私たちの話   作:Гарри

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08「グラーフ・ツェッペリン」

 グラーフ・ツェッペリンは戦争の全期間中を通して、那智にとっても長門にとっても、最高の遊び相手だった。遊びを邪魔されている時を除けば、二人とも彼女のことが大好きだった。グラーフは二人のせいで気に入らないことが起こると、顔をしかめてドイツ語で叫んだものだ。「フェアダムト!」意味は知らない。あの頃も知らなかったし、今も知らない。本当の話、知りたくない、というのが正直なところだ。だがとにかくその言葉にはケルト的な神秘が込められており、グラーフの低めの声がかもし出す迫力と相まって、聞く者を震え上がらせた。最初の三回ぐらいまでは。艦隊員たちがすんなりそれに慣れてしまったことに気づくと、グラーフは苛立ちを込めた絶望的な叫びを上げた。「フェアダムト!」それは私が彼女のことを思い出す時、絶対に外すことのできないフレーズである。本人がそれをどう思うかは別として……。

 

 彼女がパラオに来たいきさつを説明しよう。南ドイツ出身の正規空母グラーフ・ツェッペリンは、伝統ある日独艦娘交換協定の一環でやってきた。この時には他にも駆逐艦娘Z1(レーベレヒト・マース)、Z3(マックス・シュルツ)、重巡洋艦プリンツ・オイゲンと戦艦ビスマルクなどドイツ海軍の名だたる水上艦娘が日本海軍勢力下の各基地・鎮守府に配属され、日本海軍からは大和型の二人と川内型の三人がドイツに移動した。その後駆逐艦の二人は青森に配属され、プリンツ・オイゲンとビスマルクは横須賀へ送られたが、グラーフだけは国外泊地であるパラオに送られた。理由は今もって分からないが、時として運命というものは道理に合わないようなことを引き起こすものである。何の理由があってか、グラーフはパラオ泊地に配属され──より多くの航空戦力を欲しがっていた私の提督の艦隊に配備されることとなった。

 

 慌てたのは当の提督である。何しろ、移籍して軍籍上は日本海軍所属になっているものの、グラーフは生粋のドイツ人。それも軍の編成上非常に重要な航空母艦だ。沈ませるようなことでもあれば日本海軍とドイツ海軍の間で摩擦が一つ生まれ、提督の軍歴には汚点ができる、と彼は考えたのだろう。艦娘である以上は戦死することも職務の内であるのだが、それでも他所から預かった戦力を減らす(艦娘を沈める)ということは避けたかったのだと思う。しかしだからと言って、彼にはグラーフを遊ばせておく余裕もなかった。第一、交換協定で配属された艦娘の仕事はただ戦うことだけではなく、異なるドクトリンで運用される部隊で新たな技術や視野を手に入れ、本国に持ち帰ることである。出撃させないでいれば、必ずやグラーフ本人が上層部へ訴え出たことだろう。

 

 苦肉の策として、提督は配下の優秀な艦隊にグラーフを任せることにした。ここで肝なのは、「最優秀の艦隊」ではなかったということである。それはつまり、戦闘には出るが常に最も過酷な戦闘に駆り出されるという訳ではないということを意味していた。そしてその艦隊というのが、古鷹が指揮する、私のいた第二艦隊だったのだ。提督が航空戦力を欲しがっていたのはグラーフ着任以前に私と組んでいた空母艦娘が退役した為だったので、この決定は艦隊の運用を見直す必要が最小限で済む、という点でも都合がよかった。

 

 グラーフ着任の二日前、私たち第二艦隊の五人(古鷹、長門、那智、私、響)は提督の執務室に集められ、大まかな話を聞いた。話が終わった後で、私たちは食堂に集まって話し合った。「歓迎会をしないと」と古鷹が言った。響は頷いて「Согласна(賛成だ).」と意見を表明したが、ロシア語が分かる者が誰もいなかったので日本語で言い直さなければならなかった。そして那智と長門の意見は聞くまでもなかったし、四人が賛成した以上、私一人が反対するつもりにもなれなかった。歓迎委員会の議題は次に移った……それは概ねこういうものだった。「さあ、はるばる欧州からやってきたドイツ海軍の艦娘を、どうしてやろうか?」

