夏の日の夜。真姫の別荘。
風呂あがりの火照った体を、爽やかな風がフワリと撫でる。
満点の星の下、二階のバルコニーに出て見る海の景色は、どこか南の国にでも来ちゃったんじゃないかっていうくらいに綺麗で、見つめ続けていたらその内吸い込まれてしまいそう。
「これを見られただけでも合宿に来てよかった」なんて言ったら、海未に怒られちゃうかしら。
私は一人クスリと笑う。
コン、コン。
私の背後で遠慮がちにノックの音がした。
あら、ドアは開いてるはずだけど。
電気を消したままの室内を伺うと、開いたドアの横からそっと覗きこんでいたのは花陽だった。
「あ、あの絵里……ちゃん?」
花陽の眼鏡が外からの薄い光を受けてチカリと光る。
合宿の始まりに私が言い出した『先輩禁止』、それは一日目も終わりそうな今も花陽にとっては抵抗があるようで、恐る恐る私をちゃん付けで呼んだ。
「あら、花陽どうしたの?」
「えっと……そろそろ布団を敷くから呼んできてって、海未ちゃんが」
「もう、そんな時間?」
気付けば時間を忘れて大分長い時間ここでこうしていたらしい。
花陽は質問にどう答えたらいいものか悩んだように曖昧に頷く。暗がりにいるから怯えたように見えて、私は少しだけ悲しくなった。
「ねえ、花陽。ちょっとこっちに来てみない?」
私はおいでおいでして花陽をバルコニーに呼び込んだ。花陽は戸惑いながらも吸い寄せられるようにこちらへやってきた。私はすぐ側のシューズケースから、サンダルを一足取り出して窓の側に置く。
「あ、ありがとう……うわぁ!」
サンダルを引っ掛けながら、花陽は外に広がる景色を見て感嘆の声を上げた。
「綺麗でしょ?」
「はい、あ……うん、とっても」
私が話しかけると花陽はスッと緊張の面持ちに戻った。私はなんだか花陽の感動を奪ってしまったような気がして少し落ち込んでしまう。
「やっぱりまだ緊張する?」
「えっ!?」
きっと図星だったんだろう。花陽は驚いたように声を上げた。
「なんかそんな風に見えたから」
「う、うん、やっぱり二人きりだと……先輩だし、いえ、先輩禁止だっていうのは分かって……るけど」
花陽は少し俯いて、組んだ両手の上で指をモジモジと動かす。
「そうね。いきなりそんな事言われても難しいわよね」
「でも凛ちゃんは、もうすっかり慣れっこみたいだから、私も早くそうなりたいなって……」
確かに、花陽と真姫以外の4人はもうそれほど先輩禁止に抵抗があるようには見えなかった。性格と言えばそれまでなんだけど。
「花陽は、私みたいな人は苦手かしら?」
「えぇ!?」
「近寄りがたいって思わせちゃってるんじゃないかなって」
「苦手なんかじゃないです!」
花陽はとんでもないというように両手をこちらに広げて大袈裟にぶんぶんと振った。わざと軽い調子で質問をしたつもりだったけど、あまり効果がなかったみたい。
「……ただ、すごく大人だし、なんか緊張しちゃって」
「大人って、花陽と二つしか違わないのよ。にこだって同じ学年だし」
「それは……うん」
ためらいがちに頷く花陽。私はその花陽の姿になぜか、私に対して遠慮がちに接してくるクラスメイトや、生徒会の後輩達の姿を重ねた。
どうしたらいいのかしら。
私達はすぐ隣で並んで立ってはいるけれど、まだまだその距離は遠い。
「私ね。花陽が思っているような大人なんかじゃ全然ないのよ」
「えっ?」
私は大きく一息をついた。爽やかな空気が肺に満たされて、それを一気に吐き出すと、胸の中にモヤモヤと滞っていたものも一緒に出て行ってしまう気がする。
花陽はそんな私を見ながら相変わらず不安そうに、私の言葉の続きを待っているようだった。
「だって、今だって花陽と仲良くなりたいなって思っているのに、どうしていいのか分からないんだもの」
「仲良く……私と?」
「私、こんな性格でしょ? 言いたいことははっきり言っちゃうし、厳しいし、頑固だし」
「え? そ、そんな事……ない」
そう言う花陽の瞳は、眼鏡の向こうでウロウロと所在無く動いていて、暗に「そんな事ある」という事を私に伝えるには十分だった。
「ありがとう。でも分かってるの。私は今まで自分のとった行動のせいで、随分人を遠ざけてしまった事もあったんじゃないかなって」
それは私自身を守る為でもあった。「何から?」と言われたら、きっと何もなかったんだと思う。自分に対する後ろめたさを隠すように、埋めるように、私は強く、正しくあろうとした。
