高校生になって、新しいことがしたかった。
中学でやっていたテニスは楽しかったし、友達と一生懸命、大会に向けて練習して、練習あとにみんなで眺めた夕焼けが、ぜんぶ綺麗な思い出にしてくれると思ってた。
だけど、ちっともうまくいかなかった。あたしは練習しても練習してもうまくならなくて、つまらない人間関係や怠慢な雰囲気に挫折して、試合にもあまり出してもらえずに、お情けの引退試合はあっけなく一回戦負け。
結局は──最後まで充実感を得られなかった。
だからこそ、あたしは、高校でも新しい友達をつくって、新しいことにチャレンジして、今度こそ努力して何かを成し遂げる、達成感みたいなものを感じたかったんだと思う。なんていうんだっけ、こういうの。『青春を謳歌』ってやつ?
あたしは吹奏楽部に入った。なんとなく、上品でかっこいいかなって思ったから。中学の友達に聞かれたら笑われちゃうかもね。でも、やってみたかったんだ。
音楽なんて流行ってるアイドルとかバンドとか、友達に勧められたのを適当に聴くぐらいだったのに、そんなあたしが吹奏楽だよ? そういうの、ちょっとおもしろいじゃん!
吹奏楽がどんなものかは、あんまり知らなかった。だけど、練習して、友達つくって、大会で頑張って、そういうところはきっと一緒だと思ってた。今になって思えば、運動部と文化部の違いくらいは考えておくべきだったかもだけどね。
──はじめて触れた音楽は、きらきら星って簡単なやつでも、すっっっごく楽しいものだった。知っちゃったから、やめられない。音楽ってこんなに、どきどきするものなんだ、って。
それから、一緒に部活に入った子たちも、久美子は──ちょっと発言に不注意だけど、いい子だし、
それから──加藤葉月は、恋をした。
◯
「あれ、葉月ちゃんだけですか?」
「や、遅かったね、みどり。なんか久美子も先輩たちも用事があるんだってー」
こんにちは、といつものように元気に挨拶して楽器室に入ってきたのは、あたしと同じ低音パートの川島
なんだか自分の名前『さふぁいあ』に不満があるみたいで、自分から『みどり』って呼んでほしいっていつも言ってる。その呼び方も一年でだいぶ部の中に浸透した。あすか先輩だけは、最後まで『さふぁいあ川島』って呼んでたけどね。
そんなみどりは低音パートのメンバーが少ないのを聞いてちょっと残念そうな顔をしてる。
「そうですかぁ。まあ、お昼休みは基礎練ですし、もともと参加は自由のはずですから」
「ねー。いつの間にか、当たり前みたいにみんな出るようになってるけど」
「えへへ、部の意識が高まってるのは、とってもいいことですよ?」
みどりは最近の部活のみんなが前よりも頑張るようになったのを、自分のことみたいに嬉しそうに言った。
私たちのはじめての青春──全国大会が、銅賞という残念な結果に終わって、三年生が引退してしまってからも、部の雰囲気は変わらず熱心なままだ。
それはきっと今まで関西大会にすら行けなかった北宇治が、ドラマみたいに電撃的に全国大会まで進出しちゃったことや、滝先生によるカリスマばりばりの誘導と熱心な指導の賜物で。
新しく部長になった吉川先輩なんかは「みんながこんなに頑張ってると、かえってやる気を出させる部長の仕事がないわ」とかぼやいてたけど、顔は嬉しそうに笑っていた。
「あの久美子だって、すっかり高坂さんに感化されて、毎日まいにち練習だーって励んでるもんね」
「はい! みどりも負けてられません!」
「おぉう……元気だなあ」
みどりは楽器ケースからコントラバスを引き出しながら楽しそうに言う。あたしはそれを見て苦笑した。
