私たちの話   作:Гарри

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12「白露型駆逐艦:時雨」

 時雨とは呉の艦娘訓練所で出会った。が、それはハッピーなファーストコンタクトという風には行かなかった。まだ艦娘としての体を手に入れていない頃、食堂で私の隣に席を取った彼女は、こちらの意識の隙を突いて私のプレート上に置いてあったパンを一個かすめ取ったのだ。私はお返しに彼女のシチューから肉を何個か盗んでやった。驚くことではない。こういった小さな盗みはよくあったことだ。人間の女性はストレス環境下で脂肪を貯め込む性質がある為、訓練中は日々の食事量を管理されていて、お陰で艦娘候補生たちは大体いつでも空腹を抱えていたのだから。

 

 私たちは食事を済ませてから二人で仲良く連れ立ってトイレに向かい、お互いに何個かたんこぶを作って、ついでに騒ぎを聞いて飛んできた教官に二発ずつ殴られて、その後何年も続く(うるわ)しい友情の最初の一歩をスタートさせた。私たちは何でも一緒にやった。訓練隊が丸ごと放り込まれる宿舎でも、海上訓練でも、訓練修了直前の休暇だって一部は彼女と過ごした。訓練所で時雨と一緒にいなかったのは、ベッドと個室トイレの中程度だった。

 

 この頃から既に時雨は優秀だったことを覚えている。彼女は少しの訓練で砲の操作、雷撃や対空射撃のコツ、敵が狙いを定めにくい動き方など、多くのことを身につけられた。一を聞いて十を知る、を地で行く優等生だった。とはいえ本人の努力はなかったどころか、彼女は手を抜くべきところと全力で取り組むところを区別していて、訓練は後者に分類していた。人間が本気を出すとどれだけのことができるか、というのを彼女は証明していた訳だ。教官は手放しで彼女を褒めた。これは本来、訓練教官が絶対にやってはいけないことの一つだったから、時雨がいかに優秀だったか、ということを理解して貰えると思う。

 

 しかし、彼女は真面目で有能なだけの人物ではなかった。時雨はいつでも何処かにコネクションというものを持っていて、何か必要なものや欲しいものがあると候補生たちは必ず彼女に頼んだ。時には彼女をべた褒めした教官さえ顧客になった。今は時雨の話をするべき時だが、それにしてもそういう手合いに比べると、那智は本当にいい教官だったんだろうな、と思う。時雨は教官には僅かな対価を求め、訓練生たちには不満が出ないほどの見返りを要求した。食事の副菜を一品とかだ。少女たちは、どうせ一品減ったところで空腹を感じるのが少し早くなるだけだ、と考えて、自分の欲しいものの為に喜んで一品差し出した。そのせいで時雨は訓練所を出た時、驚いたことに入った時よりも少しだけ体重が増えていたのだ。これは海軍史上、未曾有(みぞう)の出来事だった。

 

 愛想の良さや要領の良さもあって、時雨は途中まで横須賀鎮守府配属間違いなしと見られていた。私もそれが当然だと考えていたし、栄光の横鎮に自分の友達が行くなんてすごいことだ、と思って喜んでいた。何と言っても訓練教官の一人が横須賀にいる知り合いを呼んで、時雨に引き会わせまでしていたのだ。これで配属地が違うなんてことは、あり得ないと思われた。時雨の評判は呉の訓練所全体の誇りになった。

 

 彼女の新しい噂を耳にしない日はなかった。時雨が訓練隊対抗演習で殊勲賞を獲った……訓練所に入り込もうとした不審者を捕まえた……訓練所の中で手に入るものだけでラジオを組み立てた……その話題にはしばしば私のことも引き立て役として出てきた。最大限よく言っても、「デカいコバンザメ」というのが私の評判だった。しかし私は気にしなかった。他人に何を言われようと、時雨の隣という立ち位置を気に入っていたからだ。彼女は面白い人物で、他人を楽しませることが大好きで、しかも私の友達だったのである。それに、私は彼女の秘密を一つ知っていた。

 

