私たちの話   作:Гарри

20 / 20
20「ある八月の出撃」

 深海棲艦が人間同様に歌を歌うという話を聞いたことがある艦娘は、少なくない。私が初めてそれを聞いたのは、パラオ時代、古鷹からだった。その古鷹も、彼女が海軍最先任艦娘*1となるよりずっと前に、別の誰かによって「先任から聞いた話」として教えられたそうだ。その話を丸々信じるなら、歌が聞こえるのは一定以上の規模の敵を相手にしている時が多いという。無線から聞こえたと主張する者もあれば、己の耳に直接届いたと語る者もあったらしい。しかし、どちらにせよそれは、少なくとも公的な場においては、眉唾ものの与太話でしかなかった。歌というのは文化の一つであり、深海棲艦にそういったものはない、というのが当時の通説だったからである。

 

 でも私は、それを聞いた時、そういうこともあるかもしれない、と思ったのだ。私がその歌を耳にしたことがあったからではない。十年の従軍期間において、私の無線機も私の耳も、深海棲艦の歌声とはとうとう無縁であった。そうではなくて、その時の私は、深海棲艦にまつわる色々な噂話、特に憲兵連中の前で口にするにはいささか危険な類の噂を、ほんのちょっとくらいは信じたっていい、そんな気持ちになっていたのだ。嵐の中からの帰り道、頭から爪先まで雨に濡れて、唇は紫で、肌の色は真っ白になって、風が吹く度に吐きそうなほどの冷たさが身に染みて、でも右手だけがやけに温かく感じていた、その時の私は。

 

 始まりは、一つの任務が泊地司令部から下達(かたつ)されたことであった。それがどういう内容だったかは、もう覚えていない。多分、そんなに大したものでもなかったのだろう。覚えているのは、任務がとても上首尾とは言えない終わり方をしたということだけだ。轟沈もなく目標は達成できたが、私たちは持っていた弾をほとんど使い果たし、その上、余りにも母港から離れすぎていた。燃料計と弾薬の残量、それから海図を突き合わせて考えてみて、古鷹は余裕を持って到着できる、近くの補給拠点に向かうことを決めた。そこで弾と油の(できることなら消耗した艦載機も)補充を受けて休息を取り、元気になってから家に帰ろうという訳だ。

 

 悪くないアイデアだった──もっと強く表現するなら、全く文句のない指示だった。弾も燃料も不足している状態で、いつ敵と出くわすか分からないような場所をほっつき歩いていたくはない。古鷹は無線を使って各所に連絡と報告を回し、受け入れ可能な拠点を探した。それには少し掛かったが、やがて司令部から一つの座標が送られてきた。それは、一番近い訳でもないが、一番遠い訳でもない、ほどほどに離れた地点を示していた。私たちは上層部の人々を見習って、ほどほどに不満や悪口を呟きながら、その座標へと進み始めた。古鷹は私たちを慰めるように、補給基地からヘリを出して、最寄りの飛行場まで連れて行って貰えることになった、と教えてくれたが、これはどちらかというと悪報だった。つまり、一休み抜きでパラオまで帰らなくてはならないからだ。

 

 私たちは警戒しつつ、退屈な移動時間をやり過ごす為に、あれこれと話をした。皆が最も興味を示していたのは、少し前に起きたと言われていた、タウイタウイ泊地での反乱についての噂だった。それが何処から流れてきたものか知る者はいなかったが、当該泊地について厳しく情報統制が行われていたのは事実で、上官たちは気を尖らせていたものだ。それで、反乱と呼ばれるものではないとしても、何か提督連中が心底気に入らない出来事がその辺で起きたらしいことは、誰もが感じ取っていた。那智は言った。「艦娘によるデモ行進があったらしい」「デモ行進?」那智はそれを長門に向けて言ったのだったが、私は思わず聞き返した。意外な言葉だったからだ。隊列を組んで歩きながら何かシュプレヒコールを上げるとか、そういうのは民間人向けのスポーツみたいなものであって、艦娘がやることではないと思っていた。那智は私の割り込みに気分を害することなく、続きを話してくれた。

 

「この間、補給船が来ただろう? 丁度それが起こった時、あの船はタウイタウイに寄港していたそうだ。船員から話を聞けた……そいつだって、自分の目で見たんじゃないとは思うが」

「デモ行進には要求が付き物だ。一体何を要求していたんだろうな」

 

