ?」

「アタシら、じゃなくて、アンタの、でしょ」

 

振り向くと、く、と口角を上げて言った。

少し意地が悪いような笑い方だった。

でもそんな表情でも、やはり目はぬめるように光っていた。

 

「さっすが人気者よねえエースパイロットのシンジ君は。アンタらの暑苦しい友情とやらにアタシ巻き込まないでくれる?」

「…アスカ…」

 

すると彼女は急に真顔になった。

それから少しトーンを落とし。

 

「ねえ。あんた、ほんとは昔からエヴァの訓練してたんじゃないの?」

「え?」

 

もちろんそんなことはないので正直に答える。

 

「ううん、こっちに来てからだよ」

「…ま、あんたがそんな嘘つく必要ないか」

 

彼は少し首を傾げた。

彼女はまた振り返って後姿で言った。

 

「あんたさ、叔父さんってところ行ったの…いつだったっけ」

「…七歳ぐらいだよ」

「で、それからずっと、何してたのよ」

「どうって…離れで独りで暮らしてて…」

「知ってる。だからその生活で何してたのよ」

「何って…」

 

彼はどう言っていいかわからなかった。

でも静かにこう返した。

 

「…ただ、過ごしてただけだと思う…」

 

少しの沈黙の後。

ふん、と彼女は鼻を鳴らした。

 

「アタシは、それぐらいのころは弐号機に相応しいパイロットになろうってあがいてたわ」

 

彼は静かに耳を傾けた。

 

「あんた初めてのシンクロ率60超えだっけ?」

「うん、確か…」

「化け物じみてるわよね、あんた」

 

彼はまた眉を下げることになった。

今日一日でどれだけ眉を下げたかわからなかった。

 

「シンクロ率はただの目安って?そうね、その通りよ。模試みたいなもんよシンクロテストなんて」

 

彼女は気だるげなまま言った。

 

「でも、アタシがそこまで行けたのは12歳のころだった。毎日毎日どうやったらシンクロ率あげられるのか朝から晩まで考えて、実践して、訓練して…ちょっとずつ、ちょっとずつ」

 

ふと、彼女はすぐ傍のガードレールに座った。

すぐ斜めにある街灯が、彼女の緋色をより美しく、でも暗いように照らした。

 

「チルドレンになってからは学校以外はひたすら戦闘訓練、それからエヴァエヴァエヴァ…いわゆる英才教育って奴よ。当たり前よね、なにせこのアタシは人類の未来を背負うエリート中の―――」

 

と、突然、指の腹で腫れた唇を撫でた。

 

どうやら痛かったらしかった。

それから痛まない様にか、少しだけ声を潜めて言った。

 

「―エリートなんだから。」

 

彼もつられて、少し舌で自分の方の跡を舐めた。

ぴり、とした。

少し腫れ始めてしまってるように思えた。

 

ふと、前にお母さんのところに居た、という話を聞いた気がしたので彼は質問した。

 

「…お母さんとは?」

「ママは、事故の後遺症で一緒には暮らせる状況じゃなかったの。それでも生きてる間はしょっちゅう会いに行ってた。アタシの居場所はママの処だもの」

 

生きてる間は。

その言葉に彼はまた眉を下げた。

 

「小さいころからずっとママに憧れてた。強くて、かっこよくて、美人で、自慢のママだった」

 

彼女は静かに話した。

まるであえて感情をこめない様に。

 

「生活の全てはエヴァ中心だった。ほとんどの時間をエヴァに費やしてきた。でもそれを後悔はしてない。したこともない。するつもりもない。アタシはママの遺した弐号機をちゃんと受け継ぎたかったの…アタシには誇りがある」

 

伏せるような眼元は影が出来ていた。

 

「それでようやく、そこまで行けた。五年かかった。60%の大台超えたとき結構嬉しかったのよ。自分にご褒美あげようって、その日は内緒で贅沢して、とびっきり高いスイーツ買って、欲しかった服も買った。加持さんにも秘密でね…アタシの、アタシによる、アタシのためだけのサプライズ」

 

ぽつり、と。

 

「本当はママと二人でしたかったサプライズ…」

 

ふと一瞬だけ、彼女がひどく大人びた、別の女性のように見えた。

 

「でもあんたは、何にもせずただ過ごしてただけで、いきなりそこまで行けちゃって、あげくあっという間にあたしの記録まで抜いちゃうのね」

 

それからアスカはこう呟いた。

 

ひどく、ひどく静かに呟いた。

 

「…つまりアタシの七年は、あんたにとってのせいぜい二、三か月だったわけだ。」

 

 

彼は、と、胸を突かれた。

 

 