 艦娘訓練所の訓練課程は大きく二つに分けることができる。前期は普通の人間のまま、体を鍛えられ、座学をやる。それから宣誓式で海軍に入るかどうかを再確認し、志願を取り消さなければ妖精の手によって順次艦娘になり(これを私たちの隠語で建造(・・)と呼ぶ)、後期に入る。後期では艦娘としての戦い方や動き方を学び、海にも出るのだ。時雨の秘密は、宣誓式の時に彼女がやろうとした悪戯のことである。訓練教官の一部は彼女に懐柔されていたが、そうではない教官たちに時雨は常日頃から一泡吹かせてやりたいという気持ちを持っていた。宣誓式は彼女にとって、その為の最高の舞台に見えた。

 

 彼女は注意深く計画を練り、事前の準備をして、訓練所の門番を上手に買収した。もしその門番が計画実行のまさにその日に風邪を引いて病欠になってさえいなければ、時雨が呼び寄せた二人のコールガールが宣誓式をどう台無しにするかを、私や他の訓練生は特等席で見られたことだろう。教官たちは九死に一生を得たのである。

 

 が、言うまでもなく時雨は一回の失敗で手を引かなかった。訓練所を出る直前、修了式で雪辱を果たしたのだ。呉鎮守府の総司令が車で訓練所にやってきた時、彼は適当にそこいらを歩いていた艦娘を呼び止めて「訓練所付属の工廠で車をチェックさせるように」と命じた。ブレーキの利きが遅いとか何とか言ったらしいが、伝聞なのではっきりしない。その艦娘が工廠の整備員に伝えに行く途中、時雨に会って話をした。彼女はその艦娘に「僕がやっておくから」と言って任務から解放してやった。そして車を工廠の防音壁で仕切られた区画に持っていくと、防弾性能のチェックを始めたのである。

 

 時雨はその結果を手短に報告書の形でまとめると、スクラップになった呉鎮守府の車の、かつてはボンネットと呼ばれていた箇所にそれを置いて、とっととその場を逃げ出した。修了式の後で総司令のところに持っていく為に車を受け取りに来た教官たちは、みんな顔面蒼白になった。ただちに捜査が始まり、ものの数分で「時雨が当該区画から出ていくのを見た」という信頼できる証言が上がった。だが、それだけだった。教官たちは困り果てた。何しろ時雨という駆逐艦娘は、決して珍しい存在ではない。違う訓練隊にいる者も含めれば、同期だけで十人は間違いなく下らなかった。時雨が怪しい、なるほど。で、どの時雨だ? という寸法だった。同じ疑問は、最初に総司令の命令を受けた艦娘についても発生した。そして私たちは、みんな何も知らないふりをした。

 

 総司令はとても怒った。彼の機嫌を損ねない為にも、この期の時雨を横須賀や呉や舞鶴には行かせることはできなかった。私の友人である時雨がパラオに来たのは、そういう経緯があってのことだ。

 

 パラオで同じ提督の下に配属されたまではよかったが、成績優秀の証明書を貰って訓練所を出た彼女は第一艦隊、一方で並の私は第二艦隊だった。でも私は最初から時雨の優秀さを知っていたし認めていたので、嫉妬することはなかった。彼女は新入りの駆逐艦娘として、侮られた状態でスタートした。第一艦隊の一番下っ端というのは、周りがそう思っているほど楽しい立場ではない。

 

 そんな中でも時雨はめきめきと頭角を現した。仕事がなければ探し、自発的に活動した。地元民たちの困りごとを二、三解決するとあっという間に彼らと仲良くなってしまい、泊地と現地民たちの間に何か交渉事があると必ず引っ張り出された。彼らが「あの時雨を寄越せ」と要求するからだ。彼女が出れば取引も九割がたまとまるので、泊地側もそれを拒否することはなかった。また時雨は、軍紀粛正運動の有力な活動家でもあった。時雨の抜け目ない監視の下では、上官である提督たちですら、失態を見つけられないように気を張ってこそこそしなければいけなかった。でなければ即座に何がしかの違反を見咎められ、罰金を取られるか、さもなければ恩を売りつけられた。そしてその恩は大抵、高くついた。

 

 時雨は一年もしない内に艦隊の二番艦にまで上り詰めた。これは陸軍で言えば小隊長に当たる旗艦を補佐する、小隊付軍曹の役目を任されたということだ。艦隊を一つにがっちりとまとめるのが仕事の、旗艦の次に重要なポジションである。当然、普通はこんなに早くなれるものではなかった。私は心から彼女を祝福し、その日の夕食をおごったものだ。既に時雨は泊地中の艦娘から「大物」だと考えられていた。今はまだ僻地に所属する提督の第一艦隊で二番艦をやっている身だが、やがては旗艦になり、そしてその次は何処か立派な鎮守府に栄転するか、諸外国との艦娘交換プログラムに参加してドイツ、イタリア、あるいはアメリカに行くだろう、というのが大勢の予想だった。