必死に全国大会の出場権を勝ち取った久美子やみどりたち、あたしは掛け値なしに尊敬したんだ。もう初心者なんて言ってられない、来年こそはあたしもコンクールに出る。その決意があったからこそ、三年生が引退してからあたしは今まで以上に努力した。
でも今は──
「葉月ちゃんも頑張りましょうよ!」
「あはは……そうだね」
ちょっとだけ、スランプに陥っていた。
原因は、きっとひとつしかない。
「もう、葉月ちゃん最近元気ないですよ?」
「そ、そんなことないよ? こうしてお昼も練習に来てるじゃんか」
眉根を寄せてわざと怒った顔をみせるみどりは、慣れていないのかちっとも怒っているように見えないけど、元気づけようとしてくれる優しさはしっかり伝わった。
ちゃんとあたしのことを見てくれてるんだと思って、嬉しくて思わずへへっと笑ってしまう。みどりにしてみればただ友達を心配しただけだろうけど、あたしはそれだけでも嬉しかった。そしてそれ以上に、それだけであることが苦しかった。
すごく変な話だし、あたしが変になっちゃったのかもしれないけど──はじめてじゃないから、わかってしまう。
あたしは、川島
◯
あの日、あがた祭の日。
あたしは塚本に告白して、振られた。
「──それでね、お祭り気分を思いっきり満喫しちゃったよ! えっとね、わたあめに、りんごあめに、たこ焼きに──」
「塚本くんとは、どうだったんですか?」
何も言えなかった。みどりと合流しても、普通でいられると思ってたのに。みどりの顔を見た途端にあたしは弱くなって、みどりの声を聞いた瞬間に壊れちゃった。
「────っ!」
気がついたら、あたしは声をあげて泣いていた。すぐに身体をぎゅっと締め付けられる感触があって、甘い匂いでみどりだと気付いた。それから足元にもぽふっと小さな柔らかい衝撃。みどりと琥珀ちゃんに優しく抱き締められて、あたしの涙はもう止まらなくなってしまった。
──あたしが泣いて、みどりも泣いて。
涙が枯れるまで、あたしたちは泣き続けた。
ありったけの涙を流して、全部の気持ちを吐き出して、やっと泣き止んだ頃に、あたしは自覚した。
恋なんて苦しいだけのものはもうしたくないと。こんなことなら告白なんてするんじゃなかった、と。
──こうして、あたしの恋は終わった。
ひと夏の淡い恋の思い出、なんて言えば聞こえはいいかもしれないけれど、初めての失恋は思いのほか、あたしにトラウマを残すことになった。
◯
「二度と恋なんてしない、って思ってたのになあ」
湯気で曇る視界の中に独り言を投げる。声は揺れて反響して、もう一度あたしの中に染み込んだ。
姿勢を変えると体の動きにあわせて水音が響く。寒くなってからはなかなか温かいお湯から出られなくて、気がついたら長風呂になっちゃうんだよね。
あー、うー、なんてうめき声を漏らしながら湯船の中でくねくねしていると、お母さんが早く上がりなさいって声をかけにくる。寒くてなかなか上がれないから困ってるのに。
「……むー、みどりも今ごろは、お風呂に入ってる頃かな」
なんとなく、みどりのことを思い出した。今のあたしみたいに、湯船の中でぱしゃぱしゃ水を跳ねて遊んでいるところを想像する。あたしより体が小さいから、きっとかわいい絵になるだろうなあ。
頭の中の小さな女の子の、細い腕や足にお湯の水滴がまとわりついて、つうっと滑る。控えめというよりも、なだらかとか平坦とか言ったほうがいいくらいに細くて、だけど柔らかくて丸くて、かわいい体つき──
「ん!? 今なに考えてたあたし!?」
うわあ、って自分に引いて鼻までお湯に潜る。ぶくぶく頭を冷やして──あっためて? あっためちゃダメなんじゃない!?