「あれ、あんたがこっちきてもっと経つんだっけ?まあ誤差よね」

 

彼は、動揺したように瞳を揺らした。

でも彼女は何事もないように続けた。

 

…誰もいなかったわ。

 

「誰も居やしなかった。加持さんだって仕事で接してくれてるだけだって本当はどこかでわかってた。ママしかいなかった。別にあたしには他に必要ないからそれでよかった。」

 

やはり静かな声だった。

 

「あたしはただママの存在をちゃんと受け継ぎたかっただけ。ママから娘のあたしに流れていく、ママが生きた証や、願いや、血や、歴史や、そういうものを全部。あたしの存在を世界に刻み付けてやりたかった。それがママの存在を刻み付ける事にもなるから。そのためならどんな努力だってできた。何を犠牲にしても良かった」

 

彼に視線を合わせるとそっと囁いた。

 

「…ねえ。あんた一体なんで、エヴァに乗ってんの」

 

彼は、それにはっきりとは答えられなかった。

 

「なんでそんな事すら答えられないくせにそんなに才能あんの。それとも、世の中ってそんな風にできてるもんなの?じゃあ…あたしは一体何なの」

 

それから、彼女は口をつぐんだ。

 

彼は、ひどい衝撃を受けたように青ざめていた。

 

でも、でも、と考えた。

やっぱりシンクロ率なんてただの目安だし、他は全部アスカが上なんだし。

ならその時間が無駄なわけ、そもそもアスカは美人さんだし頭いいし運動神経だっていいし、僕なんかよりずっとずっと、のような類のことを言おうとして。

 

幸いにも、彼はやめた。

 

きっと、そういうことじゃなかった。

 

そう、彼女が言ってるのはそういうことではないのだった。

それだけは彼にもわかった。

 

在るだけで優しく、癒され、喜びと生きる活力を与えられることがある。

 

それは在るだけで傷つけ、苦しめ、時に死に至らしめる事も可能である、と同義である。

 

だが、まだ彼にはそんなのは想像の外だった。

発想すらしなかった。

だからいきなり目の前にひょい、とその事実を提示され、ひどく動揺していた。

 

指先がきゅ、と冷える様に痛くなった。

彼のまだ幼さの残る顔に不釣り合いなほど、深く眉間に溝を作った。

 

悪意も自覚もなく存在だけで他者を害しうる、そんな現実は認めたくなかった。

 

世界がそんな風にできてるなんて彼はこれっぽっちも知りたくもなかった。

 

 

だが確かにその日、シンジは在るだけでアスカという少女の、存在の、ある何かを害した。

 

 

「教えてよ…七年かけてもあんたの数か月にも届かないアタシに。アンタには、どんな風に見えてるの…」

 

と、突然、ふ、と彼女の声質に鉛の様なものが混じった。

 

急に、ひどい疲れが襲ったように、彼女が濃厚な気だるさを纏った。

それは本来、十四歳の少女が纏っていい気配ではなかった。

 

一瞬、彼女の瞳が底なしに暗くなった。

眼と眉の間にひどく暗い影が差した。

 

確かに一瞬だけ、彼女の瞳に穴が開いたように思えた。

 

 

彼は、在るだけで害していた。

 

 

彼の中で灯っていた何かが急速にしぼみ始めた。

 

加速していた何かが急停止を始めた。

 

組み立てられ始めていた何かが崩れ始めた。

 

 

まるで足元にぽっかりと穴が開いたように、彼の脚が少し震えた。

 

彼は震える様に声を漏らした。

 

「…ァ、アスカ…僕…」

「…もし謝ったら殺してやる」

 

ひどく気だるげで、囁く様な口調だった。

 

彼はきゅ、と口をつぐんだ。

 

「アタシに同情しても殺してやる」

 

いっそ、穏やかですらあった。

ゆえに真実の響きがあった。シンジすらもそれを感じた。

 

実際、幼少より実戦訓練をしていた彼女は素手で人を殺せる知識や技量はあった。

もちろん度々アスカとも訓練する彼はそれをうっすらと知っている。

 

彼の腕に少し鳥肌が立った。

 

「…あたしには、誇りがあるの」

 

アスカは、静かな声で続けた。

 

「その後のアタシの人生がどうなるかだなんて知らない。その後の事なんて知らない。でも、あんたがアタシの誇りを汚すんなら、あんたを殺すわ」

 

それから、やはり囁くように。

 

でも、かするような微笑を織り混ぜて。

 

「…なんなら、その後でアタシも死んでやるわよ」

 

その面差しにはいっそ、透明感すらあった。

 

淡々としている分、本気で言ってるようにしか聞こえなかった。

彼はただ言葉を失ったように立ち尽くした。

 