 

 着任日、同じ空母ということで、私がグラーフをロマン・トメトゥチェル空港に迎えに行くことになった。とは言ったものの、ありがたいことに運転手付きの車を回して貰えたので、私のやったことと言えば空港で彼女と合流して車のところまで連れて行っただけだ。彼女は緊張していたのか車内ではほぼ黙っていた為に、移動時間が退屈だったことを覚えている。基地に戻って彼女が部屋に荷物を置き、流暢な日本語で着任報告を提督に済ませると、私は艦隊員たちに紹介するから、と言って彼女を娯楽室の方へ導いた。グラーフは特に文句も言わずに付いてきたが、娯楽室で何が待ち受けているかもし知ることができていたら、彼女は踵を返して私室に戻っていたことだろう。

 

 娯楽室に近づくにつれて、怒鳴り声が聞こえてきた。私の横を歩いていたグラーフが眉をひそめるのが分かり、私は笑いをこらえた。それは那智がいい加減な、ドイツ語のように聞こえるでたらめを喚いている声だった。彼女は知っている限りのドイツ語を並べ立てた。訓練所で潜水艦の伊八と仲がよかった彼女は、断片的にドイツ語やその単語を教わっていたらしい。私もこの時の那智ぐらいがんばって、正確ではないにせよ再現してみよう。それはこんな感じだった。

 

「ダス・ロッゲンブロート・カプート! フェルトヴェーヴェル・グロッケンシュピール・フェアボーテン! イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー! プロージット!」

 

 部屋に入ると那智は部屋の奥に立って顔の前に「やさしいドイツ語」とマジックペンで書かれたノートを広げており、残りの三人は入り口に背を向けて那智を見ていた。グラーフは戸惑ったことだろう。でも生真面目すぎた彼女には、那智が何を叫んでいるのかも、何故そうしているのかも、どうして自分の艦隊員たちがそんなことをやっている真っ最中に私が彼女を連れ込んだのかも理解できなかった。困惑した彼女は那智の声にかき消されないよう、大き目の声で呼びかけた。

 

「おい、何をやっているのだ、これは?」

 

 その声をきっかけとして、那智がぱっとノートを顔の前から下ろした。黒い紙を小さく切って糊でくっつけただけの模造ちょび髭とかっ(・・)と見開かれた那智の目が露わになり、グラーフが信じられないようなものを見る目でそれを凝視した瞬間、第二艦隊の艦隊員たちは振り返って踵をかつんと打ち合わせると、那智と共に右の平手を斜め上方に突き出し、叫んだ。

 

「ハイル・ヒトラー!」

 

 この後に続く筈だった「第二艦隊へようこそ」という歓迎の言葉を発するよりも先に、私たちは同盟国の歴史に対する敬意不十分を咎められ、出撃時を除いて一週間の営倉入りになった。出たかと思うと、とある重巡と戦艦がグラーフと道や廊下ですれ違う度に「ジーク・ハイル! 今日はいい天気だな、艦載機妖精たちの調子はどうだ? おっと、また後でな、我らが総統万歳!」などと言ってからかったということを理由に、もう二日間入れられた。無論、この際営倉に入れられたのは実行犯たちだけだったが。

 

 こういった暖かい歓迎にも関わらず、グラーフは大きなわだかまりを作ることもなくすぐに艦隊員と打ち解けた。彼女はメルセデスのような曲線美と、そのエンジンのように複雑な心を持った女であると同時に、普段の無骨な言葉遣いがイメージさせる通りの、プロイセン軍人気質の持ち主だった。時間に細かく、規則にうるさく……要するに、那智と長門の天敵だったという訳だ。