「うあー、あつい……」
ぶくぶく、だんだんのぼせていく。朦朧とした頭の中には相変わらず、追いやろうとしても追いやろうとしても、ずうっとみどりがいる。
──あの時からずっと、あたしの頭の中にはみどりがいるんだ。
「み……どりぃ……」
ぶくぶく沈んでいくあたしは、意識が薄れていく中にうっすらと、驚いた顔で浴槽を覗き込むお母さんの顔をみた。
◯
「あー、頭痛いよぅ……」
「どしたの葉月ちゃん?」
前の席の久美子が振り返って心配そうに訊いてくるのを、あたしは頭を振ってうんうん唸りながら昨日のことを説明した。
「お風呂でのぼせて倒れた!? それ……っ、ごめ……ふへ、なにがあったの?」
「もー、久美子また笑ってるぅ……」
「ごめ、ごめんって……は、ふう。それで、なんで突然のぼせちゃったの? 長風呂でもした?」
「うっ……まあ、そんな、とこ?」
「大変だねえ、朝から頭痛いなんて。保健室行ったら?」
「そうしよっかな……」
久美子は笑ってはいるものの、ちゃんと心配してはくれてるみたいで、あたしの顔をみて保健室で休むのを提案してくれる。あたしは自分の額に手を当ててみて、なんとなく熱っぽいなと思った。もしかして風邪でもひいたかな。
「おはようございますっ、久美子ちゃん、葉月ちゃん! ……あれ、頭かかえてどうしたんですか?」
「わ、わ、みどり!?」
「そうですよ? みどりは川島みどりです」
慌てるあたしに構わずに、久美子がみどりにあたしの昨日のことを説明してくれた。恥ずかしいからあんまり聞かれたくなかったんだけど。
「葉月ちゃん、なんか昨日長風呂してのぼせちゃって、今でも頭痛いんだって」
「それは大変ですっ。葉月ちゃん、大丈夫なんですか?」
「え? うん、だいじょーぶだいじょーぶ! ほらこのとおり──」
そう言って、なんの問題もないことをみせるためにあたしは立ち上がった。突然に立ち上がったせいか、ふわっと目眩に襲われて、なんとか体勢を整えようとするけど、足元が絡まってつまづいて、立ち直ろうとしても、もう手遅れだった。
声も出せないまま目の前に倒れ込みそうになって、咄嗟に左手がぎゅっと引っ張られるのを感じる。後ろの席から久美子が引っ張ってくれてるんだとわかって、それでも勢いを殺しきれずに、あたしはゆっくりとみどりめがけて崩れていった。
みどりは小さな体であたしを受け止めようと、足を踏ん張って力いっぱいに、ぎゅむっとあたしを抱き留める。
「わ……ごめん、みどり。久美子も」
慌てて謝るけど、体調がおかしいのか心臓が痛いくらいに暴れ回って息をするのが苦しい。チューバで鍛えた肺活量も、ちっとも役立たない。
「大丈夫? 葉月ちゃん、それにみどりちゃんも」
「みどりは……だいじょーぶ……ですぅ」
あたしがなんとか足元を直して自分で立てるようになってからも、みどりは心配なのかずっとあたしに抱きついたままだった。だから、あたしはみどりにもう大丈夫だって言わなきゃ。
「みどり、ねえ、あの、もう大丈夫だから……」
「……葉月ちゃん、いつも心配かけてばっかりなんですからっ。今日は無理しないでちゃんと保健室に行ってください」
みどりはあたしの胸に顔を埋めたまま、ちょっと不機嫌そうな声。あたしはわざわざ部活に来るために学校に来たんだから、保健室には行きたくない。
「でも、部活の練習もあるし……」
「でもじゃありませんっ!」
ようやくみどりが顔を上げる。抱きつかれたままだから、直接顔の真下から覗き込まれるみたいなかたち。みどりの目にはうっすら涙さえ溜まってみえて、さっきから感じていた痛みに増して心臓がぎゅっと締め付けられて、あたしはもっと苦しくなった。
「葉月ちゃんがいないと困るのは私や久美子ちゃんなんですよっ? ちゃんとよくなるまで休んで、それから部活に出てくださいっ!」
みどりらしくない、叱るみたいな声。
「……ごめん、あたし保健室行ってくるっ! みどり、久美子もありがとっ!」
「え、葉月ちゃん!? ちょっ──」
さっきまでの苦しさなんて嘘みたいに吹き飛んだ軽い身体で、もう必要もないのに保健室に駆け足。
みどりが心配してくれたのが嬉しくて、たったそれだけのことなのに、あたしは飛び上がりそうに嬉しくて。あたしってこんなに単純な人間だったっけ、と思うくらい。はじめからそうだったのかな。それとも、変わっちゃったのかな。
