私たちの話   作:Гарри

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03「戦争の後で」

 人類に対して融和的な深海棲艦たちとの講和が成立し、暫定的終戦宣言が発せられてからかなり後のことだが、私はふと思い立って電車に乗り、長門を訪ねて行ったことがある。もう少し正確に時期を特定するなら、何本かの短編が雑誌に載った後、『船乗りは帰ってきた』を執筆し始める少し前のことだ。ただしその執筆自体はもう決定事項であり、海軍と融和派深海棲艦(正確にはそのスポークスパーソン)の双方から依頼を受け、あの戦争が終わるに至った経緯を、その大きな流れの渦中で散々翻弄された、ある哀れな一人の艦娘に主な焦点を当てて描くことに決めていた。

 

 しかしそれをすると、どうしても長門の個人的な部分について踏み込まなければならなくなるのが難点だった。というのも、その艦娘は私と同じ基地に所属していただけでなく、長門とも少なくない因縁があったからだ。二人はかつて長門と那智に起こった悲劇を大筋ではそのままなぞりつつも、結局どちらも欠けることなく帰ってきていたのである。作家としての都合、そしてクライアントの方針もあって、その時の話を省くことはできなかった。

 

 そこで、長門に会って話をしようと決めた。終わってから考えてみると、手紙でもよかっただろう。長門は彼女なりに折り合いをつけた後だったし、そこまで注文を多数つけられたとは思わない。でも、彼女を「愉快なやつ」でなくしてしまった罪というのがもし存在するなら、私はそれを背負わなければならない立場だった。顔を見もせず、手紙で彼女の古傷を抉る許可を取ろうとする、などということは、とてもできなかったのである。それに長門がどう思っていようと、彼女は私にとって戦友であり、友達だった。色々と理屈をこねたが、結局、私は彼女に会いたかったのだ。

 

 そういう具合で、私は彼女に会った。場所は彼女の自宅だ。突然の来訪にも関わらず、長門は私の為に二日ほど休みを取って迎えてくれた。

 

 戦争が終わった後、艦娘たちには三つの道があった。一つは退役して、民間人に戻る道。その後就職するか、退役艦娘向けの特設学校に通うかは個々人の選択だった。もう一つは新規に創設された軍警察に転職する道。これは艦娘や深海棲艦の関わる犯罪・事件専門の法執行機関であり、終戦後間もなく多発した過激グループによる事件や武装蜂起の鎮圧に大きく貢献した。戦後、世論において勢力を獲得しつつあった艦娘不要論の勢いが止まったのは、この組織の活躍によるところが大きい。そして最後の一つにして長門が選んだのが、軍に残る道だった。

 

 けれども長門は長門型戦艦の一番艦で、戦後に輸送船の護衛などとして必要とされた海上警備部隊で活躍するには、燃費や弾薬の消費量が大きすぎた。そこで軍は視点を変えて、彼女の豊富な経験に目をつけた。長門を艦娘訓練所の実技教官にしたのである。戦争中は重巡が実技訓練教官を務めることが多かったが(砲撃・雷撃・航空機の扱いをある程度一人で教えられるからだ)、戦争が終わってからは戦艦には戦艦が、重巡には重巡が、空母には空母が、といった風に、その艦種ごとに教官をつけることが可能になっていた。これは言うまでもなく、人手が余るようになったからだった。私見だが、そのお陰でいきなりでも二日休みが取れたのだろう。

 

 私たちは落ち着いてテーブルにつき、コーヒーを飲んで、あれこれと話し合った。ほとんどが昔のことだった。見たこと、聞いたこと、やったこと、やらなかったこと、やってしまった(・・・・・・・)こと……どれもこれもが、既に通り過ぎてきた過去であるにも関わらず、新鮮だった。長門はアルバムを引っ張り出してきて、テーブルの上に広げた。そこには何十枚、何百枚もの写真が挟まっていた。食堂で本を読んでいた古鷹がふと目を上げてカメラを見た瞬間が、那智にからかわれて顔を真っ赤にしてドイツ語で何やら叫んでいたグラーフ・ツェッペリンの姿が、その他の戦友たちの姿が、テーブルの上に広がった。そこでは死んでしまった人々でさえ、まだ生きていた。

 

 そして誰もが若かった。艦娘は、外見的には老けることがない。それでも確かにそこにいる私たちは、不真面目な、傷つきやすい若者で、一秒一秒を必死に生きていた。私はアルバムの中から一枚の写真をすっと引き抜いて、長門に示した。

 