 

 けれど、グラーフにとっても二人は天敵だった。というのも彼女は南ドイツのシュヴァーベン地方(片田舎)出身で、その中でも極めて牧歌的な暮らしをしている地域で生まれ育ったからである。こういった地域では、人々は無条件の団結という気風を持つようになる。するとどうなるか? 世間ずれしていない、物知らずの、純朴で信じやすい田舎者ができあがる。

 

 こういうことがあった。計九日間の営倉処分が明けた翌日、私たちはグラーフに「お詫びをしたい」と持ちかけたのだ。基地の外で歓迎会をやり直そう、という具合で誘うと、性根が真っ直ぐな彼女はそれを快く受け入れてくれた。酒を飲むかと那智が聞くと、彼女は恥ずかしげに「いや、実は余り飲んだことがないんだ」と言った。

 

「それじゃあ、私の知っているガールズバーにしよう。男子禁制の女の園だ。その方が気楽だろう」

 

 グラーフは那智の配慮に感謝した。再歓迎会当日の夕方、長門が意味深に「その、なんだ。私たちには用意があるのでな。分かるだろう? 悪いが、そこまでは一人で行ってくれ」と言って地図だけを渡した時も、グラーフは素直に長門へ礼を言った。彼女は慣れないパラオの道をどうにか歩き、どんな心温まる歓迎が待っているのか内心で期待しながら、私たちが教えた店に入っていったことだろう。そしてもちろん私たちはと言えば、基地から一歩も出ていなかったのだ。

 

 彼女が帰って来たのは翌日の早朝だった。私たちは前日付けの許可印が押されたグラーフの外泊届けの写しを持って、パラオ泊地の門のところで彼女を出迎えた。彼女の衣服はボタン一つ取れていなかったが、よれよれになっているという点や、首元のキスマークなんかを見ればかなり可愛がられた(・・・・・・)のは明白だった。グラーフは疲れ果てた目つきで、それでも私たちを精一杯にらみつけると言った。「最近のガールズバーの店員は、みんな同性愛者なのか?」はっはっは、と長門が外泊届けの写しをグラーフに渡しながら、気持ちよく笑って答えた。「そんな訳があるか。改めて第二艦隊にようこそ、歓迎するぞ!」

 

 彼女の苦難の日々はこうして始まった。とはいえみな弁えたもので、洒落にならないことや、取り返しのつかないようなことはしなかった。たとえばグラーフは読書好きで、よく艦隊員の持っている本を借りて読んでいた。パラオの図書館は車でないといけない距離にあったから、新しい本を読むにはその方法しかなかったのだ。しかし本については艦隊で一番の収集家だった古鷹は絶対に自分の部屋から持ち出させなかったので、自然とグラーフは彼女の部屋に入り浸ることになった。私と彼女は古鷹を交えてルールを作り、交代で彼女を訪ねたものだ。蚊帳の外だった長門と那智はいたく寂しがり、自分たちを構わないとどうなるか教えてやることにした。

 

 ある朝、那智と長門は着任から何か月かの記念だとグラーフを丸め込んで目隠しと耳栓をさせると、まずパラオの図書館に車を出して連れて行った。言うまでもなく当初グラーフは彼女たちを信じようとしなかったが、長門が腕組みをして、傷ついた感情を虚勢で隠している、という風を装いながら「私たちはお前を少しでも喜ばせようと頑張っているのに、ところがお前は、それでも私たちがまた騙そうとしていると、そう思うんだな!」と言い放つと簡単に信用した。二人は図書館の奥まった席に腰を下ろし、自分たちの部屋から持ってきた本を開くと、グラーフの目隠しと耳栓を外した。「Wunderbar(素晴らしい)!」彼女は一目見てここがどういう場所であるかを理解し、小さな声で感動を表した。十歳の少女のように瞳を輝かせた彼女は、那智と長門の方を振り返って笑い掛けると、お眼鏡に叶う本を探しに飛び出した。