 

 私は自分のことでもないのに鼻高々だった。「その内、あなたの故郷には銅像でも建つんじゃないかしら」と食堂で会った時に私が言うと、彼女は食事のプレートを持ったまま、肩をすくめて答えた。「どうでもいいよ。それは“時雨”の銅像であって、僕の銅像じゃないんだから」言われてみれば、その通りらしかった。「それより、君と一緒に食事ができた方が嬉しいね。どう、かな?」もちろん、彼女を喜ばせる以外に選択肢はなかった。

 

 暫くはそんな具合で過ごしていたが、ある時どういう訳か、時雨は筋の通らない上にとんでもないことをしでかしてしまった。パラオには軍属や全くの民間人たちも住んでいたが、その中の一人のごろつきと組んで、違法な公道レースとレース賭博を主催したのである。娯楽の少ない僻地ということもあって、レースのことはたちまちパラオ中の噂になった。本人から聞いたところによれば、時雨はあらゆるものを賭博用チップとして許可したので、三回目の開催時には土地の権利書や家まで賭けられたらしい。現地警察は途中まで袖の下を受け取って黙って見ていたが、四回目に大事故を起こしてレーサーの一人が月まで吹き飛ぶと、そうもしていられなくなった。彼らは時雨と組んだごろつきを逮捕し、何をしてでも共犯を吐かせようとした。だが実際には、肩に手を置かれた時点でその半端者はぺらぺら喋り始めたとか……。

 

 たちまち時雨はお尋ね者になり、みんなが「そんな、まさか」と話し合っている間に憲兵の手で捕まってしまった。彼女はまず現地の司法で裁かれることになり、その後で軍法会議にかけられることになっていた。裁判には私を含む何人かの艦娘と、大勢の現地民が押しかけた。時雨が犯したとされる罪を検察が一つ述べる度に、裁判官は傍聴人たちを黙らせなければいけなかった。そういう後ろ盾のせいか、時雨はかなり挑戦的な態度を取り続けた。本当にその場にいたほぼ全員と交友関係があった、ということも影響していただろう。裁判官の奥さんは時雨から高価なプレゼントを貰った経験があったし、検察官は彼の幼い息子が親の目を盗んで家を出た時、時雨に見つけて保護して貰ったという恩があった。廷吏の一人一人とも時雨は知り合いだった。執行猶予一年を申し渡されて時雨が出て行く時、警備は淑女をエスコートするかのように振舞った。

 

 軍法会議はそこまで都合よく行かなかった。だが時雨が行ったと裁判所が認めた行為を全部合わせても、罰金を食らわせたついでに時雨のキャリアを台無しにするぐらいのことしかできなかった。軍法会議の出席者たちは彼女にそれ以上の罰を与えることもできたのだが、現地民たちの感情を考慮すると、彼らの間で人気者の時雨を不当に痛めつける、というのは選びづらい道だったのである。時雨は横須賀にも呉にも舞鶴にも行かないことになった。無論ドイツやイタリア行きの話も聞かなくなった。数か月分の給料を罰金として科された。私の友人は、何らそのことを気にしなかった。余りに傷ついた様子がないので、私は心配して彼女を静かな喫茶店に連れて行って、話をした。

 

「次は何をやるつもり?」

 

 時雨はこれを、期待の表現だと誤解したようだった。よくぞ聞いてくれました、という風に笑って「そうだね、次は家を一軒爆破でもするかな」と言った。私は彼女をたしなめ、色々と言った。まともになれとか、そういういつもなら絶対に口にしないような益体もない言葉もぽろりとこぼれた覚えがある。時雨はその大半を聞き流した。と言って、別に彼女が私に対して邪険になったのでもなかった。相変わらず彼女は私の友人で、自分の艦隊員たちと一緒にいるよりも私といることを好むほどだった。私が古鷹の部屋によく行くようになると、時雨は私が廊下に出てくる時間を見計らって、古鷹の部屋の前を通りがかった(・・・・・・)

 