 長門の問い掛けには、私たちを考えさせる何かがあった。「休暇とか?」響が言った。ありそうな答えだった。古鷹は言った。「もっとマシな泊地や鎮守府への転属、だったりして」なるほど、それももっともらしかった。グラーフは言った。「私の要求はだな、口を閉じて警戒をしていてくれということだ」残念なことに、この要求が容れられる余地というのは存在しなかった。グラーフが望む水準で警戒していたら、私たちの精神は戦争を生き抜けなかっただろう。まあ、もしかしたらその場合、古鷹は彼女の最後の戦いを生き延びられたかもしれないが……。

 

 結局、艦隊で二番目の問題児の疑念には、彼女の親友が答えを出した。あくまで船員から聞いた話が真実であるとするならばだが、響が言ったことが正しかったのだ。どうも、艦娘を酷使して文句を言わせないことが優れた提督となるに当たって必要な条件である、と勘違いした男が、タウイタウイに着任していたらしかった。彼は精力的に、次々と任務を請け負ってそれを成し遂げていった。あるいは、彼の艦娘が成し遂げていったと言うべきだろう。基本的に、提督は深海棲艦を殺さないし、何の任務も達さない。やるのは全部私たち艦娘と、その妖精だ。そうではないのは提督を艦娘が兼任する時だけだが、それは軍全体でも皆無と言ってもいいほどの、まさしく例外に過ぎなかった。*2

 

 で、勘違い男にはツケが回ってきた。たとえ高速修復材を使って穴ぼこだらけの体を元通りにできたとしても、疲労が消えてなくなるのではない。配下の艦娘たちは、その心も体も、戦争の重圧に悲鳴を上げていた。結果が四個艦隊と予備艦隊員によるデモ行進だ。鎮圧の為に駆り出された他の提督隷下の海軍艦娘たちは、憲兵隊が到着するまで、デモ隊のすることに見て見ぬふりを決め込んでいたとか。

 

 那智は見てきたかのようにそう語ったが、彼女自身、その話を信じている風には見えなかった。さもあらん、提督はこの話で出てきたような馬鹿に務まる仕事ではないし、万が一そうだったとしても、彼に対する艦娘の反応は、この噂話の中に出てきたもの以外の形を取った筈である。というのも、低劣な指揮官を嫌うのは、何もその配下のみではないからだ。むしろ、一人の無能や無策の尻拭いをさせられるのを憎む気持ちについては、佐官将官の位を持つ人々の方が、所詮兵隊でしかない私たち艦娘より強いのではないかと思う。従ってわざわざ反乱まがいのことまでしなくとも、遅かれ早かれ彼は任を解かれていただろう。

 

 となると、何が原因なのか。私たちにはさっぱり分からなかった。タウイタウイ泊地の艦娘たちが培ってきた気風や文化の中では、パラオ泊地の艦娘には思いもよらないことが許容されるのだろう、と結論づけるしかなかった。私たちは今一番ホットな話題を失って黙り、グラーフは溜飲を下げた……と言えればよかったのだろうが、生憎とグラーフの溜飲が下がるのはもう少し後のことだった。今度は長門がとんでもないことを言い出したのだ。「私は虐殺があったと聞いた」それは本当に耳を疑う発言だった。誰もが唖然とした。虐殺とは穏やかではない話だ。長門は周囲の沈黙を嫌ってか、早口に言った。

 

「タウイタウイ泊地の受け持っている海域*3にある島で、住民が虐殺されたらしい」

「虐殺って、艦娘、かい?」

 

 響の言葉には幾つかの重要な単語や要素が抜けていたが、それでも言いたいことは分かったし、それはその場で話を聞いていた全員が知りたいことでもあった。その頃、私たちは艦娘で、艦娘とは私たちだった。何処かで艦娘が恥を晒したなら、それは私が恥を晒したのと同じことだったのだ。軽い服務規程違反程度なら構いやしないが、人類に対する重大な罪ともなれば、それを背負うことになる時の気持ちなんか、考えたくもないことだった。幸い、長門は響が代表して訊ねたことを否定してくれた。が、その否定が即ち私たちの完全な安心に繋がったかと言えば、そうでもなかった。まるで事実確認が済んでいることを語るかのように、長門は淡々と言った。

 

「夜間に接近する深海棲艦の一隊を、わざと見逃した艦隊がいた。そいつらが島に着いて、無防備な住民を砲爆撃した。厳密な数までは知らないが、かなり大勢が死んだそうだ」

「フェアダムト!」

 