 

 その間に、那智と長門は彼女たちが図書館内に持ち込んだ荷物の中からサンドイッチやホットドッグ、飲み物、それに陶器のカップを取り出すと、そこがカフェであるかのように軽食をつまみ始めた。戻って来たグラーフは仰天した。彼女は規律という概念そのものに対する反逆に、目を逆立てて怒りながら言った。「アーシュロッホ!(これはなるべく上品に意訳して『この馬鹿者!』ぐらいの意味だ)」彼女は軽食セットを指差した。「ここは図書館だろう、規則違反だぞ!」那智は「そうだ、図書館だぞ」と言い返して、人差し指を口の前に持っていった。「あ、すまない」グラーフは自分の過ちを認めることを躊躇わなかった。長門が「まあ座れ、全部答えてやるから」と言った時も、彼女は相手の話を聞く姿勢を見せた。長門はまるで秘密の協定を話し合うかのように声を潜めて言った。

 

「ここはだな、グラーフ。飲食可なのだ」

 

 再び彼女は驚いたようだった。「いや、しかし……そうなのか? だが──」「カウンターで注文するんだ」と那智が本棚の向こう、司書のいる方を指差した。

 

「試してみろ。考えてみると朝食も抜きでここに来たんだから、貴様も腹が減っているのではないか? 長門、今日のモーニングセットは何だった」

「ホットドッグとコーヒーだ。悪くないぞ。そっちは?」

「ツナと卵のサンドイッチ。一口いるか?」

「よし、交換だ」

 

 空腹の正規空母は口の中に溜まった生唾をごくりと飲み込んだ。「よ、よし」と彼女は決意して言った。

 

「私もサンドイッチを注文してくる」

 

 グラーフはカウンターのところまで行った。艦娘慣れした司書はこの見慣れない艦娘が何を求めているのか聞く為に、彼女へと近寄った。グラーフは自分自身の緊張をほぐす為に、礼儀に適った「失礼」という呼びかけから話を始めた。「サンドイッチとコーヒーを一つ。ミルクだけ、砂糖なしで頼む」司書は目を丸くして答えた。「あなた、ここは図書館ですよ」そう聞かされたグラーフは焦って「すまない」と謝ると、今度は小声でこう言った。「サンドイッチとコーヒー、コーヒーはミルクだけで」

 

 後ろから彼女の様子を眺めていた長門たちは、この見事なブロンド・ジョークの上演に耐えられなかった。彼女たちは大笑いして図書館から追い出され、被害者であるグラーフを除いて以降二度と図書館には入れて貰えなかったとか。

 

 日本語は達者だったが、一般的な習慣などの知識に関しては疎かったのも彼女の騙されやすさを助長した。彼女は提督に見つかって注意を受けるまで那智に教えられた通り、基地の傘立てに置いてある傘は全部共用だと信じていたし、日本では友達同士で手を繋いだり腕を組んだり添い寝をするのは普通のことだと教えた際にも、心配になるほどあっさり信じた。私と長門は「何だろうな、この気持ちは……」と恥らいつつ微笑む彼女を挟むようにして手を繋いで横並びになり、パラオの市街地に出かけた。そして夜になって帰ってくると長門の部屋に布団を敷き、私が「この部屋、夜は蒸し暑いから汗をかくわよ」と吹き込んで薄着にさせると、川の字になって眠った。一方その様子を全部撮影していた那智は、ビデオと写真を横須賀と青森のドイツ艦娘たちに送った。その後彼女たちからグラーフの奔放な振る舞いに対する理解を示した暖かい手紙が届いて私たちの嘘がバレた時にも、グラーフは言ったものだ。「何だろうな、この気持ちは……」と。

 