「……なんてっ!」
保健の先生に怪しまれないように笑みを抑えて、あたしは保健室のドアを叩いた。
◯
「加藤葉月、かんぜんふっかーつ!」
あたしが低音パートの練習教室に入ったとき、中にいたのは後藤先輩と莉子先輩だけだった。
「葉月ちゃんこんにちは! 体調はもういいみたいだね」
「はいっ、おかげさまで! ところで莉子先輩、久美子と夏紀先輩と、えっと、みどりは?」
「係の集まりらしい。中川と黄前は美化係、川島は写真係だろ」
後藤先輩が代わりに答えてくれた。そうなんですかあ、とあたしが頷いていると、
「後藤くん、よく覚えてるね」
「……普通だ」
莉子先輩がいつもみたいに柔らかい笑顔で後藤先輩に話しかける。後藤先輩も、当然まんざらでもない顔で嬉しそうだ。ほほえましくて、だけどなんとなく居づらくなって、
「えっと、あたし楽器出してきますねっ」
「あ、ごめんね葉月ちゃん!」
あたしの微妙な声色を、莉子先輩は薄々察してくれたっぽい。後藤先輩は相変わらず黙ったままだけど。あたしは二人に見送られて楽器室に向かった。
練習中のパートをいくつか横目に見ながら楽器室に着くと、先客がいた。長くて艶のある黒髪に、制服の上からでもそれとわかるモデルみたいなプロポーション。出るべきところは出ていて、絞るべきところは絞られている。女のあたしから見ても、というか女のあたしから見るからこそ綺麗な女の子。さぞかしモテるんだろうけど、彼女にそういう浮いた話はまったく聞かないんだよね。なんでだろう?
「高坂さんじゃん、こんにちは!」
「……ええ、こんにちは」
高坂さんはあたしにちょっと一瞥くれると、すぐにトランペットへ向きなおる。こういう人なんだ。あたしには、少しも興味がないみたい。知り合ってから間もない頃は、そりゃ気になりもしたけど、今じゃすっかり慣れちゃった感がある。もしかしたら恋愛の話を聞かないのはこれのせいかもね。
「あれ、高坂さんは係の集まりないの?」
「楽器管理はコンクールの時に全部確認しちゃったから、今改めてすることなくて」
そうだ、高坂さんは楽器管理係だった。あたしがチューバを持ち帰るためのソフトケースを借りた時に、高坂さんが探してくれたって久美子が言ってたっけ。
「そっか、あたしんとこの楽器運搬もコンクールとか演奏会以外じゃ暇なんだよね」
「そう」
と、そこで一度会話が途切れる。話している間も止まることなく、几帳面に動いていた手先は、トランペットのグリスなんかをきちんと整えて、いつでも吹ける状態にし終えていた。そうか、これで会話はおしまいかあ。やっぱりなんか味気ないなあ、と思った時、
「……加藤さん、上手くなったね」
高坂さんは、楽譜を入れたバッグとトランペットをまとめて、楽器室を出る間際になって、そんなことを言った。
思わず呆然として、ぽかーんと高坂さんを見つめていたら、あっけなくすたすたと楽器室を出て行ってしまう。
「え、え……あり、がとう?」
たったひとつ残されたあたしのお礼は、とっくに相手を失っていて、独り言と変わらない響きで楽器室に落ちていった。
──そっか、こういう人なんだ。高坂さんって。
あたしは自分もチューバをケースから引っ張り出しながら、高坂さんにもそのうち彼氏とかできるかもなあ、なんて。そんなことを考えていた。
◯
つい昨日まで青々と繁っていた気がする木々も、気が付けば紅く、黄色く色づいている。風が吹くと少しだけ肌に冷たくて、もう夏は終わっちゃったんだなあ、ということを再確認させられる。
なんて、黄昏てみるけれど、別にあたしは紅葉とか花見とか、そういうのにあんまり興味なかったんだけどね。高校生になって、少しは情趣をわかる心が育ってきたってことなのかな、とか、教室の窓から見えるだけいっぱいの葉々を眺めながら思った。
「……お待たせっ。ごめんね、葉月ちゃん時間大丈夫だった?」
と、後ろのドアから久美子が入ってきて、あたしは振り返った。いつもは久美子が振り返る側だから、なんとなく変な感じだけど。
「んーんっ、だいじょぶ! じゃあ、みどり迎えに行こっか」
今日は職員会議で珍しく部活がお休みで、自主練する人はしてもいいって言ってたから高坂さんなんかはいつも通りなんだろうけど、あたしと久美子が久しぶりにみんなで勉強会しようって言い出した。