 言うまでもないだろうが、この聞き慣れた一単語を口にしたのは、ドイツ海軍が誇る生真面目な正規空母艦娘、グラーフ・ツェッペリンその人だ。彼女の罵り文句がどちらに向けられていたのかは、今もって分からない。黙れと言っているのにいつまでも喋っている同輩たちにか、怠惰か怯懦かによって、守るべき人々を裏切った日本海軍の艦娘たちにか。どちらでもよかった。多分、どちらにも向けられていたのだろう。そうするに足る正当性が彼女にはあった。私たちが気にしなかっただけで。

 

 極めてセンセーショナルで悲劇的なニュースを信じたくなくて、私は話を逸らそうとした。でも、古鷹がそれを許さなかった。私が何か言う前に、彼女は長門にその噂の裏付けを訊ねたのだ。その時の古鷹の有無を言わせぬ様子と言ったら、応じようとした長門が声を上ずらせたほどだった。気の毒なことだが、私としては仕方のない振る舞いだったと当時の旗艦を擁護してやりたい。彼女は海軍最古参艦娘であり、海軍にその時所属していた艦娘は、古鷹自身を除けば全員が可愛い後輩のようなものであった。たった一度洋上ですれ違ったことさえない相手に対してであっても、彼女の認識は変わらなかった。彼女は他の艦娘たちを愛し、慈しんでいたのである。それ故に、面汚しに対しては余計厳しく反応したし、長門が確かな証拠もなく侮辱的な流言を口にしたのではないと、明らかにしようとしていた。

 

「《張り切り屋》の中佐のところにいる矢矧を知っているだろう? ほら、あの……妹と()()()の」

 

 私と同時期にパラオ泊地にいた艦娘なら、長門が言っているのがどの提督か分かるだろう。この中佐についての評価は置いておくとして、彼の第一艦隊には一人の矢矧がいた。彼女と彼女が「妹」と呼ぶ人物にまつわる面白い話もあるにはあるのだが、本人たちに頼むからやめてくれと言われているので、それは割愛する。重要なのは、彼女の愛する()がタウイタウイ泊地にいたということと、二人は軍事郵便を使わずに私信をやりとりする方法を持っていたという二つの点だった。船員からのまた聞きなど、くすんでしまうほどの信頼できる情報源だ。古鷹は目に見えて落ち込み、隊列の中ほどにいたのを、増速して先頭に立った。顔を見られたくなかったのだと思う。那智は迂闊な親友を蹴っ飛ばし、長門は旗艦に聞こえないよう、身振りだけで「私が悪いのか?」と返した。自分が悪いと思っていないのは明白だった。

 

 その後、長門の話で平静を失ったのが理由でか、古鷹はミスをした。司令部との連絡で、針路上に嵐が来ており、大きく迂回して避けるよう指示されていたのに、それを忘れて直進してしまったのだ。その命令を聞いていたのは彼女だけだったから、こっちの方で過ちを指摘することもできなかった。たちまち辺りは真っ暗になり、大粒の雨が降り出し、風が吹き荒れて、波は普段の何倍もの高さになって足元でうねり始めた。こうなるともう、針路変更など夢のまた夢だ。ただただ姿勢を保ち、嵐を抜けるまで進み続けることしかできない。転べば最後、凪の海なら姿勢を回復できようものを、荒波の下で揉みくちゃにされて怪我一つないのに深海行きである。

 

 私たちは急いで個人携行品から雨合羽を出し、それを着込んだ。個々人の艤装の形に合わせて作られた、上等の品である。これは本土の鎮守府所属の艦娘には見られない生活の知恵というもので、艦娘が東南アジアで雨季を健康に過ごす為の必需品だった。嵐にはいかんせん力不足の感が否めなかったが、ないよりはずっといい。

 

 それから、艦隊は単横陣を組んで手を繋ごうとした。そうすれば、誰かが転びそうになった時、隣の艦娘が引き上げてやることができるかもしれない。響は大型艦娘より身体が小さくて転倒の危険が大きかったから、古鷹に左、グラーフに右手を掴まれて真ん中に回された。元々近くにいた那智と長門は早々と手を繋ぎ、グラーフ側から三人に合流しようとしていた。そして私はと言えば、古鷹から少し離れたところにいて、彼女に近づこうとしては波に押し戻されていたのである。

 