 大抵の場合、私たちがグラーフをひやひやさせたり、気まずい気持ちにさせたり、あるいは怒らせたりしたが、たまにはそういった諸々(もろもろ)が逆になることもあった。パラオにとある海軍中将が来た時には、まさにそうなった。パラオ泊地の総司令官は、日本本土でも数少ない海外艦娘であるグラーフのいる私たちの第二艦隊を、中将の案内兼護衛役に抜擢したのである。提督は真っ青になって、グラーフ以外の艦隊員たちを中将到着の前々日から度々呼びつけては後生だから真面目にやってくれと頼んだ。私たちはみんな承諾した、というか、流石に基地内で賓客(ひんきゃく)である中将相手に何かしでかすほど人生に()んでいなかったのだ。

 

 中将閣下がお越しになられると、私たちは精力的にあちらこちらを案内し、パラオ泊地所属艦娘たちの様子を見せて回った。彼は極めて深い満足感に浸り、このように精強な艦娘で構成された艦隊ならば、いかなる深海棲艦の攻撃にも打ち勝てることだろうと褒め称えた。古鷹は旗艦としてその言葉への感謝を見せ、総司令官の執務室に彼を連れて行こうとした。そこからは別の艦隊が任務を引き継ぐことになっていたので、私たちは一刻も早く彼をそこに送り届けたかった。

 

 ところが海軍中将は私たちを称える演説を一席ぶったことでお疲れになった。そして一つのプレハブを指し示すと、物腰柔らかに「あの居心地のよさそうな建物で一休みしようじゃないか」と提案した。私たちは何とか彼を説得しようとした。古鷹が言った。「基地司令が首を長くしてお待ちになっていますから」中将は片眉を動かして答えた。「彼の気持ちに配慮しろという訳か。だが、それなら私の疲れにも配慮してくれていいのではないかね?」長門が説明した。「あのプレハブはエアコンもついておりません」「結構。年寄りはエアコンが嫌いなんだ」私や那智、響の説得にも彼は耳を貸そうとせず、とうとう憤激して言った。

 

「君らにはどうしても私をあそこで休ませたくない理由でもあるのか? それとも見られると困るものでもあるというのかね!」

 

 するとグラーフが、すっと前に出た。その動きの余りの凛々しさに、中将も怒りを忘れて注目した。彼女が流れるような動作でドイツ海軍流の敬礼を行った時も、中将は答礼を忘れかけていたほどだ。彼女はきっぱりとした断定的な口調で発言した。「閣下、閣下はあの中でお休みにはなれません」「どういう理由でだね?」「あれは女子トイレであります、閣下」

 

 いたたまれない空気が流れた。私たちは固唾(かたず)()んで成り行きを見守った。中将は暫く靴の先で地面をいじっていたが、やがて基地司令の執務室の方に向きを変えると、「では、行こうか」と呟いた。その日からというもの、グラーフはパラオ泊地に所属するほぼ全ての艦娘から畏敬の視線を向けられるようになった。

 

 ところで、私が好きな彼女の美点が一つある。彼女は那智と長門に容赦しなかったが、常に分別を持っていた。彼女は艦隊員の仲間や艦娘同士以外には、たとえ手ひどい侮辱を受けた時すらも極めて忍耐強く接したのである。私や古鷹はそんな時、無礼な余所者には寛容なこの正規空母よりも、いつもあれだけ彼女をおちょくっている那智と長門を抑えることに腐心しなければならなかった。でなければ、二人はその場をパーティー会場に変えてしまうからだ。それも、血の流れるタイプのパーティーである。

 