「『先輩禁止』で先輩後輩の壁を無くしたいって思ったのは本当なんだけど、それは花陽達の為だけじゃなくて、自分の為でもあったのかもしれないって」
自分を守る事ばかり上手くなってしまった私は、いつしか自分から人と接する事が苦手な私になっていた。それどころか、もう少しで差し伸べられた手を握る事すら拒むところだった。
「だから、花陽ともみんなと同じように仲良くなりたいの」
花陽は真剣な顔で私の話を聞いてくれていた。
私は微笑んだつもりだったけれど、困ったような悲しいような感情が混ざって、うまく笑顔になっていなかった気がする。
「絵里ちゃん……うん」
花陽は恥ずかしそうに頷くとニコリと笑った。
こんな自分の気持ちを、しかも年下の女の子に話すなんて……自分の変化に戸惑うけれど、不思議と悪い気はしなかった。
それどころか今はなんだか清々しくて、心地良い。
波の音が私達を包んで、ふわりと潮の匂いが鼻をくすぐる。
しばらく間があって花陽がポツリと言った。
「絵里ちゃん、アイドルは楽しい?」
「え? えぇ、もちろん楽しいわ。この合宿にも来てよかったと思うし」
「ううん、そういう事だけじゃなくて。私もμ'sは楽しいし、みんなが大好きだし、廃校だって無くしたいと思ってて」
「ええ」
「……だけどそれだけじゃなくて、出来ることならみんなにもアイドルの事が大好きになって欲しいなって」
花陽はそう言って寂しそうに笑った。
μ'sを否定しながら、最終的にメンバーになった私を疑っている訳ではないと思う。でも不安に思う気持ちも分かる。それだけの事がこれまでにあったし、花陽のアイドルに対する想いは真剣だから。
私は花陽の肩に手を置いた。
「そうね。私は正直、始める前は『こんなもの』って思ってた」
「うん……」
「もちろん今は、アイドルだって真剣に取り組まないといいライブなんてとても出来ないし、全国にそんなスクールアイドルがたくさんいるんだって事も分かったわ。だからその為に頑張る今の毎日はとても充実してる。
だけど、正直に言うとまだアイドルの魅力について分からないこともたくさんあるのも事実ね」
花陽の肩が怯えるようにビクリと震えた。
「ただ……花陽が憧れるくらいだから、アイドルってとても素敵なものだと思うの」
「絵里ちゃん……?」
「花陽が憧れて、実際にアイドルなってしまうくらいにね」
「えぇっ!? 私なんて!」
「アイドルでしょ?」
目を丸くして私を見る花陽の顔が、月明かりの下でも赤くなっているのが分かった。
「うん……そう、だね」
「ふふ、花陽みたいなアイドルがいたら、もっと早くアイドルの事を好きになっていたかも」
「もう、からかわないでよ。絵里ちゃん」
花陽は私に背を向けるように振り向いて手すりに体を預けた。
本当なんだけどなぁ。
「あーかよちん! 何してるの!?」
後ろから弾けた声が花陽を呼んで、穏やかな時間は終わりを告げる。
「凛ちゃん!?」
「あ、絵里ちゃんも! 何してたの? 二人でズルいよー」
「外を見てたんだ。凛ちゃんもこっちにおいでよ」
花陽は、私が花陽にそうしたように凛を手招きする。凛はこちらに駆けてくると裸足のままでバルコニーに飛び出して手すりに飛びついた。
「うわぁーすごい!」
「綺麗だよねー」
凛は「ふぅー涼しいー」と猫みたいに気持ちよさそうに目を瞑って、花陽は髪を掻き上げながら嬉しそうに笑った。
私はそんな二人の光景がとても微笑ましくて、この景色と一緒にずっと見ていたい気持ちになったけど、
「ところで凛? 私達を呼んできてって言われたんじゃないの?」
少し野暮だったかしら?
私の指摘に凛は「あっ」と手すりから体を突き放した。
「そうだ。かよちんが絵里ちゃんを呼びに行ったまま帰って来ないから見てきてって言われたんだった」
「あ、ごめん。凛ちゃん、すっかり忘れちゃってた」
「ほらほら行こう」
手を合わせて謝ろうとする花陽を待たずに、凛がその手を引いて室内に戻る。
「わわっ、危ないよ凛ちゃん」
花陽は転げそうになりながら凛に引かれるまま付いて行く。
「ああ、絵里ちゃんも!」
「ええ、すぐ行くわ」
花陽の脱ぎ捨てたサンダルを片付けながら、二人の消えた廊下に向かって私は答える。
花陽との距離、少しは縮まったかしら?
こんなちょっとした事が、私にとってはとても悩ましい事で大問題だなんて、きっとみんなに言っても信じてもらえなさそう。
「絵里ちゃーん!?」
廊下に出ると、階下から花陽の呼ぶ声がもう一度聞こえた。
ふふっ。これだけでも合宿に来てよかったかも。
なんて言ったら、やっぱり海未に怒られちゃいそうね。