みどりも久しぶりに甘いものが食べたいって言って、それならたまには京都まで出てみようってことになったんだ。京都なら甘いものが美味しい店も宇治よりたくさんあるし、勉強できるファミレスだってもっとたくさんあると思う。
それを聞いたみどりは祇園四条にある辻利の抹茶パフェが食べたいって言い出して、どうせなら行ってみようかって流れ。京都に住んでても特別なことがなければ滅多に抹茶なんて食べないから、あたしも久美子も久しぶりだった。
と、階段を登り終えて、気付けば見慣れたドアに手をかける。
「やー、みどり! 迎えに来たよっ!」
「葉月ちゃん! ごめんなさい、もうちょっとで終わりますから少しだけ待っててくれませんか?」
音楽室のドアを開けてみどりに声をかけると、何人かの先輩とみどりが寄り集まって何かしている。用事があるとだけ聞いていたけど。みどりはちょっと申し訳なさそうな顔をしていて、あたしは手伝えそうなら手伝おうと思って、用事が何かを訊いた。
「何してんの? あたしも久美子も時間あるし手伝うよ」
「えっ、私も手伝うの?」
「……久美子」
「や、手伝うけどさ……」
また久美子がごねるけど、あたしは久美子のこういうところが案外嫌いじゃない。本音をぽろっと口に出しちゃうのは問題だけど、それって逆に信頼してくれてるからなんじゃないかな、なんて、そう思える時があるから。
あたしと久美子が言い合っていると、
「業者からコンクールの時の写真が届いたから、アルバム用にいいのを選定してるのよ」
「あ、吉川先輩」
代わりに吉川優子先輩が答えてくれる。となると、これは写真係の集まりなのか。そういえば普段仕事してるのを見てないから忘れてたけど、みどりは写真係だった。優子先輩はみどりとあたし、久美子を見ると、
「川島さん、約束あるんでしょ? あとはうちらでやっとくから行ってきなよ」
「そんな……私だけなんて悪いですっ」
「いいから。それに、川島さんはもう十分仕事してくれたしね」
そう言って写真の入っているらしい茶封筒を指差す。みどりは少し困ったような顔をしながらもきちんと優子先輩にお礼を言って、あたしたちは音楽室を出た。
◯
「優子先輩ってさー、なんか、大人っぽく? なったよね」
京阪電車の中で久美子がぽつりと言った。
「前は子供みたいだったってこと?」
「や、そうじゃないけど……なんだろ、なんというか……うーん」
あたしが続きを促すように久美子の目を見ると、うまく言葉が出てこないみたいで曖昧な笑みを返される。だからあたしは前から思っていたことを言ってみることにした。
「でもさ、久美子ってコンクールの頃、優子先輩のこと苦手だったでしょ」
「えっ……なんで?」
久美子はあからさまに嫌な顔をした。やっぱり、久美子はけっこうわかりやすい子だと思う。あたしが言うんだから相当だよ、ほんと。
「見てれば分かるって。久美子すぐ顔に出るし」
「…………顔、顔?」
「まあ、最近は普通に話せるようになったみたいでよかったじゃん」
「別に、前から苦手じゃないしっ」
「あーはいはい。わかってますわかってます」
久美子は悔しそうな顔をしているからますますわかりやすい。みどりはそんなあたしたちを見て、いつもみたいににこにこしていた。
「でも確かに、優子先輩には余裕が出てきましたよね。コンクールの時はなんだか、いっぱいいっぱいで苦しそうでしたし」
「そうそれっ、それが言いたかったんだよみどりちゃん!」
「ほんとかなあ?」
「本当だってば!」
ちょっとからかうと久美子はすぐにムキになる。それがけっこうかわいくて、つい遊んじゃうんだよね。
ひとしきり騒いで、今度は久美子がちょっと真剣な顔になる。
「優子先輩、やっぱり香織先輩のことで悩んでたんだろうし、もっと言ったらきっと、みぞれ先輩のこととかも……」
「部活全体でも、特に大変な時期をがんばってきてくださった先輩ですしね……」
「……ま、だからこそ今こうして、立派に部長を務められてるんだろうけどね。たくさん悩んだから強くなったんだよ、きっと」
優子先輩は特に、いろんなものにぶつかって、乗り越えることで強くなってきたタイプだと思う。高坂さんやあすか先輩は、どうだろう?