 レースのこと以降、時雨の立場は悪化していた。第一艦隊から外して、第三艦隊にでも入れようかという動きもあった。時雨がもしもまともな艦娘なら、多分そうなっていたんじゃないかと思う。しかしながら、彼女はそうではなかった。彼女は前にもまして活躍し始めたのだ。一つたりとも規律を破らず、別の提督の下に配属されている艦娘も交えた戦術研究会を主催して、その成果を会の参加者以外にも広く公開した。それによってそれまで艦隊ごとや提督ごとにばらばらに保有されていた有用な情報や戦闘テクニックが広まると、時雨の評判は一転うなぎ上りになった。普遍的な戦闘技術の向上でパラオ泊地に所属する艦隊の戦果数と死傷率がそれぞれ全体的に上昇・下降すると、最早彼女の過ちは一回限りの些細なこととして忘れ去られた。人々はまた彼女の栄転に関する根も葉もない噂を囁き始めた。

 

 私は安心した。時雨が道を踏み外したとは思いたくなかったからだ。彼女はずっと私にとっての大きな誇りで、たとえ彼女自身にであっても汚されたくなかったんだろう。少し傲慢だが、誰でも十代の頃はそういう傲慢さがあるものだ。私は奇しくも以前と同じ質問を彼女にした。「次は何をやるつもり?」今度は、以前と異なって、この言葉に込められたのは批難でなく期待だった。彼女は考え込むようなポーズを取って、やっぱり前と似たようなことを言った。違いはちょっと具体性が増していたという点ぐらいだった。「屋根の赤い家を吹き飛ばすんだ」私には軽く笑うだけの余裕があった。「あら、赤い屋根の何がそんなに気に入らないの?」「家を吹き飛ばすことへの文句はないのかい?」私たちは笑った。面白い冗談だと思った。

 

 冗談ではなかった。

 

 パラオ泊地に所属する提督の一人が、とある現地の女性を赤い屋根の家に囲っていた。海軍批判の材料に使われることを恐れながら言うが、これは合理的な判断による合法行為だった。提督は男性が多い。女性もいるが、やはり少数派だ。で、大半が男性である提督の部下は? そう、艦娘は原則として女性である。それも、同性から見ても見目麗しい女性ばかりだ。幼い外見の駆逐艦娘でさえ、整った容姿をしていることには誰も異論を挟めないだろう。何が起こりうるか、実際の発生を待たなくても想像できる。なので海軍は、艦娘に手を出されるよりはマシという考えの下、提督たちが愛人を作ることを否定していなかった。時雨が吹き飛ばした家の持ち主だった少佐も、そういうよくいる提督の一人だった。彼とその他の家を吹き飛ばされないで済んだ提督たちの差は一つだけ。少佐は軍の資金を私的に用いていた、という点だった。

 

 時雨はその証拠を掴むと、憲兵隊の詰め所には行かずに直接少佐の家に行った。例の赤い屋根の家だ。それは街から離れたところにある一軒家で、タクシーに乗ってきた時雨が顔馴染みの運転手を外で待たせて自分は中に踏み込んだ時、少佐たちはお楽しみの真っ最中だったそうだ。彼女は少佐がパンツを履くまで待ってから、証拠のコピーを突きつけ、決断を迫った。どういう決断を迫ったかは知らないが、私の中の素晴らしい思い出の為に、自首を迫ったのだということにしておこう。少佐は拒否して、どうにかして時雨を黙らせようとした。後で裁判所に証人として呼ばれたタクシー運転手によると、時雨はパンツを履いただけの少佐の足を引きずって、家の外に出てきたそうだ。後からは最低限の服を着込んだ女が続いて現れ、乗客を三人に増やしてタクシーはその場を去ろうとした。数百メートルほど行ったところで、家が木っ端微塵になった。鑑識は漏れた家庭用ガスに引火したことによる爆発と結論した。

 

 パラオ泊地のお偉方はこの時雨の扱いにほとほと困り果てた。彼女の功績は非常に大きかったし、公金横領をした佐官を説得しようとしたが聞き入れられず、拘束して憲兵隊に引き渡した、という行為自体は極めて結構なことだった。しかし家が一軒爆破されたということの衝撃はどうしても拭えなかった。現地警察は事故か故意かの判断を下せなかったが、パラオの艦娘たちはみんな時雨がわざとやったのだと信じていた。