 私や古鷹が彼女たちの近くにいない時に、一度こういうことがあった。珍しく那智、長門、グラーフの三人で飲みに行くことになり、第二艦隊がよく使う居酒屋に入ろうとしたところ満席だったので、初めての店に入ったのだ。その店の連中は艦娘には慣れていたが(泊地周辺の店なのだから当たり前だ)、海外艦を見た経験は皆無だった。たちまち、ドイツから来た正規空母は酔っ払った連中の格好の話題になった。それだけなら平和なものだったが、やがて卑猥な言葉が囁かれるようになり、当てこすりと大差ない冗談が山ほど飛び交った。その中には際どいものだけでなく、限度を大幅に超えたものが幾つも含まれていた。グラーフが至って平気な顔を保っていなかったり、気を利かせた店員の一人が電話で古鷹に連絡してくれていなければ、どうなっていたことか。古鷹が三人を連れ出した時、長門の顔は酒でなく怒りのせいで真っ赤になっていたのだ。

 

 この子供っぽい大戦艦はやたら興奮し、とうとうグラーフ本人にまで噛みついた。「悔しくないのか?」「言わせておけばいいさ」「そうか、それじゃあお前は、もし私が侮辱されていても知らんぷりを決め込むんだな?」グラーフは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、馬鹿げた質問にまともに答える気はないということを一言で示した。「アーシュロッホ!」

 

 彼女のことで思い出すことはまだまだある。たとえば、グラーフはドイツから自動拳銃一丁とその弾薬一箱を持ち込んでいた。これは彼女がルールを破った数少ない例の一つだった。ドイツの規則ではどうなのか知らないが、日本の規則ではそれは明白かつ重大な違反だったからだ。誰もそのことを通報しなかったのは、彼女が交換協定で来た艦娘だったからというのと、砲や魚雷や爆弾を扱う艦娘が今更豆鉄砲をこっそり持っていたところで何だというのだ、という意識が働いていたからに過ぎない。グラーフはそれを「もしもの時の備え」だと言った。その時が来たら、彼女は通常兵器による攻撃も有効である眼部に一発撃ち込んで、楽になるつもりだった。何人かの艦娘は「そんなことをしなくても死ぬ時は深海棲艦がきっちり殺してくれる」と言ったが、私には何となくグラーフの気持ちが分かる気がする。彼女は捻くれた形でだが、安心を求めていたのだろう。耐えがたい苦しみの中でゆっくりと死んでいくようなことは起こらないのだ、と。

 

 さて、話をもうちょっと明るいものに変えよう。先に述べた通り気難しくて真面目な人物だったが、グラーフはジョークを解さない堅物ではなかった。これは「ジョークを言うセンスはなかったが、聞いて理解する分には問題なかった」という意味の迂遠な表現である。たまに彼女が冗談を口にすると、場が白けるか喧嘩の引き金になるかのどちらかだった。そのことは本人も痛いほど理解していたので、彼女は艦隊員たち以外の人物がいると、滅多にジョークを言わなかった。それでもごく稀に他の人々の前でうっかり口にしてしまって、悲しい結果を招くこともあった。

 

 米国海兵隊所属の艦娘部隊と合同で大規模作戦を行った時のことだ。むかつくことに深海棲艦が一枚上手で、私たちはこてんぱんにやられた。米国側に文句を言うつもりはない。海兵隊の艦娘たちは精強で、よく統率されており、苦しい状況でも勇敢に戦った。そのことは彼女たちの損耗率や確認戦果が証明している。一方の日本海軍だって、かなりの敵を水底に沈めた──私たちはどっちもよくやったのだ。それでも負けたのは、単に、敵がもっとよくやったからだった。

 

 作戦が失敗に終わった後、ぼろぼろになって帰ってきた艦娘たちは、負傷程度のひどいものから順番に入渠した。米軍も日本軍も一緒くたにだ。運よく軽傷で済むか、軽傷ではないが重傷でもないと判断された不運な者は、野戦病院と化した食堂や運動場で待機を命じられた。みんな疲れきっていた。私は体中に敵航空機の機銃弾を受けていた。那智は下あごを吹き飛ばされていたが、入渠順を他の者に譲って止血処置だけで済ませていた。長門は脇腹を敵重巡の砲弾に抉られていた。古鷹は砲弾の破片で左目を失い、右手の指が全部なくなっていた。無傷なのは響とグラーフだけだったが、厳密に言えば響は至近距離に着弾した砲弾の衝撃で軽い脳震盪(のうしんとう)を起こしていた。