「……悩み多き女、だね」
「なんだかかっこいいですねっ! 悩み多き女、吉川優子……」
「本人に言ったら怒られるよ? たぶん」
「それは間違いない」
優子先輩の前で余計なことは言わないように、という、あすか先輩でもなければ北宇治高校吹奏楽部で生き抜くために絶対に必要なこと(夏紀先輩は例外だけど)を再び胸に刻み込んだあたしと久美子とは裏腹に、みどりはなんだか目をキラキラさせて、
「みどりも、いつかは悩み多き女に……」
「いや、悩みは少ないほうがいいでしょ」
「そりゃそうだ!」
三人で笑いあっていたら、気が付けば目的の駅に着いていた。
◯
お店を出て祇園四条駅に向かいながら、あたしたちはめいめいスイーツの感想を言い合っていた。いや、もう少し一方的に、スイーツの感想を言う人と聞く人に分かれてたかも。
「もう、もうもうもう……めっちゃ、美味しかったですねっ!!」
みどりがぴょんぴょこ跳ねながら言う。もうずっとこの調子で、辻利のお店に着いた時からみどりはだんだんおかしくなって、抹茶パフェを注文したところで一旦の沈黙をみせて、いま思えば嵐の前の静けさだったそれが抹茶パフェの到着をもって完全に決壊して狂喜乱舞のパフェ会だった。あたしもちょっと途中から何言ってるかわかんないけど。道中の発言はほとんどこの子である。元気だなあ。
「美味しかったけどさ……そこまでテンション振り切れちゃうほどではなかったような気がするんだけど」
「ちょっと待って……久美子、パフェの美味しさとテンションは比例しないからね」
「そうだったああ……こんな当然のことにも気付けなくなるなんて……みどりちゃん、本当に甘いもの好きだよね」
みどりのテンションの高さに体力を吸い取られたらしく疲れ切った久美子が呆れたみたいに言うと、みどりはいつも大きくてよく光る瞳をずっと大きくして、ほとんど叫ぶみたいにして言った。
「だい……………………っっっすき、ですっ!!」
「ソウダネー、ヨカッタネー……」
「うわ、葉月ちゃんまで目が死んでる!?」
とは言っても、抹茶パフェを食べている間のみどりは、それはもうかわいかった。ちっちゃい子が口のまわりをべたべたにしてパフェを食べてるの見てかわいいなあって思うときあるでしょ? あれ。
めちゃくちゃ頭撫でてあげたかった。いや、ほんとに口のまわりべたべたにしてるわけじゃないけどね、いくらみどりがちっちゃくても高校生だし。
みどりは定番っぽい抹茶メインのパフェで、あたしがあんみつとわらび餅のセット、久美子はほうじ茶パフェみたいなのを頼んで、やっぱり抹茶にしとくんだったってちょっと残念そうにしてた。あたしが抹茶あんみつあげたら機嫌直してたけど。
「まあ、なんだかんだ言って美味しかったよね。地元だからあんまり行かないけど、たまに食べると美味しいもんだね」
「葉月ちゃんのわらび餅すごかったね、今までわらび餅だと思ってたのは何だったの〜って感じ?」
「抹茶パフェもすごかったですよ……! あんこ、アイスクリーム、抹茶シフォンケーキに栗きんとん、すべてがひとつにあわさって美しい曲想を生み出しているんです……そう! スイーツは音楽と同じ!」
「ちょっと待って! ……続きはまたの機会にしよっ、ね?」
やばい予兆を感じてあたしがなんとかギリギリストップをかける。みどりはこうなると熱くなっちゃって、いろいろ長くなるんだよね。だからいつもあたしがストップ係をやってるんだけど、
「こうなると長いんだよね……」
「……久美子っ」
「あっ、ごめん……」
ぼそっとつぶやいた久美子を、みどりに聴こえないように窘めた。
「むー、そうですかぁ? じゃあそうしますけど……」
久美子と顔を見合わせて、ほっと一息つく。
「よ、よーし! これからどうしよっか!」
お腹も満足したのでとりあえずこれからの行動を決めることにした。まず全体に意見を聞いてみる。
「えっ、勉強するんじゃないんですか?」
そう言うと思っていたよみどりくん。あたしにはお見通しなんだからね。そこであたしは
満を持して、片手をすっと高く掲げて──
「……勉強する気分のひとー」
「しーん」
ナイス久美子っ! あたしは久美子を信じてたっ! あたしたち低音パートは、鉄の、いや
「いま久美子ちゃんが言いましたよね!? しーんって!!」
「んー? 知らないなあ、環境音じゃない?」
久美子はその調子でひょうひょう口笛を吹く真似をしている。あんまり音は出てないけど。がんばれ久美子! 負けるな久美子!