それでも何か言おうと口を開く。

 

「…僕は…」

「ねえ、あんたはそんなにアタシと死にたいわけ?馬鹿シンジ。シンちゃん…シンジ君。」

 

やはりわずかに微笑を含んだ言い方だった。

だから彼は、再び口をつぐんだ。

 

 

すると、ぽい、と彼の顔の傍をサンダルが飛んで行った。

 

 

思わず視線を追った。

 

3,4メートルあたり先のアスファルトの上に転がって、横向きにぱたり、と倒れた。

 

彼は口を開けて振り返った。

 

「ひろって」

 

彼女は座ったまま、裸足の方の足を地面につかない様にぷらぷらさせていた。

 

街灯が根元からむき出しの脚をてからせるように、光らせた。

その灯が彼女の緋色の髪を輪郭だけ、透明に見せていた。

だがその分だけその内側は暗く、薄く影が差した。

 

「ひろって。」

 

影が差したまま、気だるい口調だった。

彼は彼女をじっと見つめた。

 

それから、眉を下げて。

 

ゆっくりサンダルを取りに行った。

街灯の光がやんわり側面を光らせていた。

 

彼はサンダルを拾うと、どこかおずおずと彼女の元に戻った。

 

やっぱり、彼女は無表情に近い様子で彼を見ていた。

無言のまま視線を合わせて、それから、おずおず、と彼女の足元にサンダルを置いた。

 

すると彼女は、足の先ですくう様にしてサンダルをひっかけた。

 

 

とたん、ひょい、と投げた。

 

 

彼のすぐ顔のそばを彼女の足首あたりがかすめた。

 

サンダルはアーチを描いて綺麗に飛んで行った。

 

 

かん、

 

かつ、かつん、

 

つ…

 

 

 

まだ、彼はかがんだままだった。

 

思わず、といったていで彼は口を開いて彼女を見上げた。

 

彼女は少し、前かがみにして、彼を静かに見下ろしていた。

彼を見下ろす瞳はやはり濡れたように光っていた。

 

でも、その奥では何かがちろちろと蠢いていた。

 

少し彼に覆いかぶさる様ですらあった。

垂れた彼女の髪の先が、彼の頬を撫でる様にするり、とくすぐった。

 

こんな状況の時ですら、彼女の髪は滑らかで、そして良い香りがした。

 

「ひろって」

「…アスカ…」

 

彼は言葉も出ないような様子で口をつぐんだ。

なにか、道行く人がちろちろ二人を見始めていた。

 

それからやはり、彼はまたおずおずサンダルを拾いに行った。

さっきより少し遠かった。

 

好奇の目が向けられるような気配がした。

目立つのが嫌いな彼はそれだけで赤面しそうだった。

 

なので彼は一瞬だけ靴質作戦取ろうかな、などと考えてしまった。

 

でも靴質にとるには新しすぎた。

そもそもサンダルだった。靴質にとるには相当な熟成が必要だった。

 

彼は、また静かに戻ると、少しだけ躊躇するような様子を見せて。

それからまた、サンダルをアスカの近くに置いた。

 

すると彼女はすぐに足をサンダルに引っ掛け。

 

それからやっぱり彼の顔をかすめる様に、勢いよく、飛ばした。

 

 

かっ、

 

コッ…

 

、…

 

 

今度はだいぶ先の壁のコンクリに当たって、裏返しにひっくり返った。

 

彼は静かに立ち上がった。

それから困ったように、哀しいように彼女を見下ろした。

 

見下ろすと彼女の唇の血の跡が目立った。

斜め後ろの街灯が彼女の端正な顔を三分の一だけ照らしてた。

 

彼女は無表情に彼を上目に見上げた。

やはり濡れたように光る目で、でも、気だるく囁いた。

 

「ひろってよ…」

 

彼女の瞳の奥で、ますます何かが蠢いてるように思えた。

すでに何人かの通行人が止まって、二人を見ているようだった。

 

彼はしばらく彼女を見つめて。

それからまたおずおずと踵を返してサンダルを拾いに行った。

 

すると、その背後からひゅん、とさらにもう片方のサンダルが彼の耳をかすって飛んで行った。

 

「痛っ、」

 

と思わず呟いた。

 

ぱた、ぱた、こん、と勢いをつけてもっと遠めに落ちた。

唖然として耳を抑えたまま振りかえる。

 

彼女は地面に両足をつかない様にガードレールに座っていた。

脚をぶらぶらさせながら目を背けるでもなく、ただ、彼を見ていた。

 

「ひろって」

 

彼は立ち止まって。

それから、悲しそうに眉を下げた。

 