 それは彼女の大親友にして、海軍で最も新しい英雄の教官を務めた艦娘、那智がメインの被写体となっているものだった。下着を履いて黒染めのぼろ布を身にまとっただけの、半ば素っ裸と言ってもいい恰好で、陸軍の兵士から譲って貰ったフェイスペイント用の油性練り白粉(ドーラン)で顔から手足の先まで全身にトライバル紋様じみたメイクを施し、陸軍が置き忘れた(・・・・・)突撃銃を槍のように持って、未開の蛮族を思わせるポーズを取っている。とても広報には使えそうにない写真だ。「ああ」と長門は息を吐き出すように言った。「この時はひどかったな」そして、微笑んだ。那智の隣には、似た格好の長門が堂々としたポーズで立っていたからだ。響は彼女たちを評して「部族民」と、この写真を撮った時に真正の呆れ顔で言った。「二人とも、すっごく、どうかしてる」長門は反駁しようとしたが、被せるように「どうかしてる」と響に言われては閉口するしかなかった。

 

「今までに参加した作戦の中で、これが一番楽しかったわね」

 

 私がそう言っても、長門は新しい反応を見せることなく追憶の微笑みを浮かべ続けていた。思い返しているに違いなかった──彼女と彼女の大親友が、その格好のまま民間人の家に突入した夜のことを、だ。必ずしも私が擁護する必要はないが、念の為言っておくと、これは正規の作戦だった。敵の攻勢によって危険域となった海域にある小島に住んでいた民間人がたった一世帯、頑固に立ち退きを拒んでいたのである。それまでに当該の島を領有する国家の警察や陸軍が説得の為に出向くなどしていたものの、成果は上がっていなかった。それどころか、投石だの骨董品の小銃だので威嚇され、負傷者が出るのも時間の問題になり始めていたのである。そこで私たちの出番となった。艦娘の肉体は深海棲艦のそれと同様、小口径の銃弾程度でどうにかできるものではなかったからだ。

 

 が、海軍にも外聞というものがあって、海軍の艦娘が民間人をとっ捕まえる姿を、捕まえられる側の民間人にすら覚えていて欲しくなかった。護送された後で、海軍について現地メディアなどにあることないこと吹き込まれてはたまらんぞ、という訳である。なので泊地司令は私たちの当時の提督に、よくよく言い聞かせた。「いいか、何があっても海軍がやったとは分からんようにするんだぞ」提督はそれをそのまま私たちに伝え、具体的な方法は旗艦だった古鷹に任せた。彼女はまず艦隊員を集合させ、意見を募った。すると長門が真っ先に言った。「変装して覆面をつけた上で夜陰に乗じて接近、突入すれば十分ではないか?」この余りに真っ当な計画に、他の誰も反対できなかった。思えば、古鷹はこの時点で疑うべきだったのだろう。

 

 旗艦古鷹はその場で突入班と支援班に艦隊を分け、突入班は長門と那智が担当することになった。反対意見が皆無だったとは言わないが、何と言っても二人は海軍で一、二を争うトラブルメーカーであり、深海棲艦と戦うより、憲兵や他の艦娘たちと殴り合っていることの方が多いんじゃないか、と陰で噂されていたほどの人物だったのだ。人間を相手にするのなら、古鷹でさえも及ぶまい、というのが、その頃の私たちの見解であった。彼女たち以外は全員支援班に割り当てられ、こちらは民間人護送用の舟艇の警護と、突入班が万が一目標を逃してしまった場合、彼らを追跡して取り押さえる役目を負っていた。私たちは準備の為に解散し、今出撃すれば作戦地域である島の周辺に到着するのが夜になる、というタイミングで工廠に集合した。で、謎の蛮族二人組と合流し、島に向かった。

 

 作戦はこれ以上を期待できないほど上手く行った。長門と那智は陸軍の置き忘れた物資を最大限に活用しただけでなく、そこに自分たちなりの工夫まで付け加えていたのだ。二人は外で夜間歩哨として立っていた住民の足元に火をつけた爆竹と閃光手榴弾を投げ込むと、中東風の、あるいはインディアン風の雄叫びを上げながら、第三世界風の木造建築に突進した。そして那智は扉を、長門に至っては体当たりで壁をぶち破って突入(エントリー)すると、空包を装填した突撃銃を天井に向けて撃ちまくり、頑丈そうな家具なんかを手当たり次第に蹴っ飛ばして暴れ回った。その様子を寝起きに見せられたことが余程心に響いたのだろう、数分後、原始的な破壊衝動から立ち直った二人が民間人たちに猿ぐつわと目隠しをして後ろ手に縛り上げた時、彼らは誰一人として抵抗しなかった。

 

 長門の心が過去から戻ってくるのを待って、私は彼女に尋ねた。

 