「もしかして二人とも、勉強会なんて言って、初めからそのつもりで……?」
みどりの目がじっとりと、憐憫のような、蔑みのような、あっこれ蔑みだ、まなざしを向けてくるので、流石にたじたじとなったあたしたちはめいめいに言い訳を始める。
「や、別に初めからってわけじゃなくてね? 甘いもの食べて満足したらなんとなく気が抜けちゃったというか……」
「嘘です、糖分は脳の働きを活発にするんですよ」
「ぎくっ」
真っ先にあたしが倒される。せめて久美子だけは逃げて、あたしのしかばねを、踏み越えてでも……!
「わ、私は葉月ちゃんとちがって、ちゃんと勉強する気だったよ? ただ、今日は教科書を忘れちゃって……」
低音パートの絆はめちゃくちゃ脆かった。久美子、この裏切り者めえ……!
「数学の教科書も問題集も私が持ってますからお貸しします」
「うげっ」
──結果、誰も生き残らなかった。
ただ、低音パートの堅いはずだった絆が簡単に壊れてしまうことがわかってしまっただけ。なんて不毛で、悲しい結末なの……。
「久美子ちゃん葉月ちゃん、ファミレス行きますよ」
無情な声があたしと久美子を引きずる。
結局、あたしたちはその後、日が暮れるまで勉強した。
たったひとつ、よかったことを挙げるなら──久美子がドリンクバーを奢ってくれたおかげで、絆が再び結ばれたってことかな。
◯
「じゃあ久美子はもらっていくから。また部活で」
────三十秒。
彼女が颯爽と現れて何やら話し込んだあと久美子の腕をがっちり組んで有無を言わせず連れ出す構えになるまでたったの三十秒である。驚異の早業だった。いったい何者なんだ。
「今の、見たよね……」
「高坂さん、でしたね……」
ていうか高坂麗奈だった。
久美子誘拐事件の顛末はきっといずれ久美子自身の口から語られるかもしれないし語られないかもしれない。そういうことであたしたちはひとまずスルーすることにした。ごめん久美子、強く生きなよ!
去り際の久美子の、あーれー、みたいないわゆるお代官様やめて、みたいな叫び声が未だに響いてるような気がする祇園四条駅。華やかな街にはある意味ぴったりな幕引きだったかもしれないね。いや冗談じゃないけど。
「……とりあえず帰ろっか!」
「そ、そうですね!」
あたしとみどりは半ば信じがたいような光景を目の前にして若干の錯乱を来していたので、現実から目をそらすみたいに京阪電車に飛び乗った。ドリンクバーの絆で結ばれた友達のことはもうよく思い出せなかった。
……えっと、オシアワセニネ?