 雨はますますひどくなり、飛沫は霧となって世界をおぼろげにして、被った合羽は視界を狭めていた。私は冷静ではなかった。注意力も足りていなかった。不確かな海面の上でまっすぐ立ち続けることと、艦隊員たちと手を繋ぐことだけを考えていた。その私の視界に、黒髪が見えた。長門だ、と私は思った。波に翻弄されている間に、私は位置を大きく変えていたのだろう。それで古鷹ではなく、彼女の姿が見えたのだ、と。筋が通った、無理のない判断だった。私は何度目かになる大自然への挑戦を行い、この時やっと成功した。波に阻まれることなく、その黒髪の持ち主がだらんと下げた右手を、左手で掴んだのである。彼女は反応しなかった。その余裕がなかったのだろう。

 

 一方で私は、とりあえずこれで一安心と思い込み、周りを見る余力があった。右手に古鷹が見えた。波と戦いながら、私は古鷹の方へ寄っていった。彼女は響とグラーフの方を見ていた。手を伸ばし、彼女の左手を取るまで、彼女は私に気づかなかった。そして古鷹が気づいた時、私もようやく気づいたのだった。どうして私は右側に古鷹を見ているのか? 長門が先に見えていたなら、古鷹は私の左にいた筈なのだ。それなのに、今、私は古鷹を右隣にしている。その奥には誰がいる? 響。グラーフ。那智。長門。

 

 バランスを保つことを忘れて、ぐるん、と首を左に回す。それは左にいた黒髪の持ち主が、私の方を向き直るのと同時だった。私は──私はこの時に初めて、生きている深海棲艦の目を、間近で見た。あの特徴的な盾型の艤装を捨てたのであろう、ル級の目を。おかしなことに、彼女も驚いているようだった。びっくりしたように目を大きく見開いて、ぽかんと口まで開けていた。

 

 そこから察するに、気の抜け具合は彼女の方が上だったのだと思う。波が一際激しく打ち付けて、そのル級はバランスを崩した。私の体が咄嗟に動いたので、私はそれが為された後にそうと知ったほどだった。私は腕を強く引っ張って、ル級が立ち直るのを助けたのだ。今度はこっちが呆気に取られる番だった。しかも、自分の行いに、だ。敵を助けるなんてどういうことだ? 艦娘が深海棲艦を助けるなんて!

 

 見れば、ル級の向こうには他にも深海棲艦がいた。ネ級やタ級、ヲ級の姿を覚えている。彼女たちがわざわざ嵐の中にいた理由は知らない。しかし彼女たちは、それを乗り切る為に私たちと同じことをやっていたのだ。ラジオから大音量で流れるノイズのような轟音を立てる嵐の中ででも、横で古鷹が息を呑むのが分かった。彼女も見てしまったのだ。それは響やグラーフ、那智や長門にも伝わった。常識に従えば、私は手を離すべきだった。でも、そうするには、嵐の海が恐ろしかった。私はぎゅっと力を込めてル級の手を握った。彼女も私の手を強く握った。もう私は彼女の方を見なかった。彼女もまた、こちらを見ることはなかった。それでも手だけは繋いでいた。深海棲艦の手も温かいものなのだな、と私は考えていた。

 

 二時間かそこら、だろうか。三時間掛かったとグラーフが後で言っていたような気がする。私たちは嵐を抜けた。その直前、どちらからともなく、私とル級は手を離した。別れの挨拶に相当するような、どんな振る舞いもなかった。お互いの体温だけを残して、属する世界を異とする二個の艦隊は、それぞれの道に戻った。「撃つべきかな」と深海棲艦たちに目をやることもなく、那智が言った。「撃つべきだろうよ」と長門がぶっきらぼうに答えた。だが二人とも、撃つ気配はなかった。響は祈りを捧げていた。グラーフは実直な軍人らしく、前だけを見据え、口をつぐんでいた。古鷹は私たちがあえて見ることをしなかった彼女らを見やって、肩をすくめた。そこには経験から来る、何とも重みのある知性と、疲れ切った諦念が宿っていた。

彼女は言った。

 

「見なかったことにしましょう」

 

 私たちは一も二もなく賛成した。

 

*1
しばしば誤解されているが、他国海軍と異なり、日本海軍においては、海軍最先任艦娘は文字通りを意味する称号であり、階級ではない。他国海軍における海軍最先任艦娘に相当する現代日本海軍の階級は、海軍参謀本部付先任艦娘である。

*2
一例を挙げると、空挺艦隊の提督は艦娘が務めていた。これは空挺艦隊が、その任務の性質上、現場において高度な戦略的判断を即座に下すことを求められる可能性が、一般の艦隊に比べて遥かに高かった為である。

*3
フィリピン南方からインドネシア北方の海域。概ねであって、厳密な縄張りがあったのではない。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。