ゆっくり、つい数時間前に買ったばかりでもう傷がついたサンダルを両方とも拾った。

 

彼は、両手にサンダルを持ち途方に暮れたように立ち尽くした。

もうどうすればいいかわからなくて。

少し離れた彼女を、耳を澄ます様に見た。

 

街灯が、ひどく明るく彼女の緋色の輪郭を目立たせた。

 

でもこの距離ではその内側は反比例するように暗く、黒く、表情は見えなかった。

 

でもその佇まいは、何か、ひどく寄る辺がないようにも見えた。

あまりに寄る辺がなくて座る事しかできない幼子にも見えた。

 

ふと。

 

その姿が彼の何かにはっきり触れた。

その佇まいに何か覚えがある様な気がしたからだ。

 

彼は目を瞬かせた。

 

 

彼はここに来る前。

 

 

深夜に目が覚めてしまって、ふと、何かに焦がれる様にあてもなく夜を歩くとき。

 

ときどきそうやって、どこかのガードレールや、適当なところに座って、ずっと夜を眺めた。

何かを探しているようだったが、何を探してるかは彼もさっぱりわからなかった。

 

もう、今は気づいているのだが。

 

つまり、そういうことなのかな、と彼は思った。

彼女も、そうなのかな。

 

そしてこれもわかっていた。

もうわかっていた。

 

彼は目を伏せて、こう思った。

 

 

アスカは、時々、僕みたいだ。

 

 

だからシンジはふ、と息をつき。

 

改めて深く息を吸って、吐いた。

それからゆっくり、彼女に歩んでいった。

 

表情がわかるぐらいまで近寄って、そこでまた止まった。

 

アスカはじっと彼を見た。

上目使いの光る眼とは対照的に、眉と目の間に影が差していた。

 

彼は、静かにこう言った。

どこか、優しいほどに、そっと。

 

「…どうしてほしいの、アスカ」

 

すると、彼から目を離さないまま、右足を、つい、と彼に向けた。

むき出しの腿から足の指先まで、染みの一つもない、美しい脚だった。

 

「履かせて」

 

だからシンジは片膝でしゃがむと、彼女の右足首に手をやった。

 

すると、彼女が左の素足をその腿の上に、ぺたり、と乗せた。

少々、あられもない恰好だった。

 

だから彼はできるだけ視線を上げない様に目を伏せた。

そっと、すべすべした彼女の脚にサンダルを履かせる。

 

どこからか口笛みたいなのが聞こえた。

やっぱりちょろちょろと注目されているみたいだった。

 

「こっちも」

 

彼は黙って左足も同じようにする。

 

アスカは目を伏せながら、じっと彼を見つめた。

 

つむじが見えた。

伏せた彼の眼はまつげが長かった。

 

彼の動作は丁寧だった。

壊れ物のように、彼女の足にサンダルを履かせた。

ひどく繊細で、優しい指先だった。

 

踵のストラップをぱちりと止めた。

そして履かせ終わると、彼は片膝をついたまま、彼女を見上げた。

 

相変わらず黒々とした、澄んだ目をした男の子だった。

そして相変わらずさっぱりとした髪の女の子と言った風貌だった。

 

今はまだちんちくりんの男の子と言っても差し支えないのかもしれなかった。

アンタ女装したらきっと似合うわよ、などと考えた。

 

だからこそ、彼女がつけたその唇の、赤くはれた傷跡はひどく不釣り合いで、目立った。

 

彼はその唇で、そっとこう呟いた。

 

「…満足した?」

 

サンダルを投げたときかすったのか、彼の耳から少し血がぽつ、と出ていた。

 

だから彼女は、身をかがめた。

 

彼が時々触りたそうにしている彼女の自慢の髪がかかる様に。

髪が彼の顔にかぶさるようにかかって、彼はちょっとくすぐったそうに目をつむった。

 

それから彼の耳元に顔を近づけた。

耳の傷跡を、舌でちろ、と舐めた。

 

彼が動揺したように身を揺らがせるのが分かった。

 

汗なのか血なのか少ししょっぱかった。

それをこくり、と飲み込んだ。

 

彼女の細い首がそれに合わせて蠢いた。

 

それから彼女は、彼の内腿をつま先でそっと撫でて。

 

「しない。」

 

彼女は彼の手首を取ると当然駆け出した。

 

数人のギャラリーがなにか言ってる様だった。

何も聞こえない様に彼女は無視した。

 

彼は慌てたようについていった。

でも抵抗もせず、何も言わず、黙ったまま彼女に手を引かれた。

 

手首から伝わる彼女の手は、しっとりと湿っていて、とても熱かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

26/6/24

 




次話 17-1《水族たちの楽園》(仮題)
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