◯
京阪宇治駅を出た頃にはすっかり陽は沈みきっていて、少し肌寒い風が頬をちくりと刺した。みどりがちょっと身震いしたのを見て、あたしは授業中使ってた膝掛け用のブランケットを渡す。あたしの膝掛け用でもみどりは小さいからすっぽり肩が収まって、あったかいです、ってはにかんで言われて、あたしがあったかいよ、って思った。久美子にはブランケットなんて気が早いって言われてたけど、こういう時には役立つもんだね。
で、そのまま最寄り駅まで行くんじゃなくて宇治駅で途中下車した理由なんだけど、これは意外なことにみどりの希望だったりする。みどりがこういうわがままを言い出すのはけっこう珍しいことだから、あたしは悩まず付き合うことにした。
京阪宇治駅から徒歩十分くらい。行き先は驚くほど身近で、だけどびっくりするくらい綺麗なところだった。
「うわ……すごい……、ここって夜間拝観してたんだ……!」
敷地の外からだと中までは見えないけど、立派な阿弥陀堂を飾るみたいにして境内に並ぶ並木はすっかり、とはいかないけれど、十月の終わりにふさわしいくらいには鮮やかに色づいて、それを暗い闇から照らし出す灯りがいくつも点されている。
「今日はちゃんとライトアップされててよかったです。地元の人もあんまり知らないんですよ? 旅行会社の人にしか夜間拝観のスケジュール教えてくれないんです」
みどりはそこはかとなく得意げに薄い胸を張っている。あたしはもう目の前の綺麗な紅葉と、それをあたしに見せようとしてくれたみどりへの感動で、このままぎゅっと抱きついてしまいたいくらいで。
「……でも、どうしてあたしを連れてきてくれたの?」
みどりはまたにっこり微笑んで、あたしの心臓は素手で掴まれたみたいに跳ね上がって、
「最近、葉月ちゃん元気なかったですし。これを見て少しでも元気になってくれたらなあ、って思ったんです」
「みどり、あたし……」
「コンクールのオーディションに落ちちゃって、それからいろんなことがあって、ソロオーディションの時の部のごたごたとか、その、塚本くんのこととか、二年生のこととか、いっぱい……葉月ちゃんは気を使ってくれてたんですよね」
そんなことない。あたしだって自分のことで精いっぱいで、他人のことなんか構ってられる余裕なんてなかったのに。顔が熱くなって、胸から何かがこみ上げてくる。喉が苦しくなる。
「葉月ちゃんは本当に、本当にがんばって、すっごく巧くなりましたよ? たとえ一度、月に手が届かなくたって、諦めずにもう一度、もう一度……って手を伸ばすことは誰にでもできることじゃありません。葉月ちゃんは、すごい人なんですよ?」
前にも一度、こうして慰められたことがあったっけ。あの時はまだ暑くって、コンクールに向けた練習の真っ最中で、それこそみどりの方がずっと大変な時期で、あたしに構ってる暇なんかなかったはずで、それなのにあたしを気遣ってくれたみどりの方がずっと強くて、優しくて、あたしは、
「きっとあたしは、月をつかんでみせるんだ」
自分に言い聞かせるように、だけど誰よりも伝えたい人に聞かせるように言ったその言葉を聞いて、みどりは本当に嬉しそうに笑ってくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、あたしも抑えきれなくてはにかんだ。
「夏が、終わっちゃったんですよね……」
みどりの声は、少しだけ寂しそうに聞こえて、
「だけどまた、夏は来るよ。嫌でも来年には!」
あたしが強く言うと、みどりは目を丸くした。
「……そうですよね。みどり、はやく来年のコンクールの全国大会の舞台で、演奏したくなってきましたっ!」
「気が早いな!? でも、あたしも来年こそはコンクール出るぞお!」
二人して笑いあう。この瞬間がずっと続けばいいのに、と願う。
それから、みどりはさっきまでの寂しさが嘘みたいに明るい声で続けた。
「それに、夏が終わっちゃっても寂しくありません。みどり、秋は好きですから」
「……なんで?」
「えへへ、葉月ちゃんの月だから、ですっ!」
「…………っ! もう、みどりはっ!」
あたしはとうとう我慢できなくて、みどりをぎゅうっと抱きしめた。みどりは、くるしいです、なんて言いながらも、背中にぎゅっと手を回してちゃんと抱き返してくれてたから、きっともう寒くない。
これからどんなに寒い冬が来ても、暑い夏が来ても、こうして月を見つめてさえいれば、どこまでだって行ける気がしたんだ。
気付けばずっと近くにあったあたしの月には、いつ手が届くのかわからないけれど、それでも手を伸ばしたい。手を伸ばしていたい、と思う。
──いつか手が届いて、握り返してもらえるようになるまで。
加藤葉月は、月に手を伸ばし続ける心境なのだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。響け!ユーフォニアムはもっと書きたいものたくさんあるのでこれからもよろしくお願いします。次はあすくみかも。くみれいかも。