逸見エリカにとって、それは裏切りであった。
もう何度目の開催になるのか、数えるにも飽きるほどに長い伝統を持ち、数多ある「女のたしなみ」の中でもっとも激しい競技、戦車道。その戦車道の数多ある流派の中でもっとも長い伝統ともっとも大きい規模を持つ流派、西住流。
彼女は西住流をいまに受け継ぐ本家の次女であった。
生まれたその時から彼女に定められた役目、それはやがて跡取りとなる彼女の姉を生涯にわたって支え続けることであった。
その運命は彼女にとって二重の苦痛を与えた。一つは自らの人生の過ごし方が生まれたその瞬間がんじがらめに縛られた不自由さ。そしてもう一つは、その立場を自らが進んで望んだわけでもないのに寄せられる、戦車道を嗜む女たちからの妬み・嫉み、阿りの視線である。
立場上姉よりも重いプレッシャーを受け続けた彼女を、エリカははじめなんの疑いもなく嫉妬の目で見つめていた。それは彼女と親しくない戦車乗りには当然のことであった。
「あの西住まほの妹っていうだけで一年生に副隊長を任せるなんて。黒森峰の伝統が泣くわよ」
しばしば飛び交う讒言に、エリカも同調していた。
だから、大会に出るにあたって彼女と同じ戦車に乗ることになったとき、エリカは猛烈に反発した。
「納得いきません!一年生が車長を務める戦車に乗って良い経験になるとは到底思えません!別の戦車にしてください!」
しかし、若干二年生にして既に黒森峰の隊長を務めていた彼女の姉、西住まほはエリカを一瞥して淡々と述べた。
「みほはそこらの二年生よりも優れた戦車乗りだ。なにしろ私と同じ西住流本家の稽古を直接受けているからな。ここの戦い方の基準は私とみほだ、それを間近で見られるんだから本来志望者が殺到してもおかしくないほどなのだが、逸見はなにか文句があるのか?」
そこまで言われては反論の余地もない。エリカはしぶしぶ彼女の戦車に乗った。
まほの言うことは全く正しく、彼女の戦車さばきはエリカの意識を変えるほどに素晴らしいものであった。エリカは彼女の実力を正視することもなく彼女を貶めていたことを恥じた。
彼女を曇りなく見つめることができるようになり、エリカは彼女が戦車に乗っている際に一度も笑わないことに気づいた。戦車を降りれば、普段孤立していることもあってかエリカが話しかけるといつもにこにこと話をしているのに、である。気になって尋ねると、彼女はこう答えた。
「私、戦車道嫌いなの」
どうして、と問うても彼女はそれ以上話そうとしなかった。
そして大会、決勝まで順当に勝ち進んだ黒森峰は、プラウダ高校に敗北し10連覇を逃した。決勝でフラッグ車に指名されたエリカの戦車、彼女の戦車が撃破され、予想もしなかった敗北であった。
当然のように、彼女は敗北の戦犯として扱われ、黒森峰のチームメイトはおろか姉にまで冷たい扱いを受けた。敗北につながった彼女の行動のせいである。
水没の危機にあった僚車の救助。常に前進と勝利を求め続ける西住流の流儀に反する行いであった。
以前にも増して孤立を極めた彼女は、やがて逃げるようにして黒森峰を出て行った。
彼女がいなくなってから、黒森峰はほぼ彼女に対する敵意のみでまとまっていたと言っていい。黒森峰で起きた不協和音はすべて彼女のせいにされた。練習中にミスをすれば蔑称として彼女の名で呼ばれた。伝統校が聞いて呆れる。
そんな中で、エリカは副隊長に任命された。彼女の穴埋めとしか思えないその人事に、エリカは素直に喜ぶことができなかった。
副隊長になって、エリカは初めてあのときの彼女のセリフの意味を理解した。
成功するのが当たり前、ちょっとしたミスでも大げさになじられ、二言目には「所詮おまえはあいつの代わりだもんなぁ」。なるほどこれでは戦車道を嫌いになってもおかしくない。
それでもエリカは耐えた。戦車道に潰され、戦車道から逃げた彼女のようにはならない。その誓いだけがエリカの心を支えた。
季節は巡り、再び大会の季節を迎えた。
対戦表に、エリカは見慣れない学校の名を見た。
大洗女子学園。戦車道をやっている学校はすべて知っていたつもりだったが、どういうことだろう。軽い気持ちで雑誌の戦車道大会特集を開いたエリカは、衝撃的な光景をそこに見た。
彼女であった。
エリカにとって、それは手酷い裏切りであった。
ある日まほと立ち寄った戦車喫茶で、エリカは新しい学校のチームメイトと談笑している彼女を見た。
彼女は心からの笑顔を浮かべていた。黒森峰では決して見せなかった表情だった。エリカがずっと見せて欲しかった彼女のその表情は、しかしエリカに向けられてはいない。
「副隊長…」
思わず漏れた呼びかけに、彼女とチームメイトが不審そうにこちらを見る。
瞬間、エリカは悟った。ああ、彼女は私のことなど覚えていないのだ。
それまでの彼女への憧れが、あのときまでとはまた違った憎しみに変わる。
エリカの心は般若となった。怒りの奥に深い悲しみを湛えた般若となった。
「ああ、『元』、でしたね」