 

 流石に、この度ばかりは時雨も無罪放免とは行かなかった。まだ執行猶予も明けていなかったのだ。そこでまず私人として現地の小さな女子刑務所で懲役刑を受け、その刑期満了後に、軍人として今回の件について軍法会議で下された決定に従う、ということになった。現地の人々はそれに対してかなり抗議したのだが、時雨がそれを無責任に煽ったせいで、レースの時の懲役年数に騒擾(そうじょう)罪の懲役年数まで付け足された。だから彼女が収監されてから少し後で私たちが本土の基地に転属することが決まった時、私は親友を残していくしかなかった。

 

 パラオを出る前の日に外出許可を取って時雨に会いに行ったのを覚えている。散々待たされてから面会室で話した時、住み心地は悪いがプライバシーの守られた個室を貰えている、と彼女は教えてくれた。久々に見た時雨の顔は、悲痛に歪んではいなかった。私はほとんど怒りそうになった。彼女は幾ばくかの対価を与えて看守を使い走りのように扱い、訓練所でそうしたように囚人たちの調達屋を務め、尊敬を欲しいがままにしていたからだ。そこに反省の様子は見られなかった。それでやっと分かった。彼女にとって生きるというのはそういうことだったのだ。彼女は上から押さえつけられていないと、まっすぐ立っていることもできないのだ。死にかけている時だけ、彼女は生きていられる。奪われなければ、何も得ることができない。肉体が囚われている時だけが、彼女にとって自由な精神を持つことのできる瞬間なのだ。

 

 面会時間は飛ぶように過ぎていった。私はできるだけ時間のことは考えないようにして、時雨と話をした。愉快な話だけ、二人で笑える話だけを選んで。だが物事には必ず終わりが来る。とうとう、面会室の中にまで長門と那智、響が迎えに来た。私は行かなければならなかった。「行くわ」と私が言って席を立つと、さっきまで楽しげに笑っていた時雨は、急に悲しげな顔になって、元気を失った。私は彼女を励まそうとして言った。「手紙を書くから」時雨は絶望的な微笑みを浮かべた。

 

「手紙か! いいね、きっと僕も書くよ……壁に囲まれてちゃ、それぐらいしかやることなんてないんだもの……」

 

 私は約束を守った。パラオでの刑期を終えて本土の軍刑務所に移送された後も、終戦の一年後に時雨が出所するまで、私は毎週手紙を出した。返事が来ることもあれば、来ないこともあった。頼まれれば、多少の物品は送ってやった。ハーモニカの教本とか、写真集とか、そういう誰の害にもならないものならだ。出所する、という旨の手紙を最後に、彼女は一旦姿を消した。次に会ったのは終戦から四、五年ほど後のことだ。彼女はある朝突然、私の家を訪ねてきた。艦娘の姿のままだった。私は驚いたし、少しは怒りの気持ちもあったが、それ以上に彼女が生きて目の前にいるということが嬉しかった。私はすぐに家の中に彼女を招き入れ、暖かい飲み物でもてなした。人心地ついた頃に、艦娘の姿のままであることを指摘して「軍の仕事をしているの?」と尋ねると、彼女は眉をハの字にして困ったような顔をした。

 

「軍の仕事、か。うん、そう言えなくもないね。今度から僕もそう言うことにしようかな。インスピレーションをありがとう」

「またどうせ危ないことをしているのでしょうね」

「お小言かい?」

「嫌なの?」

「その逆さ。まだ僕にそんなことを言ってくれるのは君だけなんだからね。分かるかい、僕にはもう君だけなんだよ、加賀」

 

 時雨は自分の詳しい話はしたがらなかった。私の話ばかりを聞きたがるか、さもなければ昔話ばかりしたがった。だから私たちは一日中、戦争をしていた頃の自分たちについて話し合った。翌朝別れる時、時雨は泣き出してしまった。私は彼女の目から涙が流れるのをその時初めて見た。戦争中にすら、彼女がこんなにもあからさまに涙を流したことはなかったのだ。「また来なさい」と私が言うと、時雨は頷いた。

 

 私たちは時雨の都合に合わせて年に一度だけ、私の家で会うことにしている。今年も彼女はふらりとやってくるだろう。多分、どちらかが死ぬまでこの習慣は続くのだろう……。


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