「いつかこのことを書いてもいいかしら?」

「どのことを? 今日のことか?」

「それもあるし、この写真のことや、この写真を撮った時にやったことなんかもよ」

「構わないぞ。自分について書かれるなんて面白いじゃないか。それに、そこに写ってるのは全部昔のことだし……もしお前の小説を読んだ誰かが私のことを『愉快なやつ』だと勘違いして声を掛けてきても、その間違いを正してやればいいだけだからな」

 

 私は彼女が「愉快なやつ」という言葉を使ったことで少し憂鬱になり、何を喋ればいいか分からなくなってしまった。そこで私は、長門にコーヒーじゃなくて何か酒を飲みましょうよ、と持ちかけた。彼女は戦艦らしく、私の誘いを断らなかった。お陰で随分と気が楽になった。会話も元通り弾むようになり、私たちは再び思い出話に花を咲かせた。古鷹が文通相手と恋に落ちたこと。需品科のミスで海軍基地向けの食料が届かなくなった時に時雨がそれをどうやって解決したか。今だからこそ言える那智の尻に関するジョーク。グラーフ・ツェッペリンの「もしもの時用」拳銃。楽しかった。私は久々に制御できないほどの笑いの発作に襲われたほどだ。

 

 一通り話し終わってから、気だるい落ち着きの中、私たちは椅子からソファーへと場所を移し、互いの重みを肩で分かち合った。それは私に、出撃中に長門と私の双方が大破し、肩を貸し合って帰投した時のことを思い出させた。あるいは、休みが取れた日の夕方、安い居酒屋で質の悪い蒸留酒をどれだけ沢山飲めるか競った末のことを。何をしても思い出すのは昔のことばかりか、と私は笑い、「結局」と勝手に結論を出して口にした。「私にとってもあなたにとっても、まだ戦争は続いているみたいね」長門は答えないかと思ったが、かすかに「うむ」と聞き取れるようにも思える程度の反応を示した。それから一言一言はっきりと区切りながら言った。「というよりも、みんな、まだ、艦娘なのさ」

 

 私は彼女の言葉に深く納得した。私たちは艦娘だった。そしてそれは今でも変わらないのだ。多くの少女たちが十代で志願して、元の姿を捨てて艤装を身にまとい、砲や魚雷や航空機を操って戦い、殺し、殺され、幸運な者たちだけが生き延びて、家に帰ってきた。彼女らは今や働き、誰かを愛し、誰かに愛されて、子供を産んで、その子のおしめを換え、料理を作り、家の掃除をし、パートでまた働きに出たりしているのだろう。それでも、あの戦争に行った艦娘たちは、本当の意味であの時代に艦娘として生き抜いた女たちは、いつまでも艦娘であり続けるのだろう。それは嫌とか嫌じゃないとかの問題ではなくて、一人一人、個々人の人格に、一つの純粋な観念として融けきってしまっているのだ。

 

 その日は長門の家に泊まり、翌朝私は彼女に短く本題を話した。彼女はろくに考える素振りも見せずに私の申し出を受け入れ、その癖これから書く作品によって私が得る利益から謝礼を支払いたいというオファーについては、頑なに断った。その代わりに、彼女は注文をつけた。

 

「私は真面目できりっとした感じの女として書いてくれないか、旗艦にぴったりの気質だろう?」

「もちろんよ」

「それと強かったってことも」

「メモしておくわ」

 

 彼女は言葉に詰まったようだった。でもそれから軽く笑って、短く言った。

 

「恩に着る」

 

 私が家を出る直前になって、長門はとびきり濃く淹れたコーヒーと、コニャックの瓶を持ち出してきた。日伊艦娘相互派遣協定で日本にやってきたイタリアの艦娘から教わった飲み方なんだ、と言いながら、彼女はまず一杯のコニャックを私に飲ませた。次にコーヒーにそれを入れて飲ませた。そして最後にもう一杯のコニャック。空きっ腹にそれだけ流し込んだお陰で私は、駅までどうにもふらふらと覚束(おぼつか)ない足取りで歩くか、身銭を切ってタクシーを呼ぶか選ぶことになった。長門は車を持っていたが、送ろうか、なんて言わなかったし──言われたとしたって私から断っていただろう。安全に最大限配慮した結果呼ぶことにしたタクシーが家の前に到着し、私は車内に乗り込んだ。女の運転手は気を利かせて、すぐに発進することなく私が窓を開けて旧友と話す時間を作ってくれた。とは言ったものの、私たちが交わしたのはこんな言葉だった。

 

「それじゃあ」

「ああ、さよなら」

 

 駅に向かう途中、運転手が私に尋ねた。「お客さんは、艦娘だった人なんですか?」その慎重な口ぶりから、私はすぐに彼女が戦争に行かなかったか、行くことができなかったのだと理解した。少し考えてから私は答えた。

 

「いいえ、違うわ」


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