 

 こういうシチュエーションでは、多くの艦娘が「自分だけが何の被害もなく帰ってきた」ということに罪悪感を覚える。自分が十分に懸命に戦わなかったから負傷しなかったのだ、仲間にその分のしわ寄せが行ったのだ、などと考えてしまう。軽度なサバイバーズ・ギルトみたいなものだ。それは彼女に責任を感じさせる。どうにかしてその罪をあがなわなければいけない、と誤解させる。実際には彼女には責任なんてないし、現場の艦娘たちが置かれている苦境を打開する為に何かしなければいけないのは、彼女よりも上の人々、提督やその更に上にいる人々であって、一艦娘が自発的に行わなければいけない義務や責務など一つたりともあり得ないのだ。

 

 グラーフはそのことを理解していなかったのか、知っていてもなおそうせずにはいられなかったのか、私たちを励まそうとした。それだけならよかった。けれど、彼女は手段として最悪のものを選んでしまった。苦手な冗談である。気絶しかけていた私の肩を揺さぶって起こすと、彼女は切羽詰った顔で言った。「海兵隊(Marine)が何の略か知っているか?」この手のジョークは那智が好きでよく考えたり言ったりしていたので、グラーフも彼女から聞いたのだろう。そこまでは思考力が続いたが、バクロニム・ジョークは攻撃的なものが多いということに気づくには、余りに体力を消耗していた。

 

「『Muscle Are Required(要筋肉)Intelligence Not Essential(知性不要)』だそうだ。どうだ、面白いか?」

 

 幸い、滑ったジョークに怒るには海兵隊所属の艦娘たちも疲れすぎていた。私はその僥倖に小さく微笑んで、ずたずたの左腕より動かしやすかった右腕をどうにか持ち上げると、人差し指でグラーフの上唇を押し下げ、黙らせようとした。それでも彼女は続けてアイオワ州に関するネタを言おうとしたが、丁度彼女の横に戦艦アイオワがいたので、流石に途中でやめた。私たちはほっとして胸を撫で下ろした……。

 

 第二艦隊とグラーフ・ツェッペリンとの別れは唐突なものになった。私たちはすっかり忘れてしまっていたが、交換の期限が来たのである。それが古鷹が轟沈する悲劇の直後だったこともあって、余計に悲しかった。古鷹に続いて彼女までが艦隊を去ってしまうとは! 提督からそのことを伝えられた後、泣きっ面に蜂なんて言葉も思い浮かばないほど、私と那智、長門は打ちひしがれた。響だけはいつものように冷静だったが、内心でどうだったのかまでは分からない。私たちの深い悲しみを見て、グラーフはまたしても先走った。提督に掛け合って、予定より一日早くパラオを去ることにしたのだ。私がそのことに気づいた頃には、既にグラーフ・ツェッペリンは基地を出ていた。私は外出許可も取らずに基地から抜け出すと、タクシーを強引に止めて海港へ向かった。帰る時には来る時と違って海路を使うと聞いていたからである。

 

 運転手は私の様子を見てただならぬ事態と認識したのか、かなり素早く目的地まで送り届けてくれた。しかし、彼女の姿はもう水平線の向こう側に消えた後だった。私は胸の痛みと共に立ち尽くして、恨みがましく空と海の境界をにらみつけながら、拳を固く握り締めていることしかできなかった。

 

 その時だ、絶え間なく打ち寄せる波の音を越え、海鳥の鳴き声に混じって、轟くようなあの低く凛々しい声が確かに聞こえてきたのは。

 

「フェアダムト! アーシュロッホ!」


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